主人公の名前あり・キャラあり・勝手な設定ありなので以上が苦手な方はご注意ください。
秋のコネチカットに降る雨は冷たい。冬を一足先に連れてくるような肌寒く、優しさのかけらもない触れると痛むような雨が降る。
買ってきたサブウェイのホットドッグとコーヒーのセットはもうすでに冷めていた。帰って警察犬かぶれのアーサーに与えようと思った。どちらにせよ、死体を前にしてランチなんて気分ではない。決まって雨の日に上がる死体を見つめながら、FBI捜査官のベンジャミン・ルーベンは止みそうにない雨にうんざりとしていた。ルーベンはスーツが雨に濡れないでいることを諦めて、泥濘のベッドの上で静かに、二つに分かれた体を横たえる女に近付く。
「豚の出荷より正確に殺してるな」ルーベンの隣にやってきたのは巨漢の男だ。
丸く剃り上げられた頭とは対照的に、もみあげから繋がった髭。褐色の肌が余計に映える白い糊の効いたワイシャツ(彼の妻が丁寧にアイロンをかけているのだろう)。昔は柔道をやっていたそうで、その名残は彼の長躯と相まって見る者を驚かせる。しかしそれは過去の話で、今はその筋肉は脂肪に変わっていると本人は話すその男は、コネチカット州支局長のダニエル・リチャードだ。ダニエルはライアンの直属の上司で、アカデミー時代のルーベンにとって憧れの存在であった。
「主任の見解をぜひ聞きたいですね」ルーベンはダニエルの大きな腹部に目線を落としながら言う。
「この死体に対する見解だと?お前はワトソンになったつもりか?」
「仕事のように殺してると思うんですよね?どういうことですか」
「最初の頃は悪趣味なヤツの下らん遊びだと思った。でも今は犯人の義務感じみたものを感じてしまうよ」
「今回も悪趣味としか思えませんよ」
「…上か下、どっちに聞くのが良いと思う?」
「ただでさえ鬱々としてるのにやめてください」
「冗談だよ!」
ダニエルは女の死体を辱めるように唾を吐いた。
しかし吐かれた唾は泥の中へと消えていく。
彼は口は悪いが節度が無い男じゃない。ルーベンはこの事件が彼にそうさせていることに胃が痛くなった。
「それにしても、何かでしっかりと貫かれて死んでいるのにその“何”が見つからないのも困ったもんだ。しっかり雨降りに上がるあたり、納期でもあるのかな」
ダニエルは凶器が何なのか、という意味で「何」をわざといやらしく声に出して言う。そこまで言っておいて眉をひそめていた。グレーのコートのポケットから、しけている煙草を取り出して咥えようとしていた。
「火持ってるか?」ルーベンはライターを差し出した。しかしこの重く冷たい雨の中で、ライターも煙草も、火は弱々しく、ダニエルはあまり美味そうに吸っているようには見えなかった。
この事件は四年前の冬に始まった。
一本の通報がコネチカット州警察の元へ届いた。『死体が浮かんでいる』という近隣住民の通報に警察は現場へ駆けつけた。
連日の雨で水嵩の増したウッドリッジ湖は異様な雰囲気を醸していた。その湖面には灰色で大きく膨らんだ何かが浮かんでいた。
この事件は初め、誰もが気にはしていなかった。
始まりとなった第一の死体は解剖の結果、死因は心不全と判明したものの、被害者の心臓に異変はなく、故意に引き起こされたものと結論づけられた。しかしこの遺体から薬物が検出されるわけでもなく、心不全が引き起こされた原因は長時間逆吊りにされたことだと仮定される。
だがこの仮説は同時に否定された。長時間吊るしたのであれば被害者の手足に痕が残るはずなのに、彼の遺体には一切の外傷がなかった。
その後まもなく第二の死体が発見される。
死因は衰弱死とされ、遺体の背には大きなX字が刻まれていた。外傷から刃渡りがどのくらいの凶器で行われたのか調査がなされたが、アメリカ全土の刃物を取り扱う店全てを隈なく探しても犯行に使われたとされる凶器らしいものは見つからなかった。
…このように、第三、第四、と死体は積まれ続け、残念なことに十一人目となった。
