秒読みの契約 ~あなたに三つの冠を~   作:雲ノ丸

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第11話 後半の消えた200m

 カチリ、と5回も親指を曲げた時には、セイウンスカイは逃げ集団に追いつかれていた。

 チラリと後続を確認してみれば、先行集団も逃げとはほんの少し距離をとって追従している。ほんの少し外側に寄ってさらに後続まで確認すると、そこには団子になったバ群が形成されていた。

 

 にやり、とセイウンスカイは堪えきれない笑みを浮かべながら、ここぞとばかりに足を緩めて順位を下る。

 

(セイちゃん、いつも通りのペースになっただけなのになー?)

 

 するり、とセイウンスカイは先行集団の先頭、逃げ集団の最後尾の間にその身を滑り込ませ、前のウマ娘にピタリと張り付く。

 風を避け、ペースを戻し、それによって先行集団もセイウンスカイに潰されるようにペースが落ちて垂れていく。無理をした逃げ集団も、先頭を取り戻したことで落ち着きを取り戻し、しかし体力を使いすぎたせいか、少しずつペースが落ちてくる。

 

(……1000から1ハロン目、12秒50……かな?)

 

 中盤ペースとして、それは遅めではあるものの、まだ現実的なタイムだ。クラシック1冠目の皐月賞と言えども、終始ハイペースで進むわけではないのだから。

 

 後ろの様子をまた、ちらりと覗く。そこには、横二列、あるいは三列になるまで広がり、前をこれでもかと塞ぐ、バ群が固まりつつあった。

 

 それが、逃げ集団のペースダウンに伴って。

 潰れていく。

 隙間が塞がれていく。

 

 逃げも、先行も垂れ切って、先行に追従していた差し集団が巻き添えを喰らう形で更に垂れる。先行と差しの集団が、混ざりかけている。

 

(あーあ、やっちゃったねー?)

 

 セイウンスカイは力を抜くように息を吐き、呼吸を整える。

 

 カチリ、と次の音が頭の中で鳴った時には。

 垂れてきた逃げウマ娘を避けるように、外側に少し膨らみ、自分のスローペースを維持し続ける。

 

(13秒……と。さてさて、セイちゃんはもう、ペースが戻ってきましたが)

 

 第3コーナーに入った時、セイウンスカイはもう、先頭のウマ娘の近くまで上がっていた。

 追い抜かれていく逃げウマ娘たちの表情は、驚愕に染まっていた。

 

 どうして、と。

 もうそんな残り距離なのか、とハロン棒を確認して。

 目を見開き、その瞳が揺らぐ者も居た。

 

(さぁて、もうちょっと、私のペースに付き合ってもらいましょう)

 

 既に、上り3ハロン。

 レース距離にして、残り600を切っている。

 

 

 

 大物は、すぐ目の前まで迫っていた。

 

 

 

 

 

 

『セイウンスカイ! 前半戦の大逃げから、ついに捕まった! ずるずると順位を落としていき、先行集団の先頭に収まった!』

『まさかこれほどのハイペースを維持するとは。前半戦55.0は……本当に、このウマ娘にはいつも驚かされます』

 

 中山レース場がざわめきに包まれる。そのハイペースに歓声を上げる者も居る。セイウンスカイが落ちてきたことに、あぁ! と悲鳴のように声を上げる者も居た。

 

 そんな中で、彼は声を上げないものの、目を見開き、そのレースをジッと見つめている。

 

(……1ハロン11秒、偶然か?)

 

 頭の中にあるデータと照らし合わせても、理論上、今のセイウンスカイが上がり3ハロンでそのタイムを維持するのは不可能だという結論が出る。

 だが、それは上り3ハロン……つまり、体力を使ったレース終盤の話である。

 

(だから、前半戦か。後半に足は残らない。だが、前半戦なら万全の状態で足を使える。それに――)

 

 カチリ、とストップウォッチを止めてみれば、「12.50」のタイムが狂いなく刻まれた。

 

(ここから3ハロン。息を整えるには、足を戻すには十分だ)

 

 当然、万全の末脚を使うには、前半に体力を使い過ぎだろう。

 だが、セイウンスカイの武器は末脚なんかじゃない。

 

『非常にハイペースな前半から一転、反動を受けたようにスローペースになってきましたね』

『先頭のバ群も垂れてきました。そのせいもあってか、差しのウマ娘たちは、苦しい混戦を強いられるかもしれません』

 

 彼は少し俯いて、口元を手で覆い隠してから、その口元を大きくゆがめた。

 

(最高だよ、セイウンスカイ)

 

 セイウンスカイが仕掛けた三つの釣り針。

 その真の意味に、果たしてどれだけの者が気づけたのだろうか。

 

 

 

(くっ、まんまとやられるなんて……!)

