指定日。すでに空は茜と言うにも薄暗く、宿の窓からは遠くに沈み行く夕陽と、浮かび上がる満月のどちらもを拝める。
「来るかしら」
「来るだろうな」
『遠路洋々』は…まさかのリコリスさん単独行動中だ。なんでよ!私たちの視線には少なくとも気づいて居たでしょうが!あの
これでは、当然暗殺者も来るだろう。いかにも罠としか思えない誘い具合だが、それにしたって無防備すぎる。キルターさんが潜んでいる、ということもない。彼は…なんとホテル向かいのちょっと良い感じの酒場に入っていったのだ。ちなみに、表情がギリギリ分からない程度の遠くにリコリスを捉えるこちらの現在地は、例の情報屋が潜むバーの屋根上。あのホテルからは、ざっと100mは離れている。
今日の昼に入市した、馬車の一団も確認した。商人みたいな格好を装っては居たが…。
「いや、黒ね。私の能力が言っているわ、あの荷馬車の中身は
さらに彼らはこの宿にほど近い安宿を借りたのだ。黒に黒を重ねても黒だが、すなわち黒であり、つまり黒だった。
というかもう、誰が黒だったとか白だったとか今はどうでもいい。もうリコリスを取り囲んでいる気配がするのだ。襲ってきたヤツは問答無用で間違いなく悪人だ。
「…明らかにリコリスさんも警戒してるし、もう加勢していいんじゃないか?」
「暗殺者はどうするのよ。控えが必要でしょ。それに、多分リコリスさんだって強いわよ」
「そうなのか?クラウス家の手の者って言うからそれなりのプロだと思うんだが」
「まあ、普通に8人相手に戦ったら私じゃ勝てないくらいには強いわよあのゴロツキども。ただ、
屋根の稜線に潜み、私たちは眼下の
立ち止まって常備リュックを落とした女を見て奇襲を諦めたか、男どもがぞろぞろと現れる。大通りは、8人で余裕を持って包囲できる程度には広い。
「や。リコリスだな?」
「如何にも、リコリス・メイヤーとは私ですが。何用でしょう」
「はは、メイヤーね…まあいい。見て分からないか?クラウス家だ」
「くら…?」
「惚けんなよ…そら!」
会話の最中に抜き放たれたのは銃…ではなくボウガン。木製のため音は小さく、光沢もない。夜闇に紛れての攻撃にはうってつけだ。
毒液の滴る矢が、柔肌を穿たんと静寂を泳ぐ。目にも止まらぬ早撃ち、反射の限界である0.3秒よりも速く距離を詰めた鏃が、魔法使いの腹へと迫る。
が、しかし。彼女は読んでいた。
「
端的な詠唱。その魔法は既存魔法のどれにも当てはまらないが、しかし、同時によく知られている。これはある名によって総称される、
ごく簡単な意味を持った言葉によって魔力に指向性を与え、属性の無いエネルギーのままに扱う技法。属性を持った魔法のような自然現象や災害の再現ではないため規模は小さくなるが、発動が速く、1回の発話で同種の魔法に限り多重に起動でき、発現する魔法の改変がかなり自由だ。さらに、複数種の魔法を並列して扱うことも簡単にできる。魔力消費も、一つ当たりの量で見れば少ない。
毒矢は
「へぇ。流石、トップ
「終わりですか?」
「…行くぞ」
開戦。8人のうち、3人がナイフを持って駆け出し、リーダー格を含めた5人はボウガンを構えて狙いをつける。
「
ずべーっ、と。ナイフ3人が全員コケた。
至ってシンプルな方法。彼女は、駆け出した3人の、接地している足首を
顔面からベタっと転んでいる見た目はコミカルだが、やっている事はエグい。ボウガンから発射された
あっけなく崩壊した前線だが、襲撃者たちは動じない。曲がりなりにもプロ、心構えは当然備えているのだろう。先ほどのような毒矢が合わせて5本、僅かに間隔をずらして放たれる。なんという技巧か、弾着は全くの同時となるように放たれた5矢は、それぞれ左腕眼球、左肩、やや遠めに右脇腹、左大腿、そして心臓を正確に狙う。
