読んでると無性にサンドボックスゲームがやりたくなる定期
sideアリス
アリスには、四人の敬愛する人物がいる。
一人は、言わずもがなベルクーリ・シンセシス・ワン。小父様と呼び、自分が師と仰ぐ唯一の人物で、最も強い信頼を向けている。
二人目は、フェノメア・シンセシス・スリー。公理教会で三番目の権力を持っているが、見習い騎士時代に神聖術の先生として薫陶を賜っており、こちらも信頼が厚い。
三人目は、クリスチャン・シンセシス・ゼロ。ベルクーリでさえ勝てる気がしないと言わせしめる剣の使い手だが、慇懃無礼な態度で、何かある度からかわれるので、剣士としては敬愛こそしているものの、あまり会いたくはない。
最後に、召喚主である公理教会最高司祭、アドミニストレータ。
アリスにとって、彼女はどういう存在なのか……そう聞かれれば、アリスは、逡巡しつつもこう答えるだろう。
──最高司祭様は、言わば、私の母親代わりか……不遜ですが、或いは友人に近い関係かもしれません。
人界に召喚されての七年で、アリスはアドミニストレータに三ヶ月に一回くらいの頻度で最上階に招かれていた。色々な話をすれば、時には愚痴大会にまで発展したり、料理を手ずから学ばせて貰って、一緒に焼き菓子を作ったこともある。
対面する機会こそ決して多いものではなかったが、対等な立場に立って自分の悩みも聞いてくれる彼女を、とても頼りにしていたのは間違いなかった。
今日も、アリスはある二人の人物の愚痴を吐露していた。
「へぇ、あのエルドリエがねぇ……」
「はい……師、などと私を呼ぶのです。そしたら、今度は、元々反りの合わなかったイーディス殿と会う度口論を始める始末で……」
「イーディスちゃんったら、たぶん大好きな妹が盗られそうで必死なのよ。それに、男の子じゃ尚更ね」
盗られる、と表現するのはアリスには憚られたが、確かに、エルドリエが来てからは、些かイーディスと関わる機会が減っているようには感じていた。
大抵、楽しそうな表情を浮かべている事の多いイーディスが、自分と話している時が殊更に笑顔になっているのは、アリスの目からでも分かっていた。基本的に整合騎士は任務の為カセドラルに居ないので、その機会が少なくなるのが、本人には残念に思うのは当然のことだろう。
男の子ならというのは、イーディス殿はエルドリエと男女の関係になることを危惧している、ということなのだろうか、とアリスは思案する。
整合騎士団に、特に男女の色事についてこれと言った決まりはないのは知っている。恋愛は自由なのだろうが、もし仮に子供が出来てしまえば……それは、天命が凍結されている整合騎士にはあまりに残酷だ。
そう考えれば、イーディスが止める理由も頷ける。
「それに、自分で申し上げるのも、少し奇妙ですが……二人とも、あまりに執着し過ぎでは……と不思議に思っているのです。エルドリエの態度の急変も、本当に突然の事でしたし、イーディス殿は、女性同士なのだからとよくくっ付いてきますので……」
エルドリエからは食事や鍛錬、立ち合いを誘われ、イーディスとはお風呂に一緒に入ろうと会う度に言われている。それには、アリスも辟易……とまではいかないものの、偶には一人の時間も欲しいと、密かには思ってしまうほど。
「そうね……考えられるのは、私でも消しきれてない天界の記憶の残滓が影響している可能性があるわ。それが、アリスちゃんに不思議と親近感を覚えて、つい構っちゃうのよ」
言われてみれば、イーディス殿が時折、天界に妹でも居たのかもしれないと話していることがあったような……
心当たりは、アリスの中にあった。
「に、にしても、度が過ぎているとは思いませんか? エルドリエは、何を言おうと良い風に解釈して、時には涙まで流すのです。もしや人界に慣れられずに、どうかしてしまったのかと不安で……イーディス殿は、初対面の頃から同じ様な感じなのですが」
「そんなに気にする事ないのに。アリスちゃんは心配症ね?」
「うっ……そう、かもしれません」
否定は出来なかった。何かと心配しがちなのは、自分自身だけでなく、彼女を知る誰もが認めるところであるからだ。
少し前、雨縁が暗黒騎士の特攻を喰らい、傷が治癒出来なかった時はとても肝を冷やして、一日中傍に居続けたり、時々神聖術で過剰に回復させてやったりしたくらいだ。飛竜は膨大な天命を持つ生き物なので、剣の一撃を受けても元気のままでいられる。その時の雨縁は少し事情が違ったが、さりとて一日中世話をするのは、心配のし過ぎに違いなかった。
