ありきたりなボーイ・ミーツ・ガール。そしてグッドバイ。

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 ただひとつ、優しき熱量。
 それさえあれば、闇など恐れることはない。


水無月の鴉

 屋上は、もうそれ以上どこにも逃げることのできない場所だ。入り口が一箇所しかない屋上はすべて。ここには空がある。開放的な空間を肌で感じることもできる。だが、人間はそこへ逃げ込むことはできないのだ。その場所をただ眺めることしか。

 屋上の入り口の、その上。パイプを伝って登ったそこは、ほとんどの人間が近寄らない、いい場所だ。俺は放課後のほとんどをここで過ごす。気が向けば雨の日でもここにいる。ここは俺がもっとも空に近づける場所だった。近くに大きな山はなかった。駅ビルはあるがその屋上は、対象年齢十歳未満だから近寄ることすら恥ずかしい。

 なにより、ここには色々な人間が来る。俺はそれを観察しているというわけだ。必ずしも楽しいものではないが。

 雲が見えている。それは自分の体を引きずるようにして、しかし重苦しい雰囲気を見せない独特の動きで、ゆるゆると空を進んでいく。その白さの後ろに青が広がっている。どこまで行っても薄れることのない青。そこを横切る黒い影があった。俺はその姿が気になったのでじっと見つめていた。鴉はバサバサと羽ばたきながらゆっくりと屋上へ降りたつ。

 影が急に膨らんだように見えた。かと思うとそれはすでに高く大きく伸びていた。俺は目を疑う。雲の動きの関係で影がどうにかしたのか。しかし雲の方は太陽を隠したりしていなかった。俺はもう一度その影を見た。もはやそれは鴉ではなかった。学ランを来た人間だった。黒い翼の天使の如きそのシルエットからやがて翼が消失していく。かたつむりの目が突かれて引っ込むように、滑らかな消え方だった。

 目が丸くなっているだろうと俺は自分の姿を思った。屋上では色々なことが起こる。告白があり、のろけがある。自殺未遂があり、喧嘩がある。しかし、今回のような怪奇現象は初めてだ。鴉が人間になった。俺は頬をつねってみた。握力には自信がある。ゆえに痛い。いよいよ精神的にやばいのだろうか。

 家のことを考えた。精神に異常をきたす原因はないように思われた、人間関係は悪くなりようがない。誰もいないのだから。金銭面での問題は、これもまたない。残された、海外に出ている父さんからの仕送りは十分すぎるほどある。裕福だ。そんな俺にストレスなどまったくありえない話だ。家ではなく学校での問題だろうか。それもない。くらげの如く、がもはや信念のレベルで定着している俺には学校だろうがなんだろうが生きづらい場所などない。

 では、あの鴉なのか男なのかわからないものはなんだろうか。と目を移すとそこにはなにもいなかった。考えをめぐらしているうちに消え去った。俺が正常になったのだろうか。しかしそうではない気がした。気配がある。すぐ近くに。なんだ、と思うまもなく冷たい手の感触に俺は悲鳴を上げた。

「どぐら」

 すると、声が返ってくる。

「まぐら」

 俺は体を転がして退避する。即座に立つ。周囲の状況を把握する。学ラン姿の人がいた。それは男ではなかった。女の顔をしていた。男だったら長いと感じるだろうが、女だったら短いだろうという程度の黒髪を持っている。それなりにいい顔立ちだった。俺のクラスのやつが黙ってはいないだろうという程度にはいい。

「僕を呪うつもりだったの」

 正体不明の女はそう訊ねてきた。声も女のものだった。ドグラマグラとは、明治維新前後までは切支丹伴天連の使う幻魔術のことを意味した長崎地方の言葉だ。そのような知識があるとは、この女はただものではないと感じた。よほど小説が好きなのだろう。あるいは、無駄な知識が。

「俺は君を呪うつもりなど微塵もなかった。それより君は誰だ」

 まずはそれからだと俺は思った。俺がもし精神的に異常な人間になってしまったとしても、それに俺が気づかなければ、きっと普通に生きていける。大変なのは周りの人間だけになる。

「僕はね、天使なんだ。黒い翼の天使だよ」

 満面の笑みだ。

「帰れ」

 つい言ってしまった。

「本当だよ。嘘じゃないよ」

 そいつは学ランのボタンを四つほど外すと、懐から妙な輪を取り出した。それを頭の上にかざした。まばゆいほどの輝きがあった。気がつけば、光輪は静かに浮いていた。どのような原理なのか気になった。電磁石かワイヤーか。なかなか油断のならない女だと感じた。マジシャン志望かもしれない。

「ほら、天使のわっか」

「よくできてる」

「でしょう」

「制作費はいくらだ」

「違うよ。神様が創って僕にくれたんだ。制作費なんて、知らないよ」

 そいつは困った顔をしてみせる。細い眉が垂れ下がっていく。

「ほら、確かめてもいいよ」

 俺は導かれるままに光輪に触れた。如何なる力を以ってしても、その輪を女の頭から一定の距離以上に引き離せなかった。電磁石でもワイヤーでもなかった。マジックの最先端は俺の理解を超えている、と思った。どこかで、こいつは本当に天使かもしれないと感じる。そうでなければ俺が狂っていることになってしまうので、むしろ天使でなければならなかった。

