桜の咲き乱れる門出の季節、母校との別れを告げるその前に私はある教室に立ち寄っていた。
「あったあった」
この教室の生徒だった人にだけ見えるという古びた不思議なノートをぱらぱらとめくって、私は思わず笑みをこぼした。
「懐かしいなぁ」
いろいろとあった中学校生活だけど、中でもあのレベルの出来事はもう体験することはないかなってくらい強烈で、文字通り私の人生を一変させるほどのものだった。
「あれ、綾香じゃん。1年の教室なんか入っちゃってなにしてるの?」
そうして物思いに耽っていると、廊下から馴染みの声が聞こえてきた。
「ううん、ちょっとね」
彼女の名前は杉森志穂。小学校からの付き合いになる私の親友だ。
「あ、それ懐いね。なるほど、綾香ってば卒業しちゃうからって、ここにしみじみしに来たんだ?」
そういって人を茶化してるけど、志穂だってきっとこのノートにはけっこう思うところがあるはずだった。
そう。私だけじゃない。今日卒業式を終えた元1年A組の生徒なら、どんな意味であれこのノートは特別に違いなかった。
「……」
「な、なに?なんか返してよ、白けちゃうでしょ」
「入学当初と比べて、志穂ちゃんもずいぶん変わったよね」
「なにそれ……そりゃあ変わるでしょ。だってここはーー」
ーーそういう教室、だったじゃないの。
ああそうだ。その通り。私たち思春期の子どもにとって3年は長い。だから3年もあればその始まりと終わりとで、普通は誰だって見違えるほど変わるはず。
ただ、志穂ちゃんの言っていることはそんな有り体な話じゃない。そんなのとはまるっきり違った摩訶不思議な超常現象がこの教室では起きていた。そして、それが私たちにもたらした尋常ならざる変化のことを志穂ちゃんは言っているんだって、私にならはっきりとわかる。
「もう!年甲斐もなく感傷に浸っちゃってさっ……言っとくけど綾香だって、前より、その……」
「その?」
「か、可愛らしくなった……っていうか……」
志穂ちゃんはたどたどしく、恥ずかしそうに口を開いた。
「お、女の子らしく……綺麗に、なったと思うよ……すっごく……」
やたらとぎこちなかったから何を言いだすのかと思ったら、志穂ちゃんは相変わらずおかしなところで妙に恥ずかしがる子だった。そういうところは変わらなかったなぁと思いつつ、変わり切らないでいる自分たちにほんの少しだけ安心感を抱いた。
「……ぷっ、あははははっ!!」
「なっ!なんで笑うの!?あーもう!言うんじゃなかったやっぱー!!」
「ごめんごめん!ふふっ」
「そんなことよりっ!綾香もさっさと行くよ!もうみんな会場向かってるんだから!」
早足で立ち去っていく志穂ちゃんに遅れまいと私も慌てて教室を出る。そういえば、開いたノートをそのままにしちゃってた気がする。まあいっか。どうせあれ、普通の人には見えないんだし。
「おいしいスイーツもたくさん出るって。あたし、プリンが食べたいなー」
「あれ?志穂ちゃん、ダイエットは?」
「今日くらいいいでしょ。綾香は細かいこと気にしすぎ!将来ハゲるよ!」
「じょ、女子に向かってハゲるとは……」
拝啓1A教室殿。まあなんにせよ、とっても楽しい3年間でした。素敵な学校生活を、どうもありがとうございました!かしこ……なんてねっ。
×××
『1年A組のみなさんへ
ご入学おめでとうございます。みなさんがこれから楽しい中学校生活を送れるよう、先輩として心から願っています。
さて本題なのですが、この1年A組の教室には、ある呪いが掛けられています。このノートに記入されていることをよく理解して、体育の授業に励んでください。
〜〜
・体育の授業はこれから1年間すべてドッジボールになります。
・体育の授業はこのクラス単独で、男女合同かつ男女対抗の形式で行われます。
・体育の授業に関する一切の事情は口外できません。
・体育の授業に関する一切の事情はこのクラスの生徒以外に不審に思われません。