今回見つかった女は身体を鋸で二つに切断された状態で発見された。
被害者は皆共通していない。被害者の種類は様々で、身内すらいないジョンドゥ(無名の犠牲者)もいれば、行方不明届が出されていたものもあった。
加えて彼らはイエス・キリストの熱心な弟子達、十二使徒の殉教に準えて殺されていることから、彼らの死体には使徒の名前が当てられている。十一人目の彼女はシモン。残る使徒はあと二人であった。
後にこの事件は『ゴーシェンの虐殺人』と呼ばれるようになった。最初の被害者がゴーシェンで見つかったことと、被害者はただ凄惨に殺されているだけでなく拷問された可能性も発覚したことから、虐殺人という名がつけられた。
それは“憲法の州”と呼ばれる厳正なコネチカット州で、あまりに異常で残酷な事件であった。教えよりも法で人々を説く地で、初めは誰もがこの事件に耳を疑った。
“ゴーシェンの虐殺人”は解決の糸口も見つからないまま、四年の月日がただ無駄に流れていた。
「…おい、聞いてるのか?」ダニエルの怒号が耳に届く。ルーベンは雨を全部吸い込んで重くなったスーツのジャケットを翻し、ダニエルの方を振り向く。
「すみません。少し考え事を」
「お前が思う事件の見解を教えてくれ」
「はい?」
「二度は言わんぞ」
「ワトソンに聞かれても」
「給与泥棒め!お前の頭はサブウェイと犬のことしかないのか?少しは脳みそを捻ってみろ」
「僕なりに考えて、ひとつ言えることは犯行は一人で行われてるだろうということです」
ダニエルの無茶な物言いはいつものことだ。
「複数犯でも模倣犯でもない?」
「有り得ないかと思います。決まって雨のひどい日に死体が上がりますが、その雨で野ざらしにされているのもあって遺体の損傷が激し過ぎるのもあるんですが…仮に犯人が、自分のアジトを持っているとしましょう。そのアジトで全ての犯行を済ませて、そしてコネチカットのどこかへ捨てに来るのが犯行の手順だと仮定します。
しかし被害者には鬱血痕がない。殺した後の死体に圧を加えると血液がそこに鬱積しますので…」
「…どうした、続けろ」
「あ、はい。鬱積しますので、例えば車で運ぶのなら、長時間トランクに詰め込まれた状態では被害者の頸などに何らかの痣が残るはずですが、遺体にはそういった痕がないんです。
一体どうやって運んでるのか、これはいくら考えてもわかりませんでした。
その場で犯行に及んでいたとしても殺害方法がいくら検死しても出てこないし、遺体の死亡推定時間から見て現場犯行は不可能に近いかと思います。
運搬の話に戻りますが、力を入れて持ち上げていないにしても他に考えられる死体を運ぶ方法は、台車で運ぶ、死体を引っ張る、ですが、そのどちらもないといえるでしょう。地面に証拠が残ってませんから。
…それと、被害者が身につけているもの以外の証拠が何もないのです。例えば犯人の毛髪や体液、服の繊維、犯行に用いた際の道具の錆、プラスチック片など…外科手術でもメスで切った切開面にメスの鉄分子が付着している可能性があるので、それが内部の粘膜や臓器に直接付かないよう消毒するわけですが…しかし、この死体には聖痕部分に金属片の分子もなければ、第三者の臭いすらない。
まあ、匂いぐらいなら雨で流れていくことも考えられますが…これまで見つかった死体は全部で十一体ですが、その全てが徹底されている。
独自のルールみたいなものがあってそれに則って殺している、だから単独犯かと思います」
ルーベンはそこまで言うとジャケットのポケットに入っていた手帳を取り出した。ページが雨で雑巾のようになってしまっているのを見てパタパタと振り始める。
「犯人の動機について、お前はどう思ってる?」
「喋りすぎて疲れてしまいました。主任はどうお思いですか」
「…被害者は金目の物を奪われてないし、体液も検出されないから、犯人は単に殺害目的だけだろうな。遺体が全部聖書通りに殺されてる以外、何のメッセージもないのも厄介だ。
ただ信心深い殺人犯なのか?
