※
「……?」
椰子の下の木陰で本を読んでいると、海の音に紛れて変な音が聞こえたような気がした。ぱたん、と本を閉じて隣に置き、砂を払って立ち上がる。
おじさんの漁業の手伝いついでに、外礁上のお気に入りの小さな島にあげてもらって、おじさんの仕事が終わるまでのほほんと自由な時間を満喫していたわけなのだけれども。海の方からだよね、もしかしたら深海棲艦とやらが上陸してきたのかな、なんてちょっと不謹慎なことを考えながら音の出所を探す。
『昔は、この辺にもうようよ深海棲艦がいてな』
この防空壕に息を潜めてよくこもっていた、と以前夏島のその場所を見せながらおじさんが呟いた。今のトラック諸島はなんとも穏やかなものだったから、そんな様子はとても想像がつかないけれど。きっと、今でもラバウルやガダルカナル島辺りはそのような様相なのだろう。
鬱蒼と茂る木々を抜け、海へと出る。きょろきょろと辺りを見回して、やっぱり気のせいだったかなぁと思ったところで──少し離れたところの珊瑚礁に乗り上げている、なにかが見えた。
「……あれ、って!」
そうしてよくよく目を凝らしてみれば、その珊瑚礁の周りがじわり、じわりと赤くにじんでいるのが見え。思わず駆け出すのであった。
※
前線基地がトラックに築かれたことを、ひどく呪った。敵深海棲艦の砲弾の嵐をかいくぐり、煙幕を使ってうまく目をくらませ。そうやって逃げまどっているうちに、いつの間にかショートランドよりもトラック基地の方が近い地点へと流されていたのだ。それでも、トラックまでの道のりはあまりに遠く。早く、早く帰らなければと焦れば焦るほど、望めば望むほどにトラック諸島は遠のくようであった。
敵深海棲艦から逃げ回りながらトラックを目指している間、のわっちの意識は一向に回復する兆しすら見せなかった。艤装に接続している限り死ぬことはないけれど。それでも、彼女の右腕は長いこと放置をすれば後遺症が残りそうなほどにひどかった。もしかしたら、見えていないだけで、本当は脳だってやられているのかもしれない。そういう嫌な想像がもたげるたびに被りを振って、弱い自分を奮い立たせた。
途中で夜を挟んだのもよかったのだろう、どうにかこうにかトラック諸島を視界の端に捉えたとき。思わずほっとしてしまったのがいけなかった、いつもならしないヘマ、トラックの外礁に乗り上げてしまい、そのまま倒れこんでしまったのだ。
まだ、だめだ。夏島までいかないと、治療が受けられない。そう思って体を起こそうとしても、もう体に力なんて残っていなくて、あたしの手はぱしゃり、と海面をなぜるだけにとどまった。
まだ、だめだ。ちゃんと、ちゃんと今度は助けないと。そう思うのに、ちっとも言うことをきかない体に泣けてきた。ちょっとわき腹を切ったくらい、ちょっと血を多く流したくらい、なんだ。動け、動いてよ。悔しさで思わずぎゅっと拳を握りこむ。
「ちょっと、大丈夫ですか!?」
最初は、幻聴だと思った、弱いあたしが作り出した幻なのだと。こんな外礁の無人島に人なんているわけがない。だけれども、ぱしゃぱしゃと浅瀬を駆けてくるような音は次第に近づいてきて、そうしてその幻覚はあたしの目の前で立ち止まって大声でまた声をかけてきたのだ。思わず彼女の服の裾を掴む。そうしてそれが掴めたことに安堵した、少なくともこれは幻覚ではないのだという希望が、あたしの中のなけなしの力を奮い立たせた。
「あた、し、は、いいから。この、子を」
視界が霞む、声は枯れてうまく発声すらできない。それでも、それでも藁にもすがる思いでその人に助けを求める。
「……」
「おね、が」
血塗れのこの姿は一般人の彼女には相当ショッキングだったのだろう。あたしの上で一緒に倒れ込んでいるのわっちの艤装に触れていた彼女が微かに息を飲む気配を感じ、それでもこんなひどい有様であるあたし達から逃げないで助けてほしいとすがった。
頼みの綱の彼女は微動だにしない。意識が、揺らぐ、落ちそうになる。ダメ、まだ。まだ、あたしは。
「──舞風?」
