かつての記憶。
今では白い手袋に覆われ、清いヴェールに頭を包み、神聖なる衣服に身を包んだ私の手は、かつては黒く染められていた。
「……」
「全く、生意気な奴め。噛み付いてきおってからに。このワシがいなければ、お前など永遠に辺境の小領主に過ぎなかった恩を忘れて、ワシを貶めようなどと」
眼下で文句ばかりを言っている、豚の様な男。この王都には数は少なくとも珍しくはない、典型的な悪徳貴族という奴だ。
そして、私のターゲットでもある。
「ああ忌々しい。こちらとてお前の弱みを握っているのは間違いないというのに」
依頼主は、この男が忌々しいと口にした相手、成り上がりの地方領主だ。最近新たな領地を与えられ、領内が急速に発展しているらしいが…この男が一枚噛んでいた様だ。
脛の傷を消すべく、この男の殺しを依頼したのだろうか。
「はあ…あー、メイド!居ないか!」
「は、はい。旦那様」
「酒が飲みたい。31年製の赤ワインがあるはずだ、あれを持って来い」
「承知いたしました」
……頃合いか。
「旦那様、お持ち致しました」
「おお、待っていたぞ!注いでくれ」
「では、少々お待ちください…」
キュポン、と音を立てて栓が抜かれた。瞬間、その瓶口を目掛けて小さな錠剤を投げつける。錠剤はワインボトルの瓶口に吸い込まれる様に入り、ワインに音もなく素早く溶けた。
トク、トク、トク、と赤紫の毒液と化した年代物の銘酒がグラスに注がれ…盆に乗せて豚の前に差し出される。
「んっ…んっ…んっ…はあ、美味い。やはり、ここのワインはいい甘さとコクだな…ああ、お前は下がって良い。後は自分で注ぐ」
毒液をそうと知らずに飲み込んだこの男だが、まるで何とも無いかのようだ。遅効性なので当然だが。
「眠くなってきたな…ふぅ」
眠りについたことを確認し、天井裏から板を外してするりと降りる。その口と鼻に麻痺毒で湿らせた布を当て、麻酔状態にし、酒瓶を突っ込んで文字通り溺れるほど飲ませる。意識が無いのでかなりの量が溢れたが、構わない。泥酔していたのだと思うなら好都合だ。
そうして、寝台に上がった彼は2度と目覚めることは無かった。
後日。「D」格———王国に同時に5つまでしか存在することはない———の当主であった彼の急死は大いに取り上げられたが、日頃の酒癖もあり誰も暗殺を疑う者は無かった。
その一方、依頼者の屋敷の客間で。
「良くやった。分かっているとは思うが、報酬は既に、指定した場所に別口で届けさせてある。色も付けておいた、期待してくれ」
「ありがとうございます」
「それじゃあ、また何かあったら…」
そう告げられた瞬間、どこからか気体が漏れ出るような音が聞こえ始める。
「……これは」
「うっ…ガスか…!?」
依頼者が崩れ落ち、先程まで座っていたソファに座り込む。
コイツの仕込みじゃ無いのか?
