秒読みの契約 ~あなたに三つの冠を~ 作:雲ノ丸
逃げウマ娘とは、ただ前に行くだけで勝てるほど甘くない。
前に、前に、ただひたすら先頭に。そんなことを思いながら走って、重賞レースで一着を取れるのはそれこそ、才能に満ち溢れた宝石のようなウマ娘だけである。
そして、そんな才能任せで突っ込むウマ娘たちの脚の寿命は総じて、短い。
人間とそれほど変わらない姿形ながら、繰り出される最高時速は70㎞を超える。ずっとそれほどの速度で走るのではないにしても、3000のコースであれば常時時速50~55㎞ほどのスピードの維持が必要になる。
特に、逃げウマ娘はラストスパートを切る総距離の3分の1に至るまで、他の脚質よりも速く走る。その時速は55~60㎞ほどだと言われている。
それほどの速さで、人間に似た骨格を持ち、肉体強度もそれほど違うとは言えない少女たちが、およそ3分間も走り続けるのだ。
そして距離が短くなれば、道中の速度も右肩上がりとなる代わりに、当然ながら1レースの時間は短い。距離3000が3分3秒~5秒とすれば、距離2000はおよそ1分58秒前後となる。単純に時間が3分の2にならないのは、それだけウマ娘たちがスピードを出しているということであり、瞬間的な負荷は距離が短くなるほど増していくことの証左である。
具体的には、距離2000の場合の道中スピードは、逃げウマ娘でなくともおよそ時速55~57㎞の速度に至るのだ。
たかが時速一桁㎞と思うかもしれないが、それは大きな間違いだ。
人間の100m短距離走選手の世界最高レベルの瞬間トップスピードが44.7㎞である。到達タイムは9.58秒のため、平均時速は37.6㎞。
では、仮に平均時速37.6㎞に時速1㎞加算されればタイムはどうなるのか?
何と、時速1㎞加算されるだけで、100mのタイムはおよそ9.32秒に縮まるほど、明確な違いが現れる。
時速5㎞も違う、平均時速42.6㎞になれば……100mのタイムは8.45秒という、何と100mという短い間隔ですら1秒以上の違いが現れる。
それをウマ娘は100mの20倍、30倍という距離を、時速15~20㎞、ラストスパートに至っては時速35㎞以上も加算して、数百メートルあるいは1キロほどの距離を走り抜けるのである。
逃げウマ娘と、他のウマ娘の道中速度の違いは、たかが一桁㎞だが。
その一桁㎞の時速を加算して㎞単位を走る彼女たちの負担は、想像を絶するものがあることに間違いない。そしてその負荷を掛けたまま、ラストスパートは他のウマ娘と同じような速度で走らなければ勝てないのが、レースである。
故に。
休む暇なく、常に過負荷を掛けられる逃げウマ娘の脚は、櫛の歯が欠けるように綻び、壊れていくのである。
尚、上記のウマ娘たちの道中時速などは全て、G1レースを想定されたものであることを記しておく。
「ふっ――」
息を吐き、片手にメタリックカラーの計測器を握りハロン棒を過ぎ去る。同時にカチリ、と手の中で音を立てて、次のハロン棒へ走り込む。
突風を巻き起こし、薄緑のショートカットにしっぽを揺らして、彼女は三つのハロン棒を抜けたところで減速していき、コースから一度脇に避ける。
「さてさて、結果は――ありゃ」
計測器が叩き出した数字は「12.94」「13.01」「13.00」と、何とも締まらない結果である。特に最初は、勢い余って足を進めすぎたことが伺えるブレがある。
「もうちょっと、なんですけどねー」
このトレーニングを始めて半月。早くも成果は出始めていることに手応えはあれど、彼女にとってそれが納得できる結果かどうかは話が別である。
「もう一本、いきますか」
もう一度、コースの中に入って走り出す。
カチ、カチ、とハロン棒に合わせてリズムを刻み、コンマの世界に足を踏み出すのであった。
トレーナー室に訪れると、まるで根っこでも生やしたように動かないトレーナーが、ソファーに寝転がったまま出迎える。既に一ヶ月近い付き合いになろうという頃合いになっても、彼女はトレーナーがそこから一歩でも動いた光景を見たことがなかった。
「こんにちはー。今日もお昼寝にやってきましたよーっと」
「はいよ。そしておやすみ」
そんな風に挨拶すれば、変わりない返答がいつものように返ってくる。この男はもはやアンドロイドか何かか、と思わせるほどに、本当に変化がない。干渉してきたのは、最初の指導の1回だけで、それ以降は特にセイウンスカイとコミュニケーションを取ろうとするような、そんな素振りは見せなかった。
「今日も私とトレーナーさんは、一緒にサボりましたとさ」
「めでたしめでたし」
しかし、セイウンスカイが何とは無しに声を出せば、反響するように言葉を返してきた。放任主義、というやつなのだろう。過干渉よりはよほどいいと、彼女も今の関係には満足しているところだ。
