幼少期の後に提督となる少年とたまたま出会った愛宕との十数年越しの物語です。
〇初出 「艦これ初恋合同(2020/8/16発行)」
※この作品は同人誌より再掲に際してPixivにも合わせて掲載しております。
あなたは自身の初恋のことは覚えているだろうか。
何歳の時? どんな場所で? 相手は?
そして、その恋の行く末は?
『――本日の番組のお便りテーマは「あなたの初恋物語」でございます。「初恋は得てして実らないもの」などとよく言われるものですが、本日はリスナーの皆さんの心の中に眠る初恋にまつわる甘酸っぱいエピソードをどしどしお送りください。メールの方は――』
「提督ぅ? ラジオばかり聞いてないでちゃ~んと書類片付けてくださいねぇ?」
意識が執務机に載せているラジオから流れてくる声によって引っ張られ始めたところで、不意に掛けられた声色に男がハッとする。
ここはとある辺境の地に設けられた泊地の司令部内執務室。提督と呼ばれた僕は机に積み上げられた書類の山から視線を逸らし、先ほどの声の主の方へと振り向いた。
「なぁ」
「なにかしら?」
「君はどう思う? その、『初恋は得てして実らない』とか、そういうの」
「――どうしたの急に」
「いや、深い意味はないんだけど、な?」
あまりに唐突だった話題にきょとんとした表情を雑誌の向こう側から覗かせる彼女の表情に、僕はバツが悪そうに頭を掻いた。
「それじゃあ、提督さんはどうだったのかしら? は・つ・こ・い、は♪」
読んでいた雑誌を机の上に置いて、僕の執務机に対して直角に置かれた秘書艦執務机に肘をついた彼女、重巡艦娘・愛宕がほんの少し悪戯な笑顔を投げかけてくる。
「――知ってるくせに」
僕はラジオに手を伸ばしてスイッチを切ると、ゆっくりと口を開いた。
「そうだな、あれは――」
そうこれは、『僕』の初恋物語。
◇
あれは幼稚園の、確か年少組の夏休み直前のことだった。
「みんなー、鎮守府の中に入ったら先生や案内の人の言うことを絶対守ってくださいねー!」
「はーーーーいっ!」
「中には危ない場所もあるから、絶対にひとりで勝手に動いちゃダメですよー?」
「はーーーーいっ!」
普段から乗り慣れている幼稚園の送迎バスの中で、担任の先生がそんな内容の注意をしきりに促していたあたりから記憶の再生は始まっている。
普段乗り慣れた送迎バスの車窓に映る、普段見慣れない海の風景。
夏本番一歩手前の陽光に照らされ輝く海色の美しさがやけに印象に残っていたことが思い出された。
この日は普段暮らす街の中心部に所在する対深海棲艦防衛の拠点・鎮守府内部を近隣自治体の幼稚園児に見学してもらい、国防への理解を深めてもらうための特別イベントに招待され、普段海などまるで無縁な田舎の街を抜け出して、一路鎮守府の所在する佐世保の中心街へ出かけていたのだった。
やがてバスは重厚な構えの門の前で一旦停車し、ゆっくりとした速度で鎮守府の敷地内へと進み、駐車場へと入っていった。先生に引率されてバスを降り、同じく招待された他の幼稚園の園児たちと共に列を作る。恐らく大淀であったであろう鎮守府の人の説明を聞いた後に、僕たちは見慣れぬ光景にきょろきょろとしながら『ちんじゅふたんけん』へと出発したのだった。
後に本当の『鎮守府探検』になることなど想像すらしないで。
僕たち園児一同は園ごとに列を作り、コースごとに分かれて順調に鎮守府の中を巡っていく。訓練場、装備工廠、入渠用ドックなどなど。見たことも聞いたこともない機械や道具がズラリと並ぶ光景に男子たちは目を輝かせ、艦娘たちの放つ華麗なオーラに女子たちは目を輝かせつつ、一行は司令官執務室へとたどり着いた。
「はい、くりのき幼稚園の皆さん、こんにちはー」
「こーんーにーちーはー!」
「私はこの佐世保鎮守府司令官の奥園といいます」
「しれーかんってことは、おくぞのさんがこのちんじゅふでいちばんえらいんですかぁ?」
