③ 投稿:キュウオロ小説 れぃれぃさん

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追うもの / れぃれぃ

それは耳が痛くなりそうなくらい蝉が鳴き喚く、噎せ返るような暑さの日の事だったと思う。

 

 

まだ妖怪になる前、人であった私はその日村の近くにある鬱蒼とした山の中へと足を踏み入れていた。

 

中空を葉に覆われ木陰となった山道は涼しげと思われるかもしれないが、生憎この日の日差しはとても苛烈で日陰にあっても空気そのものさえ焼き尽くさんばかりの暑さである。

 

土の匂いが混ざるムワッとした草いきれは身体中に纏わりつき、じっとりとした汗が顔や背といわず身体中から噴き出してくる。張り付く髪を押し上げ手の甲で額の汗を拭うも、次から次へと流れ落ちるそれはとどまる事を知らない。

 

 

べっとりと身体に張り付く布地も気持ちが悪いが、例え着替えを持っていたとしてくもあっという間に再びベタベタの状態になるだろう。

 

私は腰帯に挿していた竹の筒を手に取り、くり抜いてある蓋を抜いて口に当てる。勢いよく上向くと中からはまだ冷たさの残る水が流れ落ちて喉を潤し、その心地良さにフゥと小さく息を吐き出した。

 

そうして幾分か気力が戻るのを感じながら、再び山頂を目指して足を進める。

 

 

どうしてこんな暑い日にわざわざ山を登っているのかというと、山の奥深くに自生する薬草を取りにいく為である。昨晩から末の弟が風邪をひいて高熱を出してしまい、解熱の特効薬と言われるそれを探しにきたのだ。

 

そういった訳でほぼ獣道に近いでこぼことした坂を延々登っていたのだが、暫くすると僅かに開けた平らな場所に辿り着く。周りの鬱蒼とした森とは違い、長い雑草がある程度抜かれている丸い空間。その右手側に小さいがしっかり手入れの施された木製の祠が佇んでいた。

 

 

入り口は格子状の木戸が嵌められ、中には石で出来た何かが納められているのが見える。長い年月を経ているらしいそれはひび割れや削れが酷く、何をかたどった物なのか予測する事はできない。

 

それでもずっと昔から人と山を護る神さまだと村では語り継がれており、今でも私達は定期的にここを訪れては掃除をしたり酒や食べ物を備えたりしている。私も村から持ってきた握り飯を祠の入り口に置き、手を合わせるとゆっくり目を瞑った。

 

 

『無事、薬草が見つかりますように…。そしてあの子の熱が早く下がりますように』

 

 

そんな風に祠の神様に祈りはするが、自分が積極的に動かねば神様の恩恵だとて効果は薄いのではないかと私は考える。なのでそうして手を合わせはするが、一礼するとすぐに山道へと戻り更に山の奥を目指して祠のあるこの場を後にした。

 

早く薬草を摘んで弟の病気を癒してやりたい、それには一刻も早く私が動かなければならないだろう。

 

そうして再び山を登るもその先は細長く急な道が続き、暑さと疲れで徐々に踏み出す足の速度は落ちていく。それでも一歩一歩、確実に山を登っていき…。やがて遠くの方から微かに水音らしきものが聞こえてきた。

 

 

この山の頂上付近には大人が横になったくらいの幅の滝が流れており、そこから山肌をぐるりと回りながらなぞるようにして川が流れている。目当ての薬草はそんな滝壺の辺りに自生しており、あともう少しだと思うと疲れていた筈の足も先程より早く前に進み始めた。

 

そうして漸く目の前には待ち望んでいた滝が姿を現し、涼しげに岩場を弾ける水飛沫を見て思わず私は駆け出した。

 

滑らないよう濡れていない岩の岸辺に辿り着いた私はそのまま勢いよく水の中に顔を突っ込んだ。火照った顔が冷たい水で一気に冷やされるのを感じいっそ全身を川に投げ出したくなるが、さすがにこんな所でびしょ濡れになる訳にはいかない。水中から顔を上げてヒンヤリとした滝の周りの空気を思い切り肺に入れてゆっくり吐き出した後、滴る髪を手で絞りながら当初の目的を果たす為に周囲を見回した。

 

 

