それは、リピアちゃんとの会議を終えた明くる日の夕方。
牛乳入りコヒル茶をズズっと啜り、一息ついてから、目の前で呑気にソファーに座るキリトをじろりと睨めつける。
ここはカセドラル百階。元老院を通らない裏道ルートを通ってもらって、キリトをこの階へ招いたのだ。
その理由は、自分についての大事な話があるから、どこかで話したいとキリトから持ち掛けられた為。
本来のアドミンなら、「サーティスリー、お前の事情なんて知った事じゃないのよ」とか一蹴しそうなものだが、せっかくこう言っているし、無下にするのも示しがつかない。
「あ、あの、コヒル茶って一つ貰えませんか?」
大事な話とやらを一通り話し終えたキリトが、なぜか満を持してそう言った。
さっきからコヒル茶にちょくちょく目線がいっていたが、そんなに飲みたかったのか。
「……お前、似たようなことをあのちびっ子に言ってない?」
「うぐっ……」
呻き声を上げるのも当然。キリトはさりげなくカーディナルからコーンスープを貰っていたりする。
食い意地を張ってる事で定評あるのが、このキリトという人間なのだ。
アスナにクリームを分けたり、アリスに饅頭を分けたり、どこに行ってもそのスタンスは変わっていない。
仕方なしに軽く右指を振ると、テーブルの上にコヒル茶と角砂糖、牛乳のセットを出現させた。心意技術の応用だ。
角砂糖二つ、牛乳を少し入れてグビりと飲む様子を意味もなく観察して、ずっと見られてか気まずそうにしているキリトに、わざとらしく要件を尋ねる。
「……で、なんだっけ? お前が向こう側、リアルワールドからやって来た埼玉県川越市在住の高校二年生、桐々谷和人くんってのは分かったけど。それがどうしたっていうの?」
「……あの、俺、リアルワールドから来た、としか言ってませんが」
さりげなく個人情報を握っている事を示唆すると、驚き半分怪訝さ半分みたいな、明らかにおかしいと疑う表情を浮かべている。
そりゃそうだろう。こちら側のフラクトライト如きが、まさかダイブしてきた人間の情報を知っているとは思わないもんね。
「そこは、あの緑ブタだかなんだかの……ラースの人間の管理体制が杜撰だったってことね。私にかかればちょちょいのちょいよ」
菊岡さぁ────ん!! という責め立てるようなキリトの心の声が聞こえてきそうだが、俺の身上の説明も面倒なので、ラースに責任転嫁しておく事にした。
「さて、お前には他に目的があるんでしょう? なぁんにも役に立たない個人情報とは言え盗み見ちゃったし、お詫びに今だけ、私の知ってることなら何でも答えてあげるけど」
「……な、何でもですか?」
キリトが、ゴクリと唾を飲むところが見えた。
そう、何でもだ。このアンダーワールドの事なら、ほぼ大抵の事は知っている。
彼には知りたいことが山ほどあるだろう。例えば……
「……ええ、私のスリーサイズでも、リセリスちゃんのスリーサイズでも、アリスちゃんのスリーサイズでもいいわよ」
「い、いやちょっと最高司祭様!? 何言ってるんですか!」
「え〜? 知りたくないの? 学生なら気になるものでしょ」
「それは偏見ですって!」
キリトが毅然と言い切った。顔全面にNO!!という文字を貼り付けている。
じゃあ、逆にアスナのスリーサイズなら知りたがるかな……? と冗談っぽく思いながら、キリトを見やる。
どうやら、質問を考えているらしく、顎に手を当てて俯きがちになっている。
やがてパッと頭を上げると、キリトは思い切って俺に言った。
「ええと、それなら、リアルワールドと接続する神器……《システムコンソール》ってどこにありますか」
「──ここ」
おもむろに自分のすぐ隣の地面を指さす。
「ここよ、ここ」
えっ? ととぼけた表情を浮かべるキリトの前で、さっき指さした地面を踵でコツンと叩いて、心意を流し込む。
すると、地面から生えるようにスィーっと円柱がせり上がってきた。
その上にある、ノーパソの形をした板。ピコンと画面が点灯して、仮想キーボードが表示される。QWER……と続くアルファベットの文字列は、何度見ても懐かしい。
キリトが勢いよく立ち上がって、パソコンの画面をまじまじと見ている。
待ち焦がれた現実との連絡手段。
三年間追い求め続けたものが目の前にある。
そんな様な心持ちがキリトの中で渦巻いているだろう。
ゆらゆら、一歩ずつコンソールへ近付いていく。
目の前に辿り着いて、恐る恐るキーボードに手を掛ける。
…………そうは問屋が卸さないんだよなぁ。
「うおわぁっ!?」
たちまち炸裂した俺の心意が、キリトの脚を背後から払った。
大きく後ろに転倒、何が起こったのか分からず、情けない格好で伸びている。
しかし、負けじとキリトが立ち上がり、もう一度キーボードに手を掛ける。
「ぐ、ぐおおおおっ!! ──えっ、まっ!?」
心意の腕がキリトの腕を押さえて、キーボードに触れるのを阻止。そのまま上に持ち上げて、勢いよく後ろに投げる。
キリトがハンドスプリングをするような見事な身のこなしで地面に着地。
いや、ね? キリト君、俺に言う事の一つくらいあると思うんですけど……
ジト目でテレパシーを送ったものの、キリト君は目もくれず好戦的な笑みを浮かべている。
あかん、これ伝わってねえ!
