秒読みの契約 ~あなたに三つの冠を~ 作:雲ノ丸
大空を自由に羽ばたいているかのように、体も気持ちも軽かった。
軽すぎて、現実味を喪失しかけている。夢の中、雲のようにふわふわとしていて、それでいて頭はいつも以上に熱を持ってよく回る。
それが心地の良い高揚感であることに、セイウンスカイは気づかない。ただ、言葉にはできない自信というものが、体の芯から溢れてくることはよくわかった。
パドックに上がってからも、そよ風に吹かれる雲のような心地のままだった。いつも通りに、機械的に鍛え上げた肉体と、二度目となる勝負服をお披露目しながら、彼女はぼーっと青空を見ていた。
周りがそんな様子に騒ついても、セイウンスカイの心は地につかない。
そんな彼女の意識を現実に引き戻したのは、ライバルのパドックでの姿であった。
(……うーん?)
スペシャルウィークとキングヘイロー。二人の佇まいを見た後も、セイウンスカイの心までは地につかない。
(不調、なわけじゃないかなー。妙にスッキリしてるような。なんだろ、これ)
レースでやることは簡単だ。
頭の中で何度もシミュレーションを繰り返す。それを繰り返すたびに、むむ、と彼女は眉をひそめる。
(ちょっと都合良く考えすぎかなー。うん、キングとスペちゃんが先行策を取ってきた時、どうするのか考えましょう)
そこでようやく、心も現実に引き戻されて、彼女の世界は広がり、音が戻ってきた。
(さて。大物を釣り上げましょう。大物を、ね?)
仕掛けは万全。
やれることはやり切った。
後は走り抜けて結果を示す。
セイウンスカイは小さな笑みを浮かべながら、レース場に歩み出た。
柔軟運動を済ませて、いつも通り係員から逃げるように最後にゲートに入る。
ゲート特有の寒気というものがある。暗くて、狭くて、それまで誰もいなかったからとどまってしまった、冷たい空気。それが、熱くなっていたセイウンスカイの頭を冷やし、渋滞した思考は瞬く間に透き通っていく。
『三番人気の紹介をしましょう――』
アナウンス。そこに、セイウンスカイも、キングヘイローも、スペシャルウィークの名前もなかった。
おや、と頭の中でカチリと音が鳴り、興味の視線がゲートの暗い天井を見上げた。
『二番人気はこのウマ娘、キングヘイロー! 弥生賞では見事なレース運びをみせました! その末脚で、今日はどれほど地を鳴らすのか!』
「あー……」
セイウンスカイは困ったように声を上げて、髪の毛を梳くように指の腹で後頭部を掻いた。
ふとゲートの隙間からライバルたちを見てみれば、バチバチと火花を散らせているのはキングヘイローとスペシャルウィークだ。
(うわっ、火傷しそう。間に挟まってなくてよかったー。縮こまってゲートから出られなくなっちゃいそう)
鋭い差し脚勝負、とでも考えているのだろう。
セイウンスカイの頭が、涼しい空気にさらされながらも、熱を持っていく。
(となれば、作戦は一択)
グッと拳を握り、セイウンスカイは視線を前に向ける。
『一番人気はこのウマ娘! スペシャルウィーク! 弥生賞では見事なごぼう抜きでレースを制しました! クラシック期待の一人、その驚異的な爆発力に期待が高まります!』
セイウンスカイは、姿勢を低くスタート体勢を取る。
ゲートの隙間から口元が見えないように、低く、それでいて、前だけを見つめて。
『ゲートイン完了、出走の準備が整いました』
にぃ、とセイウンスカイの口元は、確かにつり上がっている。
それでいて、息をひそめるように気配は希薄。
(今まで、さ。好き勝手に。ほんとーに、好き勝手、言ってくれちゃって。勝手に、話が進んじゃってて、さ)
三番人気にさえ、セイウンスカイの名前はなかった。
キングヘイローとスペシャルウィークに、万が一にでも勝てない、と思われたのだろうか。弥生賞のあの一回で、全力を出し切ったのだと、思われてしまったのだろうか。
――真実は違う。
事実は、セイウンスカイのパドックでの見え方が、あまりにも悪かったせいだ。肉体は確かに仕上がっている。今までのレース成績も悪くない。だが、あまりにも心ここにあらず、「不調」に見えたせいで、彼女の評価は落ちていただけなのだが。
それを、彼女が知る由はない。
しかし、三番人気からさえあぶれたという事実が、秘めたる闘争心に火をつけて、大火となって燃え上がる。
(全部、ひっくり返すよ)
音を立てて、ゲートが開いたその瞬間に、セイウンスカイは誰よりも前に飛び出した。
『スタートしました! セイウンスカイ、早くも二バ身、いえ、三バ身の差を開き、先頭に抜けていく!』
『いつも通り、気持ちのいい好スタートですね。今日はどんなレース運びをするのか、注目していきたいところです』
注目、それはレースペースをどれだけ乱すのか、ということか。
それとも、まだ何かしてくれるだろう、というわずかな期待の表れか。
カチリ、とセイウンスカイの頭の中では音が鳴っていた。
最初の200mを過ぎた合図だ。曲げた親指に若干の違和感が残っていたものの、それを彼女は気にしない。少なくとも――
(手札は切る順番が大切。速すぎたら、いつもの事かで終わっちゃう。遅過ぎたら、私の脚が残らなくなる。だからあの場所までは、誰よりも速く!)
