pixivでも投稿中です。

1 / 1
第1話

私は静かな足取りで廊下を歩いていた。

今日も寸分の狂いもなく到着。

清潔に保たれたこの空間には慣れそうにもない。

私は辿り着いた病室の扉を開くと、いつもどおりの静寂が出迎えてくれた。

かすかな空調の駆動音と、心電図モニターの奏でる電子音。それだけが、室内に無機質に響いている。

その中でトレーナーさんは、昨日と変わらぬ姿でベッドに横たわり、静かにまぶたを閉ざしていた。

まるで御伽噺に出てくるお姫様のように。

 

「夕方から、雪が降り出したんですよ」

 

眠る彼に声を掛けながら、私は病室に足を踏み入れる。溶けた雪で肩の辺りが少し湿ってしまったコートを脱ぎながら、ベッドのそばへと足早に歩み寄った。

 

「それで、電車が止まりまして······遅くなって、ごめんなさい」

 

窓のないこの部屋からは、真っ白に染まった街の姿を眺める事はできない。もっとも、雪は嫌いだから、その風景を見ずに済むのは少し安心するのだけれど──そんな事を考えながら、私は謝罪の言葉を紡ぐ。

 

けれど、彼は答えない。

 

『いらっしゃい』と私を歓迎する事もなく、『遅い』と私を咎める事もなく──ただ静かに、眠り続けていた。

 

 

☆☆☆☆☆

 

 

「もうすぐクリスマスですよ。ここに来る途中も、イルミネーションがいっぱいで······すごく綺麗でした」

 

ベッドのそばのパイプ椅子に腰を下ろし、眠る彼の顔をそっと覗き込む。

もともと短かった髪はすっかり伸びて、今や肩まで届くほどになっている。少し茶色がかった黒髪に縁取られた小さな顔は、心なしかいつもより血色が良いようだ──その事に少しだけほっとしながら、私は静かに語り掛けた。

 

「私達も昔、一緒に見に行きましたよね?あの時の事、まだ良く覚えてますよ」

 

それはもう、三年も前の事──けれど、イルミネーションを見上げて目を輝かせていた彼の綺麗な横顔や、寒空の下で繋いだ手の温かさは、今も昨日の事のように鮮明に思い出せる。

 

「そのあとは······『寒い寒い』って言いながら家に帰って、私の作ったケーキを食べましたよね」

 

幸せな思い出の残滓を探し求めるように、私は太い点滴が繋がれた彼の腕を、シーツの上からそっと持ち上げた。

 

両手で包みこんだ彼の手のひらは大きく、そしてひんやりと冷たかった。

 

その冷たさの中には、幸福な記憶の面影などどこにも見当たらない──そんな現実を突き付けられて、私の胸の奥がぎしぎしと嫌な音を立てて軋む。

 

「あの時のケーキ、美味しいって言ってくれましたよね。いつかまた、食べて欲しいです」

 

あの笑顔を、もう一度見たい。

 

私の作った甘くてふわふわのケーキを、また二人で一緒に食べたい。

 

もう何度祈ったか分からないそんな願いが、私の心を滅茶苦茶にかき乱した。

 

「ねえ······答えて下さい」

 

やせ細った手のひらを握る両手に力を込めながら、私はぽつりと懇願をこぼす。

 

その声は自分でも分かるほど、ひどくかすれ、震えていた。

 

けれど、彼は答えない。

 

『また一緒に食べよう』と微笑む事もなく、『相変わらず美味しいな』とはにかむ事もなく──ただ静かに、眠り続けていた。

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

彼の時間は、『あの日』からずっと止まっている。

 

楽しかったクリスマスの数日後に訪れた、大雪が街を真っ白に染めた『あの日』から、ずっと。

 

私の元に向かおうと、横断歩道を渡っている途中───無慈悲に飛び込んできた、信号無視のトラック。それが彼に、未だに覚める事のない、長い眠りをもたらした。

 

彼に関わった医者は皆、口を揃えて『目を覚ます可能性は低い』と言った。

 

──けれど······それでも。

 

私が彼を想い続ける事をやめなければ。彼を愛する事を諦めなければ、きっと。

 

彼はいつか必ず、目を覚ましてくれる。そして私を見つめて、「おはよう」と微笑んでくれる──それはまるで、地獄の底に垂らされた一本の蜘蛛の糸のように、淡く儚い希望だった。

 

──そして私は、今日もそんな願いに縋りついて。

 

真っ白な病室で、彼のそばに寄り添い続けている。

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

ふいに傍らに人の気配を感じて、私はいつの間にか伏せていた顔をゆっくりと持ち上げた。

 

巡回の看護師でも来たのかと思ったけれど、違った──振り返った私のそばに立っていたのは、白衣の看護師ではなく、くたびれたスーツを着た二人の男性。

 

その内の一人、年配の男の方が、ひどく疲れた顔をしながらゆっくりと口を開いた。

 

「────さん、ですね?」

 

静かな部屋の中だというのに、私は何故か、その声を上手く聞き取る事ができなかった。

 