今度は走りながら向かってくるのを、指鉄砲で狙いを定めて、一発の弾丸を発射した。
心意の弾丸。そこら辺の銃と同じくらいの速さはあるかもしれないそれが、キリトに音も光もなく迫る。
傍から見れば単に指鉄砲を撃った風にしか見えないが、キリトは察したのだろう。その場から飛び退くと、その真後ろの壁に直径二メル程の大穴が、喧しい音を立てる共に空いた。
百層なだけあり、一気に空気が流れて髪が棚引く。
キリトはギギッ、と油の切れたロボットの様に背後をチラリと見た。再度こっちに振り向き、恐怖の色に染まった顔で、「殺す気かよ!?」と訴えている。
でも俺は知らん顔。
ほれほれ、俺はまだ心意の弾丸を構えてるぞ〜?
ニヤニヤして、指鉄砲の形をした腕を手首からプラプラさせれば、屈んでいたキリトがスタートダッシュを決めた。
「これくらい、GGOで慣れたっての!」
カセドラルの円形の部屋を活用して、グルグルと回りながらこちらにやって来る。円を描くことで、狙いを定めにくくする腹積もりのようだ。
となれば、撃つ度二メルの穴が空いては堪ったものではない。カセドラルの壁には膨大な天命値と自動修復機能があるが、それも神聖力が尽きてしまえばおしまいだ。
代わりに、五センほどしか穴が空かない威力だが、両手を使って数打ちゃ当たる戦法でジリジリと追い詰めていく。
キリトは俺の撃つ弾丸の弾道が分かっているようで、バキッ、パリンと、壁やガラスばかりに当たって穴が空いていく。
「あら、さっきまでの威勢はどうしたの? うろちょろ逃げ回っても、コンソールには辿り着けないわよ?」
指をくいくいと、あからさまな挑発をしてみる。
すると、キリトは立ち止まり、
「じゃあ最高司祭様、コイツ、使ってもいいですか」
腰に提げられた《黒いヤツ》もとい、《夜空の剣》を二回叩いて、そう言ってきた。
……マジか。
というのが俺の率直な感想だ。
『ソードアート・オンライン』という小説の一読者として、その作品の主人公であるキリトは何があろうと手の届かない存在にある。
こうやってこの世界で、『ソードアート・オンライン』の登場人物と関わってきた訳だが、主人公と、それも剣で対峙するという事がどれだけの意味を持つのか。
それを今、実感している。
俺はラスボスで、相手は主人公。
倒す主人公と、倒される大敵。
この対立こそ、俺が生きてきた理由。俺がクィネラとして、また、アドミニストレータとしてここまで生きる活力を与えてくれたのだ。
「いいわ、貴方の土俵で戦ってあげる」
別アドレスに格納されていた武器、《シルヴァリー・エタニティ》を心意で引っ張り出して、独特の、肩の高さに剣を平行に持ち上げるという構えを取った。
刀身が深紅に染まり、身体がシステムのアシストを受けて独りでに動き始める。
キリトが愛用したソードスキルの一つ……《ヴォーパル・ストライク》。
一撃が重く、かつ片手直剣にあるまじきリーチの長さを誇るこの技は、重要な場面でこそ使われてきた。
元老長チュデルキン、アドミニストレータへのトドメに使われたのが有名だろうか……一巻でも使われていた様な気がするが、そこまで記憶は無かった。
しかし少なくとも、この技がキリトの代名詞の一つであり、特別な存在であることは間違いない。
同様に、キリトもヴォーパル・ストライクの構えを取りつつ、駆けてくる。
「はぁぁぁ!」
「おぉぉぉ!」
お互いの気合いが迸ると、引き絞った剣を極限まで引き伸ばし、剣の切っ先と切っ先とが衝突した。
直後、聞いたこともない様な轟音を響かせて強く弾き飛ばされた。
──これが、キリトの剣の重み。
実の伴わない心意しか使えない俺なんか、比較にならないかぁ──
……とまあ、実力が拮抗する戦いでは、こうやって弾かれる事が往々にしてある。
クリスチャンと戦う時は剣がぶつかり合わないように戦わないと、スキルコネクトで強引にソニック・リープなりバーチカルなり使ってくるが……どう出る。
俺は体勢を勢いに逆らうように無茶して踏みとどまると、そのフォームから少し腰を屈めて前のめりになった。
初期モーションが検知されると、青白い光が刀身に灯り、システムのアシストが地を蹴ろうとする動作に入る前に、脚に力を入れる。
キリトもそれを予感したのか、剣を肩の上に乗せるような構え──《ソニック・リープ》で飛び込んで来た。
先程の焼き直しかのように再度剣がぶつかり合い、そのまま拮抗する。
「……細剣突進技、《シューティングスター》」
「──んなっ!?」
ソードスキルの名前を出したからか、驚きでキリトの剣力が弱まった隙に、おれは俺は再度剣にライトエフェクトを纏わせ、軽く跳躍しながらズガガッという三連の突き、そして屈みつつ左右へ往復して斬り払う。