殺されたやつらには行方不明者ってことぐらいの共通点しかないが、それはただの無差別殺人の線もあるか?」
「被害者の年齢や職業、性別、家庭環境など、様々ですからね。『殺し方や手順、美学は俺なりにあるが、相手は誰でも良い。その見せしめにするだけだからな』ということでしょうか?」
ルーベンはついにため息をついた。顎から雨の雫が滴り落ちる。ダニエルの口に咥えた煙草の灰がぽたりと湿けた枯葉の上に落ちていた。
その日の捜索は雨が酷いせいで打ち切られた。
水を含んだ革靴は鉄のように重く、一歩を踏み出すのが辛かった。やっとの思いで車に乗り込み、愛しの我が家に戻った。
「アーサー!帰ったぞ」
ルーベンの家はブリッジポートから少し上にあるイーストンにある。自然が多く、犬と二人で暮らすには丁度いい環境だった。帰ってきて愛おしい同居人の名前を呼びながら、頭の中ではすっかり雨が染みて厄介なことになってしまった車のシートのことを悩んだが、明日考えようと諦めた。
廊下を爪で力強く押して駆け寄ってくる音がする。すっかり冷えて、もはや温め直しても食べれそうにはないサブウェイのセットが入った紙袋をチラつかせると、ジャーマン・シェパード・ドッグのアーサーはルーベンの帰りよりも食べ物への期待が大きく、ブンと尻尾を大きく振ってルーベン体に突進してきた。ハフハフ、と忙しない鼻息とついでと言わんばかりに顔周りをベロベロと舐められ、ルーベンはしばらくカーペットの上で大の字になってしまう。
「その落ち着きのなさと見境のなさは、警察犬の登用試験に落ちるだろうな…」
手元に残ったサブウェイの紙袋だったものをぎゅっと握りしめてゴミ箱へと捨てた。
ゆっくりと起き上がり、ジャケットを脱ぎ捨てる。床に「ベチャ!」と大袈裟な音を立てて落ちたあたり、随分水を含んでいたことがわかる。バスルームに向かう途中、尻尾を大きく左右に振ってホットドッグにむしゃぶりついているアーサーを見ながら、今更大きなくしゃみを一つした。風邪を引かないか心配になって、バスルームに直行し、もはや服とは呼べないほどぬかるんでいる衣服を全て脱ぎ捨てると、普段より熱いシャワーを冷え切った身体に直にあてる。
火傷しそうなほど熱いシャワーがむしろ心地よかった。
ボディーソープを手に取り、自分の身体に塗り広げながら、さっきの死体を思い出した。
シャワーカーテンが勢いよく引かれた音で、ルーベンは飛び起きる。シャワーを浴びて考え事をしたまま眠ってしまったようだった。止められていないシャワーが身体をスコールのように打ち付けていた。アーサーがカーテンを噛みちぎってしまっていたが、それに助けられた。アーサーの頭を撫でて、洗濯機の中から洗ったバスタオルを取り出して全身を乱暴に拭いた。
「特別犯罪精神科学課…というのが、あるんですねぇ。知りませんでした」
「お前なあ」
ダニエルから手渡されたファイルを眺めて素直な感想を述べる。今日はクローゼットから二番目に古いスーツを身につけていた。アーサーは近所に住まうダグラス夫妻に預けている。
ダニエルは変わらず身につけているグレーのコートから煙草の空箱を取り出した。テーブルに無造作に置かれたそれを見て、ルーベンは後でウィンストンを補充しようと頭の中でメモを取った。
「特定犯罪精神科学課とやらがいまいち掴めないですね」
「特定犯罪の被害者や犯行の全証拠から精神分析を行い、犯人像を特定、犯行を科学的に立証するんだよ」
ダニエルは小馬鹿にしている。それで肌を逆撫でられするようなことはなかった。右手で少しだけ左肩を撫でたあと、丁寧に聞き返す。