・特段の事情なく体育に参加しなかった生徒にはペナルティが課されます。
・ルールは厳守しないといけません。これを犯した生徒にはペナルティが課されます。
〜〜
・ドッジボールでの被弾箇所は頭部×2、胴体、腕、脚の計5箇所となります。
・男子が被弾し、そのボールが地面に着くと被弾箇所が女子化します。
・胴体の女子化には被弾者が社会的に女子の扱いになる現実改変効果が、2回目の頭部被弾には被弾者の精神を女子化する効果が、それぞれ付与されます。
・全5箇所に被弾を受けた男子は女子チームに編入となります。
・男子は被弾しても内野に留まることができます。
・女子が被弾した場合、この呪いによってその身体に影響を及ぼすことはありません。
(一部抜粋)』
×××
そんな馬鹿げたノートを目にして早3ヶ月。初めはしょうもない落書きだとか、そもそも女子化ってなに?なんて思ったものだけど、結論から言うと、あのノートに書かれていたことはすべて事実だった。
本当に体育はドッジボールのみで、他のクラスとは一緒にならずに、それでいて男女合同。そして1回目の体育が行われたあの日、最初にアウトになったクラスメイトの大塚君を見て、僕ら男子はみんな背筋が凍る思いだっただろう。
彼がそのお腹にボールを受けた途端、男らしく幅が出てきていたはずの肩は縮こまり、その両端はストンと垂れ下がった。かと思えば胸の部分がふっくらと盛り上がり、まるでクラスの女子たちと同じように乳房が発達したみたいになった。そして気づけばそのふたつの膨らみを覆うように地味めのブラジャーが装着されているのが、汗に濡れた体操着からうっすらと透けて見えた。いくらかサイズダウンしたらしい胴体は、そのままな彼の手足とあわせて少し不恰好に映る。
さらに体操着の首回りや袖にあった紺色の縁取りは女子タイプのような臙脂色に染まり、やがてその変化は収束した。
そしてそんな大塚君に対して誰かがこぼした「なんか女みたいだ」という言葉を聞いて僕らはやっと思い至った。これがあのノートに書かれていた呪いなのだということに。
僕らは急いでみんなに事情を説明した。だけどつい口を滑らせて知られた『女子にだけある特典』……男子をひとり女子チームに引き込むごとに全科目の偏差値が1ずつ呪いの力で備わるという超常的な特典が、むしろ女子達を乗り気にさせてしまった。当然担任の先生への説得も試みたけど奇妙なくらいに話が噛み合わず、学生の立場でなにかしらを強行することも叶わず、こうして夏休みの迫る初夏まで日々恐怖に怯えながら学校生活を送っている。
「こら大塚。お前なに男子がいる前で着替えようとしてんだ」
叱り声がした先を見ると、そこにはワイシャツを脱ぎかけた大塚君と担任の先生がいた。僕たち男子が当然に着替えをするこの教室で、なぜ大塚君が着替えることは許されないのか。
それもまた、あのノートに書かれてある通りのことだった。彼は4月に胴体をやられ、そこが女子化した。そして胴体の女子化には、なんていえばいいんだろう、『現実に存在していた彼の男としての全ての情報が女として改ざんされる』みたいな、そんな馬鹿みたいな追加効果があったんだ。あの日の試合のあと、彼の着替えは元々の場所からは消失していて、代わりに女子更衣室に置かれていた。その制服は女子制服にまでなっていて、大塚君は当然その所有権を否定し続けていたわけだけど、持主不明のそのスカートのタグには小さく『大塚』と書かれていて、それでいよいよ彼のこの世界での立ち位置がはっきりとしてしまった。
今回の件だってそうだ。もはや大塚君はこの世界にとってひとりの女の子であり、そんな彼女が男子に混ざって着替えるなんて教師としてはあり得ないわけだ。だから先生は叱る。女子なのにはしたないと。節操を持てと。男子であるはずの大塚君に向かって。