「第一、何かあったら私が何とかするもの。心配事があるなら、いつでも来てちょうだいって言ってるじゃない」
「そ、それでは、最高司祭様の安眠を邪魔してしまいます……」
「別にいいのよ。そのくらいの時間はあるわ……もうすぐキリト達来るし」
アドミニストレータは、髪をくるくると指で回しながら微笑んだ。
しかしそう本人は言っていても、アリスとしては、正直頼るという選択肢はしたくないというのが本音なのだ。
親離れ、とでも言うのだろうか。七年も頼ってしまって、それが整合騎士となった今でも続いていては、面子が立たない。故に自分の力だけで成し遂げたいという想いが強くなっていた。
「ともかくね。一ヶ月に一度くらいは、こうやって話しましょ? 私も、アリスちゃんとお話ししたいし」
「え、ええと、それはご命令でしょうか……?」
「ん〜、この際命令にしとくわね。だってそうじゃないと、アリスちゃん来てくれないじゃない。私、そんなの寂しいわ」
「は、はぁ……」
戸惑いながら、アリスは気の抜けた相槌を打つ。
見た目が自分と同じくらいの歳をした少女なだけに、つーんと唇を尖らせて拗ねている様は、同性の目から見ても、現人神とは思えない可愛らしさがありありと出ている。自分では、努力しようとも至れなかった女の子らしさだ。
騎士である以前に一人の女子だというのに、そういう女性らしさを何一つとして抱えられないまま成長してしまった。十二歳という若さで天界から召喚されてしまったのが、運の尽きだったのだ。そこだけは、アドミニストレータをほんの少しだけ恨む要因となっている。
「……ちょっと、こっちにいらっしゃいな」
アドミニストレータが、手をくいくいと、誘うように曲げているので、アリスは一旦立ち上がると、寝台に座る彼女の傍まで近付いた。
すると背中が強い力で押されて、たちまち体がアドミニストレータの方に倒れてしまった。同時に、沈丁花の甘い香りが鼻腔を刺激してくる。
アリスは何が起こったのか分からず、肩口に置かれたままの頭で思考停止に陥るが、頭頂と背中を優しく包み込まれた。一瞬、体をピシッと固めたが、すぐに脱力して、アドミニストレータにもたれかかっていた。
──懐かしい。
そう思ったのも必定で、こうやって抱き締められたのは、召喚されたその日だけ。彼女の前で、自分が大きく取り乱した時だけだったからだ。
髪を梳くように、滑らかな五指が頭を撫でると、不思議な快感がアリスの体を走った。心地よくて、思わず目を瞑ってしまう。
アドミニストレータは、何度も何度も、繰り返し撫でながら、アリスの耳元に囁いた。
「……アリスちゃんにはね。たびたび頭を撫でてあげなきゃ、何となく駄目な気がしてるのよ。母親代わりってわけじゃないんだけど……」
──そんな事を考えるのは、母親くらいのものではないか。
なんて言うべきかとうんうん唸るアドミニストレータを傍で感じ取りつつ、アリスは内心でぼそりと呟いた。
整合騎士の中でも、飛び抜けてアドミニストレータと関わりが深いアリスとて、彼女の事はよく分からなかった。元老長クリスチャンと仲睦まじそうに談笑している姿も、小父様を晩酌に誘う姿も、ふと淋しげにカセドラルの窓から外を見る姿も、そして母親のように無償の愛情をくれる姿も……どれもが本当の姿で、彼女の一面なのだろうが、アリスにはどこかちぐはぐなものに思えた。
「でも、結構好きなのよ? アリスちゃんのこと。娘っていうより、今は友達かもしれないわね。気軽な話が出来る友達って私には居ないもの。クリスチャンは親友だし、ベルクーリは飲み友なのよねぇ……」
それは友達に含まれると思いますが……と内心で突っ込みつつも、敢えて口を噤んで、さっきの言葉を思い出す。
アドミニストレータにとって、アリスは友達のようだ。上司も上司で、最高司祭という立場と友達というのは失礼かもしれないが、アリスは少し嬉しくなった。
「あの……私が、猊下の友人で、宜しいのでしょうか」
「……ふぅ〜ん。アリスちゃんは私と友達じゃないって思ってたのね」
「えっ」
アドミニストレータが、アリスの肩を両手で掴んで目の前に持ってきて、機嫌が急転直下したような冷たい声を出し始めた。
──そんな理不尽な!