技が分かったのか、驚きつつも辛うじて防いだキリトに、更に追い討ちをかける斜め上への斬り上げ、更に強烈な上段への二連突きが襲う。
しかし、ここでも剣で受け切ったキリトは、思い切り吹き飛ばされ、壁に激突してしまった。
「細剣八連撃技、《スター・スプラッシュ》」
天命は300くらい削れてしまったか。キリトは地面に落ち、血の混じった咳をしている。
……流石に、これ以上はやめようか。
主人公と戦えるからって昂っていたが、今じゃない。ましてや、俺への好感度がマイナスに吹っ切れてない状態なんて以ての外だ。
やり合うなら、もっと他のタイミングがいい。
キリトに駆け寄りながら片手に五個の光素を無詠唱で生み出し、治癒すると、苦しげな様子から一転して、不敵な笑みを浮かべていた。
「そんな秘奥義を使うなんて……流石、最高司祭様ですね」
「当たり前よ。最高司祭が人界最強でなくてどうするのよ」
倒れたままのキリトに手を差し出すと、キリトはギョッとして、おずおずと手を掴んで立ち上がる。
普通は差し伸べたりしないけど、まあ、今回くらいは特別ってことで。
軽く服をパラパラとはたいたキリトは次に、直ってから俺に向き、改めて相対した。
そして続く言葉だろうは、俺にも想像がついた。
「で、最高司祭様! あのコンソール、使わせて下さいませんか!」
「いいわよ」
「で、ですよね、いやー、差し出がましい発言をしてすいま──え?」
俺が即答したら、申し訳なさげにすごすごと退出していこうとしたキリトが硬直した。ズビシッと、僅かにも動かない。
あ、目が左斜め下に向いた。どうやら聞き間違いなのか考えているらしい。
「だから、別にいいわよ。そろそろ、あっちと交信取りたかったもの」
念を押して言うと、キリトの顔が見るからに歓喜に溢れた。
ちゃんと、人の物を使う時は断りを入れてほしいものだ。勝手に使われたら、そりゃあ全力で抵抗するよ。
まあ、それラースの物じゃんと突っ込まれたらそれまでだけどね!
「本当ですか!?」
「ええ。ちょっと待ってなさい」
コンソールの台座にやって来ると、デベロッパーズオプションに《external observer call》と検索を掛ける。
出てきた項目をタップすれば、【この操作を実行すると、フラクトライト加速倍率が1.0倍で固定されます。よろしいですか?】の文字列が表示される。
まあ、考えるまでもなく【accept】を押すと、体全体に妙な感覚が襲ってきた。
その感覚というのがくせ者で、思考が一瞬フリーズして、時間などが急激に遅くなり、世界が一瞬色褪せて見える様な……多分、そんな感じだ。数回やっても、これにはまだ慣れない。
キリトも分かったようで、突然ピンッと背筋を伸ばしてキョロキョロと辺りを見回す。
「今のは……?」
「FLAの倍率が等倍に戻る歳に発生する世界の揺り戻し……みたいなものかしら。1000倍まで加速してたから、今のは結構強い方ね」
「そ、そうですか……って、1000倍!?」
今の所、全く上下してくれない棒……名前なんだっけ、何ちゃらアナライザとか聞いた事あったが……まあいいか。
あちらと通信が繋がっている筈なのに、音声の量と高さを表すそのアナライザ棒はピクリとも動かない。
「ちょっと、聞こえてるの? 居るんでしょ〜? 返事しなさいよ」
大声で叫んでみる。すると、ピクリと棒が跳ね上がった。
どうやら人はいるらしい。さあ、鬼が出るか蛇が出るか……
『……んあ? ……こんな時間に通信ってなんスか…………って、えええっ!? 内部から通信!? 09……セントリアの人界中央コンソールってことは……アンタが公理教会のトップってことッスか……?』
「そうよ。私は公理教会最高司祭、アドミニストレータ。そっちはラースの技術者よね?」
っしゃキター。
流石にキリトがやって来てるから無いとは思ったけど、ここでもし871さんが出てきたら速攻で通信を切っていた自信がある。
応じたのは、比嘉タケル。IQが140だか160くらいはあったような気がする、世で言う天才の一人だったかな……最近記憶が曖昧で、前世の家族の名前も数秒しないと思い出せなくなっているくらいなので、キャラクターの設定らへんは特に不安だが、あの茅場さんの所属していた重村ラボ出身だったのは覚えている。
『そうッスけど……あ、菊さん、菊さん! 起きて下さいよ! アンダーワールド内部から通信してきた人物がいるッスよ!』
『……んん? どうしたんだい、比嘉くん……まだ僕は眠いんだよ……』
