秒読みの契約 ~あなたに三つの冠を~ 作:雲ノ丸
皐月賞。
セイウンスカイが見事に勝利をおさめ、レコードタイムと並んでみせた歴史的なレース。
セイウンスカイの勝利。ここに用いられたあまりにも綿密に仕組まれた戦略は、レースを見返せば気づく者もそれなりにいるだろう。
しかし、彼女が最後の最後に仕掛けた魔法には、果たしてどれだけの者が気づけただろうか。
少なくとも、それに真正面からハマったキングヘイローは気づいている。セイウンスカイの最後の魔法は、あまりにも計画的すぎる策略であったのだと。
それに、名前をつけるとするのなら。
(魔法の、急坂)
気がついたキングヘイローは、初めてその身を戦慄に震わせた。
それは最初から最後まで、連綿と続く、しかしまず誰も気づけない落とし穴。
最も鋭い差し足を持つ、キングヘイローを狙い撃った……少なくとも、彼女はそう感じるほどに。作戦に気がついた時の心境は、筆舌に尽くし難いものがあったと言える。
最高速度に到達する、その寸前。
そこに、あまりにも正確に設置された急坂。
そして、消えた200mのスパート距離。
(私はまた、してやられたのね。完膚なきまでに)
くじかれた加速力は必然だった。
キングヘイローが最高速度に到達する寸前に、セイウンスカイが明確な意図をもって仕掛けた罠だった。
スタミナを削り、コースを潰し、差し足を潰した上で更に、セイウンスカイは、最後の勝機まで摘み取ってみせた。
急坂を前にしては、かのミホノブルボンでもなければ減速は必至。それほどに、急坂というものは足に負担を強いるものだ。
それが、最高速度に到達する最後の一歩……最も油断し、最も姿勢が不安定になる瞬間ともなれば、尚更だ。
(完敗よ)
認めざるを得ない。
キングヘイローだけでなく、他の誰もが、負けるべくして負けたのだと。
それでも。
「キングに諦めなんて言葉はいらないわ」
それだけ言うと、キングヘイローはテレビを消して、ゆっくり外へと向かっていく。
これ以上の言葉はいらないと。
王者は、その瞳に闘志を燃やしながら、背中で語る。
『皐月賞ウマ娘セイウンスカイ! 大逃げトリック大披露!』
新聞の一面に大きく飾られた、今年の皐月賞ウマ娘の記事。
掛かり気味の差しから一転、前に前にと行く作戦には意表を突かれた。誰も予想できない逃げ足。二冠目となる日本ダービーでは、どんな作戦を見せるのか。消えた1ハロン、見事な策略……などなど。
記事を取り上げたメディアの切り口は千差万別であった。被っているところも多々あるが、注目している部分がまるで違う、といったところか。
消えた1ハロンに注目したメディアがあれば。
差しから大逃げへの大転換に焦点を当てたものがあり。
計算されたポジション取りは鮮やかの一言、など。
セイウンスカイの作戦について、様々なことが書かれている。
まるで、違うレースのことでも書かれているかのように、全く切り口も意見も違っている。
「次の会見で、種明かしといきましょうか」
その新聞を、いつものようにトレーナー室のベッドの上で読んでいた彼女は、ぽつりとそんなことを呟く。
「やる必要があるのか?」
「ダービーからは大逃げなんて出来ませんから。流石のセイちゃんも、2400で大逃げするのは厳しいかなーって」
鈴を転がすように高い彼女の声音に、トレーナーは口元を緩めるだけで、それ以上は何も言わなかった。
「ですが、皐月賞ウマ娘のセイちゃんも、次のダービーには不安なことも多いわけです」
「たとえば?」
「ズバリ、はじめての2400であることです。スパートを掛けるなら800からがベストなわけですが、800って、セイちゃんにとっては長すぎると言いますか」
「それは……まぁ、困ったな」
「困り果てて、こうしておサボり中なわけです」
彼はキーボードを叩く手を止めて、うんうん唸り始める。それに合わせるように、セイウンスカイもまたうーん、うーん、と唸り声を上げる。
うんうん、うーん、うんうーん、と、室内になんとも間抜けな声が充満していく。
その声をピタリと止めたのは、トレーナーからだった。
「遊んでないか?」
「バレちゃいました」
悪びれる様子もなく、セイウンスカイはそう言ってごろり、と寝返りを打つ。ちょうど、トレーナーを視界に収められるように。
「まぁ、解決方法から舞い込んでくる」
「……その心は?」