『セイウンスカイ、ペースが速い! 既に後続とは5バ身差を開いて独走状態だ! 最後までスタミナがもつとでも言うのか!?』
『このまま行けばワールドレコードは確実ですが、レースは始まったばかりです。このまま突き進むのか、順位を下るのか。レースペースに注目していきたいところです』
そんなペースでワールドレコードを出せる力があるのなら、セイウンスカイは知略をめぐらしてレースを運んではいない。大逃げで全てを置き去りに、ただそれだけで勝てるなら、考えること自体が必要なくなる。
誰よりも、セイウンスカイは己の弱さと向き合ってきた。
だから、そんな夢物語に自分の足を預けない。計画を立て、仕掛けを施し、盤石となった完璧な道でこそ、彼女は全力で大地を蹴り付けるのだ。
親指をもう一度曲げる。カチリ、と音が鳴る。
(まだ、まだだ! もっと、もっと!)
いつもなら、ペースを絶対に落とす場面でも。
セイウンスカイは、ここだけは! と目が飛び出るようなハイペースを維持した。
いつもとは違う、ほんの数秒だ。
しかし、作戦として逃げを選択していたウマ娘たちは、とても届きそうにない背中を見続けていた故に、心臓を撫でられるような違和感を覚え始める。
そして、次のハロン棒が見えたところで。
「あっ」
逃げウマ娘の一人が、思わず声を上げた。
そして決して縮まらないどころか、さらに遠くなっているセイウンスカイの背中を見て。
気が付けば、その足をさらに前にと進めていた。
本能が足を動かした。何もできずに負ける、という強烈なビジョンが浮かび、駆り立てられるように前に進んだ。
いつもと違うと、そびえ立つハロン棒が彼女たちに囁いた。
そんな囁きに、駆られるように前に出た者もいれば。
我慢の限界、とばかりに足を使う者も現れる。
その、あまりにも異常な光景に。
中山レース場は、声援とは違ったざわめきに包まれ始める。
どろりと、どこかぬかるんだような空気が、晴れ渡る空が照らす中山のターフに紛れ込んでいた。
差しの位置で足をためていたキングヘイローは、その異質な空気に眉をひそめる。
(……何かしら、この、違和感は)
キングヘイローの位置は、差し集団の先頭。セイウンスカイがいつものように作ろうとしたものの、いつも通りだと思われたせいか。各々が自分のペースに専念した結果、弥生賞ほど隙間が出来なかった、先行集団のすぐ後ろ。その広さ、およそ1バ身ほどの空間である。
キングヘイローからは先行集団の様子がわかっても、逃げの先頭集団のことまでは見えなかった。分厚いウマ娘たちの壁に阻まれて、今、先頭がどんなペースで進んでいるのかわからない。
セイウンスカイが下ってこないことに、キングヘイローは別段、違和感を覚えてはいなかった。これほど狭いスペースだ。差しの位置に戻ろうとしたが、狭すぎて戻るに戻れず、前方集団に取り残されてしまったという可能性は、十二分にあり得る。後ろに行き過ぎるよりも、前方集団に居残った方が勝ちが拾える、と考えたのも納得がいく。
ならば一体、何が問題なのか。
キングヘイローは先行集団に追従しながら考えるものの。
(何にしても、私は私の最高のスパートを決めるだけ。勝つのは、このキングヘイローよ)
違和感の正体はわからない。それでも己の走りを貫き通そうと、前方を冷静に見つめながら、彼女は走る。
(……あれ?)
数えて四つ目のハロン棒が見えた時、スペシャルウィークは内心で首を傾げていた。同時に、まさか、と背筋に悪寒が走る。
(太っちゃって、体力まで落ちちゃった!?)
勝負服のファスナーを上げきれない。数値にしてみれば僅かでも、そんな確かな証拠を添えた状態。
スペシャルウィークは太り気味で皐月賞を迎えていた。
足がいつもより重たいと感じている。まるでターフではなく、荒れたダートでも走っているように。あるいは、芝の重バ場に足を取られそうになるような、そんな重たさがまとわりついて離れない。
いつもとは違い、万全とは言えない状態の彼女は。
走りにくいのは、自分が太ってしまったからだと、思い込んでいた。
(とにかく、今は前についていかないと)
位置を下げ過ぎれば、不利になるのは自分だと言い聞かせながら。
スペシャルウィークは、キングヘイローに追従するように走り続ける。
ぬかるんだ空気が、足元にまで充満し始めたことに、誰も気づかないまま。
レースは、後半に差し掛かろうとしていた。
いや、ただ一人。
そんなぬかるみの中であろうと関係なく、正しく己のペースを貫くウマ娘が先頭にいる。
ざわめく会場など何のその。
興奮気味に現状を伝える実況の言葉など耳に入らない。
――掛かったね?
内心でそう呟く彼女は。
親指を曲げて、ゆっくり、ゆっくりと、リールを巻いた。
観客席の中から、そのレース展開を見ていた彼は、ぽつりと呟く。
「やってやれ、セイウンスカイ」
覆水盆に返らず。
トリックスターが、にやりと笑った。