「初めて聞いた分野です。プロファイリングとは違うんですか?ところで何故いきなり僕にこの資料を見せてきたのです?やはり一連の事件でですか?」
「初めて聞いたのも無理ないさ。今年できた所轄だからな」
「そうですか。なら、今度ご挨拶に向かわないと」
「その挨拶ついでに、お前に会ってきてほしい奴がいるんだ」
「僕にですか?」
ダニエルは頷くとパソコンをぎこちなく操作して画面をこちらに見せようとする。ダニエルの背中に回って、ディスプレイを覗き込んだ。
「スタンフォード大学のホームページ?」
「まあ見てろ」
得意げにダニエルはエンターキーを押す。
「『“海洋冒険家の第一人者”…空条承太郎』?」
「が、彼の最も有名な肩書きだ」
「ほかに何か?」
「特定犯罪の定義ぐらいは流石にわかるよな?」
「はい」
「その特定犯罪の粗探しに、彼は一翼を担ってるんだと。詳しくはよう知らんがな。
一部じゃ、オカルト的な能力とやらで彼の洞察力は大したものだとか言われてるらしいぞ。連邦捜査局が秘密裏に部署を置いて活動し始めるぐらいだからな。こりゃあ、俺たちは尻を叩かれてるっていう自覚を持った方がいい。…上が唐突に言ってきたわけだし」
「ずいぶんと伝聞要素が多い情報ですね。
信憑性もなければ実績もない新部署に一任させるては…」
「俺らは丸々肥えたネズミだな」
「現場を見に来てみればいいのに。そんなこと言えなくなりますよ」
「はいはい、そういうわけでベンジーちゃんにお仕事だ」
“ゴーシェンの虐殺人”は『極めて残虐的で例を見ない犯行で行われた悪質且つ異常性を持ち、またさらなる残虐性を潜め、国民の健康と権利・社会生活・経済基盤に危険を脅かす恐れのある現状過去共に未解決事件』いわゆる『特定犯罪』に指定されたらしい。
特定犯罪に指定されるのは時間の問題だと思っていたが、そこに精神科学課が新設され、さらに一任されているのには驚いた。空条承太郎という男がそうまで警察どころか、FBI顔負けの素晴らしい能力でも持っているというのだろうか。
しかし海洋学者という肩書きに特定犯罪課という言葉はどうにも並ばない違和感を感じた。
ルーベンは早速ショルダーバッグに古びた手帳と、ボールペン、事件の資料を詰め込んだ。
「それで何の探りを入れてこいっていうおつもりですか」
「察しの良い男はモテるぞ」
ダニエルはニヤリと笑った。
博士が所属してるらしいスタンフォード大学までルーベンは車を走らせる。
昨日の雨に濡れたシートは生乾きのままだった。スーツが濡れないように、バスタオルを車のシートに敷いている。
『空条の素性はさっぱり分からないんだ。本局に聞いても“情報を自由に知りたいなら成果を出せ”の一点張り。別に無理に探る必要はない。世間話でもして、どんな人間なのか掴むだけで良い』
ダニエルはルーベンにそう言って送り出した。
言われた言葉を思い出しながら、薄暗い雲の下で思考も濁りつつあって、自分で聞けよと少し悪態を吐いた。
途中、川が氾濫するという警報で近隣住民の避難による渋滞に捕まったので、持ってきた資料を見直していた。ルーベンにとって難しい言葉が並んだ文を見て余計に肩が凝ったような気がして、右手で左肩を揉んだ。
「『鮫の加虐性を刺激するホルモンは』……『哺乳類への影響』…『大脳辺縁系へ直接』…困った。この人の書いた文章が一行も理解できると思えない」
スタンフォードに着いたのは、およそ夕方だった。
