雨は嫌いではなかった。
耳に届く全てを包み込む音に、まるで世界に二人きりになってしまったかのように思えるから。
心地よい音が耳をくすぐり、時が流れていく。
時間を見ると、午後六時を少し過ぎたところだった。
「……困りました」
雨は嫌いではない。
そんなことを思いながらも、少し困ってしまっている。
「そんなに降られては……好きな雨も嫌いになります……」
私は湿気を含んで艶やかに光る青鹿毛の尻尾を振りながら、空を仰いで小さく愚痴った。
この雨、止む気配がない。
あいにく傘は持っていないし、ここは人気の少ない校舎裏にひっそりと建てられている東屋。誰かが偶然通ってくれるとは思えない。
どうしてこんなことになっているか。
「私をどうしたいというのですか?」
私は雨の中でも関係なく、跳ね回っているあの子に小さく声をかける。
あの子とは、私だけが見ることのできる『お友達』
周りのヒトたちは、あの子を私のイマジナリーフレンドとか、私が幽霊を見てるとか、そんなことを言って気味が悪いというが……。目の前にしっかりと存在してるのだから仕方がない。
そんなお友達が今日はやたらと元気で、何かあるのだろうかとついて行った。
ついて行ってたどり着いたのがこの東屋で、そしてここに入った途端に土砂降りの雨。
何度も言うように雨は嫌いではない。
そのうち止むだろうと雨宿りをして早一時間……。
結局、雨は止む気配を見せず、帰るタイミングを見失っている。
そんなことも関係なしに、あの子はずっと雨の中を跳ね回る。何がそんなに嬉しいのだろうか……。
「ちょっといいかい?」
「っ……!」
俯いて、小さくため息をつこうとした時だった。
ふと聞こえた声に、視線をそちらに向けると、一人の人間の男性が傘をさして立っていた。
雨の音がかき消していたのだろう。こんなに近くに来るまで気づかなかった。
「校舎の窓から姿が見えてさ。もしかして傘がなくて困ってるのかと思って」
男性はひょい。と二本の傘を見せる。
「俺は一応この学校のトレーナーをやってる者でね。そっち行ってもいいかい?」
そして私が一人いる東屋へと入ってきた。傘を畳んで合計3本の傘を持っている。
私は目を伏せがちに、その二本の傘を見る。
「もしかして……」
彼もあの子が見えているのでは? そう思い声をあげたが、その続きを発するのをやめた。きっとまたいつもと同じように揶揄われているのだろうと思ったからだ。
「もしかして。なんだい? 余計なお世話だったりしたかな? まぁ、世の中には雨に濡れながら散歩する奴もいるもんな……」
苦笑を浮かべて雨空を見つめながら乾いたように笑う彼。
揶揄うとか、馬鹿にすると言った感情が微塵も感じられない口調。しかし、あの子が見えている様な気もしない。
「……揶揄いにきたのですか?」
いつもなら無言を貫き通すところだったが、今日はどうやらほんの少しの好奇心が口を動かした。きっと雨のせいだ。
「ん? あぁ、これのことか」
彼は二本の傘をひょいと持ち上げる仕草をして、話を続けた。
「気を悪くしたら悪かったよ。マンハッタンカフェさん」
「……名前を知ってると言うことは、噂も知っているのですね」
ほらやっぱり。
知っていてそんなことをするんだ。と私はため息をついた。
しかし、彼は悪びれもせずに話を続ける。
「まぁ、噂ぐらいはね。それにこれは馬鹿にしにきたわけじゃないんだ」
「では、なぜ?」
否定する彼。呆れ気味に私は理由を聞き返した。
「君のお友達がいるかもしれないのに、傘一本はなんか申し訳なくてさ……まてよ、目に見えない子が濡れるのか……? うーん……?」
私の問いに、彼は唸りながら真剣に考え込む。
(この人は一体……?)
