支部に戻ると、ザルグは仮眠室に居た。休憩と言っても寝るものかと思ったが、彼は頭を枕に乗せつつもガスト市周辺の環境情報をまとめた雑誌を読み込んでいたようだ。開かれているページを覗き込むと、「西ガスト湖沼定期調査・植生」なる項目が見える。
「うおっ…帰ってきたか」
「その様子だと、次にすることの予想がついているみたいだね」
「まあな。初めから明らかに不審な点が多かった。戦いが長引くなら、斥候を出すだろうと思ったのさ。参加申請するか?」
ザルグの掲げる
「うん。私、疲れてないし」
「そういや、息は切らしてもすぐ治るよな。それも例の?」
「そう。虚弱だから、体力を使うとすぐに、ね」
この忌まわしい呪いに助けられている以上、もう私は哀れなだけの娘ではいられないのだと、ふと思う。何回も考えたことだ。それでも未だに頭に浮かぶのは、私がまだ、自分を普通の娘だったのだと思いたいのだろうか。
「よし。この本を返してくるから、それだけ待ってくれ」
「着いてくよ」
これからの調査は、明らかにザルグにとっては過剰な難易度になる。野外探索の能力だけを見れば十分だが、彼には自衛手段が無いのだ。それでも彼は文句も言わずに着いてくるのだ。私も、彼をそんなつまらない理由で死なせる気はないが。
能力を十全に扱える状況なら、さっき程度の群れが相手でも自信を持って守れる。
「返却です。この本ですが」
「はい…はい。受けとりました。ご利用ありがとうございます」
資料室の司書が事務的に受け応えする。
「いいぞ。徒歩だよな」
「うん。…あ、そうだ。南門から出るよ」
「西じゃないのか?」
「西だよ。でも、見られないようにしたいから」
「分かった。何かできるんだな」
「そういうこと」
彼の物分かりのよさには、本当に助かる。これからの調査だって、彼の技術が無ければ他に任せて、後の直接戦闘まで待つしかなかっただろう。
思ったよりも私は、ペットのつもりだった彼に依存し始めている、のだろうか。
ガスト市南門から少し。周囲に人影なし。
「
透明化の光の魔法。効果は絶大ながら、光に関する魔法で最も初めに教えられるほどに難易度は低い。ただ光に道を譲るだけなので当然だが。*1いくらでも悪用されそうな魔法だが、魔法使いが持つ魔力への感覚には察知されやすい。これをうまく隠蔽しようとすると、やはり相応の熟練を要する。
「おっ!?消えた!?」
「ザルグもだよ。自分の手、見える?」
「お、わっ…本当だ。見えないな」
「貴族だったなら、これくらいの魔法の手ほどきは受けたんじゃ無いの?」
「もう分かるだろ。魔法もダメだったんだ」
「うーん、ひどい」
「そう言うなよ…」
もはや言葉も無い。ここまで他者を傷つける術を持たない人を見たことがあるだろうか。だというのに、直接では無いとはいえ殺人の罪を抱えているのだから世の中分からないものだ。
「で、もう一つ。
こちらはそこそこ高難度、浮遊の魔法だ。星の引きつける力を無効化する。この力への干渉法を見つけるのにそれはそれは長い苦労があったと聞くが、今となってはその方法は完全に確立されているのでそこはさして難しくない。問題は、その規模だ。星の力は私たちが普段思うよりもずっと強く、これを捻じ曲げるためには多大な魔力を継続的に消費するのだ。つまり、多くの魔力を蓄えられる優れた魔法使いでなければこれを唱えた所ですぐに維持できなくなってしまうのである。浮遊の効果を維持できないというのはつまり、落下するということなので…まあ、事故が起きる。人は打ち所が悪ければ数メートルの落下でも死ぬのだ。
幸いにも私は魔力を多く生み出し、多く蓄えることが容易い能力を持っている*2ため苦では無いが、やはり多くの人間にとって空は未だテリトリーの外である。
「お、お、お…?」
「空の旅へようこそ。初飛行の感想は?」
「な、なんか…内臓が揺れる…不気味な感じだ」
「すぐに慣れるよ。きっと」
それどころでは無くなるだろうからね。
「おい、今なんか不穏な———」
「声あげると舌噛むよ?