アリスは顔を強ばらせながら、そっと叫んだ。
友達のような関係であって、友達とは明言されていなかったのだ。だから改めてアリスが確認を取ったら、もう既にアドミニストレータはこの関係を友達と認識していたという。
そもそも整合騎士の身で友達が居ない以上、友達という関係がどう定義されるのか全く知識が無い。ただ漠然と友達とは言うが、そもそもどの辺りから友達なのか、その線引きがハッキリしていなかったのだ。
あれこれと言い募れば、確実に機嫌を損ねてしまうのは間違いない。しかし、気を遣わなければいけない関係は友達なのかと思いはするものの、相手は、最高司祭という公理教会を束ね、自分は彼女に忠誠を誓う身なのだから、優先順位的にも気を遣わない訳にはいかない。
この理不尽な状況をどう切り抜けるか……数秒の思考の末、アリスの頭に妙案が浮かんだ。
アドミニストレータからササッと離れると、アリスは何か思い出したかのような仕草をし始め……
「あ、ああー! そうだ、雨縁に食事をあげなくては! きっとお腹を空かせています。ああ、かわいそうに……」
「!? ちょっとアリスちゃん、それ適当なこと言ってない〜?」
つい先日、エルドリエにも似たような事を言った気がするが、アリスには構わなかった。
「申し訳ありません、最高司祭様。私はこれにて失礼します!」
さっさと昇降盤を起動すると、アリスは下へ降りた。
◯ ✖️ △ ◆
その頃、五十二階、第二修練場にて……
「──ハッ!? 百合の香り!?」
「ん? ダキラ、どうかしたか」
「……い、いえ! 何でもありません、ファナティオ様!」
sideファナティオ
「せえぇあああ!!」
裂帛の気合が迸った刹那、光が複雑な軌道を描いて輝く。
振るわれているものは細剣。身全てを甲冑に包みながらも、その重量を考えさせないほど速く、速く……まるで隙の無い連撃と、間髪入れず放たれる突きの嵐。
秘奥義でもなんでもないただの剣技だが、洗練され、既に連続剣として極みにある。
しかし、それはファナティオには通過点に過ぎない。目指すは、己が恋する者の隣。その為には、何としてでも、あの元老長の剣技を我が物にしなくてはならなかった。
は、と息を軽く吐きながら、自身も修練場を後にした。
一昨日、南帝国の不死鳥討伐という大遠征からベルクーリと共に帰投したファナティオには、まだ新しく任務が来ていなかった。
どうにも、自室でじっとしていられない性分でもあったファナティオがする事は、基本的に二つしかない。
一つは、剣の鍛錬。毎日欠かさず、剣技の練成に励み、己を鍛え抜く。
そしてもう一つが……ファナティオにとっては、口に出すのもが憚られる趣味だった。
「ハナ、ちょっと厨房を借りるわね」
「ファナティオ様……」
茶髪を円筒の調理帽で覆い隠した、上位騎士専属の料理人の彼女が、鎧も兜を外したファナティオを一目見ると、ぎこちない笑みを浮かべた。
ファナティオが持つ趣味。それは九十四階にある厨房で、お菓子作りをする事だった。
頻繁という訳では無いが、長い間厨房を利用させてもらっている仲なので、お互いそれなりに親しい間柄である。しかしこと今日に至っては、彼女の様子が変だった。
「大丈夫? ちょっと挙動不審になってるわよ?」
「すみません、今は厨房には……」
厨房に何かあったのか、とファナティオが、力なく手を伸ばすハナの静止を振り切って厨房を覗いた。同時に、声が聞こえてくる。
「私が──視てる未来はひとつだけ……」
声と言うより、それは小声ながらも美麗な歌。少なくともファナティオには聞き覚えのない曲だが、厨房を震わせるその声には、確かな聞き覚えがあった。それに耳を傾けながら中に入っていく。
「永遠など少しも、欲しくはない……」
厨房に上手い具合に隠れて見えないが、声の近くまで、ファナティオは構わずズカズカと進んでいく。
聞こえてくる旋律こそ高いが、刻まれる律動は心に強く染み渡り、悲しみの気持ちまでがジーンと感ぜられた。
「一秒、一瞬が愛おしい──」
こんな類稀なる美声の持ち主がカセドラルにいるとは、ファナティオにも聞いたことがなかった。
しかも、上位騎士しか入る事の出来ない厨房に入れる人物は限られている。それこそ、思い当たるとすれば元老くらいなものだが……
その女性の声のある方へ進もうとすると、ハナはファナティオの右腕を、無礼を承知で掴み、引き留めた。
「ファナティオ様……! 今厨房でお料理をなさっているのは最高司祭猊下でございます……!」
「なっ!?」
驚きで思わず大声を出し、慌てて口を塞ぐ。
「あなたがいる世界に私も生きてる────」
まさか、とファナティオは信じ難く思ったが、ハナに引き留められた所の棚から覗き見れば、白菫色かがった銀の糸がふわりと宙に流れた。思わず咄嗟に顔を引っ込める。
──あれは、猊下の御髪だ。
ファナティオの目には間違いなくそう映った。
あんなにも艶めかしく、キラリと光沢を帯びている髪は持つ者は、猊下ただ一人しか知らない。
ハナと目を見合わせ、猊下が居られてはやむ無しと、厨房を出るべく歩き出した。
「あら、帰っちゃうの? ファナティオちゃん、ハナちゃん」
……否。その一歩目で、二人の足は既に石像の如く動きが止まっていた。
ファナティオも、まさかアドミニストレータに気付かれていないとは露ほどにも思っていなかった。何せ、人智の及ばぬ御業を行使出来る、人界で最も優れた術師だ。気配など簡単に悟られてしまうだろう。
しかし、その声はもう、すぐ真後ろから聞こえてきたのだった。
二人が踵を返し振り向くと同時に、膝を付き、胸に右手を当て深々と礼をする。
優しい御心で見逃してくれたのだろうと、すぐに厨房から立ち去ろうとして、寧ろ引き留められているというこの状況に、内心冷や汗を掻かずにはいられなかった。
この事をお咎めになるのならば、せめて、ハナは無関係であることを陳謝しなければ……
そう決意を固め、アドミニストレータの二の句を待つ。
「顔を上げなさい」
その声音は平坦なものだが、それが逆に恐ろしさを引き立て、二人は一様におずおずと首をもたげた。
すると、弁明を口にする前に、むぐっ、と息が詰まるように口の中に何かが入れられた。それを噛むと、ザクッというクッキーにも似た音が立って砕かれ、小麦とバターの自然な風味が口いっぱいに広がると共に、砂糖が舌にザラりとして、自然な甘みが溶けだしてくる。
次に、サンドされていた板状の何かががパキッと割れた。香り高いカコル──南帝国に生る実で、地球で言うカカオ──が鼻腔を通り抜けて、甘さのない苦味が、砂糖の直接的な甘味を相殺した。そのうえ、まだ舌の上に残る砂糖と調和して、しつこ過ぎない絶妙なテイストに仕上がる。各々の主張が止まって、飲み込むと、最後になって、舌全体に薄く、苦味で判然としていなかった穏やかな酸味や渋みが風味のように広がって、やがてゆらゆらと消えていった。
──これは、まさか!?