 

 キングヘイローは、内から逃げるように外に膨らんで後半戦を走っていた。そこでようやく、セイウンスカイの背中を見つけて、彼女は自分がしてやられたことに気が付いた。

 

 ぬかるみは幻覚などではなかった。

 あのぬかるみのような異様な空気は、キングヘイロー自身の残り体力が引き起こしたものであった。

 

(私たちが認識しない間に、レース展開が加速していたなんて……やってくれるわね、スカイさん)

 

 状況証拠から、キングヘイローはそう結論付ける。

 

 キングヘイローは先行集団と差し集団の間に陣取り、先行集団の最後尾に追従した。

 だから、逃げ集団の先頭までは見えなかった。

 

 見えなかったが、セイウンスカイが先頭に立って何か細工をしたのだということは、よくわかった。

 根拠は、今までのレースから。それだけで十分だった。

 

(足が重い……早めのスパートなんて切れないわ。でも、ここから後ろに下がったら、それこそスカイさんの思うつぼよ)

 

 キングヘイローが今からペースを戻したとして、考えられることは二つ。

 

 同じくペースを戻そうとして垂れてきた先行集団と差し集団に揉まれて混戦を強いられること。

 意地を張ってペースを維持した集団に置いてけぼりをくらい、最下位から仕掛けなければならないかもしれないこと。

 

 特に、前者の場合は立ち位置を間違えれば、もう二度と浮上することが出来ない。

 後者の場合、そんな位置から先頭集団に追いつけるだけの走りを見せることが出来るのか。そして、前に居る誰にも引っかからず、万全の末脚で前に行けるのか。

 

(……無理ね。今から戻したとして、スパートを切れるのは残り500から)

 

 追いつけない、と後者の選択肢をキングヘイローは切り捨てる。

 だが、このまま燻っていても活路は見いだせないことも事実。

 

 だからこそ。

 

(――勝負よ)

 

 キングヘイローは、息を整えながらより外側に膨らんだ。

 

 残り1200で気づけていたのなら、まだやりようは多く残されていただろう。

 残り1000で先行集団先頭にまで躍り出ていれば、まだ対等な勝負になったことだろう。

 

 すべては、後の祭り。

 これでもかと不利を背負っても。

 

(勝つのは、このキングヘイローよ)

 

 王者は決して、膝を折らない。

 

 

 

 

 はぁ、はぁ、と息を荒げて走っていたのは、弥生賞を制したスペシャルウィークであった。

 キングヘイローに追従しながらも、重たくなる足。ハロン棒を思わず確認してみれば、後半に入って次のハロン棒が見えてきていた。

 

(やっぱりおかしい)

 

 鉛のように重たくなっていく足に、スペシャルウィークはようやく自分が勘違いしていたのだと気が付いた。

 

 当然、太っているのは事実であり、覆しようのない現実だが。

 そうではなく、足が重たくなっている原因は、太っている以外にもあったということだ。

 

(みんな、速すぎるよね? 私もそれに釣られちゃって……)

 

 体重の変化に焦っていた。いつもの走りが出来ず、勘違いしていた。

 言い訳はいくらでも思いつく。だが、今は関係のない話。

 

(……一度、冷静になって。全部、私のタイミングで)

 

 だから、スペシャルウィークは難しいこと全てを放り投げた。

 彼女は、ペースが速いことに気付いたからといって、それを考えて最高の走りが出来るような、そんな器用なウマ娘ではない。

 

 しかし、余計なことを考えず、誰よりも目の前のことに集中することには長けていた。

 

 キングヘイローが外側に足を運ぶのを見ても、スペシャルウィークはもう追従しない。

 息をひそめて、呼吸を整え、足の調子を確かめながら。

 

(勝ちたいから)

 

 誰よりも自分を貫いて、勝利を見据える。

 何せまだ、レースは終わっていないのだから。

 

 彼女は彼女の走りを、見せつける。

 

 

 

 残り500になったころには、またもセイウンスカイが先頭に立っていた。

 異様なのは、それまでにまだ、誰もスパートを切ろうとしないレース展開になったことか。

 

 逃げウマ娘たちが垂れていく。

 巻き込まれて先行ウマ娘が下がり、かわした者は進出を始める。

 差しウマ娘が、垂れてきた先行ウマ娘とぐちゃぐちゃに混ざり合う。辛うじて外側に膨らんだ者たちは、垂れてきたバ群を横目に順位を上げていく。

 

(ここからが本番だね?)