子どもにも分かりやすい大げさ気味な身振り手振りを交えた自己紹介に早速園児の一人が聞きかじった知識を基に質問をぶつけていく。
「うーん、えらいというよりは、この鎮守府で働くみんながちゃんとお仕事ができて、皆さんを守るために戦えるようにしている人、かな? うーん、みんなの幼稚園で言ったら園長先生みたいな人、かなぁ?」
「じゃあしれーかんさんもいつもおへやの中でおちゃのんでるんですか?」
「――園長先生が聞いたらたぶん泣いちゃうと思うからそんなこと言っちゃダメだよ?」
引率の先生と艦娘が苦笑する中、司令官は説明を続ける。
「みんなも知っていると思うけど、今海には深海棲艦っていう怖くて危ない存在がたくさんいます。深海棲艦は海を走る船を襲って沈めたりすることもあります。ところで、今日はみんなどうやってここまで来ましたか?」
バスーッ! と思い思いに叫ぶ園児たちの回答を聞いたところで司令官は言葉を続ける。
「じゃあそのバスは何を使って走りますか?」
その質問に何人かの園児がガソリンッ! と得意げに答えた。
「そう、バスはガソリンがないと走れません。バスだけじゃなくて、この明かりも、テレビも、それに電車も工場も、ガソリンなどの石油がなくなると動かなくなってしまいます。そしてその石油は実は、私たちの住んでいる日本の中では採れないのでほとんどは外国から買って船に載せて持ってきています。じゃあもしその石油を載せた船が深海棲艦に襲われて日本に全然来れなくなってしまったら?」
「なくなっちゃう!」
「そう、そうなるとみんな困っちゃうよね? クルマも電車も動かなくなってしまうし電気も使えなくなってしまって、みんなが毎日使うものもほとんど使えなくなってしまいます。そんなことが起こらないように、深海棲艦から皆さんの安全と暮らしを守るために艦娘たちは毎日海を見回って戦っているんですよ。そして私はそんな艦娘たちにこの部屋からここに行ってね、と指示を出したりするのがお仕事です」
その説明に僕も含めて誰もが尊敬の眼差しを送っていたと思う。少なくとも僕はそうだった。
「この後艦娘の皆さんに普段海の上でどのように戦っているのか実際に海の上で実演をしてもらいます。今日は艦娘たちのことをよーくお勉強して帰ってくださいね」
「はーーーい」
僕たちは返事をしつつ、司令官の言葉にあった『艦娘の実演』という言葉に胸を躍らせつつ、先生に促されてゾロゾロと司令官執務室を後にする。
その時の僕は想像もしていなかった。
この時まさに胸を躍らせるこのドキドキが、全く別のモノに変わってしまうことなど……。
◇
司令官執務室を出ると、僕は列の一番後ろの方に連なり歩きはじめた。廊下を進みはじめて数歩も行かないうちに、それは唐突に僕を急襲してきたのだった。
ぎゅるぎゅるぎゅるぅ……!
尋常ではない音をお腹から響かせた僕は慌ててお尻を抑えた。
僕は生まれつき少しばかり胃腸が弱い。故に外出時には両親がトイレの場所を常に気にしていたくらいだ。
そして今、そのか弱い胃腸が僕に奇襲攻撃をしかけてきたのだ。
『も、もれ、る……ッ!』
『トイレ!』そう一言口にすることくらいなんてことないような気がするのだが、それはもう少し歳を重ねてからのお話。当時の僕にとってはそれは何故かとても恥ずかしい一言であり、一方胃腸からの攻撃に僕は刻一刻と持ちこたえられないところまで攻め込まれつつあったのだ。
僕は周囲を慌てて見回すも、その視界の中にトイレのマークは見当たらない。
一歩、また一歩と背後に迫ってくる限界阻止線。もうダメだ……ッ、そんな言葉がよぎった次の瞬間、廊下の分岐点のその先に小さく、しかし希望の印が視界の中に飛び込んできた。
その希望の印を目指して僕は明らかに内股な危ういステップで一目散に駆け寄り扉を押し開ける。個室のカギを閉めるのももどかしく思いつつようやく腰を降ろした直後、これまで守り続けていた限界阻止線へ『撤退』の指令が飛ぶ。