「そうかそうか。天使か」

 しかしまだどこかで信じられない気持ちがあった。当然だ。天使なんてそう簡単に信じてはいけない。狂人になりたいのか俺は。

「翼は」

 女は一瞬困った顔をした。

「あの、翼は、その、ダメなんだ」

「なにがダメなんだ。いいから見せてみろよ」

「恥ずかしいよ」

「恥ずかしがることなんかないだろう。減るものじゃない」

「羽ばたいたら羽が落ちちゃうかもしれないし、精神的にも減っちゃう」

「いいじゃないか。いいじゃないか」

 俺が詰め寄ると、女はむうと唸って、腕を組んだ。

「ちょっと神様に訊いてみるね」

 そうしてくれ、と俺は笑った。すると、女は神様お願いと唱えた。手と手を固く結んで祈った。翼を見せてもいいですか、と言った。

 どこか遠くに雷が落ちた。違う音色の轟音で三連続。空は晴れなんだが。

「わかったよ。見せてあげる。つばさ、でろ」

 変な呪文だったが、その効果はたちどころにして現れた。日蝕のようにしてなにもない空間に黒く翼のような形ができあがっていく。なにかCGアニメーションのようなものを見ている気分だったが、それが羽ばたくと漆黒にして大きな翼が現実に現れた。腕を広げるよりもさらに大きく、二メートル以上はあると思われるほど迫力のある翼が。俺は思わずそれに手を伸ばしていた。艶のあるその表面はとてもやわらかく、そして、暖かかった。

「くすぐったいよ」

 すこし上ずった声に、俺は思わず手を引っ込めた。脇の下をくすぐるような真似をしてしまっていたらしい。よく考えれば、目の前にいるのは学ラン姿の女なのだ。しかも天使なのだ。うかつな真似はできない。女を困らせるのは主義に反するし、天使を怒らせると五千百度の炎で焼き尽くされる。いずれにしろ、触らぬ神に祟り無し。天使だが。

「これで、信じるでしょう」

「信じよう」

「ありがとう」

「どういたしまして」

 天使は笑った。罪のなさそうな笑顔。天使なのだからたぶんその通りだ。罪のない笑顔は太陽の如し。直接見たら目が焼けると思い、俺は目を伏せた。

 天使はしばらく羽をバサバサ動かしながら空を眺めていた。俺はなにも言わずに同じことをしていた。天使になにか訊いてみようと思ったのだが、いざ実物を前にするとなにも思いつかない。そもそも天使に訊きたいことなどなにもなかった。俺は天使の方を定期的に見やった。無邪気な顔をして、楽しそうに、どこか遠くを見つめている。唐突に、なにを見ているのか気になった。口を開こうとしたとき、天使が言った。

「死にたい人って、この学校にいるかな」

「なんだって」

「だから、死にたい人がこの学校にいるのかなって訊いているの」

 俺はすこし戸惑った。考えがまとまってから言った。

「いつでもいるわけではないと思うが、永遠にいないわけではないだろうと思うが」

「いまいるかどうか訊いてるんだよ」

「いるかもしれない、としか言えない」

「人間だものね。そうとしか、言えないよね。安心して。僕も同じようにしかわからないから」

 そう言って、天使は笑った。その笑みが見える直前、何故か、物悲しさが漂っていた。その残滓をいつまでも笑顔の向こうに感じた。

 自称、黒い翼の天使は、誰かが死ぬのを待っているのだろうか。それとも、その逆なのだろうか。

 空が燃え始めた。遠くを流れた雲が焼けた。鴉が何羽か通り過ぎた。その鳴き声が長く響いた。校庭から、下校を促す放送が届いてくる。また今度、と天使が言った。俺がそちらを見るとそこには大きな鴉がいて、なにも言わないまま空に向かって飛んでいった。鴉の向かう彼方には、ひっそりと闇ができ始めていた。

 

   ◇

 

 家に帰っても誰もいない。わかっていることだ。とうの昔、すでに慣れた。それでもたまに悲しくなるのは、その部屋の静けさが、母さんが死んだ日に感じた孤独と恐怖を一緒に持っているからだ。冷蔵庫は電力の限り唸り続ける。テレビは電波の限りに輝き喋る。エアコンは息をして、扇風機はぐるぐるする。なにもかもが動き続けている。しかし生き物はいない。ただ一人俺がいるだけだ。それを考えると、たまに、寂しくなる。ベッドに横になって、天井を見つめ続ける。いつの間にか枕を抱きしめて、いつまでもそうしている。

 

   ◇

 

 屋上に来なくなる日があるとすれば日常ではないのだ、と感じる。俺が屋上に来る限り、それは日常であり続ける。たとえ天使がいようとも。

 天使はおそらく暇なのだろうと思う。昨日の今日でまたしても現れた。今度は俺の目の前で人の形になってみせた。速やかに、それでいて自然な動き。そこにはなんの違和感もない。

「もう、わっかとか翼とか出さなくていいよね」

 天使にそう問われたので、別に構わないと俺は答えた。もはやイリュージョンでも天使でもどちらでもよかった。今日もよく晴れている。

 暇なのは俺もそうだ。部活動もせずバイトもせず、そして飽きもせず、空をじっと見ている。直射日光だけは見まい、という意志のみがある。俺はそうやってなにかを見ることだけをずっとやってきたような気がしてくる。宿題をやったり生徒会をしたことはある。授業中に発言をすることだってある。冗談だって言えるし、週末に遊べる友達もいる。殴り合いをした仲の親友だっている。彼女はいない。募集中。しかし天使はいらない。神様。普通で、髪の長い子をくれ。

「いい風だね」

 天使が言ったので、俺は現実に戻った。確かに風は吹いていた。弱く、そうであるがゆえに優しいと感じられるひっそりとした空気の流れ。目をつぶり、それを感じてみる。風は首筋をなでて通り過ぎていく。いつそれがやむのかを考えた。終わりが来る前に天使の声が聞こえた。