頭がぼんやりとして、何を言われたのか理解することができなかった。それが自身の名前だと思い至った時、背中の重みが急に軽くなる。
「──!」
あれ、のわっちの知り合い、かな。聞き覚えのない名前を叫びながらその人がのわっちを抱き起こしたのだと理解して。等々意識を手放した。
※
「なんか、騒がしくない?」
最終決戦に向けての調整のため、手元の資料にざっと目を通しながら神通と共に医務室へと向かっているときだった。圧倒的修復力を誇り、削れども削れども平然とした姿で目の前に立ちふさがり続けていた駆逐水鬼ではあったものの、ショートランドからの艦隊再編成による高回転出撃が功を奏したのか、ようやっとあいつの修復力も追いつかない域にまで追い詰めることができた。だけれども、それはこちらにしても諸刃の剣であり、幾度となく未分類人型個体及び駆逐水鬼とやりあったことで行方不明者が数名、そうして轟沈した者も増えてきていた。高速修復剤ももうカツカツで、次でアイツを叩けなければもう撤退せざるを得ないだろうというところまであたし達も追い込まれていた。
次の出撃であたしらが勝てば勝ち、負ければ──深海棲艦の巣をしばし放置して撤退するはめになるのだ、このトラック前線基地すら危うくなるかもしれない。
微かな苛立ちと共に最終決戦へと組み込む者をどうしたものか、と考えながら医務室に足を進めればなにやら騒々しい。なんだなんだ、このクッソ忙しいときに、と苛立ちと共に呟くと、思わず隣にいる神通に窘められた。
「夜の姉さんの方がよっぽどうるさいですよ」
「ぬぐっ」
「まぁ、それは置いておいて。確かに騒がしいですね」
歩を進めていると、徐々に徐々に人混みが増えてきた。一体なんなんだ、とその人の波をかき分け先へと進むと、何やら言い合いをしているような声を拾う。
「だから、部外者はここから入っちゃダメなのです!」
「私はその子の姉だってば! それから──」
「親族でも、ダメなものはダメなのです!」
「なに、何の騒ぎ」
このクソ忙しい時にどこのどいつだ、騒いでんのは。そのツラを見てやろうと電の頭をおさえてひょっこりと覗き込む。
「このお姉さんが無理矢理医務室に入ろうとするのです!」
「舞風と妹のところに行かせて!」
「いや、艦娘は軍の機密だからね、無茶言わないでよ」
呆れてそいつと相対する。歳は自身と同じくらいか、あるいは下か。なんとなく育ちの良さそうな雰囲気が滲んでいるのがわかる、そんなやつがなんでこのトラック基地にいるのかは知らないけれど。
遅れてやってきた神通がパニックを起こしていた電をなだめていると、必死な形相でそいつがあたしにつっかかってきた。
「だから私は!!」
「……の、わき?」
──カラン、カララ……。
金属トレイがリノリウムの床で跳ねる音がして振り返る。ちょうど医務室から手当て用の資材を取りに行こうと出てきた雪風が、お化けでも見たかのような顔でそいつのことを凝視していた。
「雪風!」
「……なん、で」
「……知り合い?」
そういえば舞風のことも知っているようだった。事態が飲み込めず、イライラと雪風に視線をやり問い詰めようとすると、雪風がぽろり、と言葉を零した。
「死んだ、はずじゃ」
「は?」
「……野分?」
なんだ、何が起こっている。呆然とそんな言葉をこぼした雪風を見やると同時に、騒ぎを聞いてやってきたであろう時雨があたしの後ろからそいつの名前を呼んだ。
「……もしかして、時雨? 随分大人びたね」
一瞬の間をおいて、戸惑いながら野分、と呼ばれたそいつが時雨に歩み寄る。それに対して、雪風ほどではないものの静かに驚いていた時雨は表面上はいつも通り、落ち着いた声音で対応した。
「改ニ艤装の影響だよ」
「へぇ、おめでとう。寝癖ついてるよ」
「ただの癖っ毛だよ」
「前ストレートだったじゃん」
「……改二艤装の影響だよ」
「……なんで?」
「知らないよ……」
ふーん、と言いながらぴこぴこと時雨の跳ね返る髪の毛を弄んでいるそいつにイライラが募る。
「ちょっと。勝手に不法侵入して和やかに会話しないでくれる?」
「そういえば私って籍まだある?」