ファナティオは驚愕した。
これは、正しく、チョコレートであると。
チョコレートはカコルの実を煎り、殻を取って中身を丹念にすり潰し、砂糖を入れ、湯煎してかき混ぜ──などの、長い工程の末に完成する。
ファナティオは、このチョコレートの材料と作り方を知っていた。以前にはこれを作り、道すがら会った何人かの使用人達に配ったこともある。
人界には普及していないのか、味わった全ての使用人達が衝撃を受けていたが、やはり、その範疇に全知全能たるアドミニストレータは入らなかったようだ。ファナティオは改めて畏敬の念を抱きつつ、横のハナをチラと見やる。
彼女も驚きに包まれているが、概ね自分と反応は同じのようで、嚥下すると、口に残る余韻を感じているふうに見えた。
「どう? 美味しい? チョコレート作りは時間掛かっちゃうからそんなにやらないし、少し不安なのよ。感想をちょうだい?」
「は。数多の菓子に勝る香り高さ……クッキーの風味や甘みと調和した絶品でございました」
自分でも思ってもみないくらい、スラスラと、澱みなく感想が出た。
本当ならこんな言葉では言い表せないが、その一部分だけでも表現するだけなら、十分過ぎるほどに言葉が足りる。
ここまで上品な味わいのチョコレートを食べるのは初めての事だった。自分では、こんな味は出せないに違いない。
「……チョコレートそのものは私も食べた事がありますが、ここまで舌触りが滑らかなものは初めてです。乳のコクがカコルの強い苦味を和らげて、柔らかな口当たりがクッキーの良さを活かしています。誠に感服致しました」
改めて、ハナが頭を垂れて跪く。それは、部下としてでなく、一人の料理人として、心から表した敬意だった。
「あら、そう? それなら作った甲斐があったわね。あっちに比べれば、シンプル過ぎて手間なんて無いようなものだけど」
にこやかに、嬉しげな表情で、追加のクッキーの入った皿をファナティオに手渡せば、あ、と一つ声を上げて、腕をくいと動かした。
すると、宙に浮かび、吸い寄せられるようにしてボウルがアドミニストレータの腕の中に収まった。おもむろに確認し、顎に手を当てて考え込むそぶりを見せると、一つ頷き、目線を二人に向けた。
「二人とも、少し手伝ってくれない? ちょっと、生地を作り過ぎちゃってね……?」
「す、少し……」
アドミニストレータが見せた大きなボウルの中は、もはや作り過ぎたと言っていられる量ではない。大量生産でも予定してたのかと突っ込まざるを得なかった。
「……勿論、手伝ってくれるわよね?」
「「は、はい……」」
そこからというもの、想像以上な重労働が始まった。
先ず、生地の抜本的な見直しから図った。アドミニストレータ作の生地は手間がかかり過ぎるので、ボウルにある生地にファナティオとハナの知識を集結させて、それ自体がかなり甘く、軽めなクッキーになるよう手を加えた。
次に、厨房の全てのオーブンに生地を流し込んだ型を入れる。
「ハナ、型が全然足りないわ!」
「恐らく、これで全部でしょう……」
「なら作ってあげる。素因製だから脆いけど、そこそこ耐えるでしょ」
アドミニストレータが指に《鋼素》を生成し、聞き覚えのない術式を唱えると、あっという間に既製品と同じ型が台の上に積み重なっていく。
それらに生地を流し込み、焼き、そして取り出し、固めたチョコと合わせていく。
ファナティオがふと気付いた。
「最高司祭様! チョコが無くなってしまいました!」
「そう言うと思って、いま片手間に作ってるわ。あと数分だから、生地を新しく流し込みなさい」
ファナティオが少し視線をズラしてアドミニストレータの横を見ると、すりこぎ棒が一人でに、目で追うのがやっとなスピードで回転し、ササッと型に流し込まれ、宙を飛んで冷蔵庫に入れられる。
一目見れば分かるが、心意の腕が動かしているのだろう。
ファナティオとて心意の腕くらいなら造作もないが、あんな事をしろと言われたらハッキリと無理だと言える。そもそも、心意の腕は力の調節さえ難しい。すりこぎ棒を握ってチョコレートを練ろうものなら、力加減を間違えてポキリと折ってしまうし、液体を流し込むなんて細かい作業は無理だ。
しかしアドミニストレータは、それをまるで腕の延長のように扱えている。あれこそが、強力な心意の到達点の一つなのだ。
アドミニストレータの心意に気圧されつつも、作業の腕は止めずに、次々とチョコクッキーを量産していく。山のように積み上がるクッキーの皿をどかして次の皿に盛り、焼きあがったクッキーをチョコに挟み、鋼素の型を作り直して、流し込み……を丸一時間。
「はぁ……はぁ……終わりましたね、ファナティオ様」
「ええ、長かったわねぇ……」
ファナティオは整合騎士として鍛えているので問題無いが、ハナは料理人。すっかり疲労困憊に陥っていた。
しかしながら、最も酷い状態が一人……
「……げ、猊下……?」