女子たちは、嬉々として彼を女子更衣室へと連行していった。大塚君は先月に頭部も一度やられてしまっているので、ぱっと見だと女子同士でじゃれつきあっているようにしか見えない。
そんな彼に対して、僕たち男子はただ黙って見送るほかはない。
「ほら、お前達も早く着替えろよ。今日の体育は、ドッジボールだからな」
セミも鳴き出して夏本番はすでに目前。日差しを一切遮ることのないグラウンドは灼熱といって差し支えなく、ただでさえ鬱屈とする体育の授業をより一層悪質なものにしていた。
「おう綾人、目が死んでるぞ」
パシンと肩を叩かれて振り返ると、その声と行為の主は小学校からの付き合いになる友達の杉森敦志だった。
快活な性格にスポーティな見た目。背はそこそこ高く引き締まった足腰。運動部所属の好青年というのが彼の端的かつ的確な表現になるだろう。
「そりゃこんな暑い中、自分の生死を賭けた一大決戦が始まるっていうんだから、目のひとつやふたつ死ぬよ」
「ど、どんよりしてんな……」
「しかも自分で言っといてなんだけど、『一大』なんかじゃ全然ないっていうのがもうほんとしんどいよね」
具体的に言うと、週に2回ほど決戦の地に立たされている。これでストレスフルにならないほうがおかしい。
「敦志は運動得意だしいいよね。僕、男子で誰かひとりだけ生き残れるとしたら敦志になると思う」
「俺は綾人になると思ってるぞ?」
「へ?僕?なんで?」
「まったくボールを取ろうとしないから」
「……クラスにひとりはいるよね、そういう子」
「ああ。最後まで内野に残れはするんだが、結局ジリ貧になってすぐやられて終わるやつな」
「結局僕やられるんじゃん!生き残れてないじゃん!」
「誰もお前の話とは言ってないが」
言ったようなものじゃないか。そう思い僕は敦志に抗議の目を向けてやる。しかし敦志はそんな視線などどこ吹く風といった様子だ。
「ははっ。まあとにかく、もう少しリラックスしろよ。なんだかんだで男子と女子だ。球技でそう大きく遅れを取ることなんてない。実際、この3ヶ月で身体の一部をやられたやつは何人かいるが、完全に女子にされたやつなんて井上くらいだろ?」
言いながら僕の頭を軽く小突いてコートに向かっていく敦志。
「……あいつなりの、メンタルケアだろうなぁ」
まったく自分が情けない。同い年にしてここまで胆力に差が出るとは。いや、これは敦志がすごすぎるってだけで僕の評価を貶めるのも筋違いかな。
まあなんにせよ、そんなやりとりのおかげもあって、気づけば先ほどまでの緊張や陰鬱は、いくらか薄れているようだった。
いつも通り、敦志率いる体育会系メンバーたちがボールを奪って次々に女子を撃ち落としていく。一部が女子化してしまっている男子は念のため回避優先で、攻めの時だけたまに参戦する程度。僕はいたって健常だけどこっそり後者に紛れている。罪悪感は、ないわけでもない。
まあともかく、この調子なら今日もなんとか乗り切ることができそうだ。そうだ。体育会系メンバーたちにはあとで日頃の感謝でも込めてジュースでも奢ってあげようか。危険なボールをキャッチし続けていることを考えるととても収支は合わないだろうけど、ねぎらいのひとつもないよりはマシだろう。
ぼんやりとそんなことを考えていたそのとき、事件は起きた。
「なっ!?おい離せ大塚!」
敦志の声に振り返ると、そこにはなぜか敦志を羽交い締めにする大塚君の姿があった。
「今だよ!投げてっ!!」
大塚君がそう叫ぶと、女子チームから敦志めがけてボールが飛んできた。僕は咄嗟に敦志を庇おうと腕を伸ばすもわずかに届かず、そしてボールは敦志の顔面に直撃した。
「あ、敦志……」
顔面に直撃というのは物理的にかなり痛い。非力な女子からの投球といえど、その痛苦は無視できるものじゃない。
しかし、そんなことはもはや些事に等しい。そう、このドッジボールに掛けられた呪いが、敦志を蝕み始めていく。