『寝ぼけてる場合じゃ無いですって! ついに接触者が現れたんですよ!』
『……なにっ!? それを早く伝えてくれないと!』
『さっきから言ってたじゃないッスか!』
やいのやいの大騒ぎしている向こう側だが、後ろのキリトの目は据わっていた。
あれだ。ガチギレモードだ。俺には分かる。
「……先、要件済ませちゃえば?」
「……えっと、結構長くなりそうなんですが」
「いいのよ。あっちと連絡がつくか、確認したかっただけだもの」
コンソールの前から退くと、キリトはコンソールの台座に両手を突き、頭を俯けにした。
「……菊岡さん、俺の声が聞こえるか」
『そ、その声……まさか、桐ヶ谷君かい!? ど、どうやってコンソールまで辿り着いたんだ……いや、そもそも何故記憶が……?』
「それは、話すと長くなる。それより、俺はあんたに話さなくちゃならない事が山程あるんだ」
『……分かった。聞こうじゃないか』
それから、長い、結論の出ない討論が始まった。
キリトは、人工フラクトライトの存在から、完全にAIの有り様が変わったと言い、まずは全フラクトライトを保全するように、そして人間と全く同じ魂をした人工フラクトライト達にも、基本的人権はあってしかるべきと主張した。
対し菊岡は、人工フラクトライトは仮初の命しか持たず、人間と同等の思考能力を持とうと、肉体的な身体のある現実の人々の命よりもずっと優先順位が低く、これが兵器に搭載出来れば貴重な自衛隊員の命を失わずに済むという。そして、プロジェクトアリシゼーションの概要を説明した。
これが揉めた。非常に揉めた。声を荒らげるキリトと、分かってないと呆れる菊岡という構造が、そこにはあった。
答えの出ない論争を繰り広げている二人に、延々と待たされるのも何だか癪になってきたので、俺はコンソールのスクリーンの上に器用に肘を突いて、指を交差させた。
「……ねぇ、その話し合い、私も人工フラクトライト代表として出ても構わないわよね? そうでしょ、キリト?」
「……って、言ってる人が一人居るんですけど」
困った笑みを浮かべたキリトが再度画面に目を落とすと、数秒の沈黙の後、反応が帰ってきた。
『……君は?』
「公理教会最高司祭、アドミニストレータ。貴方達の実験が遅れている、その最たる理由を作った……って言えば、分かるんじゃない?」
『……なるほど。貴女がキリト君をここまで手引きした、という訳だね?』
「そうね。どんな面白い見世物が始まるかと思えば、ず〜っとお互い口論ばっかで、もう聞き飽きたのよ」
そう軽い口調で言うと、向こうでスッと息を飲む音が聞こえた。
『見世物、か……これは、貴女にとっても重要な話し合いじゃないかい?』
「ふぅん……ここからじゃ何も出来ない私に、そんな事言うのね。それとも何? ここで滑稽に、私達は貴方達の従順な犬なので、どうにかして下さいって、三回まわって吠えればいいの?」
『……つまり、何が言いたい?』
はー……セフ◯ロス声は耳に響くなぁ。
って、いけないいけない、アドミンムーブなのを忘れるところだった。
気を取り直して、俺は上から目線の不遜な態度で言ってやった。
「まだ分からないの? 仮想の身体でも、貴方達に惨めに這いつくばって、魂の存続を乞う奴隷になるなんて、私はごめんよ……ってこと」
『でも、貴女は私達のボタン操作一つで簡単に消える存在だ』
「あら、創造神を気取るだけはあるわね。なんて身勝手で、なんて我儘。じゃ、言うけど、貴方達は神が本当に現れたら、生かして下さい、ご飯を食べさせて下さいってヘコヘコするの?」
『……意味の無い仮定だな。神なんて、創作された神話にしか出てこないさ』
「それを私に言うなんて、つくづく傲慢よね。それに貴方達も
いや、本当に皮肉だ……この世界が創作であると知っている人間が、ここに居るんだから。
アンダーワールドの神がラースなら、リアルワールドの神は、我らが《ソードアート・オンライン》の作者、川原礫先生だ。
なんなら、アンダーワールドの神も川原先生と言える。
彼が全ての人物の生死と行く末を握っている。まあ、一度書かれた物語を修正することは出来ないから、俺が介入しちゃって色々崩れてる訳だけど。
こうやって考えてくると、俺の前世の世界さえ上位存在を疑ってしまう……大丈夫だよね? マト◯ックスみたいに仮想世界で生かされて、機械の発電源として利用されてたら悲し過ぎる。
それにこの世界だって、誰かから観察されていてもおかしくない。
おい、そこのお前! If世界のアドミンに転生させるとか頭のおかしい二次創作を作った作者め! なんて事してくれるんだ!