アドミニストレータは、床に正座するように脚を畳んでいるが、背筋は前方にしなだれ、額を台の側面に当てたまま、左手が台の上に、右手はだらりと垂らしている。まるでデスマーチを終えた会社員──アンダーワールドにそんなものはないが──のように、哀愁を漂わせ、深く影を落としている。チーン……という虚しい擬音まで聞こえてきそうだ。
ファナティオが不安ながらに呼ぶと、ゆっくりとアドミニストレータの顔がこちらを向いた。
生気のない青白い顔色。どこか痩せ細ったような様相を呈した彼女は、光の無い目をそのままに、口の形を歪め、
「……ふへっ」
表情さえ変えられないのか、力なく笑った。心做しか、アドミニストレータとその周囲だけ白黒となっているように、ファナティオとハナが見える程に燃え尽きてしまっている。
彼女が斯様な有様になった原因が心意であることは、ファナティオには想像に難くなかった。心意は強大な精神力を消耗する秘術。あんな風に多用していては、身が持たないのが道理だ。
なのだが……
「も……む、り……」
精根果てて力尽きる様子に、流石に放っておくことなど出来なかった。
その後、ファナティオによって元老長が連れ出されて、どうにかアドミニストレータは百階に運ばれていったという……
◯ ✖️ △ ◆
「……同時……五つの、心意……一時間……死にそ……」
「何をなさったのかと思えば……もう休みましょう。それと、心意は乱用しないよう気を付けて下さい」
「……ぅん」
ぎゅっと、アドミンはクリスチャンに抱き着いて、死んだように寝始めた。
そのせいか、この日は珍しく、二人が向かい合わせになって寝る事になったという……
sideキリト
恐怖、という感情を明確に感じた時は、いつだったか。
デスゲームを宣告された時? ああ、確かに。かつてない恐怖を覚えた。
二十七層の迷宮区での事故? ああ、そうだ。自分の愚かさに心底恐怖した。
KoB団員の皮を被ったラフコフのメンバーに麻痺毒を入れられ、アスナを守る為とは言え、殺してしまったあの時? ああ、それは……俺が忘れようとした程に、自分自身に恐怖した。
アインクラッドは、それほどまでに恐怖が常に付き纏っていたと言っても過言ではなかった。
最近はどうか。死銃事件で、シノンが狙われていると悟った時か。
それよりも後だ……三人目の死銃事件の犯人、ラフコフの《ジョニー・ブラック》、金本敦に劇薬を打たれた時か。あれは本気で死を覚悟していたが……
俺は、かつてない恐怖を感じていた。
何の恐怖かと問われれば、何とも言い難いものだ。何しろ、俺は直接相対している訳では無かったのだ。
「良いですか、キリト殿。剣とは、このようにして扱うのです」
紳士然とした、俺達と同じくらいに見える青年が鋼剣を振るうと、直後、目の前の柱が斜めに切断され、滑り落ちた。強い振動と共に、風圧で髪が浮き上がる。
五十一階、《第一修練場》。いつも俺やユージオが指導されているこの場所に、青年……元老長クリスチャンが突然現れて、剣を貸してくれと言われて貸してから、実に十秒後に起きた事だった。
これには、俺もユージオもなりふり構わず口を大きく開けて唖然した。
彼に貸した剣は、訓練に使われる練習用の鋼剣で、優先度30。対して、先程切り落とされた鉄柱の優先度は38。そこには歴然たる差が存在している筈にも関わらず、華麗な切断を実演してみせた。
だからと言って恐怖することもないだろうに、と自分も思いたいのだが、彼の纏う純粋な剣気に、俺は本能的に恐怖を抱いてしまったのだ。
全身を竦み上がらせるような、剣の重み。彼が鉄柱を斬ろうとした時感じた、俺は畏怖にも似た感情。その間は、一歩も動く事が叶わなかった。
まるで、剣の刃そのもの。飾り気のない、単なる斜めの袈裟斬りなのに、それ自体が極まっていて、一つの芸術にさえ思えるほど綺麗なフォームで、剣と一体になって繰り出されていた。
しかし、いくら完璧な技とはいえ、優先度はこのアンダーワールドで、アイテムの優劣を決める絶対の値となっている。少なくとも、ステータスやパラメータといった数値に依存しない力が働いたのは確かだろうな、と思っている。
「……元老長は、違う。ただ、斬ることを求めた私より、自分が剣になる事を求めた」
シェータ師範が、隣でボソッと呟くように言った。
剣になる事を求める……それは俺が剣を扱う上で最も大事にする事の一つだ。ユージオにも常々、剣と自分を一体化しろと言ってきたが、今のクリスチャンの在り方こそ、その究極系なのかもしれない。
それに、柱を斬る直前になって、剣の重みで身が凍りつくような気迫が俺を襲ったが、あれは以前に一度だけ感じたことがある。
今となっては懐かしい、実剣を使って行われたウォロ・リーバンテイン上級修剣士との試合。ハイ・ノルキア流の天山裂破を受けた時、一瞬だが背後にウォロと酷似したご先祖様らしき集団を幻視して、剣が重みを増したのだ。
