夜が深まる。仰向けで転がる私の上には満天の星空が広がっていた。
さっきまで駆けていた星の空。
新たな魔法の誕生を祈るように、星々は強く瞬いている。
そうだ。この魔法は、まだ誰も唱えたことのない魔法。
「あ…ああ…お前…何をした…?」
声が震えている…?
まだ、何もできてなんていない。
「
『忠戒』、『忠戒』…。
夜の闇から光が溢れる。聖なる鎖が、夜闇に舞う影を照らし出し、その身を戒めるために伸ばされる。
「あぁっ!」
しかし、最早手慣れた様子で影は鎖を弾き飛ばしながら範囲を脱する。近づいてくる。ナイフが振りかぶられて、降ろされる。
ただ、さっきまでと違って、とても感情が剥き出しになっている。
「お前の、ような、半端者が!神の奇跡を騙るなァ!」
胸を袈裟懸けにされる。肺に血が混じり、呼吸を妨げる。
「がほっ…
第二節を詠む。
まだ、まだだ。この魔法の効果は、奇跡にも匹敵する。
この程度の詠唱で済むのなら、魔力で済むのなら、全く安すぎる。
「何度!何度だ!何度祈ったかなど知れない!誰もこの罪を赦しなどしない!」
ザルグ、私はやっぱり頭が悪い。貴方よりバカかもね。
ようやく分かったんだ。誰だったのか。
「
あまりにも高速で、精緻なナイフ捌き。私には目で追うこともできない。されるがままに、胴体を切り刻まれる。死ぬまで殺してやる、と言わんばかりに。
「偽りの代行者…!」
それでも、口だけは止めない。
この詠唱を止めたら、きっと奇跡は起こらないから。
なんの戦いの心得もない、ただの小娘が、この羅刹を倒さなければ得られない奇跡。そんな無謀で、ありもしない奇跡。
「
「神は!何故語らない!私は何故赦されない!あの子に罪を与えろと言うのか!」
馬乗りになってナイフを握る左手を大きく振り上げた隙を突き、『
「誰にもリコリスを殺させる訳には行かないんだよ!」
ああ、分からず屋め。
私だってそのつもりなんだよ。
「
たった一度、この悪鬼に、悪鬼たる自分を忘れさせることができればそれでいい。あと2節。詠い切る。
「あの子を…あの子に同じ道を歩ませるなんて…!」
体勢を崩したのも束の間、影は即座に私へ飛びついた。2人、空中で雁字搦めに絡まって墜ちていく。
「だから死ねぇ!死んで頂戴よ!その目を止めろ!心で、死ねぇ!」
首を絞められる。息が出来ない。けれど、その指に私のナイフを突き立てるのは嫌だ。
「ぐぇ…ひ…
カエルのような声。掠れ、音も出たか分からないほどの声。されども、確かに詠唱は進んだ。
———『
「うぁっ…!?」
第一位権限。奇跡の代行ではなく、主体的執行を行う。
墜ちながら、詠う。
最後の———一節を!
