トレーナーはウマ娘に……。   作:あさのひかり

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俺の名前は

 一時限目も終わって、カフェと別れた俺はアジェナの部室に籠もっていた。何か問題があっても困るから。という理由で実質上の軟禁を受けているような状態だ。

 時間を持て余してしまうので、とりあえず溜まっている書類を片付ける。しかし、こんな状態になったのが上半期のレースが終わった後でよかった。

 マックイーンの天皇賞・春の二連覇。

 そしてライスの日本ダービーの出場も終わって、カフェは来年度からの本格参加予定だし、ゴルシは……好き勝手やってる。ダイヤは入ったばっかりだからまだ調整中。

 出場の決まっているレースのない今は調整時期なのだ。

 これがレースの詰まっている時期だった場合、彼女達の負担にもなりかねない。トレーナーという立場上、それだけは絶対に避けなくてはいけない。

 

 特にライスは大事な時期だ。

 クラシック期の三冠路線というと、一生で一回しか参加できないレースが存在する。

 皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、そして菊花賞。ダービーから菊花賞までは少し期間がある。もちろん調整や成長の時期だから気を緩ませるわけにはいかないが……。

 

 問題は山積みだ。

 もう少しすると、夏の合宿時期も始まる。こんな体で合宿なんてついていくことができるんだろうか?

 さらに理事長の言うように、戸籍が用意できたとしても、以前のようにトレーナーを続けられるのだろうか? ウマ娘の体と人間の体じゃあまりにも違いが多すぎる。

 

「はぁ……」

 

 深いため息が部屋に響き渡る。

 タキオンからは特に連絡もなく、戻る方法も分からないし時間がかかる。的なことを聞いてから、チームのメンバーにはなるべく見せないようにしたが、不安は残る。と言うかもはや不安しかない。

 じっと机の上に置かれた『ウマ娘用』のジャージを見つめる。

 あの後、その服装では動きづらいだろう。とたづなさんが持ってきてくれたものだ。時間がありすぎるものだから、書類整理も終わってしまった。ジャージを掴むと立ち上がる。

 

「着替えるか……」

 

 最初の方は少しだけ興奮したが、自分の体と思うとあまり湧き立つものがない。着替えも彼女らに色々と触られて、ダイヤとはお風呂すら入り……なんか慣れてしまった感はある。いや、慣れるべきではないのだが……。

 俺は服に手をかけて脱ぎ始める。ぱさ、ぱさ、と床に着ていたものが落ちる音に続いて

 

 ガチャ――

 

「あ」

 

「へ?」

 

 俺は下着姿のままで扉を見ると、書類を持った女性の姿があった。

 

 互いに固まること数秒——

 

「ごご、ご! ごめんなさいっ! あの、すみませんでしたっ! ノックもせずに!」

 

「あー、えっと……その、気にしてないので……扉を閉めてもらえれば……」

 

 固まっていたため、女性は行動を完全に忘れていたのだろう。俺の姿は廊下から丸見えだ。さすがに恥ずかしいので、扉を閉めるように促す。

 

「あぁぁっ! ごめんなさいっ!」

 

 ばんっ、と勢いよく扉を閉める女性。そして部屋に二人っきり。まずい状況かもしれない。

 俺は不審ウマ娘。そして確か彼女はトレーナー。俺は脱いでるし、完全に変なやつだ。

 

「えっと、あの。アジェナのウマ娘さんですか……?」

 

「先に着ていいですか?」

 

「あぁ! 私ったら、どうぞっ!」

 

 答えに困る。何か答えなければ不審だし、答えても後で困るような嘘はつけない。俺はジャージを着つつ、内心答えを考える。

 

 確か彼女は『桐生院』とか言ったか。トレーナーの名門家らしい。URAファイナルでは彼女の担当したウマ娘と競り合ったこともあった。俺が表にあまり出ないだけあって、交友関係は持っていなかったが……。

 

 彼女がどこまで嘘に気付ける人間かも分からない。

 こんなところで自分の交友関係の薄さが欠点になるとは思わなかった。彼女の少し赤くなった表情を確認しながら、小さくため息をついた。

 