そう、僕の『戦い』は無事終わったのだ。
僕は個室の中でホッと一息ついていた。
この後の『探検』のことなど一切考えることなく。
『戦い』を終え手を洗いトイレの外へ出た僕は、先ほど通っていたであろう廊下へと戻ってきた。しかし当然ながら、
「あれ? 先生は? みんなは?」
緊急事態に陥っていることなど露とも知らない一行はすでにどこかへ歩き去ってしまった後だった。前後左右を見渡すも、
「誰も、いない……!」
ここに至って僕はようやく自分の置かれたマズい状況に気が付いて慌てて廊下を駆けだした。しかし何棟もの建物の増改築によって複雑に繋がりあった鎮守府の廊下が僕の幼い方向感覚を狂わせるのにさほど時間は掛からなかった。前後左右どちらを見回しても見えるのはつい先ほど見かけたような同じ風景。
「どうしよう……」
勝手にひとりこの場に放り出されたような気分になった僕が絶望的な表情を浮かべていたその時、
「あらぁ? ぼく、ひとり?」
背後から聞き慣れない、しかし不安で縮み上がった心を温かく包み込んでくれるような優しい声色が聞こえてきた。そこに立っていたのは、肩よりも長いキラキラと輝く金髪を窓から流れ込んでくる風に靡かせた、青い制服を身にまとったひとりの容姿端麗な女性だった。
「――だれ?」
「私は愛宕、覚えてくださいね♪」
僕の端的な質問に愛宕と名乗った彼女はゆっくりとしゃがみ込んで僕と目線の高さを合わせるとうふふ、と微笑んだ。目の前に並ぶその碧眼の美しさは、絶望的だった当時の心境の中でも強く印象に残るほどだったことを、今でも覚えている。
「――あたご、おねえちゃんって、かんむすさん?」
「うふふ♪ そうよ~、私艦娘なの♪」
彼女のそんな優しい声色が、つい先ほど司令官が伝えようとしていたことを思い出させた。
艦娘は、僕たちを守ってくれる存在だ、と。
その瞬間、無条件に自分は彼女に対して安心感を抱いていた。
よかった、これでみんなのところに帰れる、と。
「ところでぼく、お名前は?」
「――はじめ。くどうはじめ」
「はじめくんね♪ もしかして、今日鎮守府の見学に来た幼稚園の子かしら?」
彼女の質問に僕は黙って頷いた。
「急にと、トイレいきたくなって、いそいでトイレにはいって、出たら、だれもいなくなってて……」
今にも零れ落ちそうな涙をこらえて僕は必死に彼女に説明する。流石に今はトイレのことが恥ずかしいなんて言っていられない。この人に助けてもらえなかったら、もしかしたらみんなのところに帰れないかもしれない。幼いながらの焦燥感に駆られ、僕は彼女に助けを求めたのだった。
「そうだったのね。じゃあ、私が一緒に先生やお友達がどこに行ったか探してあげるわ♪」
そう言って彼女は僕に黒い手袋をした手を差し出した。僕が恐る恐る掴んだその手をしっかりと握ると、彼女はすっと立ち上がり、どこに続くかわからない廊下を歩き始めたのだった。
◇
「はじめくん、今いくつかしら?」
「よんさい……」
「どこの幼稚園に通っているの?」
「くりのき幼稚園……」
「クラスは何組かしら?」
「さくら組……」
手を引く彼女の質問にぶっきらぼうに答えつつ、愛宕旗艦の『まいご艦隊』は迷路のような鎮守府の中を単横陣で進んでいく。しかし、歩けど歩けど見えてくるのは何か所も分岐していく廊下ばかり。ほんのわずかに心配な心持が目を出しそうになったその直後、
「お、愛宕姉何してんだ?」
突然廊下の曲がり角からもうひとりの見知らぬ他人が姿を現した。
「あら摩耶ちゃ~ん♪ そうだ摩耶ちゃん、今日の鎮守府見学の幼稚園の子たちって今どこにいるか知らないかしら?」
「うーん、あたしも今遠征から帰ってきたところだから知らねぇなぁ……。お、お前どうしたんだ? 迷子か?」
摩耶と呼ばれたボブヘアの女性が僕の前にかがみこむと、ちょっぴり意地悪気な笑顔を浮かべつつ頭をポンポンと叩いた。
「ま、まいごじゃないもん!」