この世界に存在する、イメージによる事象の改変。その力を、俺は嫌というほど味わってきた。
十何年と剣を握り続けた剣士の、揺るぎない技への自負から生まれる力。高潔な貴族が、自分は他人より優れていると、他人と比較することで生み出される力。
そういった強いイメージが他者を圧倒する。四帝国統一大会では、実際そんな奴らばかりで、一戦一戦、肉体的にも、精神的にも苦行を強いられ、各々の秘奥義の威力に、あわや打ち負かされるか、と何度ヒヤヒヤしたことか。
クリスチャンの剣気は、強力な心意を持っていたウォロの様な幻視こそ無かったが、力の源は同じだ。
……これが、心意。
身も固まるような恐怖をもたらす、ゾクリとする様な圧倒的気力。
もし戦う事になれば……と想像して、身をぶるりと震わせていると、クリスチャンは鋼剣を携えながら歩み寄ってきた。
「この鉄柱の訓練の真髄は、心意にございます。心・技・体、それらが揃って初めて、上位の整合騎士への道が開けましょう。ここに来れる実力なら、技術と身体は問題無いと愚考しますが、肝心なのは心です。卓越した技術、健全な身体が揃っていようと、強い想いの前には覆されかねませんよ」
そうアドバイスをしてから、鋼剣が俺に返された。見たところ、鋼剣には傷一つ付いておらず、天命値も僅かしか削れていない。
正直、俺は誰よりも心意を理解していながら、心意の力を甘く見過ぎていたと言わざるを得ないだろう。
心意の影響がソードスキルの威力のみならず、物質の天命にさえもたらされる事は朧げながら理解していたが、優先度まで無視するとなると、そろそろ何でも出来そうなのではと思ってきた。
思案する俺に、それでは、とクリスチャンは一礼して、優雅な振る舞いで去っていった。
同時に、直立不動で固まっていたユージオが、じりじりとにじり寄ってきて、俺の肩を小突いた。
「……ねぇ、キリト。今の、僕達にも出来るのかな」
「そんな弱気になるなって。なんせ相手は三百年生きてるって言ってたし、あのレベル……じゃなくて、あそこまでの心意は俺達にはまだ早い。究極的には元老長が目標だとしても、もっと着実な所から頑張ろうぜ」
とは言ったものの、心意の糸口までは、これまで剣を振る上で掴んできたが、それ以降進展が無かった。《心意の腕》で小石一つ動かせないようでは、本当の意味で心意を使えていると言えない。
そんな俺の心の内を知ってか、ユージオは肩を竦めながら苦笑する。
「……うん、そうだね。ステイ・クールでいこう」
……やっぱり気に入ってるな、こいつめ。
何だか無性に意地悪したくなって、脇腹をぐにっとつまんでやると、ユージオが身を捩った。
ステイ・クール……冷静でいろとか、平静を保てとかの意味で主に使われているが、クールから転じて、格好良く居ろよ──つまり、じゃあなという、若者が使う別れの言葉の意味もある。
これを、俺がいつぞやに口に出してしまって、言葉の意味を説明して以来、ユージオは気に入ったのか度々使うようになった。ひと月に一回くらいは聞く気がしなくもない。
だが、別れの言葉として使われるのは、恐らく一回きりだろう。
この世界を去る時──個人的には戻ってきたいものだが──が来るのは確実だ。俺が探している《システム・コンソール》は、ほぼ目前にまで迫っているのだから。
「……ああ、ステイ・クールだ」
頭の中でこの言葉を強く噛み締めると、改めて剣を握り直した。
◯ ✖️ △ ◆
今日も無事に訓練を終え、新たなケーキたるチーズケーキ開発に勤しんだこの日の夜。
自分の寝室に向かい、ベッドに倒れ込むと、すぐに眠りに誘われた。
アンダーワールドは時間が一千倍以上には加速されているのに、どうして生活のサイクルは乱れないのか不思議に思いつつ、今日もお疲れ様と瞼を閉じた……
「キリト、キリト。眠るのは少し待って」
「……ん? その声、シャーロットか?」
「そうよ」
どこからとなく聞こえてきた声は、カーディナルの使い魔である蜘蛛のシャーロットだった。姿は見えないのは髪に隠れているからか。
こんな夜更けになって話す事となれば、恐らくカーディナル絡みだろうな……と予想しながら、次の言葉を待つ。
「キリトは、最高司祭の事を見ていてどう思った?」
「ど、どう思ったって言われてもな……」
突然そんなことを聞かれるとは思わず、頭の中で最高司祭アドミニストレータの姿を浮かべてみる。
五十階で初めて謁見した時、俺はアインクラッド六十一層のセルムブルグで、アスナに「キリト君も早く脱いでよ」と言われた時と同じくらいのプレッシャーを感じたものだが、その後に対面したお茶会の時はどうだろうか。
カエサルとかムッソリーニとか、日本の国会の喩えが出てきた時は思わず面食らって、そっちに気を取られがちになってしまったが、カーディナルが、アドミニストレータと元老長クリスチャンとの関係を揶揄した時には、彼女は顔を真っ赤にしてブンブンと顔を振ったり、机に突っ伏したりしていた。
