秒読みの契約 ~あなたに三つの冠を~ 作:雲ノ丸
トレーナー室に入った時、ソファの上には必ずトレーナーが寝転んでいる。
セイウンスカイが入室すれば、必ずその光景が目に入った。それ以外が有り得なかった。
好きな時にふと立ち寄れば、必ず開いている。変わらずそこに居る。
その日、セイウンスカイが授業をサボったのは気まぐれだった。あるいは、単なる好奇心かもしれない。
すっかり春の陽気漂う4月。皐月賞ももうすぐ、といったところ。新入生も多く、トレーナーや教職陣は一際多忙な時期となっている。トレーナーならスカウトに目を光らせ、教職陣は新しい生徒を受け持つことは言わずもがな。
(そろそろ一年かー)
あっという間だったように思える1年間。されども、その内容は色濃くセイウンスカイの記憶に、身体に刻まれている。
(1ハロン12秒なんて。トレーナーさんの鬼っぷりは健在でして)
そのくせ、目標だけ言って彼は何も口を挟まない。トレーニング方法も、何を鍛えろ、とも言ってこない。ただ、手渡されたのは目標タイムとストップウォッチだけ。
(キングとか、絶対この指導向いてないでしょ。スペちゃんは言うまでもないけど。グラスちゃんなんか絶対バチバチさせそう……おぉ、こわっ)
もしものことを考えて、セイウンスカイの背筋に悪寒が走り、尻尾の毛が逆立った。
(あ、でもグラスちゃんは逆にお尻叩いてでもトレーナーさん働かせそう……いや、ないかー。あのトレーナーさんだもんねー)
もしもの想像が止まらない。
(エルちゃんは……ありかも? いや、いやいや。そんなハマり方したらセイちゃん泣いちゃうから)
ただでさえ、ここまで無敗、そして圧勝で切り抜けてきているエルコンドルパサーのことだ。直情的で明るく、あまりに積極的な彼女は、実のところ頭が回る。フィジカルも、頭脳も抜群な相手にあのトレーナーとは、いったい何の冗談か。
(ま、いいけど。今回の相手はキングとスペちゃんだけ。他の子には悪いけど、負ける気は全くしないし)
クラシック4月。ふとポケットから取り出した止まったストップウォッチは、今も「12.00」「12.01」「12.00」「11.97」「12.00」で数字を止めている。
(感覚は掴めたけど…)
まだ足りない、それが率直な感想である。
もはやこの数字の世界では、カチリと押し込むタイミングさえ考慮に入れなければならないのだが、まさしく、それ込みでトレーニングなのだと、セイウンスカイはそう解釈している。
そして、目標を2回クリアしたと言っても、慣れるものでもない。難しいものは難しい、とセイウンスカイは肩をすくめてひとり戯けると、ストップウォッチをポケットに入れる。
「さて、今この時、トレーナーさんは……」
トレーナー室の前に立ち、セイウンスカイは少しの間、意味のなさそうな溜めを作る。息を吸って、大きく吐くまさにその瞬間に。
「いますとも」
声と共に息を吐き出し。
彼女はいつも通り開く扉と、全く変わることなくソファに寝転がる彼に苦笑を浮かべて、いつも通りベッドを占領するのであった。
ソファとベッドの距離は、まるで対岸にある島のように離れていそうな錯覚を思わせながら、その実、声を上げれば届く程度には近い現実と隣り合わせだ。
お互いに、動こうとしない。動くのは、相当に何か用事があったり、辛抱し切れず声をかけてやろう、と思った時ぐらいで。普段は一切、お互いに距離を詰めようとしない。特に、トレーナーは根っこを生やした大木か、というくらい動かない。部屋の中では、まさしく彼は木のような存在だった。
「ついに来ますねー、皐月賞」
「そうだな」
短く返してくる彼に対して、セイウンスカイはいつものように、間延びした声で続ける。
「もしも先行策を取られた時、セイちゃん的には厳しい立場になっちゃうな、って思うわけですよ」