 

 だが、焦らない。

 セイウンスカイは後ろから進出するウマ娘たちの気配に気づきながら、まだ足をためる。

 

 前半に足を使うと決めた時から、セイウンスカイは600m地点でのラストスパートを諦めていた。そこからスパートを切ったところで、最後まで走り切れないことはよく理解していた。息を整える時間も足りないだろう。

 

 だからこそ。

 たった2ハロンのラストスパートこそが、セイウンスカイが決めた勝負の土俵。

 

 

 

 大逃げし続けて、焦ったウマ娘たちをセイウンスカイが引っ張る形でまず、体力を奪う。もとからそこまで走る、と決めていたセイウンスカイと、焦ってスパートのように足を速めたウマ娘たちでは、根底から精神的余裕や、足の使い方がまるで違う。

 それこそが、1つ目の釣り針。速すぎるペースの中でも、それを己のものにして計算していたセイウンスカイと、何も知らず走らされたウマ娘たちとの、消費体力の違いが引き起こしたトリックだ。

 

 次は足をため、呼吸を整えるためにスローペースに入った。あらかじめ、3ハロンは維持すると決めていた計略。後半の1ハロン目は風を避けて呼吸を整え、2ハロン目は垂れてきた前方のウマ娘をよけながら足を休めて、3ハロン目であわよくば先頭に出ようと目論んだ。

 それこそが、2つ目の釣り針。前半の超高速ペースによる体力の回復。あらかじめ計画していたからこそ、狂いなく安定した走りを行って、呼吸も足も整えることが出来る。誰よりも冷静に、落ち着くことが出来る。

 

 そして最も肝心なのは、消えた200mにある。

 本来、距離2000に対してラストスパートを切るタイミングは、セオリーとして600m付近である。もちろん、そこまでスタミナを鍛えられていないウマ娘たちは、スパートを遅らせるしかないのだが、皐月賞を勝利出来るようなウマ娘たちは、まずその位置からスパートを切る。

 しかし、今回のセイウンスカイにおいては、そんな距離からスパートを仕掛けられない。前半に大逃げをしてしまったために、そんなスタミナは残されていない。

 だからこそ、二つの釣り針を利用した。この二つを用いて全体のスタミナを削ったことで起動する最後の仕掛け。

 

 三つ目の釣り針こそ、セイウンスカイの大本命。たった2ハロンのラストスパートでの大勝負に持ち込むこと。自分が最も得意とするフィールドに、相手を誘い込むこと。

 

 

 

(――なーんて、それだけだと思いました?)

 

 

 

 違うのだ。

 三つの釣り針の真の意味は、そうじゃない。

 

 一つ目の釣り針は、二つ目の釣り針に獲物を引っかけるための仕掛けなのだ。

 大逃げしたのは、確かに他のウマ娘たちのペースを速めるためだ。体力を奪うためだ。しかし、真の意味は。

 

(私が最初に暴走するなんて、みんなわかってる。だから、400まではあまり効果がない。500を過ぎても、あれ? って思うだけ。でも、600を過ぎたら――)

 

 あぁ、それは逃げウマ娘にとっての悪夢だろう。

 下ってくると思っていたウマ娘が、いつまで経っても、自分を突き放してくる。

 

 自分が遅すぎるのか。

 気づかない間に距離を取っていたのか。

 このまま、逃げ切られるんじゃないのか。

 

 そんな焦りと現実が、前半にずっと続いていた。

 700を越えればもう限界だっただろう。逃げウマ娘たちは、ペースを上げる。

 

 ――ただでさえ、セイウンスカイの背中を無意識に追い続けて、いつもより上がっていたペースを、さらに速くするのだ。

 

 それこそが、一つ目の釣り針の真の意味。

 無意識に、全てのウマ娘たちをハイペースな展開に巻き込み体力を消耗させる。先行も差しも関係なく、何の疑いもなく逃げウマ娘のペースに乗せて、あたかも「自分たちのペースだ」と思い込ませる。そうして、先行と差しのギャップを出来る限り狭めることが肝であった。

 

(そのためには、先行と差しの中間を引っ張るフックが必要だけど……いつも、私に追従していた王様がいるし、ね?)