「そっかそっか、まっ、迷子になった奴は大抵『迷子じゃない』って言うんだよな~」
「まいごじゃないもんっ!」
「もう摩耶ちゃん、はじめくんにいじわるしちゃダメよ~」
何故か自身が迷子になっていることをどうにも認められない僕がムキになって言い返したところで、彼女がスッと身を屈めると僕の身体を守るように抱きしめた。抱き寄せられた肩に当たったその胸の柔らかさは、四歳の頃の記憶とは思えないほど妙に生々しく今も残っている。
「――ところで愛宕姉は今日非番?」
「そうよー♪」
「んじゃ悪いけど愛宕姉ひとりでその子頼むぜ、あたし提督に呼び出し喰らってるからさー」
「あら、今度はどんなヤンチャしたのかしら~♪」
「ちげーよ遠征時に遭遇した深海棲艦について報告あんの! 真面目なヤツ!」
「あらーそうなのねーうふふ♪」
「ゼッテー信用してねーだろその口ぶり! とにかく、ちゃんと連れてけよ。じゃあな! もう迷子になるなよッ!」
「まいごじゃないもんッ!」
最後まで迷子として扱ったところで去っていく摩耶に、僕は最後まで意地を張り続けていたのだった。
「庁舎の中をここまで探して見当たらないなら、みんな岸壁の方に出たのかしらねぇ」
摩耶と別れてから程なくして、まいご艦隊は庁舎の出口から外へと躍り出た。ふたりに降り注ぐ夏の日差しに一瞬目を細めたその時、
「あら、もうそんな時期なのね♪」
愛宕が突然声を上げた。その声のほうへ僕は細めた目を向けた。そこには青空に向かって伸びる一本の木と、その枝に開くいくつかの白い花弁の姿があった。
「なに、これ?」
「これはね、夏椿ってお花よ。いつもこの時期の朝になるとこんな白いお花が咲いて、でもその日の夕方になったら散ってしまうのよ」
彼女の差す指の先で、新緑に映える白い清楚な花弁がゆったりと夏の風に揺られていた。
「夏椿の花言葉は『はかない美しさ』『愛らしさ』。そして、私の『艦』としての誕生花――」
「たんじょう、か?」
優しく揺れる白い花弁を穏やかな表情で見つめる彼女に僕はそう問いかけた。
「みんな誕生日があるわよね? その誕生日ごとに『この日はこのお花』って決まったお花があるのよ♪ はじめくんは今は、そういうものがあるって覚えておいていればいいわ♪」
彼女はそう説明すると、再び僕の手を引いて歩き始めた。
恐らくこの時だったのだろうと思う。僕が誕生花というものを意識するようになったのは。
◇
「ねぇ、あたごおねえちゃん」
「なにかしら?」
「しれーかんさんって、すごい人?」
夏椿の木の下を離れてしばらくしたところで、僕は突然彼女に質問を投げかけた。
「そうねぇ……、ちょ~っと甘えん坊さんなところはあるけど、でも私たちのことをちゃんと考えてくれる『いい人』だと思うわ」
唐突に投げかけられた質問に彼女は一瞬戸惑うも、彼女は顎に手を添え思考する仕草を暫し見せるとこう返した。
「じゃあしれーかんさんって『すごい人』じゃないの?」
「すごい人……、とはちょっと違うかもしれないわねぇ、よく妙高ちゃんや神通ちゃん、それに大淀ちゃんにも怒られてるし、佐渡ちゃんのいたずらにはいつも無防備だし……」
そういいつつ彼女は静かに笑った。
「じゃあ、いつか僕が『すごいしれーかん』になったらぼくのところに来てくれる?」
「あら、はじめくん、提督になりたいの?」
彼女の優しい問いかけに僕は力強く頷く。
「――そうねぇ、はじめくんが大きくなった時にまだ深海棲艦との戦いが続いていて、はじめくんがすごーい提督になれたら、あなたの指揮下に入ろうかしら? うふふ♪」
僕の唐突な宣言にも動ずることなく、彼女は再び目線を僕と合わせるとそんな返答を返したのだった。
「あっ、はじめくん!」
「あの子ですか!?」
直後、僕の背後から聞き慣れた声が自分の名前を呼ぶのが耳に入った。振り返るとそこには、いつも幼稚園で顔を合わせる先生の心配そうな表情と、先ほどから僕たちを案内していた女性の姿があった。