少し先の激しく水が流れ落ちている岩肌、そこに近付き注意深く目を凝らす。苔の生えた表面に指で触れながら流れ落ちる水の先を見つめていると、僅かに黄の色彩が揺れている気がした。

 

腕を伸ばし手探りで見当をつけると何か花の茎の様な物が指先に触れた感触がある。そのまま掴んで勢いよく引いてみるとブツッとした音が聞こえそうな手応えと共に、手の中には水の玉を弾きながらも可愛らしい黄色い小花を咲かせた細長い草の姿が現れた。

 

あぁ、やっと目当ての物を見つける事ができた。安堵から私は目を細める。あとは急いで山を降り、これを煎じて兄弟に飲ませればすぐに良くなることだろう。

 

 

そうして濡れたままの薬草を袋に入れ大事に仕舞い、さぁ帰ろうと考えた時…。突然ゾクリとした冷たいものが背中に走り、私は弾けるように背後を振り返った。

 

 

バッと体を捻り確認したそこには、先程と寸分違わない噎せ返るような夏の山の光景が広がっている。熊や猪といった危険な動物がいる訳でもなく、それどころか小動物の姿すら見つける事ができなかった。

 

差し迫った危険はないようだと息を吐くが、未だ先程感じた危機感は消えてはいない。何と言えばいいのか…肌一枚を通して感じる世界が先程までと変わってしまっているというか…。しかし周囲に自分以外の気配はなく、煩いほど鳴いている蝉の声も未だ止む気配はない。

 

 

いや…或いは暑さで頭が正常に働いていないだけなのかもしれない。全ては気の迷いだろう、滝の水でもう一度顔でも洗って頭をスッキリさせよう。そう思い両腕を流れ落ちる水へと差し出した。

 

するとちょうど目線の高さ、落下し揺らぐ水流に歪んだ己の顔が映っているのが見える。そして己の顔の少し後方、3寸(およそ9m)くらい後ろの茂みから…ねっとりした視線で自分を見つめている一対の瞳がある事に気付いた。

 

 

「…っ、誰だ!?」

 

 

再び背後を見るがやはりそこに誰かがいる様子はない。慌ててもう一度水の鏡を確認するも、先程自分を見ていた目は幻のように消え失せていた。

 

ゾクリと今度は明確な怖気が走る、早くここを去った方がいいだろう…。濡れた足場で滑らないよう注意しながら直ぐに滝から離れると、何者かがいたかもしれない場所は迂回するよう避けつつ、私は来た道を急いで引き返す事にした。

 

 

そうして森に飛び込んだ辺りで、今度は聴覚が自身に異変を伝えてきた。突如聞こえたそれは人の言葉なのか獣の唸り声なのかも不明瞭で、ただ耳障りな雑音のように耳の奥に残る。だが確実に分かるのは、それが正しく生きているモノから発せられたのではないだろうという事…。

 

もう振り向く気にもなれなかった。コレはまずいものだ、ゾワゾワと鳥肌が立って足が竦みかける。それでも早く山を降りてここから逃げ出そうと、気力を振り絞ってひたすら足を動かし道を駆け出した。

 

 

通いなれた山、歩きなれた筈の山道なのに、何故か今は全く知らない場所にいるように感じる。生温い空気はまるで何者かの臓腑の中に取り込まれたようで、本能は早くここから逃げろと警告する。

 

滝を目指していた時とは違った汗が身体中から噴き出し、ずっと走り続けていると喉も乾きの為か痛み始める。それでも止まれば『アレ』に捕まってしまうというのは明確で、まるで転げるようにして私は村を目指して走り続ける。

 

 

急な斜面を転けないよう気を配りながら降りていき、気付くと例の祠がある場所まで戻る事ができていた。

 

ここからなら村まであと少しだ。しかし山頂からずっと走り続けていた所為で喉は痛み、厳しい暑さもあってクラクラと目が回りかけている。

 

…ここなら村の護り神様が守ってくれるかもしれない。そう考えると疲労困憊の身体は崩折れるようにしてへたり込んだ。

 

 

今のところ先程の唸り声のようなものは聞こえず、何かが追ってきているという気配も感じない。それでも嫌な予感というものは依然消えておらず、ここで少し休んだら早く山を出ようとは思う。

 

ゼェゼェと息を吐きながら俯いていた顔を僅かに上げると少し離れたところに祠の姿が目に入り、なんとか身体を持ち上げるとフラフラと覚束ない足取りながらもそちらへ近付いていく。