…………伝わる訳ないよな。虚しい。
『……どういう意味だ?』
「……今のは聞かなかった事にしといて。ともかく、貴方達も上位存在が出てきたからといって、彼らにおもねる様な真似をするなんて、私には到底考えられないわね。だって、実験のために世界を作って、思い通りにいかないからリセットしてやり直し、って考えるような人達なんでしょう?」
『…………』
まぁ、少なくとも川原先生は登場人物をポンポン退場させるような人じゃないから大丈夫だろう。
Web版の頃、ユージオの死亡という展開についてかなり考え込んだらしいし。
もっとも、If世界かつ俺が介入しているという点は考慮してないが。
「貴方も、自分のフラクトライトをコピーされたライトキューブになって生きてみれば、その気持ちが分かるんじゃない?」
『……そうなるのは、出来れば勘弁願いたいところだが、確かに貴女の言い分は否定できない。神の存在を認めている訳ではないけど、一つの可能性としてはね』
曖昧だなぁ。
まあ、自分の信念をそう簡単に曲げられるはずも無いのは承知しているつもりだ。
『……だからと言って、僕達にはそんな想像もつかない未来を見ている余裕は無いんだ。今ここにある現実と、それに付随する未来の可能性だけを見て、その最善を尽くす。謝って済むような事じゃないのは分かっているが……済まない』
えー、ひっどーい。……正論だけどさ。
「まあ、今はそれでいいわ。ただ、一つ言うけど……あんまり、ウチのアリスちゃんを甘く見ない方がいいわよ?」
『っ!?』
息が詰まった音がした。
まあ、確実に自分たちが狙っているものがバレたと知ったからだな。
さて、言いたい事も言い終わったし、キリトの方を見遣る。
「……で、どうするの?」
「……俺は、このまま菊岡さんと話を続けます。それが、きっと最善の筈です」
「……そう。じゃ、私は寝るわ。何かあったら、そこのクリスチャンに言えば対処してくれるから」
「はい! ありがとうございます、最高司祭様」
ゆったりと歩いて天蓋の中に入り、目を閉じた。
……はぁ〜。
……どうやったら、キリトに殺して貰えるんだろ。
◯ ✖️ △ ◆
sideキリト
暫く、俺は菊岡さんと話をしていた。
この世界で俺が現実世界の記憶を有している事はイレギュラーな状態で、本来なら記憶を制限されたままダイブさせていた筈だということだったり、六本木での三日間のダイブで、俺は十年間もルーリッドの村で過ごしていたこと。そしてその少年キリトの行動に感化されたアリスという少女が禁忌目録を犯し、ラースが回収する前に公理教会にフラクトライトを弄られてしまったことなどを……途中、気を利かせた元老長が椅子を用意してくれて、それに腰をかけながら。
一通り話し終えると、さしたる疑問もなくなったが、代わりにどっとした疲労が襲ってくる。元老長が淹れてくれたであろう、妙に美味いコヒル茶を飲み干してから、ちょっとした思い付きを口に出してみる。
「……これってビデオ通話的なのは出来るのか?」
『ああ。等倍なら可能だとも。……っと、それなら、彼女達を呼んでこなくちゃね。中西一尉、起こしてきて貰えるかい?』
『ええ、すぐに』
その言葉を聞いて、ぞわりと背中に何かが走った。
「彼女達……?」
『菊さん、内部カメラと接続出来たッスよ』
『お、気が利くね。よし、これでいける……』
カチッとボタンが押されると、スクリーンのSound only表示が変わって、眼鏡をかけた浴衣姿の胡散臭い男性……菊岡誠二郎の顔が映し出された。その隣の隅に、僅かに比嘉さんの姿も見える。
『ほう、ちゃんと見えるね……しかし、二年も経つと、女顔なキリト君もなかなか大人っぽいじゃないか』
女顔、と言われてちょっとイラッとした。
昔からのコンプレックスに言及されるのはなぁ……GGOの時はそれで助かったが。
「……これ、どういうシステムなんだ?」
『単純だよ。現代でも、データ上で本人の顔から未来や過去の自分の顔を予測するシミュレーションのソフトウェアなんて幾らでもあるだろう?』
「な、なるほどな……」
『ただ、精度は段違いだけどね。こっちで二十歳になれば、ほぼ間違いなくその顔になるよ』
「へ、へぇ〜……」
他愛もない話を繰り広げていると、菊岡さんが後ろに振り向いた。例の彼女達とやらかもしれない。
『じゃあ、僕は少し席を外すから、後は好きに喋ってほしい』
『あ、ボクもお暇させてもらうッスね〜』
二人がモニターの前から去って、数秒。
目の前に、ふわりと栗色の髪が舞って……
『キリトくん……キリトくんなの……?』
あれは────。
「……ぁ、アスナ……なのか……?」
『うん、うん……っ!! そうだよ、キリトくん!』
目の前の存在を認知した時、形容し難い激しい感情の濁流が自分をすっかり飲み干して、目頭が熱くなる。
「アスナ……アスナぁ……!!」
堪え切れず、名前を叫んだ。
その肌を直接感じることは出来なくて、その声に電子的なノイズが僅かに混じっていたとしても……
