※
夢を見るのだ。穏やかで、優しい時が流れる、泡沫の夢を。
歌うように。笑うように、跳ねるように。姉さんのヴァイオリンが奏でる音は、姉さんそのもの。こちらの心をくすぐって、ほころばせて。最後には鷲掴みにされるのだ。
『さて、お客さま。次は何にいたしましょう』
休日の、屋敷の一室。私と姉さんしかいない空間では姉さんは少し子供っぽくなる。
『あれがいい、いつもの』
そんな茶目っ気も好きだった。唯一可愛がってくれていた祖父は幼い頃に他界し、家の外も内もどこか息苦しさを感じていた私にとっては姉と過ごすあの時間だけが安らぎだった。
『歌、やればいいのに』
『やだよ。嫌いになりたくない』
拙いながらに彼女の演奏に合わせて歌えば、また楽しそうに音が跳ねる。二人だけの演奏会。姉はヴァイオリンで、私は歌で会話する。あの時間だけが。私にとって、楽しいと思える時間だった。
だからこそ今でも夢を見る。もう彼女はいないのだとこの泡沫の夢を冷静に見ている自分と。それでもこれは私の大切なものなのだと割り切れない自身が。視線を交差させ、夢が醒めるその時まで。
※
「──」
現実へと舞い戻ってきた私は、静かに上体を起こして横に置いてある時計を確認した。いつもと同じ時間。時計が鳴らずとも、必ずこの時間に目が覚める。
早すぎる私の目覚めに二段ベッドの下段で寝ている舞風を起こさぬよう、そっとはしごを降りた。私がランニングから帰ってくる頃にようやっと彼女は寝ぼけ眼でベッドから起き上がるのだ。
ジャージへと着替えて、なんの気なしにちらりとベッドの彼女を見やればかけ布団が少しずり落ちていた。少し肌寒いこの季節にこれでは風邪をひくだろう、と軽く嘆息して彼女に近づく。
「……」
布団をかけ直しながら。彼女の頬から流れるひと雫の涙を指先ですくう。その際に微かに溢れた寝言を、黙って聞いて部屋を後にした。
『……のわ、き』
彼女が夢の中で呼んだ名前は、私のものではない。
『暗い雰囲気は苦手なの』
そう言って表面上は明るく、それでいて頑なに心を閉ざしているのも。時折、部屋に立てかけているヴァイオリンケースに指先で触れて、じっと考えこんでいるのも。彼女の大切な人が彼女の心に影を落としているから。
「……さむ」
はぁ、と息を吐いて肺に流れ込んだ冷たい空気に身を震わせながら。今日も今日とて、まだ少しほの暗い外をひとり走り出した。
※
今日は、このあと午後から那珂さんとの個人練と、その後夜間護衛任務に赴く舞風のお見送りをできたら、して。食堂でお盆に定食をのせていきながら、今日の予定を反芻する。軽巡洋艦は駆逐艦のボス。いくら普段はにこにこしている那珂さんだからと言って気を抜いてはいけない。彼女と初めての個人練のとき、終わった後どうにか桟橋に這いずりあがったものの、そのまま昏倒したのもいい思い出……にはまだなっていないけれど。アイドルは体力勝負だよ、野分ちゃん! などと意味のわからぬことを毎回言われ、こっちがぐったりしているのにあちらがピンピンしているのもどうにも悔しくて、あれ以来早朝のランニングを日課に加えた。通常任務をこなしつつ、広報担当としてメディア露出もしている彼女は、言うだけあって体力お化けだった。
お昼に差し掛かり、そこそこ混んでいる食堂の空きスペースを探す。基本的には食堂は艦種ごとに別れているのだけれど、ここの提督の方針でどの食堂を使ってもいいことになっている。なってはいるのだけれど、さすがに戦艦や空母の食堂に堂々と一人で乱入する勇気はなかった。
「あ」
「やぁ、一人かい」
喧騒のなかきょろきょろと辺りを見回していると、顔馴染みの響が声をかけてきた。
「うん、そっちも?」
「うん、電達は猫に餌をやりに行ってる。暁はまだ演習中」