角刈りだった敦志の髪の毛がむくむくとうねりだし、長く長くと伸び進み、その先端はついに腰元にまで達した。気がつくと髪質は女子らしいものに変わっていて、日光を吸収した濡れ羽色の黒髪は頭上に天使の輪を浮かべ、繊細になった一本一本は風になびいてさらりとそよぐ。
好青年ながらいかつい印象を与えていた太眉は鳴りを潜め、すっと線を一本書きしたような細く上品なものに置き換わる。しかしその下にあるふたつのきらきら輝くぱっちりとした瞳は対照的に大きさを増し、垂れた目尻とあわさって女の子らしい柔和さを窺わせる。そしてそれらの庇護を担う彼の睫毛は以前より大きくなった対象に合わせて、その背丈を長々しく伸張させていく。
小ぶりになった鼻の下には薄桃色に染まった唇が瑞々しさを纏いながら、年齢にやや不相応なあでやかさを醸し出している。
角ばっていた顔は丸みを帯びた小顔に変わり、それぞれのパーツと相まってとても可愛らしい、女の子の顔立ちにまとまる。
太く逞しかった首は細く頼りないものになり、僕ら男子であれば備わっているはずの喉仏の出っ張りが消失し、彼に女声を発することを余儀なくさせる。
無骨な日焼け肌はほんのりと白みを取り戻し、およそ中学生男子には見られないだろう柔肌を思わせた。
「……大塚君」
呪いによって歪められた敦志の頭部を目の当たりにして、僕はたまらず大塚君に怒鳴りつけた。
「なにしてるんだよ!自分がやったこと、分かってるのか!?」
そんな僕の勢いに若干たじろぐ大塚君。しかし悪びれる様子はまったくない。
「……」
「……」
「ーー大塚くん…いえ、大塚さんはね、もう私たちの仲間なのよ」
静まりかえったグラウンドでそう声をあげたのは、先月女子チームに編入してしまった井上君だった。
「実は先週ね、大塚さんは頭部に2度目の被弾を受けてたのよ」
したり顔でとんでもない話を持ち出す井上君に、僕らは開いた口が塞がらなかった。
「そ、そんなわけないだろう!だって先週は、誰ひとり被弾なんて……」
「掠っちゃってたんだよ、私の髪の毛にね」
足元のボールを手に取りながら、ポツンとそう呟く大塚君。
「あのノートはあんまり親切じゃなかったみたいだよ。髪でも当たればアウトになるなんてさ、口に出さなきゃ本人以外気づけないもんね」
彼は気弱そうな口調とは裏腹にはっきりとした足取りで歩き、コート中央の境目に立った。
「私は好機だと思った。こっそりとこっちのチームに留まって、上手く女子のみんなと示し合わせれば、これから私の敵に変わるあなたたちの戦力を楽に落とせる」
そして、大塚君は手にしたボールをそのまま井上君に差し出してしまった。
受け取った井上君はさっそくそれを構えて、大塚君にこう問いかけた。
「あとは腕と脚だけだけど、どっちを先に女子化する?」
「うーん。私、元が細身だからどっちがそのままでも違和感はそこまでないと思うけど、スカートを履いてると周りから見て脚が少し目立つような気もする」
そんな大塚君の返答を聞いて「オッケー、じゃあ脚ね!」と朗らかに笑ってみせる井上君。大塚君もはにかみながら、なんの抵抗もなく彼女からの投球を受け入れた。
全体的に細く変わり、しなやかな曲線を見せ始める彼の両脚。薄らと存在していた体毛は影ひとつなく消失し、まるで日に焼けたことのないような色白の肌を覗かせる。地面のボールを拾い上げようと彼がしゃがめば脚は内股にひしゃげり、その姿形は女子であることをなんら疑わせないものとなってしまっていた。
「大塚さんは女子だから被弾したら内野にはいられないんだよね?今日はもう外野になっちゃうから、腕はまた来週ね」
「うん、ありがと」
ボールを再び井上君に渡して、とりあえず今はと小走りに男子チームの外野へと向かう大塚君。
「……」
けど、待ってほしい。大塚君が、すでに精神の女子化を食らっていた?それって、なんだかおかしくないか?