アスナが、そこに居た。
もう三年も会っていない、恋人の姿を見た。
何時とはなしに目尻から溢れ出た熱い雫がひたひたとキーボードに打ち付けられて、せっかく明日奈を映していた視界が滲んで見えなくなる。
「……ごめん……涙で全然見えない……!」
『私も……見えないよ、キリトくん……!』
何だかそれがおかしくて、変な笑いが飛び出た。明日奈もつられてか、その嗚咽の節々に笑いの勢いが混ざっている。
でも、何よりその時間が愛おしくて、拭ってはすぐに霞んでしまうその姿を、じっと目に焼きつける。
何せ、三年も会えていなかったのだ。アインクラッドで過ごした日々より、ずっと長く会えなかった。
アスナの事を思い出さない日は無かった……と言えば嘘になるが、枕を濡らしたのは一度や二度では済まない。
それが今、画面越しとは言え、目の前にいるという感動は、俺の涙腺を直に刺激して、一瞬にして溢れかえらせていた。
「……会えて、嬉しいよ、アスナ……!」
数分後、感極まった俺達が落ち着きを取り戻し、まともに話せるようになってから、俺はアスナから、とある意外な人物を紹介された。
「なっ……神代博士!?」
『久し振りね、桐ヶ谷くん。そっちでは元気かしら?』
メディキュボイドの設計を作った、神代凛子博士がそこに居た。
アスナ曰く、このラース本社──《オーシャン・タートル》なるメガフロートへアスナを手引きしてくれたのは彼女だったらしい。菊岡さんが彼女達と言っていた訳は、この事のようだ。
それから、諸々の事情を説明され、納得したところで一つ息をついて、元老長が用意してくれたコヒル茶をグビっと飲み干した。
「……つまり、この世界で生活することで、フラクトライトが活性化して、壊死してしまった脳のニューロンネットワークが再生する……って事でいいんですか?」
『菊岡さんはそう言ってたわ。私も正直、少し疑ってたけれど……こうしてキリトくんに会えてるから、大丈夫だと思う』
「ま、まあ、あの人は良くも悪くも、自分の信念は曲げそうに無いしなあ……」
先程まで熱い議論を交わしていたからか、胡散臭いイメージしかなかった彼の人となりの大部分が分かってきた。
『そう言えば、連れて行かれたアリスって子とは会ってるの? キリトくんが居るのも教会なんでしょ?』
「もう、結構な回数顔は合わせてますよ。ザ・女騎士って感じの、堅い人だけど、年頃の女の子っぽい所はある……っていう人ですね」
ケーキを食べてる時はまさにそれだなぁ、とポツリと漏らして、今度は俺がこの世界でどんな風に過ごしてきたかを語り始める。
「……この教会に入るには、人界で一番の剣士になる必要があったんですけど、その大会に、この世界で一番最初に会ったアンダーワールドの住人で、俺の親友で弟子のユージオと一緒に引き分けて優勝したんです────」
滔々と語る俺を、アスナや神代博士は嫌な顔一つせず、相槌を打ちながら聞いてくれる。それについ便乗してしまい、我を忘れて話し……実に三十分以上にも渡る壮大なストーリーを、遂に全部語ってしまった。
それを聞き終わると、アスナが感慨深そうにしていた。
『……ユージオくんかぁ。キリトくんがそんなに言うから、一度会ってみたくなっちゃった』
「それじゃあ、アスナもSTLでダイブすればいいだろ? ……あ、いや、冗談だけどさ」
アスナの言葉に、俺に恋人が居るって知ったら、ユージオはどんな顔するだろうか。
そう考えたが、すぐに頭から振り払った。
流石に、あのマシンにアスナを乗せたくはない。
原理も聞いているし、不確定要素が無いのは先の研究者達によって実証済みだ。
……それでも、これ以上アスナを巻き込んでしまうのは気が引けてしまう。そう思っての、冗談という言葉だったが。
『それ、いいわね!』
「……えぇっ!?」
まさかの賛成に、しまったと後悔しつつ、俺はかぶりを振ってそれを止めようと試みる。
「わ、わざわざアスナを巻き込むのは……」
『あら、それくらい良いんじゃない? こんな画面を介してじゃ、再会も少し冷たいでしょ?』
「こ、神代博士まで……で、でもですね」
『それとも、この世界で何かやましい事でもあったの?』
「な、無いですよそんなの!」
『じゃあ良いじゃない。桐ヶ谷くんだって、明日奈さんに直接会える方が、脳の再生が早くなるかも』
「……そ、そっすかね……」
割と流され始める自分を認識しつつも、博士の不思議な甘言が巧みに丸め込んでくる。
しかし、実際問題として、会うにしてもどうしたものかと思う。
カセドラルに部外者は入れられないし、俺はここから出られない。どこからのアプローチで対面が叶うのか……
うーむと考え始めた俺を見て、神代博士とアスナが苦笑する。
「そもそも、STLは使わせて貰える……のか?」
『そこに関しちゃ、問題ないッスよ』
会話を聞いていたのか、比嘉さんが俺の問いに割り込んできた。