 

 たとえ失敗したとしても、差しと先行との間に生まれた前半いっぱいの溝に、焦るだろう。焦って、前半は控えていた者たちもペースを上げるのは間違いない。そうでなければ「追いつけない」と思わせるだけのリードをしたつもりだ。

 そうして差し組がペースを上げたところに、二つ目の釣り針でペースを落とした先行と逃げ組がぶつかる。結果は一緒だ。

 

 

 

 そして二つ目の釣り針。

 その真の意味は、一つ目の釣り針を利用した後続の完全な団子化である。

 

 ペースを上げてセイウンスカイに追いついた、追い抜いたウマ娘たちも、急には止まれない。そこを狙いすまして、セイウンスカイは道を譲るように外側に膨らんでから、ペースを落とす。そうすることで、セイウンスカイは何の苦労もなく、順位を下ることが出来る。

 順位を下れば、あとは適当な位置に入り込むだけだ。前述した通り息を整える。足をためる。

 

 前半の1ハロン11秒という圧倒的なハイペースの中、一人だけ悠々と、先行ウマ娘たちの前に立って、1ハロン13秒にまでペースを落とした。

 先行ウマ娘たちは思うだろう。

 

(なんか足が重いな、って。だから、セイちゃんを追い抜こうなんて、思わないよね?)

 

 そうしてペースを緩めたセイウンスカイが前に立つと、先行集団が潰れるように垂れていく。足の疲れから、このペースでもいいや、とセイウンスカイが思わせた。

 先行集団が垂れれば、ギャップのなくなっていた差し集団も垂れていく。ただでさえスローペースなセイウンスカイの1ハロン13秒。さすがの差し集団も、それ以上の速度を落とそうとは、早々思うまい。思ったとして、それで垂れていけば、セイウンスカイとしては儲けものだ。

 

(体力を削った後、さらに後ろに控える差しウマ娘なんて、怖くないよね)

 

 あとの逃げ集団の展開は、セイウンスカイにとってはどちらでもよかった。

 セイウンスカイが二つ目の釣り針でやることは、「後続の団子化」と「自分のペースの維持」だけだ。付き合わされた逃げウマ娘がいずれ垂れてくることはわかっている彼女にとって、焦る理由は何もない。彼女が先頭に出たのは、自分のペースを維持していたら勝手に前に上がったから。ただ、それだけなのだ。

 

 

 

 そして三つ目の釣り針の真の意味。

 消えた200mというのが、皐月賞における作戦の肝であったことに間違いない。

 

 スパートが遅れれば遅れるほど、前方でリードをキープするウマ娘が有利になるのは、レースの常である。

 例えば、残り600m地点からスパートしたとして、最高速度が300m地点で到達するウマ娘は、理想としてその残り300mをずっと、最高速度を維持しながら走ることになる。仕上がったウマ娘であれば、そこからさらに最高速度を超えた、スピードの先にたどり着ける者も居るだろう。

 

 なら、ここから200mが消えたらどうなる?

 

 即ち、400m地点からスパートした場合、同条件下でそのウマ娘が最高速度到達に掛かる距離は300mだ。

 つまり、最高速度で走れる距離が、たった100mしかなくなる。

 

 三つ目の釣り針。

 それは、ウマ娘の「最高速度」で走れる時間を200mも削ることこそが、真なる意味となる。

 

 

 

 だからこそ、「消えた200m」なのだ。

 たったの「2ハロン(400m)」なのだ。

 

 

 

(――今だッ!)

 

 第四コーナーで、ついにセイウンスカイが風となる。

 

『セイウンスカイ! セイウンスカイだ! 大逃げをしていたセイウンスカイ、ここで風に運ばれるように前に躍り出た!』

『まだ体力が残っていた! しかし最後の急坂を上り切れるのでしょうか!?』

 

 即座に直線に躍り出て、セイウンスカイは一陣の風となった。

 これこそが、セイウンスカイだと。そう言わんばかりの、見事な加速とレース運びをみせつけて、彼女はターフを思い切り蹴り付ける。

 

 

 

 その、後ろから。

 雷鳴の如き差し脚が轟く。

 

(あなたの好きにさせないわよ――ッ!)

 

『キングヘイロー! キングヘイローが今直線に足を踏み入れた! 凄い末脚だッ! セイウンスカイとの距離を瞬く間に詰めていく!?』

 

 そこにあった差は、3バ身。外側に膨らんでバ群から逃れていたキングヘイローは、着実に順位を繰り上げていたのだ。

 

 

 

 

『内から突っ込んできたのはスペシャルウィーク! やや出遅れてのスタートだが間に合うか!?』

 

(なんとか、抜けたけどッ!)

