秒読みの契約 ~あなたに三つの冠を~   作:雲ノ丸

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第17話 鈍足と狂騒

『さぁ、今スタートが切られました! 好スタートを見せて突き抜けるのはセイウンスカイ! 今日も気持ちのいいロケットスタートを見せる!』

 

 その突出したスタートダッシュは、どこまでも変わらず健在であった。

 最初の1ハロンを越えた時には、二番手と4バ身半の差が広がっている。

 

 しかし、あくまで序盤の話。加えて、この舞台の参加券を手にしたウマ娘たちは、誰しもがセイウンスカイに注目している。特に、その奇天烈な走り方のことは、作戦において逃げを選んだ誰しもが頭に入れている。

 

 ――セイウンスカイは必ず、一度は先頭を譲る。

 

 セイウンスカイが走ったレース、その全てにおいて、彼女は最初にハナをとって威勢のいい走りを見せたかと思えば、必ず後ろに下がるのだ。

 だから、逃げを選んだ彼女たちはもう、先頭争いに固執しようとは思っていない。勝手に譲ってくれるなら、わざわざそこにこだわる意味がない。自分のペースで走るだけだと、マイペースを決め込んだ。

 

 逃げウマ娘は、先頭を見据えながらも、そのペースを忠実に守り抜く。いつも通りの2ハロンを越えて、3ハロン目にも足を踏み入れた。

 

「……あれ」

 

 そんなことを、思わず誰かが呟いたかもしれない。歓声と足音にかき消されて、もはや誰が言ったのか、そもそも声が出ていたのかさえわからないが。

 

 セイウンスカイの背中が、迫ってきていた。

 彼女たちはペースを上げたつもりは微塵もない。事実、脚に特別な疲れは感じない。

 

 つまり。

 

(もう降りてきた)

 

 なら、ここで追い越しを狙うかと考え、それはないと呼吸を入れる。またペースを上げて意地の張り合いにでもなったら共倒れだ。なら、いくら逃げでも脚を使うのはここじゃない、と結論づける。

 

 勝手に降りろ、と相手にされない。

 ジリジリと、目の前にまで迫っている背中を見ながら、己のペースを崩す者はどこにもいない。

 

 

 

(ま、そうなるかなーって、セイちゃんも予想はできたわけでして)

 

 息を吐いて、脚を緩める。それこそ、本当に誤差と呼べるような力の抜き方。走っている中、まず認識できないような小さな食い違い。

 

 セイウンスカイは、1ハロンを越えてからすぐに、ペースを徐々に、徐々に落としていた。ただ、先頭だけは譲らないように、最内ではなく、人一人が通り抜けられないようなスペースを空けた位置取り。

 内から追い抜くには狭く、外側から抜こうとすれば抜く側が不利を背負わされるような絶妙な位置。

 

 加えて、4ハロンを越えて先頭集団が団子になりかけても、誰も追い抜きにはかからない。お前が降りろ、と心のチキンレースが密かに繰り広げられている。

 

(スペちゃんも、エルちゃんも、キングも。スローペースになっても先頭には出られない。誰も見えない先頭で自分のペースをキープするのって、すっごい難しいからね)

 

 後ろからの強襲を、セイウンスカイは警戒していない。まだこの段階では、自分のペースを維持したといっても、逃げ集団に交ざるのは早すぎる。もしもその後に逃げ集団がハイペースになれば、それに翻弄されて脚が残らない、なんて事態もあり得るのだ。

 仮に逃げ集団がハイペースになったと自覚して、大人しく順位を下れるような相手なら、皐月賞でセイウンスカイは負けていたかもしれない。今この場でそんな相手がいるなら。

 

(居るのならまぁ、利用しますけど、ね?)

 

 後ろをチラリと確認してみれば、やはり団子になった先頭集団。セイウンスカイを先頭に他5人の逃げウマ娘。3位周辺では、どうやらセイウンスカイが落ちた後に有利を取ろうと、併走するように外側に膨らんでいる。

 

 例えるなら、鍋の蓋のように。あるいは開いた傘のように。

 そんな無茶な走り方をすれば、本来はレース後半に垂れていく。ずるずると、まるで後ろに引きずられるようにバ群に呑み込まれていく。

 

(でも、今日は垂れない)

 

 セイウンスカイはニヤリと笑う。

 先頭集団は、セイウンスカイを守るための傘であり、後方集団を封じるための蓋である。

 