「そう言えば、聞きましたー?」
「何も」
「……愛バにはもうちょっと、愛想を振りまくべきだとセイちゃんは思うわけですが」
「冷たくなきゃいいだろ」
「そのスタンスが既に結婚数年で冷めきった夫婦関係を彷彿とさせるのですが」
「誰が夫婦だ、誰が。よくて年の離れた兄妹だろ」
「おぉ、つまり反抗期の兄に冷たくされて落ち込む妹……ってことで。そんな可愛い可愛い妹のお話を、お兄さんは聞くべきだと、妹分は思うのです」
「じゃあどうしたんだ?」
「……糠に釘とはこのことか」
お互いにそんな遣り取りを口にしながら、片やソファで寝転がり、片やベッドで寝転がる。全く動こうとしない怠惰な二者の話し合いは、どこか雲を掴むような雰囲気なのだが、当然ながらそれを良しとして受け入れるのもまた、その二人である。
「キング、トレーナー決まったってさ」
ドン、と打ち付けるような鈍い音にセイウンスカイは「わっ!?」と声を上げ、耳と尻尾が天をつく。跳ねるように彼女がそちらを向いてみれば、トレーナーがソファーからずり落ちて、背中と尻を床に打ち付けて、悶絶している姿がそこにある。ぐォォ、と亡者のような声から、一体どれだけの痛みだったのか。
「と、トレーナー? だ、大丈夫?」
「ォォ……む、無理。腰が……」
まるで溺れているかのように手を宙にさまよわせ、痛みのせいか身体は小刻みに震えている。
しかし、腰が、などと言われてしまうと、セイウンスカイも非常に対処に困った。
「えっと、ソファに抱え上げた方がいいのでしょうか?」
「いや、そこまではっ。大丈夫、大丈夫……ぐぅ」
「どう見ても大丈夫に見えないのですが!」
「あ、あと1分……1分で、一人で立てる……」
などと言ってのけるが、痛みに悶絶するトレーナーの声を聞き続ける、というのは流石に心地の良いものではない。
「……仕方ありませんなぁ」
よっこいしょ、と掛け声ひとつ。セイウンスカイはふわりとベッドから起きて立ち上がると、特別急いだ様子もなくトレーナーの前まで歩を進めて。
「よいしょ!」
などと軽快に掛け声を上げると、一息にトレーナーを横抱きに抱え上げた。次の瞬間には、彼女はトレーナーをもとの位置に降ろして、満足そうに二度頷いた。
「まったく。トレーナーさんもおっちょこちょいなところがありまして」
「ぐぅぅ……あり、がとう。助かった……」
「お礼は貸しひとつということで」
「それ、絶対に高くついてるだろ……」
尻尾を大きく揺らしながら、彼女は人差し指を立てて言ってのける。言った後も、その人差し指をくるくると宙で回して尻尾も揺らす。
トレーナーは眉をひそめながらも、仕方ない、と頷くしかなかった。
「キングヘイローのトレーナー、マジで決まったのか?」
「え、もう話戻します? いやまぁ、別に構いませんが。セイちゃんとしては、もうちょっとおふざけ気分に浸っていたかったのですが」
仕方ない、と道化じみた大仰な動きで肩を竦めると、彼女はベッドまで戻りごろんと寝転んで、気だるげに声を上げる。
「昨日、無事に決まったみたいでして。いやはや、私としましては、むしろ遅かったなぁ、くらいの感想なわけですよ。引く手数多のキングが、これだけ吟味していたわけですから。何かあったのかなーって、セイちゃん的には勘繰りを入れたくなっちゃったり」
「その結果は?」
「なんと、なんと――坊主です! ドドン!」
「引き延ばしておいてそれかぁ……」
「まぁ終わったことですし。何を知ってどうしようと、今更どうしようもないわけで」
「ごもっとも」
そっかぁ、と彼は小さく呟くと、口を閉ざした。
手のひらを宙にかざして、彼は天井よりも遠くのどこかを見つめている。
それを横目に見ていたセイウンスカイは、しばらくジッとその様子を見つめた後。
状況が全く動かないことを察して、口を開いた。
「大体、トレーナーさん。ちゃんとキングにアピールしました? というよりスカウトしました?」
「……してない」
「ですよねー。もうとっくにデビュー戦が終わっている子がいて、ジュニアのG1レースに出走するなら、このあたりが限度なわけでして」
「まぁ、確かに」
「つまり、もうトレーナーさんがスカウトできるウマ娘というのは、事実上ほとんど残っていないわけなのですよ。あ、いや溢れちゃった子たちとかそりゃいますけど。キングを狙うようなトレーナーさんですし。かなーり厳しい基準を持っていそうなことは、想像に難くないわけでして」
「……そう言えば、君は他のトレーナーとの本契約とかは取っていないのか?」
「私は全く。何分、凡庸なウマ娘はスカウトなどに縁がないわけです」
「凡庸……凡庸?」
「そう。凡庸なのです。周りから見た私はまさしく、凡庸なのです」
「そう、か」
