天使になるということは、人ではなくなるということを知ってしまった。人でなくなるということは、共に歩めなくなるということ。
それはただ羽が生え、空を飛べるようになる、そんな夢物語ではない。
人であるがゆえに持っていたものを、一つ、また一つと失っていくこと。
封印を解放するたび、コレットは少しずつ天使へと近付いていく。その度に、人間だった証は静かに剥がれ落ちていく。
命は星屑のように儚く消え、涙はどこででも零れ落ちる。けれど、コレットだけはもう──泣くことさえできない。
「コレット、無理するなよ」
「うん、ありがとうロイド。だいじょぶだよ」
ロイドは、コレットの抱える痛みを知った。
『これ、コーヒー。熱いから気をつけろよ』
『ありがとう。アツアツだね』
『それ、アイスコーヒーなんだ』
『あ、あはは、そうだよね、冷たいもんね』
『うそ、本当はホットコーヒーなんだ』
握る手の温もりも、抱きしめる感覚も、冷たい風も、好きな食べ物も。
世界には悲しいことがいっぱいある。
ロイドにとって、自分の身に怒る不幸より一人の少女の幸せが少しずつ塗り替えられていくことの方が、ずっと耐え難く悲しいことだった。
秘密を知ってしまったのは、自分だけ。
誰にも言えないまま、その事実だけを抱えて夜を迎える。眠れないのはコレットだけではない。ロイドもまた、何度も焚き火の揺れる炎を見つめながら朝を迎えていた。
==========
アスカード人間牧場を爆破し、中にいた人々を救い出した。
しかしアスカードの人間牧場から逃亡したピエトロという男が呪いで正気を失っていた。マナの守護塔にあるというボルトマンの術書に記された治癒術が必要とのことで、マナの守護塔に向かうことになったのだ。
しかし、運のいいことにルインの生き残りの生き残っていた祭司長がマナの守護塔の鍵を持っていたため。
四つ目の封印でもあるという幸運に、一同は…──ロイド以外は喜びを顔に浮かべた。
四つ目の封印であるマナの守護塔。ルイン北部にあるそれは名前の通り壮大な塔であり、光のガーディアンが封印を守っていた。
多少なりとも苦労したものの、光のガーディアンアザトルを無事倒し、レミエルから天使の力を得たコレットは今回も変わらず天使疾患を患った。
まだ騙し通せていたんだ。この時までは。
塔を出た瞬間、コレットの身体がふらりと揺れた。いつもの天使疾患だ。心配そうに覗き込む皆へ向けて、コレットはいつものように笑って見せた。
『大丈夫』。
そう言おうと唇を開く。 けれど──。
声が、出ない。
何度息を吸っても、喉は震えるだけで音にならなかった。
笑顔がゆっくりと困惑へ変わる。
周囲も異変に気付き、何が起きたのか誰もが状況を把握できずに困惑している中、クラトスが状況をいち早く察知し答えを出した。
「……声が、出せないのではないか?」
不思議なことに、コレット本人は今までの天使疾患よりも苦しそうではなかった。痛みに顔を歪めることもない。
ただ、声だけが失われていた。
それがどれほど重大な変化なのか、誰もすぐには言葉にできなかった。
「コレットに起こってることについて、話したいことがあるんだ」
それは痛みも感じず、夜も眠れず、涙も出ない体の変化だった。
「じゃあコレットは封印を解放して天使に近付く度に人間らしさ……みたいなものを失ってきたって言うのかい!?」
「そんな……!じゃあ最終的にはどうなっちゃうの!?」
「最終的には、か……。どうなっちまうんだ、本当に」
しいなとジーニアスは言葉を失った。痛みも眠気も涙も失い、ついには声まで失ってしまった。そ 今までの旅で抱いたコレットの小さな違和感が、一つの線となって胸へ突き刺さる。
誰も答えを持たないロイドの問いだけが、行き場を失っていた。
「──ロイドは!知ってたって言うのかよ!コレットが苦しんでいるのを!僕らにも言わずに!」
「……ごめん」
「コレットもコレットだよ!世界を再生したあとはこの地上でたった一人の天使になっちゃうんだろ!!そんなよ、辛いよ……」
「そ、それは……」
言葉を選ぼうとしたリフィルの袖を、コレットがそっと掴んだ。静かに首を横へ振るその瞳は、いつもの穏やかな優しさを宿しながらも、決して揺るがない覚悟を秘めている。
『先生、大丈夫です』――そう伝えるような眼差しに、リフィルは唇を噛み締め、それ以上何も言えなくなった。
コレットは近くにいたロイドの手を取った。
ゆっくり指で手のひらをなぞる。
一つ一つ言葉になっていくそれを、ゆっくり、ロイドは音読した。
「『皆、心配かけて、ごめんね、でも、完全に天使になったら、もっと、過ごしやすく、なるはずだから』……」
「『大丈夫』」
それに一番に反発したのはしいなだった。
「でも辛いじゃないか!疲れたら寝たいだろ!?好きだった物の味を懐かしく思ったりしないのかい!?誰かと手を繋いでもその人の温かさも感じられないだろ!?それにこんな、声まで出なくなるなんて……」
しいなはコレットを殺してまで世界再生の旅を止めようとしていた。でもその時とは言葉の意味合いがもう違っていた。
「世界再生なんてやめちまいなよ!」
健やかに、幸せに、ただそう願われた言葉だと言うことは皆分かっていた。
この世界よりも目の前のコレットを救いたい。その願いは誰よりも真っ直ぐで、だからこそコレットは優しく微笑むしかなかった。
ここで辞めたら世界の人々は苦しんだままだ、それが分かっているのかコレットは微笑んだまま少したりとも譲らない。
ロイドはその姿をみて、目線を逸らした。
「『私は、世界再生のために、生まれたんだから』」
でも、としいながまだ反対しようとする。
しかしそれを制したのはクラトスだった。
「そうだな……それが神子の宿命だ」
「何か、なにかないのか、コレットが天使にならなくて済む方法が……」
コレットは再びロイドの手を取った。
「『……私、天使になる、お父様も、それを望んでいるんだもの』……どっちの親父だよ」
少し悩ましい躊躇いを見せたが、コレットは指で文字を書いていく。
「『きっと、両方だよ』」
「なぁニケ、何とかならないか?俺は認めない、絶対なにか道はあるはずなんだ……!」
皆の視線がニケへ集まる。重苦しい空気の中で、当の本人は顎に手を当て、何やら真剣に考え込んでいるようだった。
「──もしかして、えっちな話してる?」
「してないけど????????」
「天使化ってえろいと思うんだよね、自分が自分じゃなくなっていく感覚に身悶え怯えながらも騙し通そうとする感じが」
「えろくないけど??????」
「あ、私はノーマルなので神子様に対しては興奮しないんだけど、ここ安心ポイントね。でもこれが色気のある男だったりまだ熟れていない青い男だったり……」
──ドコーンッ!