『
空高く、雲には届かない高さ。鳥たちの世界まで浮かび上がった私たちは2条の彗星となり、傾き始めた日の下を駆けた。湖沼地帯までひとっ飛びだ。
「んむぅうううううっ!?!?!?」
「ふふっ…!何それ!」
「むぅうう!!むううううう!!!」
ちなみに、『
そうとは知らず両手で口を塞ぐザルグの顔は、強風と涙やら汗やらで大変なことになっていた。
「おま、おま…!お前…!エリーお前!お前!おまエリーお前!」
「ごめんなひゃい、ごめんなひゃいい!」
「死ぬかと思ったわ!漏れるかとも思ったわ!」
「あ、
「寸での所でな!!!」
「
あ、ちょっとこねたでしょ!私のもちほっぺ!お母さんにもお姉ちゃんにも人気だった私のほっぺ!
しかし漏らさないとはさすが男の子か。初めてこれ使った時の私は…ん”ん”っ!!
「ふぃいい…いひゃいい」
「で、ここ何処なんだ?俺はマジで自分の位置見てる余裕なかったから分かんないぞ」
「こひょうひらいの…むほう」
「なんだって?」
「こ、湖沼地帯、の、向こう!水没林に、なってるみたい…いたた」
「なるほどなあ…まあ、しっかり裏まで回ってくれたんだな」
「そりゃあね…こっそり敵陣偵察って言うのに、わざわざ前から行くことないでしょ」
「その上空をド派手にかっ飛ばしたヤツが発言者ってことを除けば完全に同意だよ」
「反省してますからあ…」
そういえば、こういう小気味いい会話に、ちょっとだけ憧れてたっけ。
「いいよ、許す立場でもないんだから。後は俺の仕事だな」
「まだまだ魔力には余裕あるから、透明化はもう一度かけておくね。
「足音が消せるのはいいが、土を踏んで分かることもあるからな…音だけ消せる魔法は無いか?できれば、俺たちには聞こえると嬉しい」
「あるよー」
魔法は好きだったから、色々知っている。小さい頃は勝手に本を読んで怒られたが、魔法の才能があると分かって以降、家の書斎には魔法の本が増えて行った。印刷技術が進んだ今でも、大量生産には遠く、依然として書物は高級だ。お金を工面して揃えてくれた両親は、きっと私に少しでも強く育って———。
「———っ、ふぅ。
空間に満ちている風を、自らの周囲とそれ以外で切り分ける。真空の膜を作る、と言っても良い。音は空気や水が無ければ伝わらない、らしい。本来は水中に潜るための魔法だが、こう言う場合でもきっと有効だ。
「これ、本当に聞こえないのか?」
「本来の用途と違うからなあ。ちょっと待って」
一度魔法を解き、距離を取って自分にだけかけ直す。その後、強く足踏みをし、大きな声を出してみる。
「ザールーグー!」
「——————」
おや。聞こえない。そうか、真空だから内から外へだけじゃなく、外から内へも音が伝わらないのか。失敗だ、魔法を解こう。
「ごめんザルグ、これ外からの音も届かないや」
「そりゃちょっと…ああ、いや。それでいいか。どうせ会話なんて無いだろ。何か話しているような様子が見えたら魔法を解いてくれればいい」
「そう?じゃあもう一度かけるね」
そうして、透明化と消音の魔法がかかった私たちは魔物集団の後方から接近を開始した。
魔物の群れはすぐに見つかった。例のヴァンパイア共々、かなり平原地帯まで近づいている。これは、あまり戦況は良くないかもしれない。
「…でも見た感じ、狼もかなり減ってるように見えるね。もう100匹も居ないんじゃないの?」
「と言っても、まだ戦闘に参加してないのだけで100弱はいるって事だがな。元々の300って概算はどうなったんだ」
「うーん…」
「それと」
ザルグが水を掻き分けて沼地を手で漁り、目を凝らして言う。
「フンとかの痕跡がない。魔物って、フンをしないものだったか?」
「いや、それは違うはずだよ。生き物として歪だけど、一応は生命体だし代謝もある。ヘビ型の魔物の抜け殻なんかも有るもの」
「あの数の狼が半日も集まっていたら、少しくらいは居た痕跡があるものだが。俺には、ここに狼の群れが滞在していたようには見えないな」
「足跡は?」
「この沼地じゃなあ…ぬかるんだ泥の沼なら残ったかもしれないが、ここは水かさがある程度に水っぽい。あの大きさの生き物の動向を探る情報源としては、使えないな」
「…ん、待って」
「どうした?」
「魔力が…揺れ、てる?…何か来る!」
直後、信じがたいことが起きた。
———オォオオオオン!