トレーナーは考え込むように、数秒の空白を生み出すと。
吟味したのか、それともこぼれ落ちたのか。
「三冠、いけるかもな」
彼はそんな言葉を口にしたのだ。
ピクリと耳を震わせた彼女は「おやおや?」と、おどけたような、からかうような調子で口を開く。
「トレーナーさんは、セイちゃんを高く買っていただけるみたいで。自分で言うのも何ですが、うだつの上がらないウマ娘だという評価は、今のところ正しいと思うわけでして」
「そしてそのズレた外部評価が、最高の仕掛けになっている」
「……ほう?」
「皐月賞と日本ダービーの時点で、勝負勘が定着するのは稀なことだ。そして、稀だからこそ逃げウマ娘はペースメーカーとして、他のウマ娘のペースをかき乱しやすい」
「でも、それだけで勝てるほどクラシック三冠は甘くありませんが」
「君の地力なら出来る。エルコンドルパサーのような子は……バ群の中に埋めてしまえ」
「なるほど、なるほど……え?」
あれ、とセイウンスカイの頭の中で警鐘が鳴り始める。
何かこの流れ、前にもなかったっけ、と。
「だから、まずデビュー戦は『差し』か『追込』で勝つように。重賞レースに出走するまでは『逃げ』と『先行』は使わないようにするんだ。ただし、『差し』から徐々に『先行』の位置までレースを運ぶのは構わない。セイウンスカイは掛かり気味の『差し』ウマ娘だ」
やっぱり! と、セイウンスカイは思わずベッドから跳ね起きて、トレーナーの方を向いて声を上げる。
「……ちょっと、ちょっと、ちょっと! トレーナーさん、それ正気ですか!? 本番、それも大切なスタートダッシュでそれをやれとおっしゃってます!?」
「『差し』のように見せかければ、結果的に『先行』と変わらないような形になる。それなら、君の得意分野だろう?」
「確かにセイちゃんは先行も出来ますけど! できますけど!」
「なら問題ない。大切なのは出遅れないことだ。出遅れれば、スタートに失敗した先行のように見える。スタートダッシュは確実に、ただし立ち位置は『差し』を意識して、徐々に『先行』の位置に進んでいくんだ。それだけやれば、掛かった差しウマ娘の完成だ」
「セイちゃんのレース勘とか、そういうものを伸ばすおつもりはないと?」
「勘より論理だ。逃げウマ娘なら尚更な。あとは君次第だから、頑張れ未来の三冠ウマ娘」
トレーナーはあくまで、ソファから動く様子を見せない。声に熱量のようなものはなく、どこか投げやりなようで、どうでもよさそうに、「今日は晴れだな」などと当たり前のことを口にするように、平坦な声だった。
「……なら」
トレーナーの言葉を受けて、彼女はしばらくの沈黙の後に口を開く。
「もしも私が三冠ウマ娘になったら、トレーナーさんはご褒美を用意するべきだと思います」
「俺が? ……いや、まぁたしかに。『君を伸ばすための指導』しかしない、って言ったからな。勝つのは君の仕事となれば、その達成を祝福するぐらいは当然か」
ふむ、と彼はイヤホンを外してから、宙に視線を向けた。
その沈黙の間、彼は一切動くことがない。身動きひとつ、指一本、瞬きひとつも行わない。
そして、パチン、と気だるそうに半開きだった目が瞬きをしてから。
「まぁ、三冠ウマ娘の言うことなら何でも聞こうか。あのメンバーの中でその偉業なら、それくらいが妥当だろ」
「おっと、セイちゃんとしては豪華なご飯を奢ってもらう程度に考えていましたが、これは思わぬ収穫……言質は取りましたので、やっぱりなし! なーんて聞きませんよ?」
「それでいい」
それだけ言うと、彼はイヤホンをまた耳につけて、パソコンの中に視線を戻した。
あまりにも淡白すぎる反応に、セイウンスカイのウマ耳がピクリと反応する。不満に頬を膨らませ、「ぶーぶー」と抗議でもするように声を上げる。
「もうちょっと焦ってくれないと、セイちゃんも張り合いが無いと言いますか、やる気が下がると言いますか」
「……なら、期待に応えて」
「お、トレーナーさんもついに乗り気に」
「デビュー戦終わったら1ハロン12.5秒な」
「 」
文字通り、セイウンスカイは絶句した。
必ず目の前の邪智暴虐な新人トレーナーを打ち倒さなければならない。
しかし、セイウンスカイにはトレーナーの日常も人となりさえわからない。
セイウンスカイはウマ娘である。道を走り、釣りをして、知恵を働かせながらも気楽に遊び暮らしてきた。
けれども智略に関しては、人一倍の関心があった。
「この 鬼! 悪魔! 意気地なしの甲斐性無し!」
グサ、とどこかで音を立てたが、それは彼女に聞こえない。
そんな憎まれ口に悪口を叩きながら、セイウンスカイは風の如く、瞬きの内にトレーナー室を飛び出した。
「……」
トレーナーが動いたのは、それからしばらく後のこと。
今日も彼は、一人になってから立ち上がる。