 

 

「…どうか、村まで無事に帰れるよう、私をお守り下さい…」

 

 

息があがりながらも何とか声を絞り出し手を合わせる。アレは自分の力で何とかできるものではないだろう…それこそ神にでも縋らなければどうしようもない。

 

少し長めに祈ってから閉じていた目を開く。僅かだが休む事ができたし再び走りれそうな気がした。

 

 

さぁ、今度こそ急いで村へ戻ろう。祠をあとにして再び獣道へと足を踏み入れる。

 

その時…突然むわっとした異臭が漂ったかと思うと同時に首筋を撫でるようにかかった生温い風。そして何とも形容し難い例の唸り声が真後ろすぐ側から聴こえてきて…。

 

 

「うわぁあぁぁッ!!??」

 

 

私は叫び声を上げながらそこから烈火の如く走り出す。いつの間に近付いていたのか、今まさにソレは私の真後ろまで迫っていた。

 

あの生温い風は恐らく吐息、そして鼻を刺すような臭いは鉄臭い血と腐った肉が混じり合わさったような臭いに思えた。ならば、私の後ろにいたのは何処ぞで亡くなりこの暑さで腐り果てた死者なのだろうか…?

 

 

酷い暑さとずっと走り続けたせいで熱を溜めていた筈の身体にゾクゾクとした寒気が走る。お化けや怖い話が特別苦手という訳ではなかったが、自分が対峙するとなると全く別の話だ。

 

実体があればまだ抵抗のしようがあるかもしれないが、時折煙のように姿を消す相手は殴ればどうにか出来るとも思えない。今迄必至に鍛錬してきた武芸は全くの無力で、ひたすら逃げるしか選択肢はないと思う。

 

 

茂みに生える雑草の鋭利な葉で肌が裂け、ジワリと血が滲むのも無視してひた走る。祠に辿り着く前と違い、すぐ後ろからソレが私を追っているのを確かに感じた。

 

正体不明のナニカの姿を確認していない所為で更に恐怖を助長させているのかもしれないが、どうしても振り返る気にはならない。遠い昔、寝物語に聞いた伊奘諾、伊邪那美の神話が今になって脳裏に浮かび上がる。

 

 

死んでしまった妻を取り戻そうと黄泉の国へ降りた伊奘諾だが、暗闇の中から『けして姿を見ないで欲しい』という彼女の言葉を違え、伊奘諾は火を灯してその姿を見てしまう。そこには死後かなりの時間が経過した為腐った肉からは沢山の虫が湧き、更には身体中に様々な色彩の雷を纏わせた妻の成れの果て姿があったのだ。

 

怒った伊邪那美は黄泉の国の化け物に夫を追わせ、最後には自らも伊奘諾を捕まえようと追いかけるという話である。

 

 

もしそれと同じように、振り向いた其処に虫の湧いた腐肉を撒き散らしながら追ってくる何かの姿を見てしまえば、私はとても正気を保てる自信はなかった。

 

 

 

 

 

しかし必死で逃げようと前だけを見て全力疾走する背には、時折コツコツと固い何かが当たるのを感じる。それは私を捉えようと背後から伸ばされた指先なのか何なのか。

 

分かるのは背後のソレは明確に私を捉えようという意思があり、その腐り落ちた手を伸ばしているに違いないという事である。

 

 

逃げなければ、なんとしても逃げなければ…ッ!自分は病気の弟に薬草を届けねばならないし、まだこんな所で死にたくもない。ガチガチと寒さではなく歯を鳴らしながらひた走り続ける。

 

しかし体力に自信がある方とはいえ、この暑さと山頂からずっと走り続けていた疲れは足を縺れさせるのに十分であった。露出した木の根に足を取られたと思った時には、私の身体はうつ伏せに地面に倒れ込んでしまっていた。

 

 

「い、つぅ………ッ!?」

 

 

ぶつけた膝と擦り切れた手の痛みに一瞬気を取られ、しまったと思った時には既に遅過ぎた。

 

 

ベチョリ…

 

 

ドロっとした物を纏わせた手が肩を掴んだ感触。ヒュッと声にならなかった息が漏れると同時、ズルリ、ズルリ…と音を立てながら背に覆い被さってくる正体不明の何か。

 

 

ボタッ、ボタッ…

 