しかし、彼らが何を問うて来たのかは、なんとなく分かったから──小さく頷き返すと、男は、ふ、と嘆息する。そして胸ポケットから黒い手帳を取り出すと、開いたそれを私の目の前に掲げてみせた。

 

「──警察です」

 

「──さんが殺害された件について、お尋ねしたい事が」

 

「お手数ですが、ご同行───」

 

再び掛けられた声は、やはり所々にひどいノイズが掛かったようになっていて、上手く聞き取る事ができない。

 

けれど、その切れ切れの言葉から、私は彼らがここに来た目的を理解する。

 

こんなに早く、私の元に辿り着くなんて。

 

やはりこの国の警察は優秀ですね──頭の片隅でそう考えながら、私は唇の端を歪めて笑った。

 

 

☆☆☆☆☆☆☆

 

 

彼の時間を止めたトラックの運転手が交通刑務所から出所したのは、一ヶ月と四日ほど前の事。

 

その男に、どうして会いに行こうと思ったのかは、自分でも良く分からない。彼に直接謝罪をして欲しいと思ったのかもしれないし、あるいは──彼が今も目覚めない事に、何か理由が欲しかったのかもしれない。

 

───けれど。

 

『三年も昔の事なんて、良く覚えていない』

 

へらへら笑いながら、男は軽薄に吐き捨てて。

 

法廷で見せていた反省の態度は、全て虚構だった。減刑させる為の演技だった。残酷な真実を突き付けられた瞬間──私の中で、何かが壊れた。

 

この男の運転するトラックが、幸福に、そして平穏に続くはずだった彼の時間を止めてしまった。

 

そして───彼に寄り添う私の時間も、あの日からずっと止まったまま。

 

それなのにどうして、この男の時間だけが、何事もなかったかのように動き続けているのか。

 

理不尽な現実を呪う私の元に──唐突に、天啓のように、答えが降って来たのは、その瞬間の事だった。

 

──ああ、そうなのですね。

 

この男が、動き続けるはずだった彼の時間を奪い、自分のものにしてしまったから。

 

だから彼の時は止まり、いつまで経っても眠りの中から抜け出せずにいるのか。

 

だったら話は簡単だ。

 

この男が奪い去った彼の時間。もう何年、何ヶ月なんて覚えていたくもない。それらを全て奪い返して、彼に返せばいい。

 

そうすればきっと、彼は目を覚ましてくれる。そして私を見て、あの頃と同じように微笑んでくれる──脳裏に色鮮やかに浮かび上がる、幸せに溢れた光景。それが私から、躊躇いを根こそぎ奪い去る。

 

「······Ich werde dir nie vergeben.Fahr zur Hölle!!(絶対に許さない。地獄に落ちろ)」

 

そうして、私は──この手で、全てを、成し遂げた。

 

私の手は紅に染まった。

 

それなのに──彼は今も、目覚めないまま。

 

止まった時間が、再び動き出す事はなかった。

 

私は自分を抱き締めて泣き叫ぶ事しか出来なかった。

 

☆☆☆☆☆☆☆

 

 

「······分かりました。行きます」

 

警察だって愚かではない。ここに来たのはきっと、何かしらの証拠を掴んだから──ゆえに抵抗は無意味と判断し、私は静かに頷いた。

 

最後に一度、しっかりと握り締めてから、彼の手をシーツの上に戻す。冷たい指を手放す瞬間、私の胸は名残惜しさにずきずきと痛んだ。

 

「ごめんなさい······少し、出掛けてきますね」

 

心を引き裂かれるような痛みに耐えながら、眠る彼にそっと囁きかける。

 

「必ず戻ってきますから。だから、ここで待ってて下さいね」

 

──それでも、彼は答えない。

 

『行ってらっしゃい』と見送る事もなく、『行かないで』と引き留める事もなく──ただ静かに、眠り続けていた。

 

「さようなら」

 

そんな彼に別れの言葉を告げて、私は椅子から立ち上がる。

 

「······愛してます······ずっと」

 

そして最後に、ぽつりとそう呟いて。

 

私は男達に従って、病室を後にした。 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

かすかな空調の駆動音と、心電図モニターの奏でる電子音だけが響く、無機質な病室の中。

 

寒々しいその空間で、一人の男性がベッドに身を横たえ、静かに双眸を閉ざしていた。

 

ふいに、そのまつげが小さく震えたかと思うと──重く閉ざされていた瞼が、ゆっくりと開かれて行く。

 

三年もの間一度も開く事のなかった瞳には、弱々しい蛍光灯の光でさえナイフのように鋭い。ひどく眩しそうに眉根を寄せながら、彼は眼球をせわしなく動かした。

 

やがて──自分が孤独である事を悟り、その真っ白な目尻から、一筋の涙が音もなく滑り落ちる。

 

「······なぁ······どこに、いるんだ······フラッシュ······」

 

乾ききってひび割れた唇の隙間からこぼれた声は、ひどくかすれ、震えていた。

 

けれど、彼に応える者は、もうここにはいない。

 

彼の望叶の声は誰の耳にも届く事なく、部屋の静寂に吸い込まれて行った。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。