「でも、もっと烈しい風じゃないと、びゅんびゅん飛べないな。航空力学的に」

「そうか」

「僕ね、空を飛ぶのは好きなんだ。翼があるなら、使わなきゃ損だもの」

「そうかもな」

「でも、あるからといって、使わなきゃいけない道理はないよね」

「わっかとかな」

「うん。僕、あまりわっかが好きじゃないんだ。夜道だと楽なんだけど、昼間はちょっとうっとうしい。ぴかぴかしてるしさ」

 天使は口を尖らせ気味でさまざまなことを言った。愚痴のようにも聞こえた。

「翼なんて黒いし。僕だって赤とか青とか黄色とかの羽がよかったな。銀色とか金色は派手すぎるけど、白だと僕の趣味じゃないし。うっすらピンクとかかわいかったかな。でも、羽は生まれもったものだから仕方がないよね」

「そうだな。誰も生まれには逆らえない。運命のようなものだ」

「うん。運命には抗えないよ。この世界には運命なんてちょこっとしかないけど、そのちょこっとはどうやっても回避できないし」

 天使の口からそのような言葉が出てくると、それが真理であるかの如く響く。実際はどうなのか俺には判別できない。運命。その言葉の重さが俺には感じられないのだ。いつか感じるときが来るのだろうか。

「ねえ、君。名前はなんて言うの」

 天使がこちらを向いた。よくよく見ると幼い表情をしている。無邪気さなどを感じた原因はそんなところにもあるのかもしれない。

「俺か。俺は蓮木(ハスキ)雪路(ユキミチ)。そういえば、お前はなんて名前なんだ」

「僕は、ミカナギアメエル。二十世紀最終世代型天使なんだ」

「ふうん。天使にもそんな分類があるのか」

「うん。僕は、キリスト教とか、そういうのに出てくる天使じゃないから。確かに、昔の天使はそうやって人々の創作意欲を刺激したんだって先生が言ってたけど、いまの天使はそんな宗教的なことはしないと思うよ」

「じゃあ訊くが、神はいるのか」

「いるよ。すくなくとも、僕らをまとめてる偉い機関の人たちは神様って呼ばれてる。けっこう、給料もらってると思う」

「お前も、給料をもらっているのか」

「うん。だって、地上に降りてくる天使だもの」

 どんな仕事をやっているのかが気になった。こんなところで空を眺めているだけで仕事になるのだろうか。サボタージュを決め込んでいるとも考えられる。しかし、昨日は神様に祈りを捧げていた。返事だって来た。なら、仕事をしているのかもしれない。天使の仕事は人間などには理解できない、という可能性はある。

 遠くで鴉が鳴いた。カアカアといくつもの声が交差した。

「なあ、ミカナギアメエル」

「みんなはアメエルって呼んでるよ。フルネームで呼ばなくてもいいってさ」

「そうか。じゃあ、アメエル。あの向こうで鳴いている鴉はお前の仲間か」

「違うよ。全然違うよ」

 アメエルは怒ったようだった。頬が膨らんでいる。ふぐか。

「確かに、僕は空を飛ぶときに鴉になるけど、あれは八咫烏なんだよ。足が三本あるんだ」

 気づかなかった。

「異様だな」

「異様じゃないよ。戦闘機みたいになってるの。着地だってうまくやるし、三点で支えるからバランスだって抜群だよ」

「そうだな。よくできてる」

「そうだよ。よくできてる」

 俺は、どこか自慢げな顔になったアメエルの顔を見て笑っていた。楽しかった。女子と交流しているからだろうか。男子とのバカ話とは違った感じがする。胸の辺りが熱っぽい。脊髄を突き抜けるような爽快感はないが、悪くない感覚だ。安心感と表現してもいい。いつまでも喋っていたいと思わせてくれる。ときおり吹きつける風がアメエルの髪を揺らす。俺はその髪の流れる方を眺めてみる。

 街の方も、林のある方も、高速道路が広がっている方も、いつもと変わらずただじっとしている。林は風の影響を受けたりはするが、それは微妙な動きであり、大きくはない。すべてが静止しているような感覚。しかし、街はゆっくりとその姿を変えている。駅前の方はもうすっかりビルだらけだ。林は、年々狭くなっている気がする。高速道路は、知らない。

 ふと、俺はなにを考えるためにここにいるのだろう、ということが気になった。それは、アメエルがどうしてここにいるのか、ということにも絡んでくる。どうしてここにいるのか。どうして俺とアメエルがここで一緒に話しているのか。それが気になった。どんなことでも、人間は気にするものだ。この疑問もまた、そういった他愛もないものごとのひとつだろう。

 だから俺はなにも言わないことにした。予感だろうか。目の前を雀が滑空していった。小さい鳥はそのままどこかへ行ってしまった。もうどこにいるのかわからない。アメエルも、あの鳥のように過ぎ去ってしまう。いつか、必ず。俺がアメエルを引き止めない限りは。だが、それなら、いい。仲良くなりすぎてはならないだろう。突然現れて突然去る。ありがちな。展開が読めるというものだ。

 黙って空の方を向く。アメエルがハミングし始めた。なんの曲かはわからなかった。とてもやさしい曲調。ずっと聴いていてもいいと思える、名曲のようなもの。どこかで聞いたことはあるようにも思えるし、そうでない気もする。不思議。さすが天使だ。

「どうしたの」

 アメエルが首をかしげた。俺は、なんでもないと言った。人間っておかしいね、天使もおかしいけどね。アメエルはそうやって笑う。よく、笑う。俺も釣られて笑ってみせる。耳の奥、アメエルのハミングがまだ残っている。