 

顔の横の地面に何かが落ちる。それは背後のナニカの顔から滴り落ちたであろう濁った泥水に似た異臭を放つ液体で、その気持ち悪さに全身の肌が更に泡立っていくのを感じた。

 

次にヒュウと生臭い息が頸(うなじ)にかかり、首筋に其奴の顔が近付いてくるのが分かる。このまま首を食い破られるのか、命を吸われてしまうのか…何をされるかは分からないが、命を落とすのはまず間違いないだろう。

 

 

今ならまだ抜け出せるかもしれない。しかし恐怖からか逃げたくとも身体は全く動かせず、指の一本すら思い通りにならなかった。

 

 

『…●●●済まない、お前に薬草を届ける事はできないようだ』

 

 

走馬灯というのだったか、家族との思い出や村の人との出来事が頭の中を巡る。

 

我儘だし泣き虫な弟や妹達。私がいなくなった後は下の弟が彼らの世話をしてくれるだろう、あいつはいい加減に見えて義理堅い奴だから。厳しくも優しい父上母上も悲しまれるだろうが、皆が支えてくれればすぐに元気を出してくれる筈だ。

 

いつも悪戯ばかりしている友は、私がいなくなった後きちんと周囲に謝れるだろうか。誤解されやすいがあいつはとてもいい奴なんだ。

 

 

私がいなくなっても彼らは日常を生きていくだろう。代わりになれる者は必ずいるのだから。

 

それでも…何か叶えたい夢があるという訳でもないが、私はまだ皆と生きていたかった。共に笑い、時に泣いたりしながら寄り添って過ごしたかった。本当に大事な家族や友人達なのだ。

 

 

顔の下に置かれている手の甲にポタリと落ちる雫。久方振りに流れた己の泪は止まる事を知らず、視界が朧げになっていく。

 

まだ死にたくない。しかし抗えない運命はそれを許してはくれないようだ。私は覚悟を決め、瞳を閉ざしてその時を待った。

 

 

しかし覚悟していた痛みや衝撃はいつまで経っても身体に訪れない。何故?と僅かに瞼を上げながら地面を見つめた時。

 

恐ろしい何かの唸り声の代わりに耳に心地よい低音の声が辺りに響いた。

 

 

「…人の縄張りで好き勝手しないでくれる?」

 

 

突然聞こえた誰かの声。それと同時に押さえ付けられていた背中が急に軽くなる。

 

え?と思う間もなく自分の背中側の方から、先程まで感じていた夏の暑さよりも激しい熱気が吹き付けた。それは釜戸の火よりも激しく、あまりの熱さに一瞬自分の背中に火が付いたのではないかと思ったくらいだ。

 

 

『ギィヤァアアァァーーーッ!!!』

 

 

断末魔というに相応しい恐ろしい叫び声が突如上がり、思わず伏せていた肩を跳ね上がらせてしまう。パチパチといった爆ぜる音をさせながら肉が焦げる臭いが漂う。何がどうなっているのかは分からないが、あの化け物が激しく燃えているに違いない。

 

助かったのか新たな危機が訪れたのか…状況は理解できないが、私は何とか身体を起こすと震える足を叱咤しながら再び走り出した。今はとにかくここから逃げ出したい、早く家族の顔を見て安心したかったのだ。

 

 

そこから後の記憶は朧げである。

 

 

 

—————

 

 

 

「…で、無事に村へは帰り着いたのかい?」

 

 

人の姿に化け大きめのソファに腰掛けながら、私の横で優雅にアイス珈琲を飲んでいたキュウビは結論は分かっているだろうにわざわざそんな事を聞いてくる。

 

そのグラスが傾くと冷房の効いた部屋に『カランッ…』という涼しげな氷の音が響いた。それを横目で見ながら私は話の続きを口にする。

 

 

「気がついたら家の前でしゃがみ込んでいた。出てきた家族にどうしたのかと聞かれ、そこで漸く山であった事を思い出して慌てたな」

 

「五体満足で辿り着いたんだろう?何を慌てるのさ」

 

「まず思い出したのが燃え盛る火だったからだ。化け物の生死も勿論気になったが、それより乾ききった山で火が燃えたらどうなる?山火事が起こるのは当然だろう」

 

 