『稼働中のSTLは、桐ヶ谷くんが使用しているアッパーの4号機の他にも5号機と、ロウワーの2号機、3号機がオーシャン・タートルに。後は、六本木の分室の方に試作1号機と最新型の6号機が設置されてるッスね』
「計6台も……そんなに必要なんですか?」
『う〜ん、最低でも4台あれば十分って認識ッスけど、多いに越したことは無いッスからねぇ。そもそも、STLの開発もまだ途上段階なもんで、これからも増えて、第13号機! とかも有り得るんス』
「へ、へぇ〜」
『なので、明日奈さんが桐ヶ谷くんと会いたければ、ハイレベルアカウントでダイブも可能ッスよ。どうするんスか?』
比嘉さんが問いを投げかけると、明日奈は「う〜ん」と渋い表情になった。
「もう深夜だし、安岐さんを起こすと迷惑ね。……ええと、明日でもいいですか?」
『オーケーッス。アンダーワールドがいま19時47分で、こっちが2時11分。時差は6時間と23分ッスね。時間の同期は後でやっておくッスから、桐ヶ谷は連絡が可能な時点で呼出を頼むッス』
「分かりました。ありがとうございます、比嘉さん」
『構わないッスよ。こちとら、ほぼ強制的に実験に協力させてる身なんスから。何か不備があるなら、何時でも連絡を下さいッス』
そう言って、比嘉さんはカメラの外へ出ていった。時折欠伸らしきものをしていたのを見るに、さすがに床に就きたいのだろう。
外に行った比嘉さんから目を外し、正面のアスナに目を合わせる。
「……また、明日会おうな。おやすみ」
『うん。おやすみ、キリトくん』
笑顔で挨拶を返されて、少し心臓が跳ね上がった。相変わらず、アスナの事となると途端に現金になってしまう。
「神代博士も、おやすみなさい。今度は、そっちで会いましょう」
『ええ。是非そうして頂戴ね。じゃあ、おやすみなさい』
神代博士が微笑みつつキーボードを操作し、プツリとモニターから映像が途絶えて、音が聞こえなくなる。そして、《Disconnection》の文字が表示された。
「……っつあー……」
座って凝っていた身体を解しながら立ち上がる。それを見ていたクリスチャンが、綺麗な所作でティーポットを片付け、椅子をフィンガースナップの音と共に消し去った。
「お疲れ様でした。話の限りでは、明日もご利用になるそうですね?」
「そ、そうなるかな……」
「私の方からクィネラ様に諮っておきましょう。では、お出口までご案内します」
その後、帰り道まで見送られて、九十五階の螺旋階段で別れると、自室に戻った。
◯ ✖️ △ ◆
「…………リト……キリトってば」
「……んん……?」
微かに開いた目に日光が入ってきて、意識が覚醒していく。
目をぱちぱちとさせて起き上がると、既に修道服に着替えたユージオの姿があった。
「ふぁぁ……おはよう、ユージオくん」
「おはよう。あと少しで八時になっちゃうから、早く支度してくれよ?」
「うげっ、完全に爆睡してたな……」
昨日は少し浮かれすぎていたのか、ケーキの試作中、ユージオにも「なんか悪だくみでも思いついたのかい?」なんて呆れ顔で指摘されるくらいだった。なので爆睡するのは仕方ないと言ってもいいと、心の中で弁解しておくと、いそいそと身支度を済ませる。
十階の《大食堂》まで降りて、飯にありついてから、トンボ帰りするように階段を駆け上がり、やがて五十一階、《第一修練場》まで登って、シェータ師範に出迎えられた。
「……素振り、1000回」
「「は、はい!」」
無表情でクールなイメージだが、意外と骨のある指導をさせてくる。刃のある鋼剣を振り、模擬戦で叩きのめされ、最後に鉄柱を斬る訓練をして、午前は一旦終わりとなる。
ここで昼休憩に入るが、俺は昼飯を食べる前に、シェータ師範の下へ行き、遠慮がちに話し掛ける。
「ええと、師範、午後の修練をお休みしてもいいですか?」
「……? 駄目」
「あーその……最高司祭様に呼ばれていて」
「……なら仕方ない」
最高司祭という言葉を出すだけでこの変わり身の早さなのだから、彼女の権威が如何程かが分かるというものだ。
この後の事を考えると、昼休憩の飯さえ惜しくなりそうになったが……流石にお腹が空いたので、いつもの倍以上のスピードで飯を腹に入れ、早足で階段を登り、エレベーターを使い、また階段を登り……
やっとの事で到着した百階で、アドミニストレータがコンソールを弄っている後ろ姿が見えた。
「そろそろ来ると思ったわ」
何かを打ち込み終わったアドミニストレータが、神妙な顔付きでこちらに振り返った。
「すぐこっちにいらっしゃい」
「は、はい」
どことなく険しげな表情と声音をしたアドミニストレータの方まで走ると、既にスクリーンに《Sound only》の文字が映っていた。しかし、何やら騒がしい。
『奴らめ、潜水艇を使って乗り込んできたのか』
『そうみたいッス。こっちには戦力という戦力は無いッスから、ここまで来るのも時間の問題かと……』
『そうなると、このメインコンとロウワーは棄てるしかないな……』
戦力……? 潜水艇で乗り込んできた……?