 

   ◇

 

 俺にとっての家は、暗い場所だ。開放感など、ありはしない。日曜日、その印象を吹き飛ばせるようにとあちこちの窓を全開にしてみる。たまに蜂が入ってきたりする。夏など蚊が入ってくる。開放感を得るためにやったことで、不快が増大する。だから、最近はそんなことをしなくなった。室内で虫除けなど、ばかばかしい。それは屋上に行くときだけ使うのだ。

 土曜の夜、ごくたまに、屋根の上で空を観察することがある。あの星とあの星をつなげたら、拳銃のようになるな、と思って楽しんでみたりする。闇の中で星が輝いているのを見ると、安心することがある。完全な闇がないことを知って、不安が去っていく。しかし、部屋に戻ればそれも薄れる。人工灯はどこかよそよそしい光。暖かくない。星の光よりもなお冷たく明るい。ずっと灯りをつけて横になっても、なおそこには闇が残っているような気がする。

 たまに電話がかかってくる。父さんからの電話だ。

「寂しくしていないか。雪路が言えば、父さんは仕事くらいほっぽり出してやる。家族より仕事が大切だなどという道理はない。お父さんにとっては、そうなんだ。だから、いつでも遠慮なく言うんだぞ」

 母さんを失ったあとの父さんは、より家族を大切にするようになった。前だって、家族のためなら無理やり有給休暇をとってくるような人だった。それができるだけの力があったのだ。俺はそんな父さんを尊敬している。尊敬できるような父親で本当によかったと思える。

 だからこそ、母さんを喪ったときの父さんの顔が忘れられない。まるで、子供のようだった。弱い、一人の、人間のように感じた。忘れられるわけがない。父さんと俺の距離が近づいた瞬間。

 だからこそ、そんな父さんに負担をかけたくなかった。俺は男なのだ。寂しいなんて、そんなことがあってはならない。口に出すことじゃない。

「大丈夫さ。仕事、頑張ってくれよ。ほっぽり出すようじゃ、いつか切られるって」

「父さんを切れるやつなどいないさ。借りだけはたくさん作ってるんだ。じゃあ、これで終わりにする。お盆には、帰れるようにするからな」

「ああ」

 そして、父さんから電話を切るのを待つ。切れる。電子音が聞こえる。同じ調子の音が続く。それから、ゆっくりと受話器を置く。

 明日のことを考えながら眠る。クラスメイトのこと、授業のこと、屋上のことを考える。アメエルが空からやってくる。バサバサと、黒い翼をはためかせ。アメエルは、何故か、泣いていた。学ランが雨で濡れる。俺はどうしてか濡れないでいる。雨は次第に烈しさを増し、横殴りになる。稲光を見る。追いかけてくる雷鳴。鴉が集まってきた。アメエルの周りに集まった鴉たちが一斉に声をあげた。俺はどうしていいかわからなかった。アメエルに手を伸ばす。どうしたんだ、と訊きたかった。手が届くことはなかった。雨が降り続く。バサバサと、羽音。

 

   ◇

 

 あれから何度も屋上に足を運んだ。二日に一度は必ずアメエルと出会うようになっていた。学ランの季節は終わった。だんだんと梅雨に近づいていく。雨を見ると憂鬱になる。屋上に行こう、という気力さえ萎えるくらいだ。アメエルは、雨がぱらつく日でも来ることがあった。いつものように笑っていた。幼い笑顔を見せてくれた。

 今日も朝から雨が降っている。雷はなかった。友人の秀彦と女子の好みについて話をした。秀彦は眼鏡をかけていて、頭がよさそうな外見をしている。実際はそうでもない。俺の方が成績はいいくらいだ。国語なら絶対に負けない。学年五位をなめてもらっては困る。

「つまり、眼鏡で白衣で天然でおっとりで膂力だけはあるお姉さんなんだな」

 俺が訊くと、秀彦は眼鏡を直した。

「その通りだ。よくわかっている」

 言った俺の方はよくわかっていない。眼鏡で白衣で天然でおっとりで膂力だけはあるお姉さん、とはなんだ。我ながら謎だ。秀彦が以前言ったことを覚えていただけなのだから。雨が強くなる。女子が声をあげた。嫌だなあ、という感じがありありと表わされている。

「お前はどうなんだ」

 訊かれたので、俺はすこし考えた。

「髪が長い、普通の人がいい。そうだな。やさしいとポイントが高いと思う」

「そうか。でも、雪路は、そうだな。寂しがり屋の女の子がいいと思うぞ」

「それは本当なのか」

「本当だぜ。お前もどこか寂しがりなところがあると見た。だから、いつも一緒にいたいと向こうから言ってきてくれる女の子の方がいいぜ」

「そんなものか」

「そんなものだ」

「じゃあ、お前の好みのことはよくわかるな。膂力で曲がった根性を叩きなおしてもらうといい」

「そいつはいいな。支えるにも力が必要だからな」

 秀彦はまったく、変な方面での耐久力が高い。どんなことでも前向きに捉える力があると思える。

 昼休みは終わる。有意義とも無意味とも取れる会話に包まれて。

 

 放課後になると雨が弱まっていた。俺は傘を差していつもの場所にいた。高いところで傘を差すのは危険だと思うが、雷の気配がないのでよしとした。

 雨は霧の如くといった様子だった。その細かい粒子は風にあおられて手や頬に触れてくる。それはどこか心地よくもある。じめじめと蒸し暑い室内に長くいたせいだろう、と俺は思った。

 雨が降ると光がすくなくなる。どこか陰気な色彩となった景色を、ぼんやりと眺める。灰色が濃い。ほんのわずか、車のスキール音が聞こえた。事故にならなければいいが、と思う。