 これが逃げ2人などの展開になれば、さらにペースを調整しながらも、レース展開をぐちゃぐちゃに掻き乱していたところだが。

 今の展開は、逃げ5人の超スローペース。1ハロン13.5秒を強いる海の中。

 

 そんな超スローペースだからこそ、無茶な走り方をしても「まだいける」と思い込む。事実、脚が残っているからこそ、余計に気付かない。無茶をした分の帳尻合わせでいつも通りに走れているなどと錯覚を起こす。

 

 ウマ娘も人間も、疲れに対しては敏感だ。自覚しやすく、地面を蹴るたび、後どれくらい走れるのか、頭に浮かぶ者だっている。

 だが、疲れていないことを自覚するのは難しい。より正確に言うなら、どれだけスタミナが余っているか、それを認識するのは非常に困難である。脚が余っている、いつも以上に走れるから絶好調だ、くらいにしか思わない。正確なスタミナ量を認識することはあまりにも難しい。

 

 だから「大丈夫」だとか、「まだ走れる」などと、曖昧な感覚に満足して、レースペースに気づかない。セイウンスカイは必ず落ちる、というこれまで繰り返されてきたレース展開もあって、誰もペースをあげようなどと焦らない。逆に、焦ったら負けなのだと、思わされた。

 

(さて、さて。スペちゃんとエルちゃんは……)

 

 ちらり、と少し後ろを確認するものの、ライバルたちの姿は全く見えない。気迫を近くに感じるようなこともない。先頭集団に先行組が追いつきそうだが、先行組前方には姿がなかった。

 

(差し、ってことかな、キングも先行してなさそうだし。なら、もうちょっと)

 

 5本目のハロン棒を越えたところで親指を曲げる。

 カチリ、と彼女にしか聞こえない音が鮮明に鳴り響く。

 

(もっと、もっと、遅めに参りましょう)

 

 冷静に、着実に。

 彼女は脚を緩めながらも、先頭だけは譲らない。

 

 

 

 

 

 

 

 あまりにも巧妙だった。

 スペシャルウィークは3ハロンを越えたあたり。第一コーナーから第二コーナーにかけてのバックストレッチを走っている最中。魚の小骨を飲み込んだような、小さな違和感を覚えた。

 

(なんだか、長い気がする)

 

 別に小骨は喉に刺さっていない。ただ、するりと飲み込んだような違和感だ。今特別な不都合があるわけでもなければ、喉元過ぎ去った故に深く考えるようなことでもない。ただ、あれ? と勘違いに首を傾げるような、小さなものなのだ。

 加えて、今走っているレースは日本ダービー。芝2400であり、皐月賞の芝2000とは距離が全く違う。その差400のせいにすれば、あぁなるほど、と納得できてしまう。

 

 だから、スペシャルウィークは長く感じたレースに、ただ慣れていないだけだと結論をつけた。今はこの余った脚の使い所を探すべきだと、目の前に集中し始める。

 

(……今の調子なら、早めにスパートだって切れる)

 

 ならば、重要なのはタイミングだ。

 バ群に阻まれないポジションが必要だ。競り合いになる前に一歩抜き出る、絶妙な位置での加速が必要だ。無駄を省いて、誰にも邪魔されず、ただ真っ直ぐ一着まで閃くような強さが必要だ。

 

 一言でいえば大外。加速すると同時に一直線に走り抜けられるポジションセンスが不可欠だ。

 ラストスパートまでの道のりはまだ長い。見極めるには十分な時間だと、彼女は虎視眈々と前を見据えて道を探る。

 

(焦っちゃダメ。前に出たってきっと、道は見つからない。だって、先頭はきっとまだ――)

 

 あの背中はまだ見えてこない。

 先行集団よりもずっと先に居る。そうでなければ、中団やや後ろから見える景色に、そろそろ彼女が見えてくるはずなのだから。

 

(――スカイさんが落ちてきたら、切り返す。落ちてこないなら、道を見つけて一直線)

 

 五つのハロン棒を越えても、スペシャルウィークは焦らない。

 たとえ覚悟が決まろうと、肝が据わろうと、垢抜けたように見えたとしても。

 

 彼女は難しいことが苦手だ。レースペース、ハロン棒の本数、脚の余り方、バ群の具合、先頭との距離、後方の気配。それらすべてに気を配って走り抜けるなんて器用な真似はできやしない。

 

 だから、絞り込むのだ。

 自分が最高の走りをするために、最も必要なことを選んで突き抜ける。そんな思い切りの良さと、レース勘を頼りにターフを駆ける。

 

(もっと、もっと、まだ、もっと良い道があるから――!)