「あるわけないだろう」
「そっか、そうだよね。ね、提督はまだ提督やってるの?」
「ピンピンしてるよ」
「……話を」
「ああ、すみません。何分、久しぶりだったもので」
そうしてようやっと、そいつ──なぜだか、雪風や時雨から野分、と呼ばれている女が、こちらに体ごと向けて綺麗な敬礼をした。海軍式の、綺麗な敬礼を。
「呉の提督に言付けをお願いできないでしょうか」
「……なんて」
「陽炎型駆逐艦、野分。死にぞこないました。それから、そうだな」
真面目な顔をして淡々とこちらに話しかけてきた野分らしいそいつは、そこで言葉を切ると、に、と勝気な笑みを浮かべながら。
「帰ったらお詫びに一曲披露させて頂きますから、リクエスト考えておいてください、って言えば伝わるかな?」
と、そう続けた。
ああ、なんかよくわかんないけど。あたし、多分“野分”に適性を示すやつが合わないんだな、根本的に。こいつといい、あいつといい。クソ生意気そうなツラしてて鼻につくったらない。
「あ、あとですね」
「まだあんの」
「すみません」
なんとなく話の流れはわかった。きっとこいつは、いつかの作戦で轟沈したと思われていた艦娘なのだろう。そんでもって実は生きていた、と。なんで今このタイミングで名乗りをあげてきたのかは知らないけれども。
「──妹の代わりに、私に出撃させてください」
そう、人手が足りない、このタイミングで。
「……足手まとい入れるくらいなら少人数で出撃するほうがマシ」
だからといって、はい、それは助かりますと懐に入れられるほどあたしの頭はお花畑ではない。こいつがどれくらいやれるかなんて知らないけれど、ブランクだってあるだろう。足並みを揃えられないやつを加えて勝てるほど、今相対している奴は弱くもないのだ。
「──問題ないと思います」
意外にもその沈黙を破ったのは雪風だった。その手の平には、艦魄が乗っていた。大破状態で運ばれてきた野分の艤装をきっと医務室で取り外したのだろう、資材を取りに行くついでに工廠に持っていくように頼まれたのであろうそれを見て、そいつが歩み寄る。
「……根拠は?」
「
そうして雪風からそれを受け取ったそいつは、すっと目を閉じて。
「うん。この子の体が、やっぱり一番馴染む」
そうして次に目を開いたときには、一瞬にしてその瞳の色を銀灰色に染め、そんな言葉をこぼした。
「……甲適性か!」
ああ、嫌になる。そんな馬鹿な、と頭では思っても心が理解してしまう。今目の前にいるやつは、さっきまで話していた奴ではないのだと。
「お願いします」
放つ存在感が違う。十数年に一度の逸材。完全に艦艇の付喪神を降ろすことができるとされる、選ばれた存在。
「行かなくちゃいけないんです、あの場所に。あの子に背中を押してもらったから。だから、今度は野分が応える番」
医務室に視線を移しながら、野分が静かに言葉を放つ。
「あいつにはあんたの声なんて聞こえてないよ?」
クッソ忙しいときに次から次へとわけわかんないもん持ち込みやがって。ここを任されるあたしの身にもなってみろ。せめてもの仕返しにと意地悪を言ってやると、ふ、と野分は表情を緩めながら。
「ええ、知ってます。
と、そんな言葉を返してきた。
そんな顔でそんなことを言われてしまえば、なにも言うことができない。がしがしと頭をかいて、ため息をつく。
「決定権はあたしにない、指令が下るまであんたは部外者。諸々の伝達で最低でも一時間はかかる、その間は外で待ってろ。それから」
神通にアイコンタクトを送り、ひとつ頷いてその場を離れた彼女の背中を見送りながら、付喪神ではなく、人であるそいつに釘を刺す。
「その間に、きちんとけじめつけてこい」
※
港に戻ると、自前の船の前でおじさんがビンロウの実を手持ち無沙汰にいじりながら私を待っていてくれていた。その顔は、こんな騒ぎに巻き込まれたこと以上にどこか疲れた様子であった。ゆっくりと彼に近寄ると、視線を合わせないまま、ぽつりとおじさんが呟いた。
「いつかこうなるんじゃないかとは、思っていた」