「さっき女子更衣室に連れて行かれるのを嫌がっていたのは、なんだったんだ?」
ふと浮かんだ違和感。脳裏をよぎるのは先の着替えで僕らが目にした一悶着だ。あのときの大塚君の行動は、彼が男子のままじゃなかったらありえないんじゃ……。
僕がそう口にすると大塚君は振り返ってこう答えた。
「詳細は伏せるけど、精神の女子化から今日までの間で、私にもいくつかポカがあったの。だから男子のみんなに疑われてる可能性も考えて、少し大袈裟な男の子アピールをしてみたんだ」
胸の前で両手両指を合わせて、微笑みながら淑やかにそう話す大塚君。顔つきや仕草がいちいち女の子らしく、もはや大塚君が女子に染まり切ってしまったことは明白だった。そして、手段さえ選ばない女子たちの狂気も。
「ふ、普通そこまでやるかよ……」
男子の誰かがそうこぼす。僕も同感だった。ここまで手の込んだことをされるとは思いもしなかった。
「仕方のないことなんだよ。これからあと9ヶ月も男女で仲良しこよしをしていけるなんて、私には思えなかった。だったら私は、私が女子チームに編入したあと有利になれるように容赦しない。そう、決めたんだ」
とことん割り切った考えを言ってみせる大塚君。彼のこの図太さは、はたして生来のものなのだろうか。
大塚君はにこやかにこう続けた。
「元仲間としてひとつだけ忠告しておいてあげる。私以外にもスパイいるから、今後も背中には気をつけてね」
「……すぱいいる?」
「なにそれ。スパイだって、スパイ。裏切り者」
ここに来て、さらなる衝撃が僕たちを襲った。
確かに容姿の変化の明確さと違って、顕在化することがない精神の女子化は、大塚君がしてみせたように隠そうと思えば隠せてしまう。この中にそんなスパイが紛れ込んでいるというのも、ありえない話じゃない。
「……いや」
もしスパイが大塚君以外にもいたとして、女子側になった彼が僕らの警戒を煽るようなことをわざわざ口にしてくれるものだろうか。
疑心暗鬼になった僕らは、いつ仲間から背中を刺されるかいちいち気にしないといけない。そうなると当然、注意力は散漫になって試合中の失点も自然と増えていくだろう。もしかしたら、大塚君はそれを狙っているんじゃないか?
ここは少し落ち着いてみる必要がありそうだ。僕がそんなことを考えていると、コートがにわかに騒がしくなった。
「お前、最近トイレはいつも個室で済ませてるよな?女だったら、立ちションが恥ずいとかあんじゃねえの?」
どうやら内通者を炙り出そうとしているらしい。
「ば、馬鹿なこと言うなよ。俺は腹が弱いんだ。大することが多いってだけだ」
「はっ、どーだか」
「そ、それを言ったら君だって、最近少年漫画を読まなくなったって聞いたよ。そ、それって、男の感性がなくなっちゃったってことなんじゃないの……?」
「はあ!?んなわけねえだろ!テキトーなことぬかすな!」
疑念と不安が徐々に、しかし確実に伝播していく。この流れは非常にマズい。僕は集団球技とは無縁の人間だけど、仲間を疑い続けた状態のチームに万全のプレーなんて不可能だってことくらいは分かる。
「おい。そこまでにしておけ」
そんな仲間割れ寸前の僕たちに待ったをかけたのは敦志だった。
僕は心の中で一息ついた。こういうとき、カリスマ性のある敦志はとても頼れるのだ。