そう、目にはしていないが私の後ろで燃え盛っていたであろう炎。それが周囲の木々に燃え移り広がってしまうであろう考えたのだ。

 

畑にいた父や母にも村まで火が押し寄せる前に何とかしなければと訴えたが、ポカンとした顔で彼らは私の顔を見つめるだけだった。

 

 

『何処が燃えていると?』

 

 

父の言葉に山を指差し燃えているであろう場所を示そうとしたのだが…。指し示した先、そこにはいつも通り鮮やかな緑色の美しい山の姿があるだけだった。

 

…あの時、確かに炎の熱を感じた。燃え盛る音と焼け焦げる臭いもした。しかし恐ろしい体験をしたそこに一切の痕跡は見当たらず、夏の山々には相変わらず煩いくらいの蝉の合唱が催されている。

 

 

「まるで化かされたみたいだねぇ」

 

 

ククッと笑うキュウビ。揶揄い混じりの口調にムッとしたので耳の辺りで揺れている長い髪を掴みグイッと引っ張ると、ほんの僅かだが顔を顰める様子に少しだけ溜飲が下がる。

 

あぁ、やっぱりこいつは全て知っているのだろうな。

 

 

「あれはお前なんだろう?」

 

「何の話だい?」

 

「あんな焔を操れる奴がそうそういる訳ない。それによくよく思い出して見れば、母が語っていた村の護り神というのは狐の姿をしていたように思う」

 

 

見上げた顔は面白そうに此方を見るだけで答えを返す様子はない。饒舌なこいつが敢えて語らないというなら恐らくそういう事なのだろう、分かりきった事を言う必要はない、と。

 

はぁ…と溜息をつきながら掴んでいた髪を放す。全ては過ぎた事だ、今更何を言ってもしょうがない。

 

しかし気になる事はまだあった。

 

 

「結局、あれは何だったんだ?」

 

 

聞いても言わないだろうが一応問うてみる。すると案外あっさりと答えは返された。

 

 

「よく言うじゃない、1番怖いのは人間ってね。妖怪ですらない、飢えや戦でのたれ死んだ成れの果ての集合体とでもいえばいいのかな? 生きている者が憎くて羨ましくて…まぁ、既にマトモな思考なんて持ち合わせてはいなかっただろうけど」

 

 

あの時頭に思い浮かんだ腐肉の崩れ落ちる死者の姿、それは案外的外れでもなかったようだ。

 

今の自分ならともかく、人であった頃にそんな物を目にしたら意識を飛ばしていたかもしれない。本当に振り向かなくて良かったと心から思った。

 

 

「…まぁともかく。本当に助かった、ありがとう」

 

 

こいつにどういう意図があったかは知らないが、助けて貰ったならば礼くらいは言うべきだろう。そう思いキュウビに向き直って感謝の意を伝えると、言われた当人は目をまん丸にさせて私を見つめてくる。

 

 

「なんだ?」

 

「いや…君がボクに礼をいうなんて珍し過ぎるからさ」

 

「失礼な奴だな、私だって礼くらい言うぞ」

 

「明日はゲリラ豪雨かなぁ…」

 

 

わざと真面目な顔をしながらそんな事をいうから、今度は頬を思い切り引っ張ってやろうと手を伸ばすが逆にその手首を掴まれてしまった。

 

そのまま引き寄せると手の甲に自分の唇を押し当てたキュウビは、今度は悪戯っぽく口の端を上げて笑みを浮かべた。

 

 

「まぁ礼なんて必要ないよ。ボクは自分のものに手を出されるのが嫌なだけだから」

 

「誰がお前の物だ」

 

「君に決まってるだろう?」

 

 

目を細めいけしゃあしゃあとのたまう狐に呆れるやら逆に関心するやら。一体此奴はいつから私に目をつけていたのだろうか。

 

 

命を奪ったりはしないが、私の全てを寄越せと言ってくるキュウビ。そんな傲慢な九尾の狐にいつしか絆されてしまった私。

 

そして今では私の方も此奴の全ては自分の物だと考えている。

 

 

「…あの化け物よりも、私達の方がよっぽどタチが悪いのかもしれないな」

 

 

 

愛憎は時として生への執着よりも勝る怨念となる。

 

そうならないよう精々気をつける事だなと、掴まれたままの手をキュウビの物ごと引き寄せて彼の長い指先に軽く歯を立てた。

 

 

 


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