ナイフを取り出す。手頃な果物用と同じ大きさだが、通常のナイフと異なり、その刃は紅色に波打ち、側面には鈍く煌めく紋章が刻まれていた。
「済ま、ないね…巻き込んだ、ようだ…」
「…よくあることだ」
「ぁ…」
完全に意識を失った。息はある、脈も問題ない。睡眠薬の類か。
私は耐性を持っているとは言え、いつまでもこのままとは行くまい。どう切り抜けるか———。
「……」
善政を敷くとして知られる、新進気鋭の領主。家格は…「K」だったか、しかしこの様子では屋敷の者はどうなったのか。
「助ける理由など、あるはずもないが」
私は、ナイフでカーテンを引き裂いた。端と端を結んで袋の様にし、彼を包む。
そして———。
……懐かしい夢でした。
「ええ…守りましょう。貴方との大切な誓いですから」
目が覚めたのは、真夜中。街中の路地裏で野宿をしていた。姿は変えている。元々たった一人フリーで活動していた私にとって、今でも変装はお手の物だ。
建物と建物の間からは、目標が宿泊している大きな宿が通りの対面に見える。いくつかの部屋からは明かりが漏れているが…目標の部屋に明かりは無い。
「動きは無し。決行日まで、あと1週間…」
勘は鈍っていない…と言いたいが、残念ながら聖職者となって久しい現状、私の腕はやや衰えたと言わざるを得ないだろう。それでも、分かる気配がある。
エリー。貴方もまた、その手を汚すことを選んだのですね…貴方は、もっと清い方だと思っていましたが、思い違いだったのでしょうか。彼女に罪は無い。貴方が手を下して良い相手では無い。無実なのです。
私のような汚れた者ならば、いざ知らず。
「ギリア。契約は守りましょう。貴方の計画を完遂することが私の役目」
リコリス・G・アイリスは…私にとっては死なねばならない者なのですから。
ひりついた空気を感じる。もはや慣れた空気。殺意や、警戒と言った、野生に近い研ぎ澄まされた死の気配だ。
絶対に暗殺者はここに来ているのだ。
「状況からしてエルザさん…だと思うのだけど」
「教会まで行って確かめてみるか?ここに居るなら、教会には居ないはずだろ」
「貴方一人で?この状況でそんなことしたら、貴方が殺されるかもしれないわよ。それに、もう私はここを離れられないわ」
もう5日が経過した。私たちは昨日から『遠路洋々』が滞在する宿に泊まっている。やや高いが、数日であれば許容できる。元の宿の宿泊費が完全に無駄になっているので、すごくもったいない気がしてしまう。いや、実際勿体無いのだが荷物を引き払う訳にも行かないので仕方ない。
完全に失敗した。この緊迫した空気に気を取られ、警戒せねばとばかり思い、エルザさんの所在を確かめることを怠ったのだ。恐らくここに居る、しかし私にはそれが確信できない。
もう指定日が近い。今ここを離れれば、その間に誘拐犯が来るかもしれない。指定日より遅いだろうというのは推測だ。Xデイは明後日に迫っている以上、ここを離れるのは良くない。
「ちょっとやそっとの誘拐犯に誘拐できる相手とは思えないがなあ」
「それはその通りよ。でも、対処の最中に暗殺者が不意打ちしてきたら?」
強者だろうと人は首を斬られれば死ぬのだ。
「まあ、そうかもな」
「…あのさ、私の首を見ながら言わないでよ。分かってるから」
「いや、エリーって首が飛んだらどっちから再生するんだろうなって思っちまった」
「あー…ごめんね、答え知ってるんだけど聞きたい?」
「え”」
「頭。脊椎と脳のうち、より多くの体積が残っている側から復活する…んだと思う。もちろん検証なんてしてないけど…意識が残ってたものだから、首の下からズルズルと生えるのが…二度とやりたくない」
「うわぁ、グロ…うっぷ」
でも、正直身体からじゃなくて良かった。もし身体から首が生えてくるとしたら、”生存のための最低限”に含まれない髪の毛は生えてこなかった気がする。女の命とも言える髪を全て失うなど、考えたくもない。
「あ、でももし身体からだったら今頃ハゲて…」
「刺 す ぞ」
「ごめんなさい」
全く…。でも、息抜きにはなった。
気が抜けないが、何も起きない日々。ザルグが居なければ、どうなっていたか。
…カウントは残り240時間。ああ、早く…決着がつかないものか。
「…お?おい、あの大斧って」
「キルターさん!?」
この所、一切宿屋から出ないものだから本当に居るのか不安になっていたくらいだったが。とにかく追わないと。
追って来たようだな!はっはっは!このキルターの勘!その程度では誤魔化せんよ!
「はーっはっは!」
「キ…キルター?今日はいつにも増して暑苦しいですよ?どうかしましたか?」
「いやなに、健気な者も居るものだとな!」
この所、嫌な緊張感が我々を取り巻いていた。この殺気のような張り詰めた感覚!まさしく戦場!血も滾ろうというもの!
