秒読みの契約 ~あなたに三つの冠を~ 作:雲ノ丸
カメラのフラッシュが何度となく焚かれる中、セイウンスカイは涼しい顔で勝負服を纏いポーズを決めていた。
前方に居る記者たちを気にした風もなく、しかし地面に直立した尻尾は彼女が動いても揺れ動くことがない。
「皐月賞の好走もあり、次のダービーは堂々の一番人気ですが、自信のほどは?」
「うーん、皐月賞もやっぱり危なかったし、何より横から要注意ウマ娘が参加表明してきたしで、あんまり自信はないかもなー、って。ライバルがライバル、ですし」
宙に視線を泳がせながら、迷うように彼女は言葉を紡ぐ。
「今まで差し一辺倒から、突然の逃げ先行への転向。一体どんな心境の変化が?」
「いやー、あの時は何か走ってたら気持ちが昂っちゃいまして。気づいたら結果の通りです」
「いつもの暴走癖です。いっそのこと、ずっと暴走してた方が強いのかもしれませんね」
セイウンスカイの回答に追従するように、トレーナーが両手を上げながら困ったような顔と声音でそう言ってのける。
うわー、とそんなトレーナーにセイウンスカイは声を上げて。
「皆さん聞きました? トレーナーさんったら、もう匙投げちゃってるんですよ。暴走したなら、それを止めるのがトレーナーの役目なのに、この人職務放棄してまーす!」
「いやぁ、いっそのこと自由に走らせた方が強いのかなぁって」
「まぁ? 私ももしかしたら逃げが得意だったのかも?」
「暴走した方が強いなら、こちらとしてはやることがないわけで。つまり、職務放棄ではありません、とだけ」
「じゃあ、次は私の好きに走るとしましょう!」
「堂々と暴走宣言されると、トレーナーとして立つ瀬がないといいますか」
やれやれ、と肩をすくめる様子に、しかし会場から笑い声は漏れてこない。
「……まぁ、そうですね。彼女のファンに、ライバルに。全てのレースファンの皆様に向けて、トレーナーとして真面目に一言だけ、添えさせていただきます」
トレーナーと、セイウンスカイの視線が交差する。
一度、何気なく縦に振られた尻尾を、彼は見逃さなかった。
「唯一抜きん出て並ぶ者なし」
「うぇ!?」
彼女から飛び出た素っ頓狂な声も、会場のざわめきに掻き消された。
外向けの仮面が剥がれていた。
トレーナーは、その好青年のような明るい笑顔を引っ込めて、目つきを鋭く、声を低く、口元には邪悪とさえとれる笑みを浮かべて、堂々と言い放ったのだ。
「……学園の校訓に相応しい走りを見せる、と?」
会場内がやや落ち着いてきて、そう聞かれた時。
「レースを見れば分かります。セイウンスカイの本領、どうかお見逃しのないように」
彼はもう外向きの、爽やかな笑顔と穏やかな口調に戻っていた。
横から受ける苛烈で刺々しい視線さえそよ風のように受け流して、矢面に立つ。
セイウンスカイに焚かれるはずのフラッシュが、トレーナーに向けられる。
彼女の注目を、たった一言で、全て奪い去る。
会見もいよいよ終了時刻に迫っていたところで、最後の質問者が手を挙げ、許可を受けてから口を開いた。
「そこまで言わせる理由は?」
「非常にシンプルです」
そう前置きしてから。
「誰よりも彼女を知っている自負がある。それだけです」
彼はおもむろに腕時計を見ると、時間ですね、と聞こえるように声を上げると。
セイウンスカイに一度視線を向けて、舞台裏の方を見て合図を送る。
「彼女の勇姿、くれぐれもお見逃しがないように」
くるり、と彼が反転すると、セイウンスカイも同様に背を向ける。
嵐のような声の雨霰を無視して、二人は堂々と会場から立ち去るのであった。
「やり過ぎなんですけど!?」
帰りの車の中で、セイウンスカイは水中から顔を出した時のように、勢いよく声を上げた。
とんでもない言葉を使ったトレーナーには問いただしたいことが山ほどあった。その全てを込めた抗議の一言に。