そこでようやっと顔をあげると、どこかあきらめにも似たような表情でこちらに向かってビンロウの実を投げる。それを受け取りながら、軽口を叩く。
「なに、もうこれやっていいの?」
「やめとけ、歯が真っ赤になったら周りのやつらにびっくりされるだろ。……餞別だ」
お前にはちと早いな、と言いながら吐き捨てた唾液が真っ赤に染まっていたのを目を丸くして不思議がっていたら笑われたあの日がどこか遠い昔のことのようだった。トラック諸島では一般的な嗜好品である噛みタバコの一種であるビンロウ。好奇心にかられて私にもちょうだいとねだってはお前には早いと断られていたその実が、今私の手のひらでころりと転がっていた。
「ここ、トラック諸島はな。今でこそ表面上は落ち着いて見えるが、それこそ数年前はすぐそこで深海棲艦とドンパチをやっていたんだ」
そう言って、海に視線をやる。そこにはいつもと変わらない、穏やかで、綺麗な海があった。
「敵の艦砲射撃に怯え、防空壕に潜り込んで息をひそめる毎日だった。ここを捨てていったやつらもごまんといる。それでも、俺はこの島をどうしても離れる気になれなかった」
私はその現実の一端を、
「だからこの島で、ずっと見ていた。……
なぜなら、私こそが。このトラック諸島を敵深海棲艦から取り返した作戦に参加した艦娘の、一人であったのだから。
「……私の艤装、どうしたの?」
「ぶっ壊して埋めた」
「おじさん、見かけによらずワイルドだね……」
トラック諸島の人達のゴミに対する概念は、基本的に自然と共に生きてきたこともあり埋めりゃ土にかえるだろう、というものだった。ビニールとか、さすがにかえらないんじゃないかなぁって思ってたけどまさか艤装も埋められるとは。おじさんの言葉に思わず苦笑していると、またふいと視線を逸らしながらおじさんが言葉を続けた。
「魔が差したんだ。きっと、艦娘になんてならなれば。あの娘達がつかめた幸せも、あったんじゃないかと」
カンムスサン! カンムスサン! と、日本語すらわからない人達でさえ、艦娘の姿を見かけるとにこにこと駆け寄ってきた。なにかよくわからない柄のTシャツを広げてはにこにこと無邪気に買って買ってとせがむものだから、お土産代わりに押しの強さに負けていくつか買ってしまった。そうやって、多分、私達は色々な人に愛されながらこの島に在留していたから。
「多くの命を礎にこの島は、俺達は守られた。それを忘れてのうのうと生きるのは、ちょっと息苦しくてな」
だから、おじさんの言っていることもわからないわけじゃない。特に、前の作戦では多くの仲間を失ってしまったから。
弱々しく、すまんな、と続けたおじさんは、そこで黙り込んでしまった。
ざぁ、と静かな風が吹く。右手にちらりと見える空港の滑走路。戦線が落ち着いてようやく飛び始めた飛行機の離陸を、現地人しかわからないであろうルートでもって案内してくれた山頂で、おじさん達と見送った。たまに出くわすカニの取り方をそうじゃないこうだこう、と教えてくれたり、バナナの葉を火であぶると頑丈になるんだと教えてくれたり。そうやって、きっとこの人が私のことを救ってくれなければ知れないことが、体験できないことがいっぱいあった。
「私、おじさんに助けてもらってよかったって思ってるよ」
「……傷が」
「え?」
「軍に返してたら、残らなかったんじゃないかと思うとな。すまない」
「もー、気にしてないってば」
それであれだけ気にしてたのか、と合点がいく。そりゃあ高速修復剤だなんだできれいさっぱりと直ることもあるけれど、傷は残るときは残る。というか、駆逐艦にとっては傷の一つや二つはただの勲章だ。
なるほど、こういう感覚はやっぱり普通の女の子ではないかもな、と内心苦笑しながらまっすぐとおじさんを見つめた。
「──行くね」
「……」
「これ、帰ってきたらやるからさ。その時に残りのキンマの葉とかちょうだい」
そう言ってビンロウの実をおじさんに見せて笑う。すると、おじさんは弱々しく笑いながら、
「ああ、やっぱりお前は不良だよ」
と精一杯の皮肉を私に送ってくれた。