 俺はじっとしていた。

 どこか落ち着かない気分だった。

 何が原因なのかしばらくわからなかったが、いつまで経ってもアメエルが来ないことに思い当たると、それが原因なのだろうと自覚するまでに至った。あまり深入りはするな、と俺は思っていた。そのはずだった。だが、俺は、彼女を待っている。アメエルが、俺と、屋上にいる。隣で、笑っていてくれる。不思議な曲を聞かせてくれる。そんなことを待ちわびている。楽しいからだ。それがなくて寂しく感じるのは、ある意味で、当然のことだった。

 関わるべきではなかったのだ。もし、このまま、アメエルが来なくなったらどうなるだろう。挨拶を交わすこともなく、別れることになってしまったら。

「アメエル」

 俺は呟いていた。雨の量が増えてきた。粒のひとつひとつが大きくなり、降り注ぎ、弾けては音となる。傘の柄を通じた雨の感触がより強くなっていく。

 それでもアメエルは来なかった。もう一度、アメエルの名を呼ぼうとした。だが、留まる。呼んでも来ない。きっと、来ないだろう。俺はそう思った。だから呼ばなかった。口にしたら辛くなる。言葉にはそういう力がある。アメエルの名を呼んでしまったら、その存在を求めて心が泣き叫んでしまうかもしれない。

 俺は寂しいんだ。

 なにがどうしてというものではない。

 独り、屋上、雨の中にいる。

 

   ◇

 

 雨の夜に星はない。

 闇の奥には本当に空があるのかもわからない。俺は、ノイズのように続く雨音におびえているのだろうか。空を見たくない。だから、雲間から星が見えるのだとしても、気づけないに違いない。探してみるか。臆する心を拉致して、無理やり窓際に立つ。煙る外に、ぼやけて白く街灯。それでも、その光はことさらに強い。星も空もよく見えない。雨粒だけが鮮明に落ちていく。

 明日は晴れるだろうか。

 明日は晴れて欲しい。

 

   ◇

 

 沈んだ空気を感じる朝、ホームルーム。

 人が死んだらしい。隣のクラスの男子だという話だ。その悲しみ、あるいは、悲しいと思おうとする感情がこの部屋に充満しているのだ、ということだけはわかった。俺は、どうしたらいいのかすこしの間わからなかった。悲しめばいい。そのことだけはおぼろげながらもわかっていた。だから、そうした。粛々と、その場の雰囲気の中に自分を溶け込ませるのに集中する。より小さく、より小さく、俺は教室で縮こまっていた。

 同じ学年の人間が死んだ経験はなかった。この場のほとんどの人間がそうであるに違いなかった。教師は除く。

 その沈黙は一日を通じて続くかと思われたが、そんなことはなかった。授業が一時間行われるごとに、みな明るい顔になった。人など死んではいない。平常時の、学生の姿を見せる。やかましく、遠慮がない。俺も、その学生ではある。

 秀彦とそのことについて話してみる。

「隣のクラスのやつが死んだことについて、どう思う」

 秀彦はなにかを考えた様子があったが、ふうと息をついて答えた。

「実感がない、というのが正直なところだな。なにしろ、隣のクラスの、名前も思い出せないようなやつが死んだんだ。これが、お前なら、そうではなかったろう。実感できない死など、それほど大きなものとは感じられない。本当は」

 秀彦の声は小さかった。俺は耳をそばだてねばならなかった。だが、そうするだけの内容ではあった。

「だが、死は、死だろう。誰かは必ず悲しんでいる。その悲しみを感じられないのは異常とも捉えられるかもしれない。要は、共感できるかどうかだろうと思う」

「共感か。そうか」

「大丈夫か」

 秀彦が怪訝な顔をする。

「雪路。朝から、あまり元気がないだろう。そいつと知り合いだったのか」

「いや」

 まったく知らない人間が死んだのだ。

 ただ、死というものに触れたことはあった。そのことが思い出されたのだろうと思う。みながすぐに立ち直っていく様子を見て、普通はそういうものなんだろうとは思った。俺も、暗くなるのがばかばかしいとは感じていた。

 関係のない死。

 そう呼べるものがあったのだ。

「ま、共感能力のせいでいそうなるんだから、あまりいいものではないと思わないか、雪路」

「ないならないで、不便だと思う。彼女を作ったとき、どうするつもりだ」

「それもそうだ。共感能力は重要だぞ」

「そう言っている」

 秀彦の転換能力が素晴らしさのおかげで、暗い気持ちがすこしだけ緩んだ。気がつけば、窓の外には陽光が見えていた。今日は暑くなりそうだ。

 

 放課後になっても雨は降らず、それどころか雲も見えなかった。梅雨にしては珍しい、いい日和だ。その代わり、じりじりと暑さがこみ上げてくる。校庭に陽炎のようなものが見えたのは幻覚だったか現実だったか定かではない。

 とりあえず、と入り口の上に登る。それから腰をおろす。しばらく、ぼうとする。今日は来るだろうか。アメエルは、来てくれるだろうか。いつの間にか、俺は手を組んでいた。まるで祈っているみたいだ。

 体育座りに飽きたころ、不意に気配を感じた。後ろに人が立っている。俺は驚いて、座ったままの体勢で飛び上がるところだった。実際は、体育座りが崩れてあぐらのできそこないになっただけだったが。

 振り向いてみると、アメエルが立っていた。半袖シャツから伸びた腕が、強い日差しを跳ね返して白く輝いているように見える。きれいだった。すこしの間、その肌の色を眺めていた。

