秒読みの契約 ~あなたに三つの冠を~ 作:雲ノ丸
トレーナーさんにお裾分けです、と。
昼休み、わざわざアイスキャンディーを届けにきたセイウンスカイは、どこか緊張しているようだったと、彼はそう見てとった。
武者震い、とでも言うのだろうか。尻尾はピンと張り詰めて、その毛はいつもよりも外側に広がり、ウマ耳は時折ぷるりと震えていた。
表情や声音はいつも通りであったが、その肉体は緊張からか動きが硬くなっている。筋肉がこわばっている、といった具合であった。
「……」
もらったアイスキャンディーをくわえながらも、彼はキーボードを叩く。
(早かったな)
その原因に、彼は心当たりがあった。
彼が「世代最強のウマ娘」の育成を目標にしていた理由でもある。今となっては萎んでしまっていたエゴが、心の隙間から顔を出す。
それを、彼は扉を閉めて塞ぎ込む。今やることじゃない、と理性のかんぬきをもって固定する。
「俺は仮にも、あの子のトレーナーだからな」
言い聞かせるように、誰もいない室内でそう口にする。
アイスキャンディーを食べ終えて、キーボードを叩き終わった頃には、すっかり夕焼けの見える頃合いになっていた。
「さて、さて」
ソファから立ち上がり、窓の前に立って、トレセン学園を一望に収める。この時間まで残っているウマ娘は、ほとんどが有力選手達である。彼にとってはゴールデンタイム、といったところか。
「……は?」
双眼鏡を片手にある場所を見て、彼は目を丸くして声を上げた。
一度肉眼で見て、また双眼鏡越しに見てから、それが蜃気楼でも幻覚でもないと気づく。
「……」
ビデオの準備は間に合わない。
つとめて冷静に、彼は机の上にあるメモ帳とペンを手に取ると、椅子に座って、その様子を見守ることにした。
かりかりと、騒がしいペンの音だけが、室内に響くのであった。
マルゼンスキーに会う前に、セイウンスカイは自室に戻る。汗ばんだジャージを脱ぎ捨てて、タオルで汗を拭き、制汗スプレーで泥臭さを隠す。そして新しいジャージを着込んでから、彼女は正門に向かう。
どこで落ち合う、とは決めていなかった。ただ、お互いに確実に顔を合わせるならここだろう、とセイウンスカイは考えていた。
「……ちょっと早かったかな」
先輩を待たせることがなかったことに安堵するべきか。それとも掛かり気味になったペースを反省するべきか。
「時間ぴったりね。予想もバッチグー!」
静かに、それでいてテンション高く、セイウンスカイの背後から声が掛かる。振り返れば、同じく赤いジャージに身を包んだマルゼンスキーが、涼しい顔して立っていた、
「それじゃ、約束通り。散歩に行きましょう」
そう言って、マルゼンスキーはくるりと反転して校舎の方に向かう。セイウンスカイとしては否もなく、静かにその後に続く。
「それで、どうしたんです? しがないウマ娘の私を捕まえて、散歩に誘うだなんて」
マルゼンスキーの一歩後ろを歩きながら、セイウンスカイはそう口にする。
考えられる二択のうち、果たしてどちらか。
そう身構えていることを露ほども悟らせない、後頭部に両手を組んで、如何にもリラックスしてますよ、といったポーズで歩いていると。
「ふふ。あなたがしがないウマ娘だったら、うちのブライアンの立つ瀬がないわ。もちろん、私も、あなたのライバルも、ね?」
「……私、他人から評価されるのはすごく苦手でして」
「とってもわかるわ。でも、私たちが居るのはそんな世界なの。だから、早めに慣れないといけないわ。謙遜も過ぎれば厭味よ」
「……善処します」
「うーん……まだ硬いわねぇ」
質問をかわされる。これは世間話のつもりか、それとも牽制されているのか。
見えてこない目的が不気味であった。もっと切り込むべきか、それとも流れに合わせるべきか。
そんなことを考えていると。
「あなたのトレーナーが、私の元トレーナーくんだった」
「……はい?」
不意を突かれて、あまりにも鋭い直球がセイウンスカイの耳に届く。
思わず聞き返して、目を白黒とさせた。そんな彼女に背を向けたまま、マルゼンスキーは口を開く。
「研修生として1回。サブトレーナーとして1回だけね。それに、教えてもらったことも1つずつ……全部で2つだけだった」
そう言って、マルゼンスキーはジャージのポケットから、紅のストップウォッチを取り出した。
それを見て、セイウンスカイの疑念がすべて、ストンとあっけなく落ちていった。代わりに、納得にも似た安堵がその口から漏れ出た。
「トレーナーくんって、凄く不器用なの。でも、ちゃんと良い人よ」
「……えっと、もしかして、それだけ?」
全身から力が抜けていく。
ただの後輩思いの先輩で、トレーナー思いのウマ娘。なんだ、ただそれだけか、とセイウンスカイは息を吐いた。
くるり、とマルゼンスキーが振り返る。
長い茶髪を翻して、少し驚いたように目を開いて、しかしその口元を柔らかく綻ばせながら。
「ふふっ。それだけ、じゃないかな」
そう言いながら、しばらくの沈黙に包まれながら二人は歩く。
「後輩くんへのプレゼント。教育や指導、なんて器用なことは出来ないから」
マルゼンスキーが、誰もいないターフの上に降りる。
チリっ、と首元に走る熱を受けて、セイウンスカイの尻尾がピンと逆立った。