 

 前に形成された中団のバ群。そしてその先に待ち受ける集団の影。外に膨らんでも、一直線には駆け抜けさせない壁を見つめながら、スペシャルウィークはすぅ、と鋭い息と共に、入りそうになる力を抜いた。

 

 少しずつ、しかし着実に近づいてくる影の壁を見ながらも。

 それでも彼女は浮足立たない。

 どっしりと、ターフに跡が付くような身構えをもって、星の種を植える。

 

 輝く花を咲かせるその時まで。

 溜めて、溜めて、溜めて。

 

 スペシャルウィークは、ただ前だけを見据えるのであった。

 

 

 

 

 

 

 やられた、と己の作戦ミスを逸早く悟ったのはエルコンドルパサーであった。

 最初の3ハロン。ここでエルコンドルパサーは、ライバルたちの足並みを見て、位置取りを上げるか、現状維持かを決めるつもりであった。前方のセイウンスカイのペースもそうだが、何よりスペシャルウィークとキングヘイローの作戦を見てから、自分が勝つためのレースペースに持ち込むつもりだったのだが。

 

(スペちゃんはそのままデス……でも)

 

 キングヘイローの影が、どこにも見えない。スタートから今まで、キングヘイローが前に抜き出る姿は見ていない。

 つまり、敢えて様子を見るために後ろ目に陣取ったエルコンドルパサーよりも、さらに後ろにキングヘイローが陣取った。

 

(このレース展開で追込のキング)

 

 ぶるり、とレース中だと言うのに武者震いが走る。

 エルコンドルパサーからは、逃げ集団の正確な人数は把握できない。ただ、先行集団は、少なくとも4人はいることが分かる。

 

 後方の差しの位置には、エルコンドルパサーにスペシャルウィーク含めて5人。差しの更に後ろにも、陣取っているウマ娘はいくらか居るだろう。何せ、フルゲート18人での出走なのだから。

 

(いつもなら、スローペースになるほど逃げが有利……)

 

 だが、エルコンドルパサーは気づいていた。

 先行集団が、こんなスローペースにも関わらず垂れてきていることに。

 5本目のハロン棒を越えたあたりで、先行と差しのギャップはもうなくなっていることに。

 

 こうなってしまえば、もう逃げが有利などとは言ってられない。いち早くスパートを切り、より長く、より速く、駆け抜けたウマ娘が勝つ。逃げも、先行も、差しも、追込も関係ない。

 

(いいえ、違いマス……!)

 

 などと、そんなことは断じてない。

 このレース展開になってしまえば、有利なのは逃げと追込の両極端。

 

 先行と差しは、先頭集団が垂れてきたことによって、巻き添えを喰らう形で集団そのものがぐちゃぐちゃに混ざりつつある。そんなバ群をかわしながら、位置取りを見極めながら、誰にも邪魔されずラストスパートに入らなければならない。

 

 一方で、逃げは己のペースでラストスパートを切るだけでいい。

 追込もまた、溜めてきた脚を爆発させるタイミングを考えて、あとは目の前のバ群を後ろから観察した上でよけて、通り抜けるだけでいい。

 

 ここで追込が不利だと言えないのは、結局、先頭との距離は一定に保たれているからである。

 先行集団が垂れてきたのは、間違いなく逃げ集団が原因だ。逃げの壁が、先行のウマ娘をジリジリと後ろに下げた。つまり、結果的に逃げも位置取りは下げている形である。

 

 その下がった分だけ、追込も位置取りを下げれば、追込は誰に邪魔されることもなく、不利を背負うことなく、ラストスパートを切ることができる。

 

(今からワタシも位置を下げる? それとも上げる? でも、今ここで上がっていけば――)

 

 エルコンドルパサーにはパワーがある。冷静に考え抜くだけの頭脳がある。何より、どの位置からであろうと調子を崩さないだけの、万能の走りを自負している。

 だからこそ、選択肢が多かった。今からどの位置にいっても、ベストポジションをキープできるという自信があった。

 

(問題は、後ろに行くならスパートを切るタイミング。前に行くなら、最速でスパートを切れるだけの脚が残るか、どうか。何より――)

 

 ちらり、と後方に視線をやるものの、目的の少女の姿は見えない。他のウマ娘の姿は見えたが、彼女の姿だけは見えない。

 