「なに見てるの」

「アメエルの肌を」

「恥ずかしいよ」

 それはそうだ。俺も、なにをやっているんだ。しかし、頬を染めたアメエルは魅力的に見えなくもない。

「ごめん」

 俺は視線をどこかへやろうとした。そちらには太陽のまぶしさがあった。また別の方へと向き直る。

「ここ、座るね」

 アメエルがそう言ったので、とりあえずうなずいた。アメエルは俺の隣に腰をおろした。黒い長ズボンが見えた。スカートじゃないのが、妙に残念だった。アメエルは天使だが、それ以前に、やはり、女の子だった。俺はそれを意識していた。

 なによりも、会いたかった。

「なあ、アメエル。お前は」

 俺はなにか喋らなくてと思って、思いついたことを訊く。

「お前はどうして地上に降りてきたんだ」

 すると、アメエルは黙った。俺はその横顔に目を向ける。そこには、いつもとは違う、曇ったアメエルの表情があった。胸の奥底で、嫌な圧力が生まれた。圧迫感から逃れようと、俺が別のことを言おうとしたときだった。

「人の死を観察しにきたんだ」

 アメエルは俺の方を見ないで続ける。

「それが仕事なの。僕の仕事。この地域で死んだ人間のどれだけが運命で死んだのかを調べる。死んだ人間は誰も彼もが運命で死ぬわけじゃないんだ。ほとんどの人が偶然に死んでいくの。核爆弾で百万人死んだら、運命で死ぬのはそのうちの百人くらいなんだよ」

 声は小さく、嫌々に話しているのが俺にもわかるくらい、沈んでいる。悪いことを訊いてしまったと思った。

「ごめん」

「ううん」

 アメエルは首を振った。そして、俺の方を見た。微笑んでいた。

「誰かにね、話したかった。昨日、運命で死んだ人がいたよ。まだ、高校生だった。たぶん、この学校の人。交通事故でね、普通だったら死なないような事故だったんだ。打ち所が悪かったって」

 でもさ、とアメエルは喋り続ける。

「そういうのをいくつも見るのが僕の仕事。運命かどうか確かめるのが僕の仕事。運命だろうがそうでなかろうが、死は死なのにね」

 いつの間にか、アメエルの頭上に光輪が現れていた。空が暗くなる。急に出てきた雲は非常に厚く、陽光の大部分をさえぎっている。

「僕は人間に生まれたかったな。天使なんて、損だもの。羽も黒いし。それに、もっと死に対して別のことを考えられたかもしれない。やってられないんだ。ごめん、雪路」

 アメエルの目の端が、一瞬、光って見えた。その輝きは指先にぬぐわれて消えた。涙だったのだ。

「神様お願い」

 雷が三つ、落ちる。

「つばさ、でろ」

 呟きとともに翼は大きく力強く広がる。

「ちょっと、心を落ち着ける。羽に包まれていると、安心できるから」

 翼は器用に動くと、アメエルの体をすっかり包み込んだ。その姿はまるで羽毛に包まれた黒色の卵のようでもあった。アメエルの顔がその翼の間から見えている。生まれた直後の赤ん坊の如く、安らかな顔をしていた。

 俺はその顔に手を伸ばしてみる。そっと、触れた。

 目の前が真っ暗になる。

 翼が一気に開き、俺は跳ね除けられていたのだ。

「ごめん。びっくりしちゃって」

「いや、俺も悪かった。びっくりさせてしまった」

 体勢を立て直す。驚いたのは俺も同じだ。まったく、翼の力は強い。

「なんで触ったの」

 アメエルの瞳が不思議さにうるんだ。俺はその瞳に食い入っていた。

「なんとなく、触れたかった」

「変なの」

「たぶん、暖かみが欲しかったんだ」

 急に、なにを言っているのだろう。俺は自分の意志がよく理解できないでいる。アメエルには関係のないことを、勝手に言葉にしてしまっていた。一度溢れると止まらない。決壊したダムの如く。

「俺が屋上に来るのはな、空が近いからなんだ。それも、光の溢れる空が。曇りだって、夜よりはマシなんだ。自由そうに見える。闇のない空は、自由だ。だから、ここに来る。なんでそうなのかはわからない。でも、閉鎖的な場所にいつまでもいると、だんだん自分が冷えていくような気がするんだ。寂しさで」

「そうなの」

「そうなんだ」

 なにかが俺の頬に触れていた。

 白くかわいい指が、俺の頬をゆっくりとなでている。

「じゃあ、雪路が寂しい目をしているのは、そのまま、寂しかったからなんだね」

 俺はアメエルの暖かい指がいつまでもそこにいてくれることを願っている。

「寂しい目か。そうだったかもしれない。自分ではわからない。鏡なんて、髭を剃るときにしか見ないから。目なんて、見ない」

「雪路は僕の話を聞いてくれたよ。僕、それですこし元気が出た。じゃあ、僕は僕で、雪路に元気をあげるよ」

 なにをするのか最初はわからなかった。愛しき指は静かに離れていった。

 胸が高鳴った。

 女の子の、体のやわらかさを感じる。

 アメエルは俺を抱いていた。

 黒い翼が俺たちを慈しむように広がった。

 俺はやがて心地のよい安心感の底に沈んでいく。

 闇はない。

 ただ、溢れんばかりの光を感じた。

 

   ◇

 

 放課後の屋上に侵入するのはたやすい。密かに製造した合鍵があれば一撃なのだ。このような手段を持っている生徒は意外に多い。多い、とはいっても二桁にはならないと思うが、俺以外にも、どこかの合鍵を持っている人間は大勢いることは知っている。