おいでおいで、と手招きをされて向かいに座る。帽子から覗く銀の髪は私よりもやわらかで、窓から差し込む日の光を優しく反射していた。艦娘は奇抜な髪色をしている者が多い。大抵は後天的に艤装との接続時間が長くなるにつれて徐々に変色していくらしく、艤装接続の日が浅い候補生が艦娘として着任する際、逆プリンのような髪色になっているのは最早風物詩らしい。そんなこんなであるから、私のこれは地毛だけれども、髪の色なぞどこ吹く風、といったここの人達の態度は存外に気楽だった。
響は母親がロシア人のハーフで、私と同じくその銀に輝く髪は地毛だ。同じ銀髪、着任したばかりなのに逆プリンになっていない私を見かけて、響がもしかしてロシア人だったりするかい、と声をかけたのが仲良くなるきっかけだった。
「猫……」
「うん、ここに住み着いちゃっててね。皆でかわりばんこで見ているのさ」
「そうなんだ」
「今度一緒にヘーハチローに会いに行こう。あいつも喜ぶ、自由気ままだけど案外人懐っこいやつだからね」
「……へーはちろー?」
「東郷平八郎からとったんだ。強そうだろう」
脳内の猫の顔が勇ましくなってしまったので、頭を振ってそのイメージを追いやった。
「いよーぅ若人、ちゃんと食べてるかー?」
「隼鷹さん、ナチュラルに駆逐の食堂にいますよね」
「だぁって空母の方はおしとやか~な空気が流れててさぁ~あんな中飯食べたら肩こっちまうよ」
「飛鷹が寂しがるよ」
「時間が合うときはあっちで一緒に食べてるよ」
響と和やかに昼食をとっていると、隼鷹さんがトレイをかかえて私の隣に座った。そうしていただきます、と食べる前に小さく手を合わせて自分の食事にとりかかる。会うたびにお酒臭いし、言動は粗雑なのにこういった所作の端々から漂う品のよさは腐っても空母ということなのだろうか。食べ方綺麗なんだよね、この人……。
「そういえば、野分はどうして艦娘になったんだい」
食事が落ち着いたあたりで、ふと響がそんなことを聞いてきた。
「どうしてもなにも、あれ、ほぼ強制じゃない」
「あれ、丙適性って今そんな感じなのかい? あたしの時はそりゃーボロクソ言われたけど」
「ボロクソって」
「空母は特に乙以上がいいってされるからねぇ。まぁごり押したんだけどさ」
あっはっは、と豪快に隼鷹さんが笑う。そういえばこの人も丙適性なんだっけ。
「本当になりたいか、とか聞かれなかったかい?」
「特に。適性が低いと死にやすいって説明はありましたけど」
「それを聞いて、よく艦娘になろうと思えたね……」
呆れるように隼鷹さんがこっちを見ているけど、同じ丙適性なのだから同じ穴の狢というやつではなかろうか。
艦娘には適性という名の格付けが与えられている。上から、甲、乙、丙、丁。甲適性は十数年に一人の逸材と呼ばれ、その身に完全に付喪神を降ろすことができる。対して、乙以下の艦娘は艦艇の夢という形で意識の共有をすることはあれど、基本的には私達、人自身が戦う。最も、艤装を介して艦艇の知識、記憶というものは引き継いでいるので、戦いにおいて一人海へとほっぽり出されても一般人よりも恐怖は感じなくなっているのだとか。
まぁ、丙適性がどれほどその恩恵を受けられているのかは知らないけれど。丁適性というのは落伍生につけられる格付けなので、実質丙適性がドベだ。そんな私達は艦艇の夢も見なければ、過同調などもまず引き起こさない。共感すべき感情の共有がなければ過同調など引き起こせようもなく。丙適性、イコール安定の低同調率なのである。そうして低同調ということはすなわち艤装の反応性も低いということなので、人並みに動かすためにはそれこそ先の先の行動を常に心がけねばならない。だからこそ、着任して数か月になるというのに私は簡単な護衛任務にもつかずに演習、演習の毎日を送っていたのだから。
「姉さんが艦娘だったんです」
「へぇ、それは初耳だ」
「まぁ、言う機会もなかったですし」
「じゃあお姉さんを探しに艦娘に?」
「そうかな。まぁ、どうせ会えないんだけど」
死んでしまったから、と、わざわざ言うつもりはなかった。それを知れたのは偶然の巡り合わせで、本当ならば今も姉の足取りは掴めていなかっただろう、なぜならば。
「姉さんも野分だったから」