言葉から感じ取れる無垢な感情、今まで私をバ鹿にしてきた者たちとは違う感覚。
「と、とにかく気を悪くしたら悪かった。もちろん友達も……怒ってたりしないよな?」
心配した彼は、キョロキョロと周りを見てお友達を探す。
あの子はあの子で雨の中を走り回っている。
私一人が、こんなカオスな空間にポツンと残されている。
「元気に雨の中走り回っていますよ」
「まじか……。傘必要なかったかな……?」
私が見つめる先を彼は追うように見つめる。そして私に視線を戻すと、苦笑を浮かべていた。
変な人。本当に変な人だ。
それと同時にそんな変な人に興味が出てしまった私も、等しく変人なのだろう。
「見えていないのに、私の言ったことを信じるんですか?」
再びの問いかけ。私の言葉に彼は小さく笑みを浮かべると、静かに語り始めた。
「目に見えるものが全てじゃない……なんて、ありきたりな言葉かもしれないけどさ」
彼はあの子がいる場所を見つめて続ける。
「目に見えるものが全てなら、希望や奇跡だって存在しないものになっちゃうじゃんか。そんなの面白くない」
恥ずかしがりもせずに語る彼。
その言葉を聞いて、私の胸が少しだけ高鳴るのを感じる。
「説明できなくて、奇跡としか言いようがないものを感じたことがある。それだって確実に目で見たものじゃないんだ」
いつの間にか、私は彼の言葉に聞き入っていた。
「だから、君のお友達が居ても何もおかしくない。それに存在した方が楽しいし、なんなら俺も友達になりたい……かな」
彼がそう言い終えると、沈黙が訪れる。
雨音だけが響いて十数秒。
「くすっ」
はじめに沈黙を破ったのは私の方だった。無意識に微笑みがこぼれてしまったのだ。自分でも意外だと感じる。
彼のまったく臆することなく語る姿が、まるで希望に満ちた冒険家とか、竜に挑まんとする勇者にすら見えた。
まるで物語の人物だ。
「……笑うことないだろ?」
むーっと少し拗ねたような表情を見せる彼。
なんと言えばいいだろうか。少し愛らしくも感じてしまう。
「ではあなたは……ルビーの大地や、サファイヤの海があると私が言えば、あるって信じてくれるんですか?」
笑いまじりに私は冗談っぽく言ってしまう。彼は同じように笑みを浮かべてくれた。
「あぁ、なんならダイヤモンドの山とか、エメラルドの川なんてのもいいな。きっと綺麗だ」
雨音にかき消されて、他には聞こえない二人だけの声。
「そんなに綺麗な場所、私一人ではもったいないですね」
「ははっ、なんなら一緒に探しに行くか?」
「くすっ、それではまるでスカウト……」
その言葉を呟きかけて、私はハッと今日のことを思い出す。
やたらと元気が良かった『お友達』
ここに連れ込んだのは、もしかして彼と私を引き合わせるためだったのではないだろうか。
そして彼が言った言葉。
目に見えるものが全てではない——
こういうのはなんと言うのだろうか。
目に見えないけど、確かに感じた感覚。
ありきたりな言葉で言うのなら。
運命。
目に見えないけど、きっと存在しているもの。
「あっ、そうだな……。まずいまずい、軽率にこんなこと言うべきじゃ」
「いえ!」
私は自分でもびっくりするぐらいの大声をあげてしまう。彼はキョトンと言葉を失った。
「私……私と探しに行きませんか? ルビーの大地、サファイヤの海、ダイヤモンドの山に、エメラルドの川……」
もしかしたら彼は、私の全てを受け止めてくれる人かもしれない。
微塵の疑問も感じず、あの子のために傘まで用意してくれた彼ならばと、私は手を差し出す。
運命を逃すほど、私はバ鹿じゃない。
「よろしく……お願いします……」
私はじっと彼の顔を見つめる。
彼は少しだけ考え、そっと私の手を握った。
「あぁ、一緒に見つけに行こう! まだ目には見えないけど、確かに存在している場所を」
これが私。マンハッタンカフェと彼の出会いの話。
雨は嫌いじゃない。
彼との出会いを雨音が思い出させてくれるから。
ぼちぼちと