「大塚が言ったことが真実かも分からないんだ。お前ら、一旦冷静になれ」
「お前だって顔が女子化してんだから容疑者のひとりなんだぞ!」
しかし彼は落ち着くどころか、その矛先を敦志に向け出す。
「……俺が裏切るかもしれないと?」
「可能性はあるだろ!」
「俺の頭部が1度目の被弾を受けたのはたった今だ。それでいつ2度目の被弾を受けて、精神まで女子化するタイミングなんてあったんだ?」
「……っ!くそっ!」
悪態をついて地面を蹴りつける彼。
「……」
「……」
ナイスタイミング、かな。彼には悪いけど、今のやりとりのおかげでみんな少しだけ落ち着けたみたいだ。
「いやあ、肝が冷えたよ。敦志」
「まあ、状況が状況だ。無理もない」
敦志の制止もあってなんとかチームの断裂は防げたけど、こういった猜疑心はおそらく今後も芽生え得る。敦志の負担が増えちゃうけど、彼には男子陣のメンタルケアも務めてもらうことになりそうだ。
「……ふーん」
まるで感嘆のような、あるいは得心のような、含みを感じるその唸り声は井上君によるものだった。
「それで、話し合いはもう大丈夫?そろそろ再開してもいいかしら?」
ボールをぽんぽんとバウンドさせながら朗らかにそう尋ねる井上君。スパイによる一撃が決まったことを喜んでいるのか、雰囲気から彼の嬉しそうな様子が窺えた。
「律儀に待ってくれて助かったな、井上」
「貸しにはしないわよ。だってこれから仲間になってくれる人たちだもの。貸し借りなんて水臭くってよくないでしょう?」
「……大した自信だな」
「くすっ、今のあなたたちなんて、アリの群れより小さく見えるわ」
「……」
相手の勢いに呑まれちゃいけない。そんなこと分かっているのに、僕らの中で井上君を言い負かせるだけの気力がある者は残っていなかった。
ボールはやがて宙を舞い、僕らのデスゲームが再開した。
「前、前!飯島は膂力あるぞ気をつけろ!」
大きな被害を被りこそしたけど、その後僕たちは女子チームの猛攻をなんとか凌ぎ続けていた。授業の終わりまで、あと10分ほどだ。
「取れるぞ!」
「よし!ナイスキャッチ!」
「パスだ!任せろ!」
いつも以上に気合の入った男子チームの声出し。これが逆境を前にした根性の表れであれば、いくらか安心できるんだけど。
不安を拭いきれない僕をよそに勢いづいていく仲間達。仕方ない。ボールの奪い合いには積極的に参加しない分、スパイの懸念はこっちで目を光らせておこう。
そんなことを考えながら僕は男子陣営とボールの動向とに意識を割いていた。
割きすぎていた。いつも以上に集中していたせいで、僕は額を伝う大粒の汗の存在に、まったく気づけていなかった。
「っ……!」
目に入った汗は途端に片目を視界不良にし、慌てて手の甲で拭ってみるもなかなかすぐには治らない。
「西宮くんがチャンスよ!彼を狙って!!」
そうこうしているうちに井上君が僕の変調に気づいてしまった。さらに間が悪いことに、今ボールは女子チームの手元にあるらしい。そして、彼女らの狙いが僕に集中していることは明らかだった。
冷や汗がぶわっと噴き出してきた。
「まっ……!」
「いけぇっ!」
タイミングが悪すぎる!片目の潰れた視界で、飯島さんのボールを避けれるのか!?ここはいっそキャッチを狙うべきか……!?