「えっと、詳しいことはまだ言えないのですが……。お……私はアジェナのウマ娘ではありません」

 

 とりあえず『俺』と言う言葉を封印して、言葉を始める。なるべく濁しながら、言えるだけの情報をつなげる。

 

「実はアジェナのトレーナーに少々厄介ごとがありまして、その代わりで私がトレーナーとして参加することになったんです」

 

「えぇっ!? トレーナーさんだったんですか? えっと、厄介ごととは……?」

 

 びっくりして桐生院さんは書類を落としてしまう。

 

「すみません。理事長からまだ発表するなと言われているんです。なので、えっと……また後日、挨拶させてもらいますね?」

 

 彼女の落とした書類を拾い上げると、彼女に渡す。そしてとりあえず申し訳なさそうにスマイル。

 

(納得してくれ桐生院さん……!)

 

「……わかりました」

 

 一瞬考えた顔を見せるが、笑顔で俺に返してくる。うん、なんとかなったと考えよう。

 

「貴女にも事情があるんですね。でも、困ったら是非頼ってください!」

 

 ギュッと手を握られる。桐生院さんの瞳はどこか輝きを持っているように見えた。

 

「貴女にとって私は『先輩』ですので」

 

「え、あ、はい……」

 

 ……理解した。

 彼女はどうやら『後輩』ができたと喜んでいるようだった。たしか、俺と桐生院さんは同期のはずだ。

 

 三年間——

 

 色々トレーナーが出たり入ったりしたが、彼女は名門ってこともあって、遠慮して話しかけてくる人も少なかったのだろう。きっと交友関係も多くはないのではないか?

 

「しかしウマ娘でトレーナーさんですか……。相当頑張ったんじゃないですか?」

 

「目標に向かってがむしゃらでしたから。頑張ったかと言われると……それは貴女もですよね? 桐生院さん」

 

「あれ、私のこと知ってるんですか?」

 

 あ、やばい。

 油断してたのか名前を呼んでしまった。彼女は少し驚いたように首を傾げる。とりあえず取り繕うように言葉を続ける。

 

「トレーナーの名門。桐生院家の桐生院葵さん。URAファイナルでハッピーミークを決勝まで導いた敏腕トレーナー。知らないわけないじゃないですか」

 

「そんな……私はまだまだで……」

 

 いやいや、と謙遜の言葉を顔を赤くして言う桐生院さん。うん、まだ話題を逸らすことができる。彼女はどうやら褒められることに弱いらしい。

 もう一押しだ。

 

「そんなことないです! 私は貴女とこうやってお話しできる事、光栄に思います」

 

 羨望の眼差しで彼女を見つめて、手を取ると。

 

「先輩……? これからよろしくお願いしますね?」

 

 魅惑のささやき。そして、少し上目遣いに訴える。

 

「は、はい! なんでも聞いてください!」

 

 桐生院さんは顔を真っ赤に、頷いて見せた。すまない桐生院さん。今は何も知らない後輩枠という事で、俺のことを許して欲しい……。

 とりあえず話を逸らすことに成功。意外な話術の才能に自分自身驚いている。

 あとは彼女がこの部屋を出て行ってくれれば平穏が戻るのだが……ふと俺は、彼女が持っている書類を見る。

 

「そう言えば、桐生院先輩は何をしにここに……?」

 

「あぁっ! そうでした! 今月の選抜レースの出走表を配ってたんです!」

 

 そう言って俺に書類を渡す桐生院さん。もうそんな時期なのか。とそれを受け取って中身をぴらぴらと確認する。

 

「確かに受け取りました」

 

「もう少し話してたかったんですが……これを配らないといけないので……」

 

「今度ゆっくりお茶でもしてお話ししましょう?」

 

「そうですね。これからは会うことも多くなるでしょうし」

 

 今にもスキップしそうなほど嬉しさが見て取れる桐生院さん。そんな彼女を見てると、騙してるようで少しだけ心が痛む……。

 

「それでは私はいきますね?」

 

「はい、これからまた今度。桐生院せんぱ」

 

「葵。でいいですよ?」

 

 彼女は扉から出て行こうとすると、俺の声に一旦止まった。

 

「じゃあ、えっと……葵先輩」

 