行き交う大学生達と同じように進み、カレッジを見渡してボンボンの行く学校、という最低な感想を零しながら、エントランスで「コネチカット州支局捜査官のベンジャミン・ルーベンです。ご連絡していた件でお伺いしたのですが…」と努めて紳士的に丁寧に聞けば、初老の受付の女性は快く遅刻したルーベンを通してくれた。
「空条博士の研究室は、エレベーターで三階にて降りていただき、右手にある給湯室の廊下を過ぎた先にございますわ。ネームプレートがあるので分かると思います」
「ご丁寧にありがとうございます」
「お気になさらず。でもいま、博士は研究員候補生への講義中で…研究室にいらっしゃらないのです」
「それは…すみません。道路が渋滞していたもので」
「博士も捜査官の方が来られることは承知しておられるようでしたし、気にされることはないですわ。もし先に来られたら、博士の研究室の先にある休憩室でお待ち頂くと私の方から提案させていただきました。“305”と書かれた部屋でお待ちになってください」
「渋滞した甲斐があったなぁ」
「まあ?どうしてです?」
「あなたのような素晴らしい人に巡り会えたので」
「うふふ、お上手ですね」
ルーベンは電話でクリスピー・クリーム・ドーナツ店へスタンフォード大学 海洋生物研究所宛に何個かデリバリーを頼んだ。
イーストンへとつけた領収書の金額に冷や冷やしながら、ついでにアーサーを預かってくれているダグラス夫妻にもやろうと思った。休憩室の中にはコーヒーメーカーがあって、長い渋滞の疲れもあって先に悪いと思いながらもコーヒーを一杯注いだ。
昨日雨にさらされていた上にシャワールームで寝たせいで頭がぐらぐらと重い。カフェインで頭を覚醒させようと思い、注いだばかりのコーヒーを一気に飲み干した。
ショルダーバッグの中に押し込んだ『軟骨魚綱板
鰓亜綱に属する魚類の知能性ホルモンの哺乳類への適合実験』を解読しようとした時、ガチャリと休憩室のドアが開いた。
天井にまで頭が届きそうなほど長身の男が、ドアの縁に当たらないよう、頭を下げて部屋に入室してきた。思わず立ち上がったが、身長の差は埋まらない。そこで初めて、自分が座っていたから大きく見えるのではなく、彼は元から巨体だということが分かった。ダニエルも巨漢だが、格が違った。立つだけで華になる見た目をしていた。ここにくる前、ダニエルに見せられたディスプレイの中に映る姿とは比べ物にならないほど実物は目立つ見た目をしていた。神々しいとまで思った。
「遅れてすまない。空条承太郎だ」
「は、じめまして。コネチカット州支局から、ダニエル・リチャード局長の指示でこちらへ伺いました。ベンジャミン・ルーベンといいます」
「彼から話は少し聞いてる。例の事件だな」
「はい。その、連邦捜査本局が新設した特定犯罪精神科学課を一任されているとのことで、ダニエルから代表してご挨拶に」
「こちらこそ新設課であるにも関わらず、捜査の介入を受け入れてくれたコネチカット支局には感謝している」
「ぁ…、ありがとうございます」
思わず拍子抜けした。博士と聞いてどんな頭の硬い、癖のある人間が来るかと思っていた。彼はすっきりとした物言いしかせず、礼儀と節度のある人で、話がとんとんと進んだことに驚いた。彼のような人であれば、自分の専門知識の無さを揶揄されるようなこともないだろう。過去馬鹿にされた経験から博士と名のつく人間に対して偏見を持っていた。
「それで早速話は、といきたいところだが。まだ一つ仕事が残っているんだ。それを済ませて来ても構わないか」
「はい、もちろん」
「渋滞の中来てくれたらしいな。何のもてなしもなければ休まらない部屋で悪いが、楽にしてくれ」