彼女が魔法使いでなく、一介の剣士であれば、この時点でほとんど詰みであった。弾着、先と同じ0.3秒未満。一般的に盾を持つ側である右腕で身を庇い左へと飛べば右脇腹以外の4発が上下様々の箇所へ殺到し、唯一右半身を狙った脇腹への矢は外側へと狙いをずらしてあり、回避すれば当たるという理不尽な配置。太腿を狙う低い矢が下を潜り抜けることを許さず、心臓を狙う矢が中央を潰すため半身ですり抜けることさえ不可能。跳躍すれば次発の良い的。ただ一人を確実に負傷させ、戦闘力を奪うために最適化された連携は曲芸とも呼ぶべきか。
だが。彼女は魔法使いなのだ。その手は認識の数だけ、その速さは脳の速さの分だけ、その札は積み重ねた研究の分だけ。彼女のような魔法使いを相手取るならば、「詰ませる」のではない。「削り取る」べきなのだ。
「
既に展開されている
開戦から僅かに5秒。1対8の小戦争は、既に趨勢を決していた———いや。
「魔法使いに矢で挑むなど。愚かな。矢など、我らの初歩だというのに」
初めから、勝敗など決まり切っていた。
そう。
初めから、分かりきった勝負だ。これは。
「手を引けと。伝えた筈だ」
銀の長髪が、月下に靡く。
黒。黒のヒトガタが立っている。それ以外、髪しか形容すべき点が無い。服の継ぎ目やシワもない…人である、としか認識できない。
その姿は、目の当たりにしているとは思えないほど、闇に包まれて居たが…私は、やはり、と。
ただ、観念するように、希望するように、絶望するように…呟くしか無かった。
エルザさん、と。
経緯など語るほども無い。あの1対8の戦いが始まってすぐ、黒い影のような者がザルグを反対側の路地へと蹴り落とし…私と相対した。なんと言っても5秒しか経過していないのだ。
しかし、5秒あれば。ザルグを殺すには十分なはずだった。ザルグは生きている。弾け飛ぶように蹴り飛ばされ、落下し、呻いている。恐らく骨も折れているだろう。だが意識はある。致命傷には遠い。
殺すどころか、手加減しなければこうはならないだろう。
「貴方が…どうして貴方が」
「こちらの台詞だ。何故、退かない」
「…こうする意外、思いつかないからですよ」
「ならば、殺す。貴様は殺す」
誓うように掲げられた波打つナイフ。血のような、気高い紅紫の煌めきを放つ。恐ろしい影のヒトガタが、荘厳な神像のように祈る。
死ねない私の、死闘。運命が扉を叩く音を聞いた。
稜線に隠れていた私は、片膝を突いて座り込むような姿勢だった。先手を影に譲る以外無く、私は両腕をクロスして強烈な前蹴りを受けようとし…トン、と軽く掬うように押された腕が容易く首筋を晒す。
目にも止まらぬ、無音の一閃。右をすり抜けるように通り抜けた影の斬撃に、私の首の右半分はバックリと裂かれた。寸断された頸動脈が盛大に血を噴き、鮮やかに紅いシャワーが屋根裏を濡らす。
一死。
意識を失い、仰向けに倒れる。
「こんなものか」
二死。
ショック。痛みと衝撃に目を覚まし、見開いた私にぎょっとしたように影が飛び退がる。様子を伺う隙に、血を吐き出しながら、亡者のようにふらりと立ち上がる。
———生きたければ、殺せ。
ドクン、と再生した心臓が跳ねる。強制的に与えられる恐怖。
ダメだ。殺すわけにはいかない。
「どういう仕掛けだ…?」
———私が知りたいよ。
「
隙を逃さない。
浮遊し、彗星の推力を纏う。音もなく、熱もなく。夜の空を疾駆する。
「速い…属性魔術?何個目だと…!」
『
本来の私の魔法使いとしての実力は、リコリスさんよりも上のはずなのだろう。しかし、子供の時分から好んで学んだ魔法は、生活に役立ち、かつ夢のように美麗な