「はいっ、ではまた!」

 

 そして改めて俺の言葉を聞くと、彼女は部屋を後にして行った。ほぼファーストコンタクトで、下の名前で呼ぶほど仲良くなってしまった……。

 どっと疲れが来たから、俺は部室のソファーに腰掛けて項垂れる。

 

「たづなさん……誰も来ないように手配してくださいよ……」

 

 心の中の声が思わず出てしまったのだった……。

 

………………

…………

……

 

葵Side

 

私はルンルン気分で廊下を歩いています。

書類を配っていたところ、なんと美しい尾花栗毛のウマ娘さんと出会いました。詳しくは話してくれませんでしたが、トレーナーとして採用されたとか……。

最初は不審者かと思いましたが、彼女が嘘を言っているとは思えませんでした。嘘であれば理事長に聞けばすぐ分かることですし。

 

何より、信頼せずに交友関係を築けるはずもありませんから。そして、私を慕ってくれる『かわいい後輩』なら尚更のことです。

 

葵先輩と呼ぶ声。

私を見つめる眼差し。

あの時感じた感覚は初めての感覚です。

 

「えへへ……」

 

 あの可愛らしい声で『先輩』と何度も言われたことに顔が緩んでしまいます。きっとこれから大変なこともあるでしょうし、私が『先輩』として導いてあげなくては。

 

 ……そう言えばアジェナを担当すると言っていましたね。

 

「……ん?」

 

 あのチームを……?

 

 ターフの名優メジロマックイーン

 日本ダービーで好成績を残したライスシャワー……。

 さらに、デビューしてない子でも、模擬レースで名だたる現役ステイヤーを退けるウマ娘が所属してるチームを?

 

「もしかして私はすごく失礼なことをしてしまったのでは……」

 

 いきなりチームを担当するとなると、彼女が新人だった場合、仰天な采配。まず有り得ないことだと思います。

 私はチームをまだ持ててないのに、彼女はチーム持ち……もしかしてすごい経歴の持ち主なのでは……?

 凄まじい先輩風を吹かせてしまったのでは……?

 

「あぁぁぁ……今度会ったら謝ろう……」

 

今までの気分の高揚は、一気に落胆に変わったのでした……。

 

………………

…………

……

 

 ストレッチしたり、たづなさんが持ってきたお昼ご飯を食べたり。その他書類の整理までしっかり終わってしまった午後。

 授業も終わり、部室にはメンバーが集まってきた。そして俺の目の前で、無言で何か牽制しあっている。

 あのゴルシですらそうなのだから、異常事態だ。

 

「それで、トレーナーさんの名前ですが」

 

 静寂を破ったのはマックイーンだった。彼女が言葉を発した瞬間、全員がそっちに注目して場が凍りつく。

 

「もう午後ですし、トレーナーさんも名前を思いつかないようですから、私たちも助力しようかと……皆さんいかがでしょうか?」

 

「「「異議なし」」」

 

 俺の知らぬところで話が進んでしまっている。決定権はすでに彼女たちに委ねられてしまったのだろうか。

 

「まず、トレーナーさんの初めての担当ウマ娘は私ですし、我がメジロ家のトレーナーとしても有力視されていますから、トレーナーさんは『メジロ』の名がふさわしいと思いますの」

 

「はははっ、いい冗談だなマックイーン! 流石のゴルシちゃんも笑っちゃったぜ」

 

 ゴールドシップの言葉に、マックイーンは首をグイーッと傾げ、冗談なんて言ってないのだが。といった仕草を見せた。

 

「いえ、冗談などでは」

 

「やっぱり『サトノ』がついてた方がいいですよね? だって最終的には私の家にくるのですし」

 

 割り入るようなダイヤの発言。

 

「は?」

「んー?」

 

 血管が浮き出るほど笑顔で怒っているマックイーン。なんですかー? と言った表情を浮かべるダイヤ。一触即発だが、手を出さないところが彼女たちは偉いと言えるだろう。

 

「……コーヒーの品種とかどうですか?」

 

「ライスはっ、えっと……この絵本のお姫様みたいなのがいいと思う……!」

 