同一艦艇の艦娘が所属を同じくすることは、ないからだ。
「そういう響は?」
深く掘り下げるべき話ではない。だから私は、そこで響に話をふった。
「響はね、一度ロシアに行ってみたかったんだ」
「ロシアに?」
「うん。一般人だと中々海外への渡航は難しいだろう? でも艦娘になったらひょっとしたら可能性はあるんじゃないかなって」
そう言って響は薄く笑った。
「死ぬまでに一度、ひいおじいちゃんがよく話してくれた、バイカル湖を見てみたいんだ」
「へぇ」
「ふふ、ちっぽけな望みだろう」
「……ううん」
かぶりをふってそれを否定する。
「羨ましい。……私には、なにもないから」
芸術家である両親の家に生まれた私と姉さんは、やれ音楽だ、やれ絵画だと幼少の頃より色々な芸術に触れる機会を与えられていた。姉さんはその中でヴァイオリンが特に気に入ったようで、ついでにいうならばヴァイオリンも彼女のことを気に入ったようで、中学生になる頃には界隈では有名人となっていた。
一方の私はといえば、とりあえず与えられたものを享受はすれど、いざ自分がやるとなるとどれもいまいちピンとこず、ヴァイオリンの先生がこぼした言葉がきっかけでなんとなくやっていたそれもやめてしまった。楽しむ分にはいいのだ。美しいものを美しいと慈しむ心を、私は好ましく思っていた。ただ、私にはそれを表現する側がしっくりこないというだけだったのだけれど、それを両親は理解してくれなかった。
躍起になって芸術を押しつけようとする両親にも、一旦外に出れば人の目を引くこの銀の髪も、目も。思春期に突入する頃にはほとほとうんざりとしていた。いっそ染めてやろうか、と思ったけれど、幼少の頃可愛がってくれていた祖父が悲しむ顔が浮かんでしまい、結局それもできなかった。
『今日は何を演奏しようか』
それでも、姉さんがいたから。彼女と過ごす時間だけが、私のやすらぎだったのだ。姉さんはよく休日に私だけのためにヴァイオリンを演奏してくれていた。それを、目の前の椅子に腰掛けながら聞くのが好きだった。そんな姉さんが艦娘として召集されてから数年。私にとってあの家も、学校も。次第に、もともとあった息苦しさが更に募っていった。
ここに私の居場所はない。才能溢れる姉さんが艦娘として召集されてから、両親はぱたりと私に芸術を押しつけるのをやめてしまった。学校にいけば、どこか周りとの壁をうっすらと感じる。裕福な家庭という生い立ちとこの見た目は、それだけで人の心に小波を立たせる。ロシア人が珍しいこの国では、特に。隔世遺伝により祖父から受け継いだこの姿を、奇異の目で見る人達が多かった。綺麗だね、というその言葉にどこか憧憬と畏怖をはらんでいることを私は知っていた。
『──なります』
艦娘になることに躊躇いはなかった。ここは息苦しい。きっとこの道だって、最初から落ちこぼれの烙印を押された私にとって決して楽な道ではないだろう。それでも。ここではない、どこかにいければ。
姉を探したいという気持ちは確かにあった。それでも最終的に私を突き動かしたのは、そういった逃避願望だった。そうして気づいた。この場所に来て、いかに自分が空っぽであったのかということを。好きなことも、やりたいこともなにもない自分がここにいるのだと。
だからこそ、ここではないどこかに行けばなにかが変わるのではないかという愚かな願いを持ってここに来た私に比べれば、響の願いはとても素敵なもののように思えた。
「じゃあこれから毎日楽しくなるねぇ」
「え?」
ことり、と湯呑を静かに置いて、しみじみと隼鷹さんが呟く。
「籠の中の鳥は、そこから一歩踏み出してようやく大空の広さと自身のちっぽけさに気づくのさ」
そう言ってにっと笑うと、隼鷹さんはわしゃわしゃと私の頭をなでた。
「なにもないんじゃなくて、まだ飛び方を知らないだけだよ。焦るこたぁない」
「……」
「あたしがそうだったからねぇ」
「隼鷹さんが?」
「そーさ。あたしは大人になっても籠の中に引きこもっていた引きこもりだったからね」