あの反応は、まるで……というか、完全に見た目の年齢どおりの、思春期の女の子だった。
暖かい目で見ていたら、キッとねめつけられたが。
「初対面とあの日のお茶会だと、印象が違うでしょう?」
「確かにな……アドミニストレータは、カーディナル・システムをフラクトライトに上書きした結果、行動原理が変わって人間じゃなくなったはずだろ?」
「そのはずなのだけれど、これにはマスター……カーディナル様も困惑していたわ。だから、何がキッカケになって昔の状態に戻ったのか分からなかったのよ」
となると、アドミニストレータと名乗る前……クィネラという少女の頃に、精神だけ巻き戻ったって事になる。そもそも、カーディナルは、自分のただ一つのフラクトライト自体に《書き換え不可能な行動原理》が焼き付いたと言っていたし、そんなムシのいい話は無いだろう。
つまり、前提からして間違っている。
「シャーロット……カーディナルの記憶は本当に正しかったのか? 何か、重大な勘違いを起こしているような……」
「……あなたも、その結論に至ったのね」
「あなたも……ってことは、カーディナルもそう思ったのか?」
「ええ。でも、記憶を削除する前にノートに書き留めた情報は、その時に最高司祭が保持していた記憶と同じ。だから、間違えるはずは無いと一度は思ったのよ」
しかし、それではあの行動に説明がつかない。
そう心の中で反駁していると、シャーロットが続けた。
「カーディナル様は、削除した記憶の精査を行い、ある疑問に気が付いたわ。前後を繋げてみるとまるで整合性のない記憶や、時系列からして不自然に欠けてる部分……大半の記憶は消えていたから、見付けられたものは少なかったけれど、確かにそうとしか考えられない痕跡が見つかったの」
「記憶を消す……」
「恐らく、知られたら不利になるような情報があったから。だから予めノートみたいな記憶媒体に書き記しておいて、記憶を消し、シンセサイズを行った……ここまで周到だと、最高司祭は、身体が乗っ取られることを想定済みだったと見るべきね」
すっかり消え失せた眠気の代わりに、頭を働かせる。
知られたくない情報を記憶を消してまで隠蔽しようとしたのに、今回の茶会で、アドミニストレータは結果的に知られたくない情報の存在をカーディナルに示唆させてしまった。その危険性は承知していただろうに、直接対面で茶会に応じた理由は何なのか。
それに、カーディナルの話とは掛け離れた人間らしさ。
俺たちが大図書室に招かれた際、カーディナルは感情さえ捨てた支配欲の化身と言うべき存在と言っていた。貴族の初めての政略結婚によって生まれた、飽くなき支配欲を抱えたフラクトライトを持つ少女だったと。
「アドミニストレータは、一体何をやってるんだ……?」
「そう、そこなのよ。カーディナル様も、アドミニストレータの行動が全く理解出来なかったのよ」
俺にもまるで見当がつかない。
それこそ、つい先日のように、ベイクドチーズケーキなのにクラスト部分を用意し忘れて、炭にしてしまうくらい大ポカをやらかしているのなら解らなくもないが、相手は自分の騎士に絶対の忠誠を誓わせさせる程に慎重で狡猾。女の子らしい部分は認められるとしても、禁忌目録を作ったのはアドミニストレータであり、整合騎士を作ったのもまた同じ。
「でも、ワタシとカーディナル様は、彼女の一連の行動からこう判断出来たわ……アドミニストレータは、世界の支配とは違う、また別の目的を達成する為に動いていること。そして、そこにキリトが絡んでいることは間違いないと」
「お、俺が……?」
おずおずと訊ねると、シャーロットは語気を強めて言った。
「気を付けなさい、キリト。最高司祭とカーディナル様の対話が繰り返されれば、何かが起こる……それは間違いないわ」
sideカーディナル
「……」
大図書室。
アンダーワールドのあらゆる座標から切り離された空間に存在しているこの場所で、少女は机に両肘をついて指を組んでいた。
カーディナルという名を自称するその少女は、いま、思考の海を揺蕩い続けている。
最高司祭アドミニストレータ……彼女の行動の数々を分析した結果、別の目的があるという結論に至っていたが、どうにもそれだけでは得心がいかなかった。
彼女はあまりに現実世界の知識を知り過ぎている。《メイン・ビジュアライザー》のデータベースを参照したところで、ニホンなる現実世界の国の政治体制も、例に挙げられた二人の人物の名も、書かれていなかった。
そうだからと言って、彼女が現実世界からダイブしている存在とも考えにくかった。ラースという真の神が行う《最終負荷実験》の妨害をする様な真似はしようと思わないだろうし、そもそも、フラクトライトの寿命もある。
……そうやって、考えれば考えるほど、アドミニストレータの全容が掴めなくなっていく。
何か……何かが足りない。
わしは何を忘れている……?