 会議は踊る。されど進まず——

 全員が全員、別々の意見を言い合い、誰かが退くという意思はおそらくない。

 この場には譲歩という言葉がないのだ。そしてきっとその矛先は、いずれ俺に向くのだろう。

 

 多分マックイーンが

 

『結局どれがいいかはトレーナーさんに決めてもらいましょう』

 

 と言い出すに違いない。

 

 ここ数年付き合ってきたんだからわかる。俺ができることといえば、ここから退散することだけだ。幸い皆は言い合いに夢中になっているから、まだ俺に注意が向いていない。

 

 ゆっくりと、細心の注意を払いトレーナー室の窓を開けて、外に誰もいない事を確認する。

 スリッパだが仕方がない。

 すまないみんな。俺の名前はきっと自分が決めないとダメなんだ。特に『メジロ』や『サトノ』なんて恐れ多い。メディアになんと書き綴られるかわかったものじゃない。

 

 部屋が一階で助かった。俺は部屋から抜け出して、なるべく誰にも見られないように駆け足で離れていった。

 

「で、トレーナーさん……あら?」

 

 マックイーンが声を上げる頃にはその姿がなかった。

 

………………

…………

……

 

「うわぁ、綺麗な人だ」

 

「生徒かな……。新入生とか……?」

 

「私知ってる! 今日登校のときに……」

 

 駆け足で走っていくと、流石に何人かのウマ娘やトレーナーに見られてしまった。あの空間の中で皆に問い詰められるよりは、マシと思いたい。

 周りから聞こえる黄色い声を置き去るように走る。どこか静かなところはないだろうか。

 学園だと校舎裏、体育館裏とかがいいだろうか……? いや、むしろそういう所は、たまり場になりやすいか。正直まだ誰にも見られたくないのだが、外を走っている以上それは避けられない。

 いっそこのまま帰ってしまうか。たづなさんや理事長、チームメンバーには後で連絡すれば……。

 

「あれ?」

 

 

 暖かな風が吹き抜けて、頬を撫でる感覚にハッと気付かされる。思考の海から引き上げられた意識は、違和感に気づく。

 その違和感——

 聴覚が鋭くなったからすぐに気づいた。

 さっきまで聞こえていた、ウマ娘たちの声が聞こえなくなった。耳をぴくりと動かして澄ますが……何も聞こえない。

 あたりを見ると、誰もいない。それも不自然なほどに。

 

「三女神像の前か……」

 

 普段ならこの時間、下校する生徒やトレーニング前のウマ娘がこの辺りにいるはずなのだ。

 静かすぎるが、それでいてなんだか温かい感覚も感じる。

 違和感と不安からか、俺は無意識に、足で地面をずりずりと前掻きしてしまう。

 とりあえず、気持ちを落ち着けるように瞳を閉じて深呼吸する。

 

 深呼吸をすると、鼻腔をくすぐる懐かしい香り。

 なんとも心地がいい。

 心地よさに、意識が溶けるようだ……。

 

「あなたは、こちら側に来てしまったのですね」

 

「っ!」

 

 瞳を閉じている時に、ふと聞こえる声に振り返る。そこには、白いワンピース……いや、ギリシャ彫刻が着ているような衣装の少女が立っていた。

 耳と尻尾を兼ね備えた彼女は、おそらくウマ娘なのだろう。鹿毛で特徴的な大きな流星模様を持っている。

 懐かしい香りは彼女からだった。

 その表情は読み取りにくいが、笑みを浮かべているように見える。

 

「えっと、迷子かな……? って、学園に迷子とかいるのか……?」

 

 俺は彼女に近づこうとするが、歩み寄ってもその距離は縮まらない。白昼夢でも見ているのだろうか……?