 

 スペシャルウィークは真正面から、バ群を食い破っていた。持ち前の瞬発力とパワーをもって、わずかな隙間を見逃さず突き進んできたのだ。

 しかし、機を窺っていたせいもあって出遅れた。キングヘイローとの差は3バ身。残り距離は300を切っている。

 

 その末脚をもって、何とか抜け出ようと大地を蹴り付けるが。

 

(縮まらない!?)

 

 むしろ、離される。

 重い足のせいで、思うように前に進めない。いつものように、うまく大地を蹴ることが出来ない。

 

 体が半歩前にしか出ていないような錯覚に陥る。

 足が恐ろしくゆっくり動いているような気がしてくる。

 

(まだ、まだ、諦めない!)

 

 それでも、彼女は前を見据えて、走り続ける。必ず勝機はあるんだと、己を奮起させて立ち向かう。

 

 

 

 

『セイウンスカイとキングヘイロー! その差はわずか1バ身! またキングヘイローが差し切るのか!? それともセイウンスカイが逃げ切るか!?』

 

 あと1バ身。その差はもはや、あってないようなものだった。

 キングヘイローは、あと一歩で、自分が最高速度に到達できるという確信があった。その速さをもってすれば、必ず、セイウンスカイを追い抜ける自信があった。

 

 残りの足も、十分とは言えないまでも、何とかゴールまで駆け抜けることは出来るだろう。

 

(そこよッ!)

 

 加速のための最後の一歩。

 ここで完全に置き去りにしてあげる、とキングヘイローが最高速度に到達する、その一歩。

 

 

 

 トリックスターが、その口に弧を描いた。

 

 

 

 キングヘイローは、危うくその足を踏み外しそうになった。

 体勢を整えて、何とか崩れることなく一歩を踏み出した時には、加速力をくじかれた。

 

「ッ!」

 

 キングヘイローは歯を食いしばり、一歩を踏みしめる。真っ直ぐではない、斜めになった蹴りにくい足場を、蹴り付ける。

 セイウンスカイの背中に、近づけない。小刻みに足を動かし、手を動かす、その姿が遠くなる。

 

(ッ、諦めないわ、絶対に――ッ!)

 

 それでも、王者の心は決して折れない。

 最後の急坂に牙を剥かれたとしても、彼女はそれさえ根性ではねのけて、前に足を進める。

 

 急坂が終わり、最後の平地で、全身全霊をかけて前に抜け出ようとするものの。

 

 

 

『――セイウンスカイ、今ッ、ゴールインッ! 二着、キングヘイロー! 三着、スペシャルウィークッ!』

 

 キングヘイローは一歩、届かない。

 加速に対して最大の切り札、レース場を、セイウンスカイが味方につけた。

 

 

 

 

 アナウンスと共に、電光掲示板に着順とタイムが表示される。

 再び、会場がざわつき始める。

 

『こ、このタイムは――』

 

 ――『1:59.0』

 それは、かのシャドーロールの怪物、ナリタブライアンが皐月賞で刻み付けた、レコードタイムと同じもの。

 

 

 

 セイウンスカイはその結果を目で見て、にやりと笑う。

 不敵な笑みのまま、指を一本立てて、観客席にアピールしてみせた。

 

 ドッ、と歓声が轟いた。

 

 それを聞いて、彼女はますます笑みを深くする。勝ったんだと、やってやったと、みんなにみせつける。

 

 

 

 セイウンスカイに、鋭い末脚は存在しない。

 それでも、自分を差しウマ娘と誤認させた彼女は、誰からの注目も集めることなく、万全の仕掛けをもって皐月賞を制した。

 たとえ真正面から勝負が出来なくとも、時計を刻みレースに勝てると証明してみせた。

 

 予見された運命をひっくり返すのに、誰よりも多くの時間を費やした。

 これで彼女も、皐月賞ウマ娘。

 誰も彼女から目を離すなんてことは出来ないだろう。

 

 それこそが、次の釣り針であろうと、誰が気づけることか。

 己の勝利も、およそ1年を費やした彼女の計略の内。

 

 セイウンスカイは逃げウマ娘だ、と誰かが口にしたのなら。

 それは違う、と答えよう。

 

 セイウンスカイは。

 観客全てを魅了する、稀代のトリックスターである。

 

 

 

 日本ダービー。

 クラシック二冠目。

 

 運命さえも、笑って飛ばせ。

 

 

 


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