 俺はそうして屋上に入り浸る。

 アメエルと話すのは楽しかった。アメエルの笑顔は本当にきらきら輝く。

 アメエルが暗いときは、俺も暗くなってしまう。だから、俺はアメエルの話を聞いてやる。アメエルは俺にぬくもりをくれる。男女としての仲というものはまったく進む気配がなかったが、俺はもうそんなことはどうでもよかった。これは人間と天使という関係なのだ。これ以上、なにがいるだろう。すべての不安を取り除いてくれるアメエルの熱量は、もはや俺にとってなくてはならないものだとも言えた。

 最近、闇がより怖くなった気がする。

 闇の奥から冷たいものが這いずってくる。孤独と呼んでもいい。あるいはそこから感じる寂しさそのものかもしれない。学校に行かなければ孤独は続く。家に戻れば孤独が始まる。俺はアメエルがいるからそれをごまかせる。

 でも、それがいつまでも続くのだろうか。

 前にも考えたことだろう。アメエルはいつかいなくなる。それは予感として感じる。出会いが突然だった二人は、いつか突然別れることになる。妄想だろうとは思うのだ。小説好きな男が描いたくだらないこと。

 しかし、そんなものですら俺には恐ろしく感じられた。喪うことがどういうことか、身に沁みてわかっているから。喪失感で一杯になった家の、その闇に巣食う恐怖を理解しているから。

 死でも別れでも、それは、同じことなのだ。

 だからだろうか。雨がひどい日、屋上にいけないといらついてしまう。無理やりでも行こうかと思うのだが、きっとアメエルも来ないだろうと思って、踏みとどまる。その反動で、晴れた日は真っ先に屋上へ向かう。たまに告白なんかをする男がいたりする。

 その様子を俺とアメエルで見たことがあった。なんとなくくすぐったい気持ちに駆られた俺は、アメエルの手をそっと掴んでみた。アメエルは俺の方を見ると、にっこりとした顔になった。底抜けの明るさを感じさせてくれた。口の中に柑橘系の香りが広がったように錯覚した。世界は光で満ちている。どこにも孤独なんかありはしない。このときだけは、確かにそうなのだ。

 そう、このときだけは。

 

   ◇

 

 アメエルのことを思い浮かべつつ眠りについたのは、夜も早い時間だった。夢を見ていた。母さんが死んだ日の夢を。父さんの嗚咽が届いてくる。悲痛な表情は俺の心を移した鏡のように歪んでいた。

 俺も泣いていた。声がうまくでなかった。声にならなかった感情がぽたぽたと零れ続け、なにをしていいのかもわからず、やはり泣き続ける。

 母さんのいなくなったあとの家は、悲しみだけが詰まった場所だ。その悲しみをどうやったら追い出せるだろう。どこかに拡散させなければならない。

 空気を入れ替えろ。

 バカみたいにそれを試した。

 いつしか悲しみは俺の体にまでまとわりつくようになった。

 だから。

 だから広い空に、自分の悲しみを捨てたかった。

 それでも、消えない。屋上に何度も出入りした。いつまでも消えない。それを消してくれるのは、天使、その羽。アメエル。お前だけなんだ。

 ふと気づくと、部屋の中になにか輝くものがあった。闇に慣れていた俺の目はそれに眩む。しばらくして目が慣れると、そこには天使の姿があった。

 半袖制服姿の、黒い翼の天使。

 俺はゆっくりと体を起こした。紛れもなくアメエルがそこにいた。どうやって入ってきたのだ。しかし天使なのだからどうにかして入ってきたのだろう。

 それより、なにをしに来たんだ。

 嫌な予感がする。ぬるりと背筋を這いずり、やがて胃の中でとぐろを巻く。俺はベッドから離れると、アメエルに近寄ろうとした。

 その途端にいくつもの影が俺の視界を塞ぎ、あるものは衝撃として俺を弾き飛ばした。羽音が聞こえる。バサバサと耳が痛くなるほどに重なる。やめてくれ。そう叫んだ。

 羽音が消える。

「ごめんね、雪路。また、驚かせちゃった」

 ほのかな明かりで、アメエルの表情が見える。

 見なければよかったと思った。

 暗く沈んだ顔だ。俺まで暗くなるような、強烈な闇の表情。

「今日で調査の期間が終わったから、天に帰らなくちゃいけないんだ」

 俺はなにも言えなかった。一生懸命に、首を横に振っているだけだった。

「僕だってね、雪路とお別れするのは、気が進まないんだ。だけど、これはどうしようもないことなの。運命だもの。神様が決めた運命。それに逆らえる天使なんて、ほとんどいない。僕は、逆らえない」

「嫌だ。いかないでくれ。アメエル。俺を独りにしないでくれ」

 子供のように、俺は言った。情けないと思う気持ちが涙でかき消された。俺はすがるようにしてアメエルに近寄った。アメエルはそんな俺になにもしなかった。アメエルの手は、翼は、いつも通り、暖かかった。

「雪路にはお父さんがいる。秀彦だっているよ。独りじゃない。僕なんかいなくても大丈夫のはずだよ。僕、雪路はそんなに弱くないと思う」

「違う。弱いんだ。俺はダメなんだ。母さんが死んでから、孤独が怖くて仕方がないんだ。アメエル。アメエルだけなんだよ。俺の孤独を癒してくれるのは」

 翼が俺を跳ね除けた。それが刹那、把握できなかった。

 アメエルが怒鳴った。

「甘えないでよ」

 アメエルは声を抑えて続ける。

「それは甘えだ。独りになることなんて、地上にはいっぱいあるんだ。僕はそれを知ってる。天使だから、嫌でも知ることになるんだよ。雪路。君はまだ幸せなんだ。本当の孤独の中にいるわけじゃない。それは幻だよ」