社交的な、この人が? にわかには信じられないことだ。
「からっぽってことは、これからいっぱい素敵なもんをそこに詰め込めるってことさ。大いに今を楽しみな、若人」
「……隼鷹さん」
「なにさ」
「せっかくいいこと言ってるんだから、お酒はやめよう」
「ああ!!」
どこに隠していたのか、いつの間にか一升瓶を取り出していた隼鷹さんから響がそれを奪う。
「大空を知って今をエンジョイしてるんだよ!」
「ハメの外しすぎはよくないと思います」
「節度を持とう」
「冷たっ!!」
お酒がなければ、かっこいい大人なのになぁ。言うと絶対につけあがるから言わないけれど。
それにしても、お昼からお酒をかっくらうのは、ない。
※
隼鷹さんと別れを告げ、響としゃべりながら庁舎の前を歩いていると、向こうの方から他の第六駆逐隊の面々──電、雷が手を振りながら近寄ってきた。
「ヘーハチローは?」
「お腹いっぱいになっちゃったらとっととどっかに行っちゃったわ」
「相変わらず勝手な奴だ」
残念、件のヘーハチローには会えないらしい。一体どんな顔をしているのか、早く見てみたいものだ。
「暁は?」
「まだ戻ってないのです」
「本当はお腹ペコペコなんだけど、先に食べるとむくれるだろうからもう少し待ってから一緒に食堂にいくわ」
「うん、そうするといい」
世話好きの雷に、少しばかり引っ込み思案な電。見た目は姉妹のそれであるが、第六駆逐隊の面々は一切血が繋がっていないらしい。それでもこの四人は、いつもいつも仲睦まじい。
「そういえばまたラバウルでの前線基地構築に失敗したみたいだよ」
「またぁ? あそこ、とってはとられてばっかりじゃない!」
「地形的に重要なところだからね、深海棲艦もそう易々とは譲ってくれないさ」
「……深海棲艦って、そういう知能あるの?」
「うん? ああ、最近はね。向こうも頭を使って攻めてくるんだよ」
とんとん、と指先で帽子を叩いて響が私の疑問に答えてくれた。
「最近は人の言葉を喋る個体もちらほらといるみたいだよ」
「ふうん」
「……お話」
「え?」
不意に、いままで話に積極的に参加していなかった電がぽつり、と言葉をこぼした。
「深海棲艦さん達と、お話はできないんでしょうか」
「……お話、したい? あんな化け物と」
「見た目は! ……ちょっと、怖いけど。でも、言葉が通じるなら、戦う以外にも方法があると思うのです」
電の言葉に思わずぱちくりと目を瞬かせる。あまりに突拍子もない言葉に思わずぽりぽりと首をかいてどう返したものかと頭を巡らせていると、急に電がはっと青ざめてぶんぶんと両手を振って今までの言動を否定した。
「ご、ごめんなさい、忘れてくださいなのです!」
「……いや、別に謝る必要はないけど。ただ、考えたこともなかったから」
そんなに慌てるほど私、怖い顔してたかな。あまりのオーバーリアクションにちょっと困りつつ、何の気なしに言葉を続ける。
「多分私は実際に相対したら話し合おうとも思わないけれど。電がそう考えること自体は別に悪いことじゃないんじゃない?」
そうして私の言葉に、電、そして雷までもがぽかーんと口を開けてこちらを凝視するものだから、そんなに変なことを言ってるだろうか、とますます首をひねるはめになってしまったのだけれども。
「ほら、言っただろう。野分はいいやつなんだ」
その様子を眺めながら、響がくすくすと笑う。なんだかよくわからなくて、思わず響を見返すと名前を呼ばれた。
「野分」
「なに?」
「響は野分のそういうところ好きだけれど。あまり電が言うような思想を吹聴しない方がいい」
そうして今度は自嘲気味に。
「組織というものは、多様な思考を嫌うんだ。でもありがとう」
そう言って、また別の話題へと移っていった。
『──昔所属してたところで、ちょっとね』
以前響に最初から所属が横須賀なのか聞いたことがある。そのときにそうやって濁したことといい、今の言動といい。なるほど、いわゆる“落ちこぼれ”の烙印を押される側にもいろいろな理由があるらしかった。