「如何にも、実力差、って聞こえるな」
彼はそんな言葉と共に、口元を歪めて見せる。
セイウンスカイはその反応にパチクリ、と一度はっきりと瞬きしてから、数秒固まった。
そして、ようやく動き出したと思ったら、頭を抱えながら自分の尻尾までその腕の中におさめて。
「そうですけど、そうじゃなくって!」
「皐月賞でナリタブライアンのタイムと並んだのが良い味を出した。もう、彼女を除いて誰も、君の策には気づかない。いや、策なんて発想が出てこない」
彼の放った一言は、それだけインパクトの大きい言葉であった。
大雑把に意訳するなら、「セイウンスカイの大差勝ち。他は誰も続かない」と言っているようなものなのだ。
当然、そんな堂々と宣言されれば、誰もがこう思う。
「セイウンスカイの実力は、どれだけ凄いのか。みんながそこに注目する。奇抜な作戦の印象なんて、あの言葉の前には霞んでしまう」
セイウンスカイはこれまで、何度となく最速のスタートと、序盤からポツンと先頭に立つような、暴れウマっぷりを見せてきた。
そして、トレーナーの言葉が合わさり、皐月賞のタイムがその裏付けのように作用する。
「セイウンスカイの暴走癖は、紛れもなく実力に相応しい走りなのかもしれない、と思われる」
ならば、注意すべきことは何か。
注意したとして、それがただの考え過ぎだった時、どうするべきか。
横槍を入れるでもなく、セイウンスカイはそのウマ耳をピク、ピクと反応させながらも、動かない。亀のように丸まったような姿勢のまま、思考の海に沈んでいる。
「注意すべき相手は、わかるな?」
「……当然ですとも」
お互いに言葉に出さずとも、その想像が一致していることに確信を持つ。
そして、分別もついている。
注意すべき相手が居るのは確かだが。
それとは別に、策にはめるべき相手が居るのも確か。
そこを混同しては、勝利に手が届かなくなる。
お互いの認識のすり合わせが終わると、車内は環境音を除いて沈黙に包まれる。
一人は思考の海に潜り込んで。
一人は安全運転に気を配る。
セイウンスカイさえ気づかなかった、彼の言葉に盛られた毒。
それは腐り落ちる果実のように、時を経ることで効果が浮かび上がる。
中身の詰まった果実が傷み始めた。
汗に塗れて、泥を被って、その端正な顔をぐちゃぐちゃにしてしまおうとも。
走り続ける姿は凛々しく、あまりにも直線的で、あっ、と声を上げる間も無く魅せられる。
不撓不屈に心を燃え上がらせ、陽炎が立ち上るようにさえ見える気迫には、思わず息を呑み込んだ。
地鳴りはおろか、神鳴りの如きはまさしく一蹴。
隠さず、臆さず、退かず、目指す場所には一直線。
余裕は持たず、慢心捨て去り、全ての力を注ぎ込む。
「……キング」
それはまさしく、絶対王者の行進。
魅せつけ、惹きつけ、その後に続きたいと思わせる。
理想と模範を詰め込んだようなその姿。
程なくして、彼女は一息ついて身体を休める。温いドリンクを飲み下し、自ら足の負担を減らすマッサージを施術する様には余念なし。
声さえ掛けるのが躊躇われる。しかし、魅せつけられる。
そんな彼女の前に飛び出して、興奮したように話しかける少女が一人。
王者は寛容で、しかし己に妥協は許さず、やるべきことに抜けはないまま、言葉を交える。
時間になれば断りを入れて、何か頷いたかと思うと走り出す。話しかけた勇気ある少女は、その後に続く。
「……」
窓からその様子を見ていた彼は、日光のせいか、額に汗を滴らせる。つぅ、とそれが頬に、首筋にと落ちていく。そんな些事に構う暇はなく、彼はその姿を見続ける。
すっ、と。
炎よりも熱く、太陽のように眩しい瞳と、目が合った気がした。
息を呑み込んだ時には、もう彼女は前を向いていたが、その口元に浮かんでいるのは、不敵な笑み。
「……」
波乱は間も無く。
運命の日本ダービー。クラシック二冠目のレース。
その開催は、目の前に。