「
「——————————」
鐘の音のような音が響く。
同時、再びの落着。下になるのは私だ。何本かの骨が折れたのを感じたが、影にはダメージはない。
影は…止まった。
あれだけ激しかった猛攻が、ピタリと止み。
影は、微動だにせず固まっている。
時間停止、というものだ。影の主観、意識の時間をそのままに、客観、肉体の時間を止めて固定した。間違いなく、大魔法。長文の詠唱と法外な魔力を要求し、世界の根底とも言うべき時間と空間の法則に干渉する、おとぎ話のマジックを、私は再現した。
流石に、ゴッソリと魔力が無くなった。全てを回復するには、1週間はかかるだろう。もう一度戦えと言われたらもう無理だ。
しかし、それは必要ない。
私は、この影に、殺しも殺させもせずに、勝った。
「聞こえている、でしょう…エルザさん。お分かりでしょうが、エリーです」
透明化を解除。消音は、影———エルザさんに近づけば聞こえるはずなので、そのまま。
「貴方の時間…客観的な時間を止めました。今、貴方は身体を動かせませんが、意識はあるはずです」
ようやく訪れた説得のチャンス。二度はない。返答が期待できない今、私は十分に説得した上で、彼女を解放しなくてはならないだろう。
しかし…残念ながら、私には、全てを正直に告白する以上の方法など、分からない。
この、暗殺者ではない、何事かの信念に於いて羅刹となった女に、私たちの意思を信じさせるためには、それを置いて他に無いのだ。
「まず…私は貴方を誤解していました。私は貴方が、あの依頼の真の発注者ギリア・G・アイリスと結託し、リコリスを殺そうとしている…そう考えていました」
これは、違ったのだ。私とザルグの推理が、それぞれ真実に辿り着けなかった理由はここだ。私たちは根底を間違えていた。
「ですが違う。貴方はあの依頼を受注した上で、リコリスを殺すつもりは無かった。そうでしょう?」
一呼吸置く。
「私たちは、あの依頼を見て、知り合いのリコリス・メイヤーの命が危ないと思い、その近辺を警戒していただけなのです。…私たちが怪しく見えるのは当然です。私が、貴方を暗殺者と見做していたように」
まして、エルザさんは私が人殺しであることを見抜いていた。
その口から元暗部であると聞いただけの私とは違う。鍛え上げられた血への嗅覚を持つであろう彼女には、私が、それこそ全身血塗れの猛獣に見えたことだろう。しかし、彼女はそれでも私を一度赦したのだ。
それを裏切るように、この依頼に関わったのは私だ。たとえ、遂行する気が無かろうと、受注してすら無かろうと。
「私は血に飢えた獣のようなのでしょう、しかし私は、人間のつもりでありたい」
「……」
固まっているままのエルザさんからは、ただ驚愕の表情しか読み取れない。
「私たち2人にリコリス・メイヤー殺害の意図はありません。貴方が諭してくれた道を違えるつもりもありません。私の信念は、未だ、迷いの中にある。それでも、追い求めることを諦めない意思を、捨てるつもりも無いのです。…分かって頂けませんか?」
なんと口の回らない女だろう。
もっといい説得もあったろうに、幾度も殺されて掴んだ奇跡に、このような拙い言葉しか並べられはしないのだ。私には所詮、ザルグを引き入れた時のような、狂気の魅力しかないのかもしれない。
もはや、彼女の返答を見る以上にするべき事は無い。
死ぬことは無くても、磔にされれば終わりだ。時間が経って冷静さを取り戻したであろう今、この魔法も2度は通じないだろう。
「今から魔法を解きます。もしそれでも私が危険だと思うのなら…私に抗う術は無い」
「…お前は」
影が、再び動き出す。その手が懐へと動く。審判を待つように、私はただ見つめていた。
「がっ…くそがぁ…!」
「決着です。朝になったら衛兵に突き出しますので、大人しく縛られていなさい」
終わった。呆気ない…まさか本当に、私一人ならどうとでもなると思っていたのでしょうか。どうしようもなく、愚鈍です。
「終わりましたよ、
「問題なかろう!リコリスは強い!この程度の雑魚ならば、さっさと釣り出して仕舞うのが早い!」
単独行動はキルターの策。街に何者かが潜んでいる今、徒らに時間を使うべきでは無い。探せば隠れようとする悪しき輩であれば、あちらから出向くよう釣り出して一網打尽にしてしまえ、というのは単純で強引ではありますが、実現可能ならば良い案です。