「くそっ……!」
迫り来るボールを前に判断がつかず、絶体絶命の状況に追いやられてしまった。
「…………え?」
被弾する!そう思った僕の目の前を一閃の人影がよぎった。
気づけばボールは軌道を逸らされ、勢いの弱まった状態でころころと地面を転がっていく。
「……あ」
僕の足元に倒れ込んでいた、おそらくは人影の正体……身を挺して僕をボールから守ってくれたのは、敦志だった。
「あ、敦志……?」
「ふっ……さっき、俺を庇ってくれようとしただろ?借りは、返さないとな……」
筋肉質で毛に覆われていたはずの敦志の両腕が、みるみるうちにその存在を変容させていく。隆々とした筋肉は掻き消え、目に見えて女の子らしい柔らかそうな質感に変わる。毛はあっという間に抜け落ち、染みひとつない綺麗に日焼けした褐色の肌が惜しみなく露出されていく。太く逞しかった二の腕や指先はか細く、しなやかなものに。
数多の女子を打ち倒してきたあの頼もしい両腕は、もはや影も形も残っていない。そこにあるのは年相応か、下手をすると女子の中でさえ見劣りする腕力しか備わっていなさそうなか弱げな細腕だけだった。
そして悲劇は、留まるところを知らなかった。
「……ぐっ!?」
「え……?」
滑り込んだ際に足でも痛めたのか、なかなか立ち上がれないでいる敦志。そんな彼に向かって無慈悲に投げつけられたボールが、その頭部に直撃した。
「ま、油断大敵よね」
内野に避難する間もなく井上君がお見舞いした非情すぎる一撃。それが、敦志の脳内を蝕み始めた。
「う、ぐうぅぅぁぁぁあああっ!!!」
「あ、敦志っ!!!」
頭部への2度目の被弾。それは精神の女子化を意味する。すなわち今の井上君のように、本心から女子でいることを望んで、仲間だった僕ら男子に容赦なく牙を向けてくるということだ。男の自分に未練ひとつ残すことも許されず、女の自分や、そうなるように自分を陥れた女子たちの仲間になることを受け入れてしまう忌々しい呪いが、敦志に襲いかかっている。
「ぬぅうおおぁぁああっ……!!」
「あ、ああ……」
敦志が消えていってしまう。敦志が敵に回ってしまう。僕らのためにいつも全力だったあの敦志が……そんなこと、あっていいはずがない!
「あ、敦志!踏ん張れ!持ち堪えるんだ!!」
「無駄よ。経験者として言わせてもらうけど、この呪いの力はたちまちすべての思考を余すところなく包み込んで、自分を本来あるべきはずのものへと昇華してくれるの。杉森くんもすぐに私みたいになってくれるわ」
「ぐっ、くううぅぅぅっ!!!」
「敦志っ!!」
身を捩り苦しそうに呻く敦志。いつも助けてもらってばっかりなのに、敦志のピンチにはこうして声を掛けることしかできない……僕は、なんて無力なんだろう。
……でも、それでもっ!
「さあ杉森くん、恐れず呪いにその身を委ねなさい。きっとあなたと私たちは、最高の仲間になれるわ。あなたの力と私たちのチームワークとで、男子のみんなを女子チームに迎え入れてあげましょ?」
「負けるな敦志!呪いなんかにやられるお前じゃないだろ!?自分を強く持つんだ!!」
「わ、わた……お、おれ、は……!!」
「!!」
「っ!どういうことなのっ!?」
まだ敦志は屈していない。呪いだなんてくだらない不条理と、今も戦い続けている!敦志の強靭な精神力が、呪いに打ち勝とうとしているんだ!
「なら、もう1発当てて今度こそっ……!」
「杉森を守るぞ!」
「杉森なら絶対に帰ってくる!それまで俺たちで持ち堪えるんだ!」
動揺しながらも再びボールを構えた井上君と敦志の間に仲間たちが立ち塞がった。
「お、おま、えら……ぐっ!ぐがああぁぁっ!!お、おれはっ!わたしはぁああっ!!」
「お前は……お前は、『杉森敦志』だ!僕ら男子チームのリーダーで、男なんだ!だから戻ってこい敦志!みんな、こうしてお前を待ってるんだぞっ!!」
「うわあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっ……………………………………………………………………ふぅ」
「あ、敦志……?」
悲鳴が収まったかと思えば、敦志は無表情のままむくりと起き上がり、そしてこう言った。
「心配かけて悪かった。わ…俺はもう大丈夫だ。これまでどおり、一緒に女子と戦おう」
敦志のその言葉に男子陣は湧きに湧いた。敦志は腕こそ女子化してしまったが依然戦力であることに変わりなく、なにより絶対に諦めないというド根性さえあれば、僕たちは女子になんか染まったりしない。それを敦志は証明してくれたんだ!