彼はそう言うと、軽く会釈をして接待室を出て行った。再び部屋に一人になって、ショルダーバッグの中から事件の資料を取り出して、説明し易くかつ見やすくなるようにまとめた。
休憩室は話をするのに適した部屋じゃないと言って、レストランに向かうことになった。先ほどまでは白衣を身につけていた空条は、今は薄い紫色のコートを羽織っている。黒のタートルネックに長い脚が映えるスキニーパンツがさらに彼の容姿の良さを際立たせていた。反して古いスーツを着ている自分が貧相に見えてげんなりした。血統書付きの犬に並ぶ薄汚いネズミを想像した。
実験着から着替えて、私服姿で再びライアンのもとに現れた空条は黒縁の眼鏡越しに「話の前に食事でも」と提案した。捜査を円滑に進めるためのことを考えると、断る理由はなかった。車は駐車場に停めたままで良いと言うので、彼の提案に賛成し、タクシーに乗り込みレストランへと向かったのだった。
“The Saybrook Fish House”と書かれた看板が出迎える。
ディナーの注文の中で帰りのことを考えて酒は控えておいた。
「煙草は気にするか」と聞かれ、どうぞ気にせずと答えた。胸元には喫煙者ではないが、ジッポライターがあるくらいだ。席に座ってようやく落ち着いた頃、煙草を取り出し、彼は目の前で吸い始める。ダニエルと違って銘柄はマルボロだった。
しばらく無言の時間が続いた。
彼に振る話題など事件のこと以外ないせいで、口を閉じて、目の前で彼が煙草をふかす様子を見るしかなかった。
こういう時自分の中でひとつ救えるところは、他人に対して必要以上に興味が湧かないことだ。
「ヴィンテージスーツか」
「え?いや、ただの古着ですよ。昨日の雨でクローゼットがほぼダメになったので…引っ張り出してきました」
「なるほどな。似合ってるよ」
「そ、それはどうも」
「……」
「………」
「…すまない。若いやつと会話する機会があまりないせいでつまらないかもしれない。気は使わないでくれ」
「僕は正直、慣れていないので……こちらこそすみません」
煙草はまだ半分以上残っていたが、彼は灰皿に撫でるように火を消した。どのタイミングで彼に事件の話を持ち掛ければ良いのだろう、そんなことを大学を出た時から頭に考えている。他人と仕事以外の会話をすることがないために、世間話に興じる気は微塵もなかった。どうやら相手もそんな人に見えはする。
用な駆け引きができる脳があるわけではない。単刀直入に聞くことにした。
「あの、博士。一つお聞きしても」
「あぁ」
「なぜFBIに協力を?」
「なぜ?」
「海洋学者である貴方と…つながりが見えないので」
「私と捜査を続行する上で、その繋がりは君にとって重要な要素となるのか?」
「そういうわけではないのですが…もちろん捜査になんの障害もなりませんけど、気になる部分は解消したいと思うのは捜査官ゆえの職業病みたいなもので…」
「そうか」
話せない理由でもあるのだろうか。聞いたタイミングを誤ったと少し悔やんだ。謝ろうかと口を開いたが、「私も細かいことが気になりだすと他のことが手につかないようになる。そういう気持ちは分かる」と同意された。
「君はスタンフォード監獄実験について知ってるか?」
「は…はい。人間は環境で悪になるのかという仮説実験のことですね」
「そうだ。普通の人間に看守と囚人の役割を与えて、その行動の変異について研究したものだ」
「でも近年、捏造とか言われてましたね」
「まあな。…しかし私は、全てが嘘だと思わないと思うよ」
「そう…ですか」