「ダービーは、最も幸運なウマ娘が勝つからだ」
えぇー、と彼女は不満そうな声を漏らしていると、彼は再びキーボードを叩きはじめる。
「セイちゃんは運に頼ったことなんてないですよーだ」
「……運、っていうのはな」
どこか拗ねたように、彼女がそう言っていると。
彼は片目だけセイウンスカイの方に向けてから。
「引き寄せるものだ」
淡々とそう言葉にして、口を閉ざした。
セイウンスカイはその言葉の意味をしばらく考える。
相変わらず、ソファーに寝転がるトレーナーのことを見ながら。しかし、穴が空くほど集中しても、答えが見えてくることはない。
「……じゃあ、セイちゃんはお昼寝します。果報は寝て待て、といいますので」
「はいよ。おやすみ」
ごろりと、仰向けになってから目を閉じる。
今この時だけは、まぁいっか、と背負った荷物をすべて降ろして休息に落ち着くのであった。
最終直線「529.5m」。
東京レース場芝2400におけるそれは、セイウンスカイにとってまさしく最悪の条件といっても過言ではない。
彼女の主戦場は直線における末脚勝負などでは断じてない。ナリタブライアンと同じレコードタイムを出した実績があろうとも、それは変わらない。
下味をつけるところから始まっているのだ。ここまで連綿と、必ず繰り返してきた作戦が肝となる。だが、そんな彼女でも一つだけ、1年という長い歳月をかけても一つだけ、足りないものがあった。
「わぁ……三人が表紙になっていますね」
トレセン学園の食堂。
ライバルとはいっても学友同士。それはみんな変わらない。特別、ライバルになったから交流を断つ、といったスタンスを取る者は、黄金世代と呼ばれる彼女たちの中にはいなかった。
「あー、それ? セイちゃんの評価が不当に高くてさぁ……マークとか絶対に嫌なんだけどなぁ」
グラスワンダーが手にした雑誌を見て、セイウンスカイは「うへぇ」と嫌そうに眉をひそめてみせた。口からは文句を垂れながら、食後のデザートとなるアイスキャンディーにかじり付く。
「あはは……セイウンスカイさん、キングヘイローさんにマークされてますもんね」
「そうなんだよー。もう、ただでさえキングから狙われてるのにさー。セイちゃん、人気者で困っちゃう。……いや、ほんと困っちゃうなぁ」
(ま、困ってるのはそこじゃないけど)
セイウンスカイに対してマークなどと。それは自らレースの勝機を手放すような愚行である。
彼女にとっては、むしろ「意識された方がやりやすい」のだ。
「それよりもさ。エルちゃんもダービー参加ってどういうことさ。皐月賞に出てなかったじゃん」
「みんなと雌雄を決するには、ここしかないと思いましたから! 世界最強になるために、まずはスペちゃんも、セイちゃんも、キングも、超えてみせマース!」
「えー。エルちゃんからも狙われてるの? うわぁ……」
げんなり、といった様子で肩を落として見せながら、セイウンスカイはまた一口、アイスキャンディーにかじり付く。
(思ってたより反応薄いかも。いや、みんなレースに対しての干渉はしたくないから、敢えて避けてる?)
ここはもう一つ、攻めに転じる必要があるか。
ならばと、セイウンスカイは「それにさー」と気だるげにアイスキャンディーを口から離して。
「あのナリタブライアンさんと一緒のタイム出しちゃったじゃん? セイちゃんとしては、注目され過ぎるからそれが不幸と言いますか」
「ふふ。そうでもないと、私は思っているわ」
その声は唐突に掛けられた。
えっ、と目を丸くして四人がそちらを見てみれば。
「マルゼンスキーさん?」
スーパーカーの異名を持ち、現役として、トゥインクルシリーズよりもさらに上の舞台「ドリーム・シリーズ」で活躍しているレジェンド選手、マルゼンスキーが居た。
ウマ娘ファンなら、そしてレースウマ娘も、誰もが知っている「現役最強の逃げウマ娘」が、声を掛けてきた。
「……えっと、それは、好走に違いないから、ということでしょうか?」
セイウンスカイの警戒心が、ほんの少し上がる。
マルゼンスキーはこの学園最高峰のチーム、「チームリギル」に所属している。
同じく、グラスワンダーやエルコンドルパサーも「チームリギル」に所属している。
「そういうこと。あのブライアンと並ぶなんて、本当に凄いわ。おめでとう」
「あ、あはは……セイちゃん、凄い御方に褒められてません?」
照れくさそうに、おどけたように、そう言いながら。