影が、エルザさんが油断している内にどれだけの魔法を重ね、維持できるのか。それが重要になるだろう。効果の持続する魔法はこの身に海の如く蓄えた魔力が枯渇するか、膨大な魔力によって掻き消されるか、意識的に魔力供給を遮断するまでは継続する。一度発動すれば、死体からでも魔力を吸い取って動き続けるのだ。これは私にとって、この上なく有難い性質だった。
「しかし———空中戦なら勝てるとでも!」
「くっ…」
「アンデッドならば…それなりの殺し方をする迄だ」
聖水の瓶———紅の刃が、我が神カルネラの祝福を受け、
まだ、驚かせるチャンスはありそうだ。
どうやってか、空を蹴るように私の飛行に追い縋る影。交錯、交錯、また交錯、彗星の、稲妻の、見えざる軌跡が、曲線と直線の螺旋となって高空を縦横無尽に巡る。
交錯の度に、眼を、腹を、喉を、膵臓を突かれる。三、四。星が飾る、上も下も無いような暗闇で、
やはり勝ち目は無いのか。そもそも、どうなればいい?どうすれば私にとっての勝ちなのか?目的も定まらず、歯を食いしばり、がむしゃらにナイフを振り、迷い、惑い、死中を彷徨う。
———生きたければ、殺せ。
煩いのよッ———!
「何者だ…何なのだ!何故死なない!祈りが通じない…!?」
「アッ…ゴゥッァ…ウゥ、ぐ…ぎ、ぃっ!」
「死ね、死ね!死ぬがいい怪物め!お前などに彼女を殺させなどしない!」
五。八、いや九。十一…次は…ああ、何度目か。最早分からない。神経も傷付かず痛みは常に限界以上を訴えるが…それを受け取る精神はとうに麻痺した。
眼球を深く刺される。脳に達したか、意識を一瞬失う。制御を誤り、体勢を崩し、蹴り飛ばされて石畳に墜落する。高速の摩擦に四肢が千切れ飛び、衝撃で路面が抉れる…消音をかけていなければ、どうなっていたか。
これだけの戦闘が、全て無音。誰にも気づかれていないのだ。それは、影にとっても、私にとっても、重要な条件だった。
ああ、どうすれば良い。どうなれば良い。
殺さず、殺させず…影を止める、影を止めるのだ。
———『
「———!」
諦めるものか。
———『
———『
———『
何度も、何度も鎖を呼ぶ。これは効くのだ。だから避ける。だから、私に時間を与える。
諦めるものか————。
『忠戒』、『忠戒』、『忠戒』…!
「一、つ…覚えを…よくも繰り返す!」
諦めるものか————嗚呼。
何度も見た、走馬灯…。
「っ…!?なんだこれは…幻覚か?!」
世界が白んでいく。
走馬灯は好きだ。
死の間際に、ときどき見える記憶の再生。
一番良いところは…時間が経たないこと。嗚呼、過去は幸せに満ちていたから、何処を思い出したって良いものなんだ。
いつの記憶かな…。
「昔、昔。妖精の国がありました。女王様はとてもよい王様で、みんなに好かれておりました」
お母さんの声だ…久しぶりに聞くなあ。
こんな絵本あったっけ…やだな、忘れちゃってるんだ。
「ある日、女王様はかぜをひいてしまいました。熱を出して、うーん、うーんと苦しそう。みんなは女王様を助けようと、知恵をしぼって考えます」
他の妖精の何倍も大きな、きれいな女性の妖精が、苦しそうに目をつぶっている挿絵。
その右で、円卓を囲んだ小さな妖精たちが首を捻って悩んでいる。
「そこで、三角の帽子を被った子が言いました。私なら、薬を作れる。任せてくれ!」
円卓の一番向こうで、魔女のような格好をした妖精が手を挙げている。
「三角帽子の子の薬はとても良く効きました!女王様はうーん、うーん、の声は止みました。熱も下がりました。これで一安心です。あとは目を覚ませば、何もかも元通り!」