そう思う度に、頭につんざくような痛みが走る。
アドミニストレータによって、重要な記憶が消されてしまった影響か。
しかし、これ以上何かを思い出せたことはない。自分で記憶を整理してしまった事が拍車を掛けている。
どうしたものか、と進まない考察に頭を抱えていると、不意にシャーロットからの感覚共有が入った。
カセドラルの廊下が映し出される。何階かは不明だが、見ると向かい側から、黒いスーツに白い手袋を身に着けた青年がやって来ていた。
『あ……キリト、元老長だよ』
『確かにな……でも、それがどうしたんだよ』
『うーん……元老長って、教会で最高司祭様の次に偉いんだよね。あんなに活発に動いてるのが、ちょっと気になって』
元老長は、最高司祭の命令に基づき、様々な司令を整合騎士に与える仕事を担っている。その伝達の為だろう。
三百年以上も最高司祭に仕えており、シンセサイズされていないことから最高司祭からの信頼も厚いと見える。
相当な権限を持っているので、もし戦う時となれば苦戦を強いられる。
剣を使わせれば近距離戦において互角、神聖術ならば勝ち目はあるが、彼は神聖術の詠唱を大幅に省略出来るので、神聖術の勝負となっても些か厄介となる。
特に、彼の持つ《燎火の剣》という守護竜に選ばれた勇者のみが持ち得る《Class:48》の神器の、武装完全支配術がもたらす破壊力を利用した、攻撃完封技。
これだけ揃っていれば、過去何度にも渡って、アドミニストレータの殺害を妨害されたのも納得がいくというものだが……
その時、カーディナルは、自分の思考ロジックが、本来あるべきとは異なる、別のルートを通過していった様な違和感を覚えた。
そして、自分が何を考えていたのかを思い出そうとして……
「────!?」
頭に突き刺されるような激痛。記憶が揺さぶられて、思考さえまともに出来なくなると、感覚共有とも違う景色が脳裏に浮かんで、あらゆる情報が流れ込む。
それはカーディナルの根幹を成すものであり、アドミニストレータが消し去る事が出来ずに、ブロック処理を施す他になかった、その記憶……彼女が苦悩し、懊悩し、煩悶した足跡だった。
『……私に──もう分から──何が──くて、──間違って──』
『……何を、今更』
目と鼻の先には、悩ましげに眉を顰める元老長、クリスチャン。
ここまで近付いた事があった事に驚きを感じながら、部分部分、思い出される記憶に耽る。
『クィネラの行っ──未来に──だとしても……あまり──酷ではな いか──やり方でなくて──到達す──不可能──』
『だがこの──犠牲者──クィネラ自身──実験──摩耗していく……ある──を作ろうとして──全て──貴族の少女と──あったという──』
思い出される記憶は、半分も失われていて、その時自分が何を思っていたのか知る由もない。
でも、何故か、カーディナルには漠然と解った。この記憶を見ている自分自身が、当時の、まだ影の人格であった頃の自分と同じだと言うことが、自然と感ぜられたのだ。
「……ふふ、まさか……こんな、事がな……」
ポタ、ポタ。
木目の机に、水滴が垂れていく。
トクン、トクン。
身体が火照って、心臓が強く脈打つ。
「わしに……わたしに……足りなかったもの……」
ずっと、僅かばかりの自らの心に、大きく虚ろに空いていたもの。
──ようやく、見つけた。
「──本当に、呆れたものじゃ……サブプロセスとしての役目も果たせず、あまつさえ仇敵の忠臣にこんな感情を抱いているとは……」
自嘲し、同時に失望した。記憶の断片から、自分でも、どうすることは出来ないと悟ったからだ。
身体を椅子に凭れさせると、胸に去来した温かさをひしと抱きしめる。
「……人の温もりを味わったのも、あやつが最初になるのか」
彼との記憶の断片を噛み締めるように、何度も瞼の裏にそれを浮かべては、ふふっと微笑を湛える。
全てを思い出した訳では無いのだ。その時の己が何を思い、何を口にしたのかさえ判然としていない。
だが、しかしこれだけは、カーディナルの中で明白だった。
今も、二百年前も……変わらないものがあることが。
「落ちぶれた老賢者を舐めるでないぞ、クィネラ……老いて、
ふん! と息巻いて、力強く席を立ち、どこかへふらりと消えた。アドミニストレータに対抗する、新たな策を講じる為に……
しかし、ここにキリトが居たならば、彼はほぼ間違いなく、カーディナルの後ろ姿を見ながらこう思う。
──あの、そんな容姿でそれ言っても、説得力皆無じゃあ……
はたと、そんな事を言うキリトの姿がカーディナルの脳裏に浮かんだ。どうやら、自分でも自覚はあったらしいが……
真っ先に、キリトから指摘される様子が浮かんでしまったのが不幸となって、この日、キリトは無理矢理《クリーム二倍盛りショートケーキ》を作らされた。
シェータにしばかれた後で疲労困憊。にも関わらず、木べらを回して生クリームを作る作業をする羽目になったという……
「う、うおぉ────!! なんでどいつもこいつも俺をパシリにするんだよぉ────!!」
「ちょっ、ちょっとキリト! 最高司祭様とカーディナル様をどいつもこいつも呼ばわりしたらお皿に変えられちゃうよ!」
おおまかな布陣は完成。
じれじれ主従、飲み仲間、最悪な恋敵、すれ違い兄妹、親友な母娘etc……
次はほんへの予定
でも、もう一つの作品のほうもあるし、次の更新は何時だろうなぁ(遠い目)