「よかった……、怪我はないわね?」
駆け寄ってきた先生が僕を抱きしめ、何事もないかを確かめる。先ほど摩耶に対しては『迷子じゃない』と頑固に主張し続けていた身ではあったが、流石にこの状況ではバツが悪く、僕は先生の問いに黙って頷くことしかできなかった。
「もう心配したじゃない……!」
「――ごめんなさい」
「急にトイレに行きたくなってトイレに駆け込んだらはぐれてしまったみたいです」
「そうだったのですか……、ご迷惑をおかけして本当に申し訳ございませんでした」
「いいんですよ♪ 先生が見つかってよかったです♪ はじめくん、ちゃんと『ごめんなさい』って言えたわね、えらいわ♪」
何度も何度も頭を下げる先生に気にしないようにと恐縮していた愛宕がこちらに視線を向けると、その手袋に包まれた手が優しく僕の頭を撫でた。
「――あ、そうだ愛宕さん!」
「あら大淀、どうしたのかしら?」
「実はこれから披露する模擬観艦式に参加予定だった摩耶さんと鳥海さんが揃って遠征先で目撃した深海棲艦の偵察のために出撃することになって、非番のところ申し訳ないのですが、愛宕さん、高雄さんと一緒に参加してもらってもいいでしょうか?」
「あらー、摩耶ちゃんも鳥海ちゃんも大変ねぇ。いいわ、今から準備するわ♪ じゃあねはじめくん、私も模擬観艦式に参加するから、私のかっこいいところ、見ててちょうだいね♪」
愛宕はそう言い残すと、大淀と呼ばれた女性と共にあっという間に姿を消したのだった。
「ぱんぱかぱーん! 喰らいなさーい!」
彼女と別れてからしばらくの後、僕はようやく合流した同級生たちと共に、鎮守府沖に遊弋する小型船の甲板の上にいた。同級生たちと共に注ぐその視線の先、そこには先ほどまで僕の手を優しく引いてくれていた愛宕の姿があった。先ほどは背負っていなかった武骨な艤装を身に纏い、よく似た制服を着た姉妹艦の高雄と共に水面に立つ彼女が手を振り上げる。同時に背負った艤装の砲塔がその腕の指し示す方向へ稼働し、直後大きな衝撃と共に紅蓮の砲火の花を開かせた。旗艦の指示に沿って彼女は水面を華麗に舞い滑り、そして砲火の花を咲かせていく。
地上で見たあの優しい姿とは違う、勇敢で力強いその所作。
そのコントラストは、僕の心に愛宕という存在を強く刻み込むためには、十分すぎるほどの強いインパクトを僕に残していったのだった。
あれから月日は流れ、幼稚園児だった僕も気が付けばもう高校生となっていた。もう十分にひとりで出歩けるようになった僕はあれから何度も鎮守府近くの中心街まで遊びに行くようになり、そこでは時折休日を満喫しているのであろう艦娘の姿を見かけることもあった。しかしあの日以降、鎮守府の中で迷った僕の手を引いて声を掛けつつ一歩先を歩き、僕を連れたその手で勇敢に砲撃を操った彼女の姿を目にする機会は、二度と訪れることはなかった。
まぁ、あの感情を初恋と言っていいものか少々見当が付かないが、仮にそうだとすれば『初恋は実らないもの』というものが定説とも言う。そもそも表に出した自覚もない幼き日の初めての片恋など実るはずもなかった。
恋心などという概念など知るはずもない当時の僕が、やがて年相応の恋愛認識を得るまでに、さほどの時間は掛からなかった。
そして高校の校門をくぐる年頃にもなれば、あの時の淡い感情の記憶も心奥深くに仕舞いこまれ、僕は新たなる恋をして、そして破れてまた恋しという経験をいくつか繰り返していった。
そんな高校での慌ただしい月日も瞬く間に流れ、高校を卒業した僕はひとり故郷を旅立った。
あの時彼女が見せた優しい笑顔の残像と『あなたの指揮下に入ろうかしら』という言葉だけをかすかに胸に抱いたままに。
「司令官、吹雪です!」
遠征任務を終えた旗艦から提出された報告書に目を通していた僕の耳に聞き慣れた元気な声が届く。
「入ってー」
僕は報告書に視線を落としたまま入室を促すと、残りわずかとなった報告書の文面に意識を戻していった。