(――後ろに行くなら、あのキングに真っ向から打ち勝たないと)

 

 前門のセイウンスカイ。

 後門のキングヘイロー。

 

 ドクリ、と鼓動が大きく鳴る。

 キングヘイローとの真っ向勝負。それだけで心を沸き立たせる魅力があった。やってみたい、と熾烈な勝負を望む闘争本能が騒ぎ立てるが。

 

(でも、勝つためには)

 

 下がれない、と冷静な頭脳が導き出した。

 最高の走りをするのであれば、このリードを維持したまま突き抜けるしかない。脚を溜めるよりも、今此処で前に居る利点を活かした上で、全てを食い破ってゴールに至るのが一番速い。

 

 そのためにはやることが多い。精神をやすりで削られるような苦しさを覚えながらも、それを押し殺す我慢を強いられる。そんなコンディションの中で、誰よりも冷静に最高のポジションをキープし、新たな道を見つけ次第駆けつけるだけの洞察力が必要だ。現状維持ではなく、順を追って飛躍する展開にするため、自ら進まなければならない。

 

 結論、主導権を取り戻す必要がある。

 

 口の端が、吊り上がる。

 鋭い眼差しが仮宿を見つけて、一息に踏みしめる。

 また目敏く、次の宿を見つけて、スペシャルウィークを追い抜いて。

 

(世界最強は! エルコンドルパサー! デースッ!)

 

 誰よりも鋭く、ターフを舞う怪鳥。

 軽やかに、くるりと滑らかに、そして一息に挿し込む鋭さをもって。

 

 エルコンドルパサーが羽ばたいた。

 

 

 

 

 

 

 

 雌伏雄飛。

 その玉座には遠くとも、彼女は盤上を見つめるかのように、全てお見通しであった。

 

 セイウンスカイが大逃げを貫き通したのであれば、初手の時点で敗北は必至であった。

 どれだけ見積もりを甘くしても、クビ差で届かない。全力をもってしても、あと半歩、前に行けない。

 

(それで、このキングを巻き込んだつもり?)

 

 甘い、と断言する。

 そんな作戦は何度も体験してきた。見切ったと思ったつもりで、バ群に埋められそうになった。何度だって、そうなってきた。

 

 ならば、とキングヘイローは突飛であるものの、あまりにも有効な作戦を実行した。

 

(最後方なら、どんな作戦も意味がない)

 

 強がりだ。大逃げだったなら、勝負をする前に負けていた。

 だが、ここに居るのはキングヘイローだけじゃない。スペシャルウィークに加えて、エルコンドルパサーまで参戦してきたのだ。

 

(あなたなら、そうして策を練ってくるって、信じていたわ)

 

 だからこそ、こうなることは確信していた。

 誰よりもその策、落とし穴に掛けられたからこそ、わかっていた。

 

 問題は、あまり得意とは言えない追込での走行に、脚が馴染むかといった懸念はあったが。

 

(悪くないじゃない)

 

 最後方。そこから絶対の走りをもって、全てを抜き去り王冠を戴く。

 その姿がどれだけ雄々しく、凛々しく、美しく、そして泥だらけであるか。

 

(そんな走りこそ、このキングに相応しいわ)

 

 大どんでん返し。

 下剋上をするのなら、それくらい華々しい勝利の方が合っている。

 

 誰よりも後ろから、誰よりも広く見渡しながら。

 すぅ、と息を吸って、吐き出した時。

 

(ここからは――)

 

 嘶いた。

 地を裂き、天を轟かせる天下無双の足音。

 

(――このキングヘイローの時間よ)

 

 最も後ろから、ターフを蹴り付け進撃する王の凱旋予告。

 刻一刻と迫る、たった独りの行進曲。

 

 絶対の走りを魅せるため。

 その少女、まさしく王とならんため。

 

 狂瀾怒濤の足音を響かせる。

 

 

 

 

 

 

 

 後の祭りとはこのことであった。

 大胆不敵な作戦に、舌を巻いた。それをやり切ろうとする胆力に手を打ち鳴らしそうになる。

 

 超スローペースの日本ダービー。皐月賞とは打って変わった展開。

 今このレースで主導権を握っているのは誰なのか。

 

 思惑が混ざり合っている。主導権を譲るまいと、考えながら走っている。

 レースは止まらない。思考も決して止まらない。

 

 だからこそ。

 

「勝機はまだある」

 

 レースはいよいよ、後半戦に差し掛かる。

 

 

 


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