———オォオオオオン!
———オォオオオオン!
「なんだありゃ…嘘だろ」
「信じたく無かった…けど、間違いない」
「増えてやがる、だと?このペースでか!?」
私の魔力感覚には、ヴァンパイアが魔法を使ったように感じられた。その直後、周囲に魔法陣が展開され、一度に50匹ほどの黒狼の群れが現れたのだ。
さらに数秒後、同じように50匹が追加された。何度か繰り返され…
「冗談じゃない…!これじゃ勝ち目なんてないぞ!」
「どこかから呼び出されたように見えたけど…あと何匹呼べるのか分からない。魔力の消費も、見た感じふらつきとかは無いし、アイツにとっては大した消費じゃないんだ」
「もしかして翼竜も呼べるのか…?」
しばらく待ってみたが、明らかに数を減らしている翼竜が補充されることは無かった。
「相手はほぼ黒狼くらいのものか…それでも、この量は」
「難しいね…いずれは突破される。逆に打って出るなら、そうね。早く戻りましょう。この情報を伝えないと作戦の立てようが無いわ」
「ああ…」
ザルグから目を離し、再びヴァンパイアを見る。
目が合った。
「……っ!?」
———『
反射的にザルグを保護する。黄金に輝くヴェールの球が彼を覆い、直後私たちは極太な虹色の魔力の奔流に呑み込まれた。即座に透明化と消音の魔法が掻き消される。
「ぐ…ぅうっ、
虹色の砲撃に翻弄されかけたのも束の間、私も対抗魔法を発動する。『
私だけなら無防備に受け続けてもいい。しかし、背負ったリュックにはチロが居るのだ。吹き飛ばされ、背面からこの奔流を受けようものなら一溜まりも無い。
「
「っは…ふぅ」
対抗魔術を解く。会話が通じるのか?
「貴方、何者?」
「それはこちらのセリフでもあるニャ。お互い軽く自己紹介と行こうじゃニャいか」
「いいわ…その口調、なんなのよ」
「クセだ。気にするにゃ」
そう言って、燕尾服にシルクハットの吸血鬼は深々と礼をした。
「吾輩はジルコン。主よりこの魔物集団を与えられ、監督をやっている」
「エリーよ。そっちの結界のはザルグ。貴方が襲っている都市で
「残念にゃがら吾輩は監督であって指揮者ではにゃいのでにゃ。その力はにゃい」
「じゃあにゃんの…」
ん”っ。
「…何のためにいるのよ」
「釣られたにゃ?」
「こ・た・え・ろ!!!」
そこに触れるな!
「今の吾輩の役目はにゃ。
「…私ですって?」
「戦える
「待ちなさい。私が
「おっと、そこは秘密だにゃ」
「惚けないで」
別に
「みゃ、そこは主に聞いてくれ
「まずっ———ザルグッ!」
「エリー何が———」
突然、足下に展開されたのは空間を捻じ曲げるテレポートの魔法。結界を解き、何とかザルグの手を掴んだ瞬間、私の意識は暗転した。
「さてと、用は済んだし死人が出る
私たちの消えた後ろで、狼たちもまた、突然地面に現れた呑み込まれるように沈んで消えて行った。不意に訪れた襲撃の終わりに、兵隊も、