そうして授業は終わりを迎えた。失ったものも大きかったが、敦志が呪いに打ち勝ったという事実は僕たち男子の士気を大いに盛り上げた。
「ここにいる全員で、このまま乗り切ってみせるぞ!!」
「「「おおっ!!!!」」」
そう一致団結する僕らを、敦志はこの上ない笑顔で見守ってくれていた。
×××
「ふふっ、なんて名演技。期せずして嘘が誠になったわね、大塚さん」
「井上さん、すっごく嬉しそうだね」
「そりゃ、彼女さえいなければ男子なんて烏合の衆と変わらないもの。それに、彼女ってばとっても戦力になりそうだったから有望な人材として欲しかったのよね」
「……あ。噂をすれば、さっそくグループにメッセージ来たよ。次の体育では誰を仕留めるかだってさ」
「献身的で助かるわね。さすが『志穂』」
「志穂?」
「改変後の彼女の名前よ。見れば分かるでしょ」
「あ、ほんとだ」
「ああ、次の体育が待ち遠しくて仕方ない!彼女の初お披露目に、男子たちはどんな反応をしてくれるのかしらねぇっ!」
「……井上さん、なんだか性格歪んじゃってない?大丈夫?」
×××
秋も深まりすっかり過ごしやすくなった。気分良くお布団から起き上がり、私は顔を洗おうと洗面所に向かった。
「あら、おはよう綾香。今日は早いのね」
「おはよーママ。なんか早起きしちゃった」
ちなみに現在朝の6時半だけど、パパは既に家を出ている。社会人って大変だなあ。嫌だなあ。寿退社ってワードが一瞬脳裏をよぎったけど、まあ私にはまだ早い。この話は考えないことにしよう。
肩まで伸びた髪の毛を櫛で梳かす。私の髪は嬉しいことに手間要らずのさらさらヘアーで、寝癖を直すのにも大した労力はいらない。
ちゃっちゃと食事を済ませて学校に行く支度を始める。荷物よし。宿題よし。あとは着替えるだけだ。
パジャマを脱ぎ捨ててお気に入りのブラジャーを着けてやる。まだBほどの大きさだけど、スポーツブラじゃ可愛らしくないと駄々をこね、先日ようやく買ってもらった一品だ。デザインや色合いも好きだけど、なにより着け心地がいい。揺れ動く胸を窮屈にならないくらいにきゅっと包み込んでくれる。もはや私の相棒だ。
無地の白シャツをさらに着て、その上にワイシャツを羽織る。ちまちまとボタンを留めて、首元に赤いリボンを添えてやれば、女子中学生(上半身)の出来上がりだ。
それからチェック柄のスカートを腰に回し付け、チャックを引き上げてホックで固定。最後に黒のハイソックスを両脚に履かせて、完成!典型的な膝丈スカート女子中学生!名前を西宮綾香といいます!
ひとり謎の三文芝居に興じながら、私は志穂ちゃんから誕生日プレゼントでもらった髪留めで前髪を纏めて、それから後ろ髪をヘアゴムで束ねた。
「うーん……志穂ちゃんは私にポニテ似合うって言ってくれたけど、どうなんだろこれ?」
「いいと思うわよ。さすが志穂ちゃん、良いセンスね」
「うひゃあっ!?マ、ママ!?びっくりさせないでよもー!!」
「そろそろ急がないと遅刻するわよって、言いに来たんだけど」
「え……あっ!もうこんな時間!ありがとママ!じゃあ行ってきまーすっ!」
言いながら慌てて家を飛び出した私。
軽いステップを踏んだ駆け足と、ワンテンポ遅れてはためくスカート。今日は後ろでポニーテールもぴょんぴょんとやかましい。っていうか首筋をくすぐってきて少し不快かもしれない。お洒落を取るか機能性を取るか、現役JCにとっては悩ましい選択だ。
「っ〜〜!」
自分が女の子してることに奇妙な高揚感が湧き上がってくる。これは私の持ち得る感情なのか、それともーー。
「ま、別にどっちでもいいよね。だって私はもう、普通の女子中学生なんだからっ!」