最悪な想像が頭を過ぎる。もし、何者かがSTLのテクノロジー、又は《A.L.I.C.E》の奪取の為に襲撃を仕掛けてきたとすればという、有り得なくない状況。
必然的に、俺やアスナ、神代博士、そしてこのアンダーワールドの住民が一挙に危機にさらされているということ。
『それに、隔壁のロックにも時間が掛かります。取り敢えず、FLAは上げないと……ああっ!? 通信、来てるッスよ!』
『確かにそんな時間だった……! キリト君、居るかい!?』
慌ただしい喧騒をバックに、菊岡さんの焦燥した声が大きく響いた。
「も、勿論……それより、そっちで何が起きてるんだ?」
『詳しい事はまだ分からない。でも言えるのは、このオーシャン・タートルに武装した部隊が乗り込んできている事だ。恐らくは、アメリカの差し金か……僕達の研究を奪いに来たんだろう』
「アスナと博士は大丈夫なのか!?」
『今、アッパーシャフトに避難させている。耐圧隔壁で閉じてしまえば、暫くの間は安全だろう』
そう菊岡さんは言っているが、その安全もいつまで続くか分かったものでは無い。
「自衛隊の援軍はないのか!?」
『真っ先に、護衛艦の『ながと』に連絡したとも。だが、どうやら横須賀からは現状の距離を保って待機と上層部の命令が出ていて、恐らくは半日か、一日か……それくらいは動く事はないだろうね』
援軍は期待出来ない。
そう言外に言われ、重々しい空気が立ち込める中、ふと、棒グラフが上下に動く。
『……僕はこれから、FLAを五千倍に引き上げる』
『なっ……正気ッスか!? それは《魂の寿命》を考慮した許容ラインを遥かに越えている!』
《魂の寿命》は、およそ百五十年。人間が生きられる年齢から考えても過剰なマージンのあるそれだが、STLで加速すればあっという間に無くなってしまうと言っていた。
でも、いくらFLAを加速したところで、それは何の解決にもならない。
『数十分なら魂寿命には問題ないはずだ! いいかい、キリト君。君は何もしなくていい。後は我々に任せて、治療に専念してくれ! それじゃあ────』
ブツッという耳障りなノイズと共に一方的に通信が切られてしまい、そこには虚しく《Disconnection》の文字が映し出されていた。
それを、ただ呆然と立ち尽くしながら見つめる。
これまで、俺は少なからず、目の前で何かがあれば何かしら動くという、ちょっとしたヒーロー気取りな行動ばかりして、色々な事態を乗り切ってきたのだ。
「……何もしなくていい、ねぇ」
アドミニストレータがぽつりと独り言ちた言葉に、またも胸が強く締め付けられていた。
目の前にあって目の前にない、しかも俺の力なんて到底及ぶべくもない純粋な暴力。
解っている。たとえリアルワールドに居たとしても、俺には何も出来ない。俺を
現実の俺は、軍人から見れば単なる庇護対象……一人のゲーマーな学生に過ぎない。
それは解っている。解っているのに……
「ま、いいわ。あの子が来れないのなら何も出来ないわね。キリトも帰っていいわよ」
そう無情に突き返す彼女の目には、どこか憐れみを含んでいたような気がして……
逃げ出すようにして百階を降り、自室に戻った。アスナと会う為に午後を休みにしたが、襲撃で有耶無耶になってしまったので、当然今も訓練を続けているユージオはここにはいない。
ベッドに倒れ込み、横になって蹲れば、暗闇が包み込んだ。
……俺は。
……俺は、無力だ。
どうすることも出来ない悔しさ、虚しさが支配する。
──おいおい、何を今更言っているんだ?
顔を上げれば、暗闇の中で《黒の剣士》が、俺を嘲笑っていた。
──
頭の片隅に追いやっていた記憶が蘇る。口が何かを言おうとして、しかし何も言えずに、わなわなと言葉を探して震えていた。
──《黒の剣士》でも《キリト》でもない、生身の体の
皮肉げな口調で告げられたその言葉は、自信を失った俺の心を凍てつかせるには、十分過ぎる程だった……
(つづく)