マルゼンスキーは振り返る。夕日に赤く照らされたスーパーカーが、瞳の奥に炎を宿す。
「芝2400、ついてこれるかしら?」
エンジンをふかすように轟く気迫。
ジッと見つめられたセイウンスカイは、握りこぶしを作って震えていた。震えながら、彼女もまたターフの上に降りていく。
「頑張りますとも」
お互いにスタートの位置につく。セイウンスカイが内側に、マルゼンスキーが外側に。
「スタートの合図は譲るわね」
「……どうも」
チリ、と頭に上りそうになる熱を抑え込み、炎のような息を吐く。
いつものように柔軟運動を欠かさず、準備を進める。作戦をどうするか考えて、すぐにやめた。今日の主旨はそこじゃない。
(全部、全部、盗んでやる)
蓄えてきたもの。長い経験。昇華された技術の数々。
見逃すものかと、セイウンスカイはスタートの体勢に入る。横を見れば、マルゼンスキーもまた、スタートの体勢に入っている。
「それじゃ、いきますよ。よーい――」
ドン、と。
明らかに有利なスタートダッシュ。声を出すと同時に飛び出すだけの、簡単な最速のスタート。
(えっ?)
たった五歩の出来事だった。
真紅の軌跡が横切り、セイウンスカイの髪を風が弄ぶ。
もう、彼女の視線の先には、夕日に照らされた紅いウマ娘が走っていた。
(速すぎませんかね!?)
それほど有利な土台の上に居たとしても、ウマ娘マルゼンスキーはいっそ笑えてくるような加速力をもって序盤の1ハロンを駆け抜けていく。スタートにおいて右に出る者がいない、とまで言われたセイウンスカイはその時点で、2バ身半の差をつけられていた。
(地力の差? それとも何かの技術? ダメだ、わからない)
わかることと言えば、加速力においてセイウンスカイでは手も足も出ない、といったところか。
(1ハロン11秒切ってる! こっちは11秒なのに――!)
壁がない分、よく見える。遠ざかっていく背中が、追い付けない現実がセイウンスカイの視線の先にある。
マルゼンスキーの背中を、セイウンスカイは無理に追いかけることが出来ない。2400という長距離手前の距離を完走するには、皐月賞のようなハイペースで挑んではすぐにガス欠になってしまう。何より、マルゼンスキーが落ちてくる保証がどこにもないせいで、ガス欠覚悟で走ったとしても、追い付けない可能性まである。
(……これは、勝負じゃない。だから、今は――)
カチリ、と見えないボタンを親指で押し込み、ペースを落とす。自分に出せる限界のラップタイムで、マルゼンスキーから距離を置く形で走る。
(1ハロン12秒。今の私じゃ、2400を走り切るならこれが限界――!)
果たしてセイウンスカイは、自分がそれだけ出来る、という自負を持っている真の意味を理解しているのだろうか。
皐月賞。レコードタイムを叩き出したナリタブライアンは、日本ダービーも制している。
当日の芝の状況は良好であり、天気も晴れ。即ち、晴れ・良バ場という状況。
ここでナリタブライアンが出したタイムは、2分25秒7である。
1ハロンとは200mのことであり、日本ダービーは12ハロン。
即ち、セイウンスカイはナリタブライアンのタイムを1秒7も更新出来る、という自負を既に持っているのだ。バ身差で表すのであれば、10バ身を超えて「大差」と表記されるほどだ。
最初の1ハロンを11秒で駆け抜けたことを考えれば、2秒7という差にもなるが、それは今は置いておこう。
当然ながら、レースは一人でやるものではない。数多くのライバルたちと同時に走り、選手たち全体の流れによってタイムが大きく変わることも少なくない。
事実として、セイウンスカイはその集団を操るようにレースを進めてきた。全体の流れがレースに与える影響が絶大であることは、誰よりも理解している。
たった二人が走ることを、一人で走ることを、レースとは呼ばない。
セイウンスカイは、そのことをよくわきまえていたのか。
カチリ、と己の走りを刻む。
走りながら、計りながら、意識しながら、マルゼンスキーの観察をやってのける。
「……」
マルゼンスキーとの差は、たった3ハロンの間に5バ身にまで膨れ上がった。
差は開いているものの、絶望的と言えるような差ではない。
ちらり、とマルゼンスキーは後ろのセイウンスカイの様子を見るように視線を向けてきた。1ハロンを越えるごとに、確認するように。
その事実が、ぎりっ、とセイウンスカイに大きく歯噛みさせた。
(合わせられてる)
さらに3ハロン。1200を過ぎ去ったところで、セイウンスカイとマルゼンスキーの差は、2バ身差にまで縮んでいた。
セイウンスカイは全くペースを上げておらず、事実正確なラップタイムを刻んでいるにも関わらず、マルゼンスキーとの差は1ハロンごとに1バ身ずつ、縮んでいたのだ。
まるで、よく見ていなさい、と言わんばかりに。
マルゼンスキーの背中が目の前から離れない。大きな背中が、つかず離れずそこにある。
(……ダメかも)
まるで参考にならない、とセイウンスカイは結論づけた。
マルゼンスキーは、小手先の技術を積み重ねて強くなったウマ娘ではないのだと、確信する。
恵まれた体格。恵まれた運動神経。走ればただ速かった。そんな、天然の天才こそが、マルゼンスキーというウマ娘なのだと、走りを見て理解した。
(トレーナーさん、こんな御方に教えられることってなんなんです?)