 

「こちら側にきたのに、名がないのは不便でしょう?」

 

 少女の優しい声は、まるで俺の心に染み込むかのよう。

 

「え? 名前……?」

 

 少女とは思えない落ち着いた声に、聞き入ってしまう。どうしてこの少女が、俺が名前決めを悩んでいる事を知ってるのだろうか。眠気を感じるような心地よさが俺の思考を鈍らせる。

 

「そうですね……あなたは……」

 

 そんな俺をよそに、少女は言葉を続ける——

 

 スーッと心まで入ってくるような声色に、俺の瞳は虚に少女を捉える。

 

「星々を束ねる天球の王。あの子たちをどうかよろしくお願いしますね?」

 

 まるで何かを届けるかのように、少女は俺に手を差し伸べる。

 少女の手の中に光が灯り、そしてその光は俺と少女の間を漂う。それが俺の胸の中に入り込む。

 

「あなたは『レクスセレスティア(天球の王)』」

 

「っ!」

 

 光が胸の中で弾ける。彼女が発したその名前に、頭痛を感じてふらつく。

 そして、まるで心に刻まれたかのようにその名前が、昔から自分のものであったかのように感じる。

 

(俺は昔から、生まれた時から……)

 

「……さんっ!」

 

(『レクスセレスティア』この名前は俺の名前で……)

 

「トレーナーさんっ!!」

 

 体を揺らされて俺はハッと意識をはっきりとさせた。俺を揺さぶる者の正体はマックイーンだった。

 

「トレーナーさんっ! 大丈夫ですのっ!?」

 

 心配そうな表情。周りを見ると様々なウマ娘たちが俺を見つめていた。

 

「大丈夫……だけど……えっと、俺は何を? あの子は……?」

 

 あたりを見回しても、俺に話しかけてきた少女の姿はない。いるのはマックイーンと、トレーニングに向かおうとしてるウマ娘たちだけだ。

 

「ボーッと何にも反応せずに立ってたんですのよ? あの子……? 本当になんともありませんの……?」

 

 マックイーンは確認するように顔をぺたぺたと触る。頭を打ったとでも思ったのだろう。

 

「いやなんともないよ」

 

 自分で感じる体調の悪さはない。本当に心労で白昼夢でも見たのかもしれない。

 しかし少女が言ってた言葉。

 

 レクスセレスティア——

 

 これは確かに俺の名前にちょうどいい。妙に納得いってしまう。

 まるで昔から自分の名前だったかの……ようで……。

 

「あれ?」

 

 そこで違和感に気づく。

 その違和感にトクトクと心臓が強く脈打つ。対象的に、背筋が冷えるような血の気の引く感覚。俺はマックイーンの顔を見て、彼女の肩を両手で押さえる。

 

「俺の名前って……レクスセレスティアで合ってるよな……?」

 

 いや、『合ってるはずがない』のだ。それなのに、俺は人だった時の名前を思い出せない。

 

「なにを言ってますの?? トレーナーさんは……という名前でしょう?」

 

「……誰だそれ」

 

 思わず黙り込んでしまう。マックイーンの言った名前を聞いても、他人にしか思えないのだ。

 マックイーンが嘘を言うはずがない。おそらく合っているのだろう。しかし、すっぽりと忘れてしまっている。まるでそんな人間、元からいなかったように。

 

「やっぱり頭を打ったんですのっ!?」

 

「そんなはずは……」

 

 マックイーンが慌てるのも仕方がない。長年使ってきた名前を思い出せない。は大事だ。

 彼女はスマホを取り出して。

 

「じいや! 今すぐ病院に手配を! トレーナーさんが!!」

 

 マックイーンは呆然とする俺をよそに、捲し立てるように病院の手配をしていた。

 すぐに学園に現れたメジロ家の使用人に連れられて、病院に行くことになるのだった。

 

………………

…………

……

 

「本当に異常はないんですのね?」

 

「はい、彼女は健康そのものですよ。脳波にもCTにも異常は見られません。血液検査も、内臓、心肺機能も全て問題ありませんよ。健康な『ウマ娘』です」

 

「そう……ですか……」

 

 メジロの主治医の話を聞いて、マックイーンは胸を撫で下ろしていたが、納得はいっていないようだ。

 俺は体の隅々まで調べられて、あらゆる検査を受けた。疲れが溜まっているが、検査が終わる頃には、全くと言っていいほど頭痛もボーッとすることもなくなっていた。

 

「でも記憶の方はどうすれば……!」

 

「マックイーン」

 

 不安からか医者に食ってかかろうとしたマックイーンを抑制する。これだけで検査して異常がないのだ。おそらく何を調べても今は無駄なんだろう。これ以上検査しても時間が無駄になるだけだ。