「そうなのか」
「そうなのです。だって、セイちゃんはずっと『掛かり』気味の差しウマ娘で通してきましたから。今までの結果を見ての通り、競り合うのは苦手でして」
彼はそれを聞いて、キーボードを叩く手を止めた。
ちらり、とセイウンスカイの方を見た後。
「つまり、勝てるだろ」
そう迷いなく言ってのけた。
ほう、とセイウンスカイは思わず声を上げる。続けて。
「その心は?」
などと聞いてみれば。
「原因がわかっているなら、あとは簡単だ」
彼は何でもないように、そう言ってのけるのだ。
これに、セイウンスカイは口を閉じて、トレーナーの方を見た。彼はもう、キーボードを弄ってパソコンだけを見ている。
「トレーナーさんには、何が見えているのやら……」
「見えていることだけだ」
「……トレーナーさん、その自信どこから来るんです?」
「君以外にあるか?」
セイウンスカイは、またも口を閉ざした。
頭を載せていた枕を抱えて、仰向けに寝転がる。ピコピコと動くウマ耳を自覚しながら、ここで唸り声を上げるのも負けた気分がするせいで。
「はぁ……」
彼女は、大きくため息を吐くことで誤魔化した。
「トレーナーさんの期待が重たいと、セイちゃんは思うのでした」
「トレーニング効果が上がるな。ダービー終わったら1ハロン11.5秒だからな」
「……セイちゃん、足も重たいかなーって」
「パワーも一緒に鍛えるとは流石だな」
「セイちゃん、頭も重たい」
「これ以上賢くなって、どんな作戦を繰り出すのか楽しみだな」
「……トレーナーさん、そこは風邪を心配してくれるところだと思いまーす!」
「小腹が空いたなら、執務机の脇に置いてる袋から取り出してくれ」
「ちーがーいーまーすー! トレーナーさんはもう少し、セイちゃんを甘やかしてくれてもいいと思いまーす!」
「えぇ……?」
甘やかせ、それは何とも難しい注文だと、トレーナーは困惑の声を上げる。
ウマ娘。G1レースの勝利が期待されるトップクラスのレースウマ娘。競技選手といえども、彼女は世間一般でいう女子高生。今を時めく乙女な少女。
新人で若いといっても、男の彼には、そんな少女の甘やかし方などわからない。
「……子守唄とか?」
数秒の沈黙の後のトレーナーの答えに、セイウンスカイは思わず彼に胡散気な視線を向けてしまう。
「――熟考してその答えが出ることに、驚きを隠せないのですが……」
「……新しい寝具の調達?」
「いえ、そういうおねだりとは違いまして……」
「……よし。じゃあ執務机の椅子に置いている鞄の中のファイルを進呈しよう」
「あの、トレーナーさん? 暗に仕事押し付けようとしてません?」
「もう終わった仕事だから、後は読むだけのものだな」
「その、せめて自分でセイちゃんに渡そうって、そういう優しさ、ありません?」
「俺は根っこが生えて動けないんだ。頼んだ」
「嘘だ! 絶対嘘だ! トレーナーさん、お正月にちゃんと動いてましたよね!?」
「いや、君の前でソファから動いた覚えは一度もないが」
「……そうでしたね。トレーナーさん、お雑煮もソファに座りながら配膳してましたもんね! いいですよーだ。鞄の中身、全部セイちゃんに漁られたってクレームは受け付けませんよーだ!」
「中身めちゃくちゃにするなよー」
セイウンスカイは立ち上がって執務机に向かいながら考える。どうすれば、この暴虐怠惰極まりないトレーナーに一泡吹かせられるかと。
悪戯か。いや、いつもこの部屋に根を張るトレーナーにそんな隙はない。待ち合わせをサボろうか。いや、このトレーナーとそもそも待ち合わせをしたことがなかった気がする。記者会見の時も、レース場に向かうため車を出す時も、セイウンスカイからこのトレーナー室に訪れたのであって、待ち合わせはおろか……そうだ、そもそも連絡先を知らないじゃん、とセイウンスカイは思わず唸る。