だからこそ、わからない。一体、こんなウマ娘に教えるべきことなどあるのか、と。
天才の姿をまざまざと目の当たりにしながら、セイウンスカイは初めて、どうしようもない敗北に打ちひしがれていると。
気がつけば、レースは終盤の残り800に入っていた。
「見ていなさい!」
萎んでいくセイウンスカイに活を入れるように、そんな言葉が掛けられる。頬を叩かれるような言葉の圧力に、ハッと顔をあげてみれば。
「これが私の」
マルゼンスキーの足が、通常より大きく振り上げられる。
歩幅はこれ以上なく大きく、その足を振り下ろすと同時に、彼女もまた獣のような前傾姿勢に移り。
「フルスロットルよ!」
落ちゆく夕日の中に、紅い残像が溶け込んだ。
セイウンスカイの目の前から、マルゼンスキーの影が消える。
へ、と間の抜けた声がこぼれ落ちる。ほんの2バ身先にいたマルゼンスキーを、その瞳は見失っていた。
「……は、え?」
見つけた時、セイウンスカイは全身から力が抜け落ちるような錯覚に陥った。
彼女がマルゼンスキーを見つけたのは、まだ最終コーナーが1ハロンも残っている中での出来事だった。
マルゼンスキーは、最終直線に抜け出ていたのだ。
あっと声を上げる間も無く、気を抜けば視界から消えそうになる様は、F1レースを彷彿とさせるような、スピードのその先に突き抜けたような。少なくとも、セイウンスカイの理解の範疇を超えた場所を、マルゼンスキーは駆け抜けている。
(体重を、全部加速力にした? え、コーナーの遠心力に振り回されずに……? 重心の移動? それに)
パン、とセイウンスカイのすぐ目の前で何かが破裂した。
全身が急激に力みながら、ラップタイムの維持も忘れた彼女はその正体を見て、目を見開く。
(……土!?)
それも、緑色の混った土であった。
(どっから……周りに、誰もいないし……っ!)
その可能性に思い至った時、セイウンスカイはマルゼンスキーの位置を確認して、一瞬だけ視線を後ろに向けた。その場では何も見つからなかったが、そうであろう、という確信が生まれる。
(蹴り上げた時に、飛んでったの!?)
まるで怪物の如き脚力。
加速する時、当然地面には足をつく。大地を蹴り上げ、その力をもって加速する。
その加速するための一歩が、土を天に飛ばして、意図せずセイウンスカイの目の前に着弾した。
普通なら後ろに飛んでいくものを。抉ったターフを、真上に跳ね上げるほど強く、マルゼンスキーは踏み込んでいた。
その事実に気づき、セイウンスカイは真の意味で、マルゼンスキーが「怪物」とまで呼ばれた理由を理解する。現役最強の逃げウマ娘、という評価の一端を理解する。
速いだけじゃない。
身体能力だけでもない。
そんなものに任せていたなら、これだけの持て余すような力、どれだけ故障率が上がるかわかったものではない。
(全部、全部……!)
マルゼンスキーというウマ娘は、己に秘められた怪物の力を、全てその手中に納めている。自分でしっかりとコントロール出来ている。
マルゼンスキーの力が、怪物なのではない。
マルゼンスキーこそが怪物なのだ。
あぁ、これは勝てない、と理解する。
(どうやったって、今の私じゃ勝てない)
でも、とセイウンスカイは大きく足を振り上げる。
歩幅は自分にできる最大限。重心は前に押し出し、足の先は少しだけコーナーに沿わせて。
(仕掛けくらいなら、できるっ!)
獣の如く姿勢を低くし、大地をめいっぱいに蹴り上げて。
セイウンスカイは、迫る影から逃れるように、夕日の中に飛び込んだ。
「……」
窓から見ていた彼は、夕日が沈み切ってからようやくペンを置き、走り書きしたメモを見返した。それが読めること、記憶にある内容と違わないことを確認してから、彼は逆再生でもされるように、定位置のソファの上に寝転がる。
「さて」
どうしたものか、とパソコンを腹の上で起動しながら、メモを何度も見返した。起動が終わればいくらか操作して、またキーボードを叩き始める。
ウマ娘たちの寮の門限から一時間。
彼はようやくのそりと起き上がると、とっとと身支度を整えて、トレーナー室を後にするのであった。