「同意したのは私です。不平はここまでにしておきます。何より、このような
「ああ、向こうだな」
先ほどから、激しく何者かが戦っている。馴染みのない魔法の気配、それも複数。しかし、その出所は一つだけ。
さらに、何者と戦っているのかはまるで掴めない。これだけの魔法の使い手を相手に、高精度の隠密を保ったまま戦っている者が居る。
ただ…。
「行きましょう、見過ごせません」
「もちろんだとも!」
「夜中です。静かにお願いします」
「応!」
…先ほどの巨大な魔力の後、ぴたりとその気配が止んだ。
急がなくては。
「…お前は」
影の、懐に伸ばされた手が引き抜かれ…
私の血に銀の髪を染め、闇色の司祭服に身を包んだエルザさんの姿が、あった。
「いえ、エリーさん、貴方は」
「……」
「彼女を殺そうとしていたのでは、無いのですか…?」
「いいえ、いいえ。私たちに、その意思はありません」
「私は…私は何という…」
だというのに、あの異常な戦闘力。
「エルザさん、もし貴方に、既に戦う意思が無いのなら場所を移しましょう。ザルグが心配です」
「わかり、ました…」
リコリスさんが戦っていた場所の裏通り、最後に見た時とほぼ同じ位置にザルグは居た。壁に寄りかかり、肩で息をしている。
「はぁ…はぁ…痛っ…!ててて…」
「ザルグ!」
「あ、エリー…無事か」
「無事じゃないのは貴方でしょ!」
急いで駆け寄り、神の奇跡を行使して治療を行う。
———『
その抑えている手の上、お腹の上の方に私の手を重ね、祈る。温かな奇跡の光が手のひらから溢れ出るようにザルグの身体に吸い込まれて行く。
もっと上位の奇跡を使えたら良かったんだけど、もう魔力が底をつきかけている。今はこれが限界だ。一応、他の脅威にも警戒しなくちゃいけないから、飛行のための魔法を解くことはできない。リコリス殺害依頼の指定日が過ぎて失敗扱いになるまでは、油断できないだろう。
「…どう?」
「ああ…だいぶ楽になってきた。なんとか立てそうだ」
「良かった。無理はしないでね?どうしてもダメなら、おぶって行けるから」
手を突いて、ゆっくりと立ち上がるのを見守る。どうやら言葉は嘘では無さそうだが万全とも思えない。一度撤退して、大きい方の宿に置いてくることも考えた方がいいかもしれない。
だけど、今は話を聞かなきゃならない人が居るんだ。
「結局エルザさん、なのか。そんな人には見えなかったんだがなあ」
「私は…変装とか、情報欺瞞とかは得意でしたので」
「はは、プロの得意分野じゃあ仕方ねえな」
「お話します。私が、貴方がたを襲った理由も…リコ…いえ。リコリスの殺害依頼を受けた理由も…全て」
そして、意を決した表情で声を発そうとしたエルザさん———。
「ちょっといいかね?その話、我々にも聞かせて頂けないだろうか」
「エル…?」
———その後ろには、険しい表情の、
「———っ!…リコ、リス…」
信じられない、信じたくない。その一心で、しかしリコリスさんは、聞かずにいられないのだろう。
目を見開いた表情は、困惑と、少しの恐怖で歪んでいた。
「私の…殺害…?…嘘ですよね。そんな、そんなことは無い、そんなはず…嘘ですよ」
「……」
「言ってくださいよ!嘘だって、お茶目な冗談だって!言ってくれればそれで笑いますから!だから!」
「わ、私は…」
「待って、エルザさん!」
このままじゃ、エルザさんが大切な友人を失ってしまう。勘違いとはいえ、リコリスさんのため
「リコリスさん、私から事情を説明します。私もまだ、全てを知っているわけではありませんが…エルザさんは貴方を殺そうとなんてしていない」
「貴方は…エリーさん?」
「はい。あの襲撃でお世話になった、エリーです」
「お願いします…エルザは私の大切な…友人なんです」
エルザさんに目配せをする。頷きの返答。隣合い、私から口火を切る。私の身の上を明かすことになるが、構わない。
もともと、大ぴらにするつもりは無いが、こんな時にまで隠すほど隠してもいない。
「事の発端は、私がこの街の暗部である依頼を見つけたことです———」
探るように、なぞるように。2人の口から、事件が紐解かれる。