 

「体は大丈夫なんだ。名前以外はちゃんと覚えてる。今は様子を見よう」

 

「……わかりました」

 

 納得いかない様子のマックイーンを連れて、診察室を後にする。

 待合室にはたづなさんの姿が見えた。

 

「トレーナーさん!」

 

 俺を見かけるなり駆け寄ってくる彼女。大声で名前を呼ばれれば、俺は苦笑しながら、口の前に人差し指を立てて静かにのジェスチャーを送る。

 

「あっ、すみません……」

 

 恥ずかしそうに頬を掻きながら彼女は話を続けた。

 

「検査の結果は……?」

 

「体はどこも問題ないです。ただ名前の方はまだ……他の記憶は大丈夫なんですが……」

 

「そうですか……アジェナの子達にはしっかりと伝えておきました。みなさんついてくるって聞かなかったんですよ?」

 

「ははは……。ご迷惑をかけました……」

 

 容易に想像できる光景に乾いた笑いが出る。慕われていることはもちろん嬉しいのだが。

 

「トレーナーさん。やはりしっかり入院して検査を……」

 

 マックイーンが俺の手を引く。そして不安そうな表情で俺の顔を見つめた。

 

「出来る限りの検査はもうやっただろ? これ以上できることはないし、マックイーンのおかげで体がどうもないことがわかった。今は良しとしよう」

 

「……ではせめて! いつでも対応できるようにわたくしの家で経過観察を!」

 

「え? メジロのお屋敷で?」

 

 それは流石に申し訳ないし、恐れ多い。助け舟を出してもらえるようにたづなさんを見つめる。たづなさんは少し考えたように俯いた後に。

 

「そうですね。マックイーンさんの家ならば安心して任せられます」

 

「ちょっ、たづなさん!?」

 

 まさか肯定されるとは思っていなかった。

 

「トレーナーさんは今日学園で目立ちすぎました。噂は学外まで広がっていて、マスコミも『謎のウマ娘』の情報をつかもうとしてます」

 

 本意でなかったとはいえ、学園のいろんな人に姿を見られたのが仇になったか。

 しかしそこまで情報が広まるとは、本当にウマ娘関連の情報は早い。改めてトゥインクルシリーズがどれだけ注目されているかを実感する。

 

「その点メジロ家のお屋敷ならセキュリティも完璧でしょうし、トレーナーさんの安全も確保できます。明日から休日ですし、戸籍の調整ができるまで……どうでしょうか? 」

 

 確かに、部外者絶対NGなメジロのお屋敷なら、俺の安全は確保できるだろう。たづなさんのその説明は理にかなっていた。

 

「俺なんかがメジロ家にお世話になる資格ありますかね……?」

 

「……」

 

「……」

 

 マックイーンとたづなさんは互いの顔を見ると、同じように呆れ顔をして。

 

「「はぁー」」

 

 二人は、ながーく深くため息をついてみせる。

 

「トレーナーさんにその資格がなかったら、この世界の誰も資格なしですよ」

 

「そうですわトレーナーさん。いきすぎた謙遜はいやらしいですわよ……?」

 

 そういった意図はなかったのだが。

 メジロ家といえば、名門中の名門な訳で……前もお屋敷に行った時に場違い感を覚えた。そんな階級の出身じゃない俺にはもったいないほどだ。しかし、背に腹は変えられないか。万が一見つかってマスコミに揉まれるのも困る。

 

「……わかった。世話になるよマックイーン」

 

「私は学園に戻って理事長にその旨を伝えておきますね」

 

「お世話かけます」

 

「いえいえ、これが私の仕事ですから。では」

 

 一礼して去っていくたづなさんを見送り、マックイーンと二人きりになる。

 

「では、車を手配致しますので、暫しお待ちを!」

 

 どことなくウキウキしているマックイーン。ふんすふんすと鼻を鳴らして、尻尾が忙しなく揺れている。大丈夫かな……と不安を抱えながら、俺はしばらくメジロのお屋敷にお世話になることになったのだ。

 




彼女は、星々を司る天球の王
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