これはこの世の邪念を払拭するために下したクラトス渾身のハリセンの音。
「すまない、耐えられなかった」
「もうちょっと早く殺ってくれても良かったわクラトス」
「何なのさ……こいつ……」
「いよいよ猫かぶりしなくなってきたなニケ」
何年と傭兵をしてきた男が振るう、どんな敵よりも本気で振り下ろした一撃は流石のニケでも勢いよく倒れざるを得なかった。
「ハリセン…………」
「ルインで落ちていたものだ。片手剣として使うには少々軽いため双剣にするのがよかろう。ロイド、使うか?」
「い、いらない……」
なんやかんや頑丈そうなニケが卒倒するくらいの攻撃力はあるだろうが、普通にかっこ悪いし、ニケを叩いたので呪われそうなのだ。
==========
話し合いの末、コレットは世界再生の旅を続けることになった。しかし、誰一人として天使疾患を諦めたわけではない。マナの守護塔の本棚で見つけたボルトマンの術書には、ユニコーンの角のマナリーフを用いればピエトロの呪いを解く治癒術が記されていた。そして、その知識はコレットを救う手掛かりになるかもしれないという、小さな希望でもあった。
向かった先はユウマシ湖。澄み切った湖の奥深くには、癒しの力を宿すというユニコーンが静かに眠っていた。だが湖面は広く深く、近づくだけでも一苦労だ。
どうにか接触する方法はないかと頭を悩ませる一行だったが、決定打は見つからない。諦めかけたその時、しいなが『こちらの世界のウンディーネに力を借りればいい』と提案した。
ソダ間欠泉にいる水の精霊に会いに向かい、召喚士であるしいなが契約をする。
『ミトスとの契約を交わしているから二つの契約を交せない』と言われあたふたはしたが、契約の破棄を願い、何とか契約できた。
そうして一行は再びユウマシ湖に向かうことができたのだった。
「清らかな乙女じゃないとダメってなんだろうな?」
「さぁ?」
「私ユニコーンみたいな処女厨嫌いなのよね」
「しょじょちゅー?」
「戯言だ。気にするなロイド」
「ねえロイドさん、私をユニコーンに嫌われるってかようにしてくれ──ゴフッ」
「ニケ。」
セクハラキャンセル(ギリギリアウト)でクラトスの容赦ない制裁が飛ぶ。ニケは腹を押さえてうずくまり、リフィルは遠い目で静かな湖面を眺めた。……そう、水が怖いから近づかなかっただけだ。決してユニコーンに嫌われたとか、そういう話ではない。そうなのだ。
しいなたちはウンディーネの力でユニコーンに角を分け与えて貰ったが──それをコレットは使うことを拒否した。
「天使になった後に使う、って言ったって、このままじゃ、辛すぎるよ」
コレットは静かに首を横に振った。
受け取ろうとはしなかった。
世界を救うために生まれ、神子として旅を続ける。それが自分に与えられた役目なのだと、誰よりも本人が信じているからだ。その穏やかな微笑みは少しも揺らがず、だからこそロイドには苦しかった。
「コレットは、コレットとして生きるために産まれたんだ!……そうだろ」
ロイドの声には、苛立ちでも怒りでもない、どうしようもない願いが滲んでいた。
いつも人の気持ちを優先し、自分のことは後回しにしてきた、どちらかと言うと優柔不断で他人任せな幼なじみが、これほど頑なに決めたことを曲げない姿を初めて見る。だからこそ、その意志を無理やり折ることもできず、伸ばしかけた手を静かに下ろすしかなかった。
「──皆、話を聞いてくれないかい」
その夜。
しいなが一つの真実を話すことに決めた。
「どうしてあたしが神子の命を狙っていたのか話しておきたいんだよ」
「聞きましょう。この世界には存在しないあなたの国のことを」