 そうであることはわかっている。

 だが、その幻がいつまでも消えない。

「どうしたらいいんだ。どうしようもないんだ。俺には、幻は消せない」

 アメエルはしばらく困ったようにしていた。俺はもう涙を流してはいなかった。だが、アメエルを喪いたくなくて、なにか言わなくてはと考え続けていた。アメエルを引き止めなくては。アメエルを。

 俺より先に、アメエルが言った。

「じゃあ、これをあげるよ」

 アメエルは羽を一枚抜き取った。漆黒の羽が俺の手に渡された。抜かれたものにも関わらず、それはアメエルそのもののような暖かさを持っていた。俺はそれを抱きしめる。決して離さぬように。

「それを僕だと思えばいいんだ。寂しくなったら、それを抱きしめて。でも、いつまでもそれに頼ってちゃいけない。孤独に耐えられなくて死ぬなんて、あんまりだ。僕は、雪路に死んで欲しくないよ」

 俺はアメエルの方を見た。

 いつもの笑顔がそこにある。暗闇の中でひっそりと光を見せている。

「じゃあね、雪路。いつかまた会えたら」

 待て、と俺は言おうとした。それは強烈な光と音と衝撃でかき消される。事態がまったく把握できない。破壊力のようなものが部屋全体に広がっていく気がする。なにも考えられない。すべての終わりのように、意識が薄れていく感覚。

 アメエル、また会えるだろうか。

 夢の中か現実か、そのどちらかで、俺は確かにその言葉を呟いた。

 

   ◇

 

 アメエルと別れた翌日、俺はベッドの中で眠っていた。すべてが夢の如しといった感覚だった。ただ枕の横に置いてある黒い羽だけが、現実として確かにそこに存在していた。俺がその羽を握ってみると、そこには暖かさがあった。アメエルの暖かさが。

 六月が終わり七月初頭の試験が終わり、そして夏休みが近寄ってくる。俺はアルバイトでもすることにした。それで気がまぎれると思ったからだ。

 いくつか面接してなんとか手にしたバイトは、ことのほか楽しかった。他人と関わる仕事だったからか、寂しさがまぎれたのだ。

 それでもどうしても寂しいとき、アメエルの羽を抱いて丸くなってみる。赤ん坊のように。それで心は楽になる。そこにアメエルがいてくれるような気さえする。アメエルはきっと、そうなるようにこの羽に力を込めたんだろう。天使だから。

 そう、アメエルは本当に天使だった。黒い翼の、やさしい天使。

 そうやって七月をやり過ごした俺の許に、電話がやってくる。父さんだ。

「お盆が近いから、帰る。家の状態、ちゃんとしておけよ」

「いつでもちゃんとしてるぞ」

「さすが我が子だ。いや、母さんの子だ。そこのところはな」

「そうかもな」

「母さんのところに行ってやろうな」

「うん」

 力強く答える。

 父さんが帰ってきた日、俺は父さんに抱きついていた。寂しかったろう。そう問われて、うん、と素直に答えることができた。

 それから、お盆の日、母さんの許へ出かけた。胸にはアメエルの羽を持って。

 よく晴れた日だった。墓場には鴉が何羽も飛んでいた。みな足は二本だけ。まあ、当然だろう。アメエルは天にいるはずだ。

 盆だけあってさまざまな人がお参りをしている。中には泣く人もあった。それに対してどうこう言うつもりはない。俺もまた、涙をこらえるのに必死だった。

 鴉の鳴き声が響く。

 黙祷をささげ終わったあと、父さんが俺になにか光るものを差し出した。銀色のそれは、どうやら、ペンダントのようだった。

「ずっと、渡そうと思っていた」

 俺はそれを受け取った。

 思い出す。これは、母さんのだ。

「手放せなかった。もういなくなってしまった母さんが、ここにいるような気がしていたんだ。だけど、雪路。お前が寂しいなら、父さんはこれをお前に譲れる。父さんは、いつまでも、お前の父さんなんだから」

「ありがとう、父さん」

 俺はそのペンダントを胸にしまった。急に、胸が熱くなった。俺は涙をこらえられなかったのだ。

「いくらでも泣いていい。父さんも泣く」

 二人で静かに涙を流した。不意に、胸ポケットが気になった。俺はそこをまさぐった。羽が、なかった。あるのは、暖かみがあるペンダントだけだった。

 不意に、すぐ近くを鴉が通り過ぎた。その鴉は鋭く上昇すると、俺の上を数度旋回した。もしかしたら、と俺はアメエルの名前を呟いた。鴉が鳴いた。返事をしたように、俺には感じられた。

 鴉はやがて高い大空へと帰っていく。加速していくその姿を、俺は必死に捉えようとした。足は何本だ。それが気になって目を凝らしてみるが、涙でにじんでよくわからない。鴉はそのまま空の彼方、太陽の輝きの方へと溶けていった。

 アメエルのぬくもりはペンダントの中に宿っている。そして、アメエルの羽はアメエルの許へと帰っていった。そういうことなのだろう。

 俺は鴉を追うのをあきらめた。

 そして、いつかアメエルのハミングしていた曲を、そっと、口ずさんでみる。

































 書いた覚えのない小説が、古いメールの添付ファイルから出てきました。
 しかし本文を読む限り、自分の文章です。
 もしかしたらただの錯覚かもしれません。
 その為、この作品をどこか別の場所で見かけた方は教えてください。
 もし自分のものでなかった場合
 私はとても大切な人の存在を忘れていることになります。

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