セイウンスカイは、その心の内から燃え滾る感情を愛想笑いの奥底に隠す。自分でも、どうしてそんなものが頭をカっと熱くさせるのかわからないまま、彼女は道化師のように仮面をかぶる。
マルゼンスキーは、そんなセイウンスカイの心情を知ってか知らずか。柔らかく微笑みながら、でも、と言葉を続ける。
「ダービーはスピードも確かに大切。でも、皐月賞以上にスタミナも必要になる。そして、最も幸運なウマ娘が勝つ、とも言われているの」
幸運とは何だろうか。
セイウンスカイは今までのレースにおいて、不幸だと思ったことは一度もない。負けたレースは、どれも順当にそうなるような走りしかできていなかった。ライバルたちを出し抜けるような、そんな走りではなかった。
逆に、勝てたレースにおいて幸運だと思ったこともない。
それらは全て、セイウンスカイが仕込みを行った結果に過ぎない。アクシデントはなく、アクシデントだと思われることさえ、その全てが彼女の仕掛けた罠だった。
だから、勝てるレースとはすべてが必然。計算しつくされた戦略、戦術、そして作戦に己の身体能力。ライバルたちの能力さえも、それに含み勝ち取った、努力の結晶だ。
およそ幸運という言葉から、最も遠い走り方をしてきた。
レースの内容全てを必然だと言い張れるほどの仕込みで、皐月賞には勝利した。
他のレースも、地力の差というどうしようもない暴力と、多少の作戦で思い通りに展開を運んで、勝利してみせた。
負けたレースは、どれも明確に足りないものがあった。そもそも、確実に勝てると言ってのけられるほど、万全の準備が出来たレースでさえなかった。
ならば、負けたレースにおいて、何か一つでも幸運であったなら、結果はひっくり返ったのだろうか。
(……ないない)
幸運などと、そんなものだけで勝てるほど、ホープフルステークスも、弥生賞も甘くはなかった。
「うーん……」
新人トレーナーの彼からはともかく、レジェンドと呼べるウマ娘のマルゼンスキーからも、同じ言葉が出てきた。
ジンクスか、それとも本当に「幸運」が勝利に寄与するのか。アイスをぱくりと頬張りながら考える。
考えても、答えが出てこない。
「あっ、当たった!」
ラッキー、と。
アイスの棒に記された「あたり もういっぽん!」という文字を見ながら彼女はそう思う。
小さな幸運が降ってきて、考えるのがバカらしくなってきた。
レースの幸運について考えるのをやめて、彼女は席から立ち上がる。
「じゃあ、私はもう一本貰ってくるねー。みんなは先行っててねー。寄り道するし」
その手とアイスの棒を振りながら、セイウンスカイは席を後にする。
そんな彼女の横に、ピタリとくっついてくるウマ娘が一人。
「ね、もしよかったら、後でドライブに付き合ってくれないかしら?」
マルゼンスキーが、内緒話でもするように小声で話しかけてくる。
思わず胡散気な視線を向けてしまうものの、セイウンスカイはカチリと切り替え視線を切り、「いえいえ」と首を横に振る。
「せっかくですが、私はダービーを控えている身なので。あまり遊び歩いていると、トレーナーさんに怒られちゃいますから」
「ふふ。トレーナーくんは、そんなこと言わないわ」
「……はい?」
思わず、セイウンスカイはマルゼンスキーの顔を、まじまじと見てしまう。
「お散歩でもいいわよ。お礼は、私と秘密の模擬レース、なんてどうかしら?」
美しく、花のように咲いた微笑み。
しかし、そのエメラルドグリーンの瞳には、朝焼けのように澄んだ感情を含ませて。
マルゼンスキーは、セイウンスカイの反応を待っている。
「……」
セイウンスカイは考える。メリットと、デメリットの二つを天秤にかけて。
すぐに、「まぁいっか」と納得しながら。
「お互いに秘密を守れるなら、ぜひとも」
「オッケー。じゃあ、今日の門限一時間前なんて、どう?」
「はい。でも、私はお洒落な服装で来ませんので」
「えぇ。私も、オシャレはしないわ。ふふ、でも、楽しみにしているわね」
それじゃあ、と言ってマルゼンスキーはセイウンスカイの横を過ぎ去って、食堂を後にした。
(……なんか、変なことになったかも)
なんだかなぁ、と微妙な気持ちを内に秘めながら。
「あ、すみませーん。アイスもう一本、おねがいしまーす!」
もらえるものはもらっておく。
そして戦利品を持ったまま、今日も彼女は、いつもの場所に向かうのであった。