「人間は環境次第で悪になる…自分の行いが全て正しいとは限らない。最も、正しいと言う信念のもとで行動している悪はタチが悪いが…」
「…あの、博士の話の意図が読めなくて…すみません、僕は学に疎いので…」
「すまん。学的な話をする気はなかったんだ。導入のようなつもりで話した。私は心理学も同時に研究している、というだけだよ」
「そ、そうですか」
「…ちなみに君はどう思う?人間は環境次第で悪になると思うか?」
正直、学的な話をする気ないって言ってただろと内心思ってしまった。しかし相手は答えを待っているようで、口を一文字に結んでしまっている。
「…僕は、悪は環境でなるものじゃないと思います」
無表情な博士は眉を一つ動かした。
「生まれついての悪人もいると思います」
「…では“ゴーシェンの虐殺人”はどうだと思う?あれは意味があって殺していると思うか?それとも単なる悪意で殺しているか、君はどっちだと思う?」
僕に何が聞きたいんだこの人は、少しうんざりしつつあった。殺人犯の感情なんてわかるわけないだろ、心理学なんか専攻したことないんだから。
「両方あるという答えはダメですか?」
「ずるいな」
「わからないですよ。僕が殺してるわけではないので」
「…そうだな。君が殺してるわけじゃない」
返ってきた言葉は何か後ろ髪を引くような後味の悪いものだった。ウェイターが持ってきた料理でその不快さを飲み込もうとしても、胃に落とすことができないものだった。これまで気分の悪い夜食は初めてだ。帰ったら全部吐こう。
ご馳走になったあと、家に戻ってシャワーを浴びるのも忘れてデスクに座り込んだ。
ダグラス夫妻は、彼らにアーサーを預けた日は必ず庭にある犬小屋に夜は戻してくれていた。ルーベンの帰りに気がついたのか、小屋から飛び出して突進してきて玄関に一緒に入って来た。今は膝に顎を乗せてフンフンと鼻息を鳴らしている。
まずは彼の素性を調べようと思ってアカデミー時代に使っていた褪せたレポート用紙を引っ張り出し、鉛筆を握る。気のままにキーボードを叩いて単語を入力し、それらしい記事の見出しを片っ端からクリックしていく。しかし求める情報は当然のことながらサーチエンジンの中にあるわけがなかった。彼の研究の是非だったり、人種による評価など下らない情報ばかり蔓延っていた。
こりゃ調べても意味ないか、と思った途端どっと疲れてチェアの背もたれに寄りかかってふぅとため息をついた。右手で左肩を揉みながら、数時間前の会話を思い返す。
彼は誰が犯人がある程度目星でもついているのかな?そんな言い方に聞こえたな、と思いながらいやまさか。FBIが総力を上げて四年もかけてるのに、たかがいち博士が分かるわけない。僕は疲れてるのかなと自分に呆れた。
しばらくディスプレイを睨んでいると、ベッドからくぐもった振動音がするのに気がついた。ベッドに放り投げた背広のポケットに入れた携帯が、ダニエルからの電話を表示して知らせていた。
『お疲れさん』
「お疲れ様です」
『どうだった。空条って男は』
「よくわからない質問をされました」
『どんな?』
「人は環境で悪になるか、それとも生まれついて悪になるのか?です」
『お前授業を受けに行ったのか?』
「…違いますよ。でもなんか気持ちが悪かったです。含みのある言い方をされたというか」
『男は誰だって悪になるだろ』
「そういう意味じゃないですよ」
ダニエルはこちらがふざけていると思って数分電話越しにゲラゲラと笑った後、一方的に切っていた。
結局その日はデスクに突っ伏したまま眠ってしまっていた。
翌朝膝はアーサーの涎で色が変わっていた。