(……大体、全部! トレーナーさんが、ずっとトレーナー室に居座ってるのが悪い! うん、そうですとも)
責任転嫁に勤しみながら、彼女はさっさと鞄の中を見て……そこに目的のファイルしかないことに固まる。別ポケット、ファスナーを開いてみても、書類はおろか、ポケットティッシュさえ入っていない。
営業系サラリーマンが持っているような、黒い手持ちのカバンの中身が、それである。もはや、これを普段持ち歩いているとは思えない中身。しかし、持ち手をよく見れば擦り切れて変色したり、外面が剥がれているなど、年季は入っている。代わりに、中身には一切のほつれも皺も見受けられない。
セイウンスカイは、大きくため息を吐いてファイルを取り出す。その中の書類を引っこ抜きながら、彼女は愚痴の一つでも口にしようとして。
「……これ、って」
そんなつまらないことは、全部喉元を通り過ぎて、代わりにそんな言葉が出てしまう。
「……、……!」
セイウンスカイの尻尾が大きく揺れた。風を起こし、はらはらと書類の端を波打たせ、しかし彼女は口を開くことなく真剣に、それを熟読していく。
「……トレーナーさん」
「不足でもあったか? それとも、現場の人間との食い違いってやつか?」
さらりと、何でもないように彼は言う。
しかし、セイウンスカイの手には、ずしりとその書類の重みを感じる。肌に纏わりつくように、冷たい何かがゾクリと腕から背筋にかけて走る。
「いつ、これ作りました?」
「何言ってるんだ?」
心底気のない返事だった。
くしゃり、と小さな音を書類が立てるも、慌てて彼女はかぶりを振って頭を冷やす。そして、もう一度。
「セイちゃん、トレーナーさんが偵察に行った、なんてこと。まったく! 知らなかったわけですが?」
セイウンスカイが持っている書類には。
ライバル達の、事細かなデータが纏められていた。
どんな作戦が得意か。どんな性格か。スタミナはどれだけあるか? 最高スピードは? 坂は得意か苦手か。1ハロン何秒が適切か。皐月賞、日本ダービー、菊花賞では、どんなタイムでどこでスパートを切るのが理想型なのか。どこまで成長するのか。
一度読んだだけでは、いくら何でも鵜呑みに出来ないようなことがつらつらと、さも当然のように記されている。
「景色がいいんだよ、この部屋」
「……はい?」
「よーく見えるんだ。朝日も、眩しいターフも、夕日も、月光も。こっからは何でも見える」
セイウンスカイは、この部屋から見える景色に目を向けたことがなかった。
気になって、ふとそちらにやって見てみれば。
「……うわぁ」
どこか感動したような、それでいて呆れているような、どちらにしても気の抜けた声が彼女の口から漏れていた。
その景色はセイウンスカイにとって、まさしく絶景といって間違いない。そんな光景が、いっぱいに広がっていた。
練習場で走るウマ娘も。
校門から出るウマ娘も。
実技の授業に勤しむウマ娘も。
歓談を楽しむ子たちも。
チームでランニングに勤しむ姿も。
そこには、トレセン学園のきらめきが詰まっていた。
「言っただろ? 秘密基地だ、って」
「なるほど、なるほど」
口角が、思わずにっとつり上がる。
自分が悪い顔をしているなぁ、という自覚はあるものの、セイウンスカイは笑みを堪えきれなかった。
「早めのハッピーバースデーだ。あとは君に任せた」
「……えぇ。えぇ。他ならぬ、私のトレーナーさんの頼みですし」
セイウンスカイは振り返り、トレーナーの方を見る。
トレーナーもまた、ソファから顔だけ出して、セイウンスカイの方を見ていた。
「どーんと、大船に乗ったつもりでいてください」
にこり、と夕日に照らされて花が咲く。
彼もまた釣られるように笑い。
どちらからともなく、お互いに拳を向け合った。