先ほどと違い、すやすやと眠っている女王を、妖精たちが取り囲んで万歳をしている。
けれど、魔女がいない。
「ところが次の日、みんなが女王様に会いに行くと、目を覚ました女王様が大声を上げて泣いていたのです。どうしたの?みんなが心配そうに訊ねました」
「あれ?なんでないてるの?」
「ふふ…女王様は言いました」
『わらわの好きだったバラが、無くなってしまった!』
「そう言って見せた植木鉢には、花だけがなくなってバラが植えてありました」
「ひどい!」
「そう、ひどいことです。妖精たちは、だれがそんなことをしたのか、あちこちを探して周ります」
家という家。城の部屋という部屋。国じゅうを、妖精たちが汗をかきながら駆け回っている。
やはり魔女はいない。
「そうしていると、ひとりの妖精が三角帽子の妖精の家で手紙を見つけました」
「あれ?三角帽子の子、どこだろ」
「ほんとだー、どこにもいないよぉ、お母さん」
「…手紙にはこう書いてありました」
手紙の内容は、手紙の挿絵という形で絵本に記されていた。手紙は女王様に合わせた大きさで、妖精たちが、きょとんとした顔で手紙を取り囲んで上から覗き込むように眺めている。
———女王様。私は旅に出ます。
———女王様を助けるために、私はくすりを作りました。
———そのくすりには、女王様が大切にしていたバラが必要でした。
———私は、女王様の宝物をくすりにして飲ませてしまいました。
———この両手で、花を摘んで、さびしい茎と葉だけにしてしまいました。
———女王様はきっと、私が
———だから、この三角帽子の顔を貴方に見られないように、私は旅に出ます。
———女王様。だいすきです。ごめんなさい。
———さようなら。
「え?え?」
幼い私は、おろおろとして、戸惑うばかり。
「っ…ひっく……」
隣のサリーお姉ちゃんは、泣いていた。お姉ちゃん、このお話が分かってたんだ…。すごいなぁ、お姉ちゃんはすごいや。
「手紙を読んだ女王様は、植木鉢をそっと机に置きました」
円卓の真ん中に、花の無いバラの植木鉢が置かれる。
「女王様は、言いました」
『このバラに、永遠の魔法をかけた。もはや枯れることはない。このバラは、花がある時も美しかったが、花が無くなって、もっと美しい。』
『この美しいバラをわらわにくれた妖精に、お礼が言いたい。どうか、探してきてくれないか』
「女王様はまた泣いていましたが、もう大声ではありません。静かに、静かに、涙が床に落ちる音が響きます」
やがて。
「ぼくが行く!」
大きく1ページを使って、勇ましい表情の妖精が描かれている。
「わたしも!」「ぼくも!」
「妖精たちは、三角帽子を探す旅に出たのです」
「がんばれー!」
私は、幼い私はただ無邪気に、旅に出る妖精たちを応援する。
「がんばって…がんばって…!」
姉は、涙を拭いながら、切望するようにお母さんのスカートを握りしめていた。
「妖精たちが、三角帽子の子を見つけられたのか。それはまた、別のおはなしです…」
そこで、絵本は終わっていた。
「えー!」「えぇっ…?」
「あ、ほらほら。そんな顔しないで?この絵本はここで終わりだけど、妖精たちはきっと頑張るわ」
「でも、わたしもそれ見たいのにぃ」
「…そうだ!」
———わたしとエリーで、この絵本の続きを作りましょう!
私が…作るんだ。
勝機を…希望を…皆で笑い合う朝を!
「
「何だ…?何だと言うんだ…!?」
私が、作るんだ————!
対して、魔術とはそれらの魔法を技法や形式ごとに分類するための、カテゴリーを指す言葉である。
殺し文句、と言う言葉があるように、死に得るのは命だけではない。