「久々に依頼を見にいくんですから、そんな熱気を撒き散らすのはやめてくださいね」
「ふふん。それはこの熱視線の主人に言ってくれよ?」
「誰も見てませんよ暑苦しい」
「そんなことはない、感じて見るんだ!肌を刺すような緊迫!虎視眈々と期と好機を狙う獣の視線の如き鋭い空気を!」
「やめてください暑苦しい見苦しい」
「はーっはっは!」
「…はあ」
むう。リコリスを拗ねさせると長いからな。この辺りにしておこう。
「しかしリコリス。気づいては居るだろう?」
「…まあ、はい。何かが起きていますね」
「ああそうだ。我ら戦う
「厄介ごとでしょうかね?」
「それはそうだろう。しかも、狙いは私か、リコリスだ」
「そうですね。私には漠然とした緊張感でしか分かりませんが、キルターにはほとんど見えているのでしょう?」
「それはな」
気配が2つ…いや、3つ?
2つはてんで素人だが、1つは手練れだろう。これに奇襲をかけられれば、我らとて磐石とは言いがたい。
よほどに気を凝らさなければ、ふと意識を外した間隙に消え、判らなくなってしまうのだ。
「恨み辛みかな?」
「妬み嫉みなら分かりますよ。でも開拓主体の私たちが恨まれることは考えにくいです」
「では
「んー、どうでしょう。その場合の犯人はガスト所属
「や、明らかに技術が乖離している。動きにも連携が無い。それどころか、警戒しあってすらいるように思える。きっと2人と1人は別口だろう」
「なおさら解りません」
うむ。分からんな。
リコリスに分からんなら、私にも分からん!止めだ!
「よし。気にせず
「良いのですか?」
「リコリスがウチの最高頭脳だ。リコリスに分からんなら、私にも分からん!」
思ったままを言う!私はセンサーだ!伝えるのは私の役割だが、考えるのはそうではない!
さあ!5日ぶりだが元気よく行こうではないか!
「頼もう!」
「失礼します…扉は閉めてください」
「すまん!」
「もう…」
「困ったな、堂々と組合に入っていったらまずそうだ」
「どうせ存在はバレてるでしょうからねえ…自首するようなものよ」
多分依頼を受けるのだろう。この状況を認識していて依頼を受けるとは、何か考えがあるのだろうか。
遠目に組合支部を眺めながら、道の脇で立ち尽くす。依然、透明化と消音をかけているので街行く人々からは見向きもされない。
「暇になったわね」
「ああ、そうだな…ぅお!?」
「きゃ、何よ急に…なにこれ」
足元の石畳の隙間に、柄のグリップが無いナイフ———スローイングナイフ———が突き刺さっていた。通常のナイフなら持ち手になっている部分は金属が剥き出しであり、それぞれ大きさが違う穴がいくつか空いている。その一つに結びつけられた紐のもう一端に、端切れのような大きさの羊皮紙が結ばれていた。
「矢文ってやつか。初めてだ」
「今時ね…間違って人に当たったら大変だもの。…これ、きっとエルザさんからよね」
外に出たのだから当然か。しかし、何のつもりだろうか。これから暗殺をしようという人間が、わざわざナイフで文を寄越し、存在を知らせてまで伝える内容とは?
スローイングナイフで紐を切断し、文書を開けた。そこには、ただ2つの文のみが記されていた。
———この件から手を引け。次は無い。
署名も無い、口調も淡々としており差出人を示す情報などは無い。しかしエルザ司祭であるのはきっと間違いないのだ。
獲物を横取りするな、という意味にも見えるが。
「どう思う?」
「いやあ、俺としては何とも…まず、エリーが言ってたエルザ司祭とのやりとりや暗部がどうってのも、ピンとこないんだよ。本当にエルザ司祭で合ってるのか?」
「確信しているわ」
「だとして、エリーに信念とか、意思とか、そういう話をした人なら…少なくとも獲物がどうなんて話にはならない気がするんだ」
「同意よ。第一、暗部
では、どのような意図か。
「けれど、彼女にはリコリス・メイヤー…すなわち、リコリス・G・アイリスを殺すに足る、不明な動機がある」
———『リコリス殺害依頼の現時点での受注者数は何人?』
———『1人だな。一昨日、依頼が発注された当日のことだ』
恐らくは、受注者はエルザ司祭なのだ。
「それさ、聞いてる限りは憶測にしか思えないぞ」
「…えっ?」
馬鹿だが賢く鋭いザルグは、私の論を否定した。