「お疲れ様です司令官! 先ほど佐世保鎮守府から連絡が入りました。先日報告のあった増員艦娘の第一陣として、愛宕さんがこちらに向かって出発したとのことでした」
報告書を一通り読み終え視線を上げたのを見計らい、この泊地で僕の秘書艦を務めてくれている吹雪がいつも通りはきはきとした声で報告する。
「おぉそうか。――ん? 総司令部からの報告だと着任は来週だと聞いたが、少し出発が早すぎないか? 今佐世保を出発すれば今週中には着くぞ?」
「佐世保鎮守府の司令官さんからは、『当初の予定より早くそちらに送り出せそうな目途が立ったのでもうそちらに送り出すからよろしく』とのことでした!」
「そんなよろしくって……、彼女だって転居の準備とか色々あるだろうに……」
吹雪から受けた報告に耳を傾けつつ、僕は佐世保鎮守府の司令官が無線を受けた吹雪へ伝えた伝言に苦笑せざるを得なかった。
「というか吹雪、どうしたんだそんなニヤニヤ笑って。――というかこの前増員艦娘のリスト渡すときも妙にニヤニヤ笑ってたよな? なぁなんだ? 吹雪お前一体何を隠してるんだ?」
「な、なんでもないです! なんでもないですって!」
「ウソつけお前が何か隠し事してるときは大抵顔に出るんだよ! そして今のお前の顔はまさに何か隠し事してるときの顔だぞ! 吐けっ! 吐いて楽になれっ!」
「美味しいカツ丼出してくれますかッ!」
「あのなぁ、現実の取調室じゃカツ丼なんて出ないんだよぉおら吐け吐けぇ!」
吹雪のこの何とも言えない絶妙に軽快なノリに釣られて、僕もついつい彼女のペースに乗せられてしまう。
「ホントにっ、ホントになんでもないんですっ! ただっ!」
「――ただなんだ?」
「実戦経験豊富で優秀な艦娘の皆さんを配属させてくれるほど、司令官もこの泊地も総司令部から信頼してもらえるようになったんだなぁって思って、それはとても嬉しいことだな、って」
吹雪の口から出てきた予想外の言葉に、僕は驚き半分、呆け半分といった表情を向けてしまった。
「――いやそれ、『おめーの泊地戦力不足だから即戦力送り込むわ』って言われてるってことじゃねーか?」
「司令官、物は言いようです!」
「お、おぉ……。ま、まぁ現状戦力不足なのは事実だからなぁ」
「みんなで一緒に頑張りましょう! 司令官っ!」
屈託のない笑顔を浮かべる吹雪はそういうとこちらに向けて握りこぶしを作ってみせたのだった。
幼少期のあの時遭遇した鎮守府での出来事によって芽生えた淡い感情は胸の奥に記憶として仕舞い込まれたものの、司令官になる、という想いとその想いを抱くに至った情景だけはなぜか仕舞いこまれることなく、小学生、中学生、そして高校生になるまで僕の心の中心に嵌めこまれ続けていた。
そんな中膠着し続ける深海棲艦との攻防の果てに、本土よりさらに先の地域と海域の防衛の役割を担う必要に迫られたこの国は、民間から広く司令官としての適性を持つ人材を集め、集中的な専門教育の上で新規開設の泊地の司令官に据えることを決定し、高校を卒業した僕はひとり故郷を離れ、横須賀にある海軍の『司令官養成課程』の門を叩いた。
厳しい教育を終えて着任した僕を待っていてくれたのは、ほぼ無人島に近い小さな島に開設されたばかりの小さな泊地施設と、そこで僕の着任を待ち構えていた『初期艦』吹雪の姿だった。
こうして教育を受けたとはいえまだ右も左も分からない新米司令官と、先ほどのような妙に人懐っこくノリの明るい駆逐艦娘との二人三脚による司令官キャリアが始まった。右往左往四苦八苦の毎日をふたりでノリよく乗り越えながら、今ではようやく艦隊を構成する艦娘の数も増えはじめ賑やかさというものが生まれ始める、そんな段階までやってきたのだった。
そんな中での総司令部から受領した経験豊富な艦娘の転配増員の通達。即戦力が喉から手が出るほど欲しい立場としてありがたさ半分、本土の経験豊富・百戦錬磨な面々の中から外れ、良くも悪くもユルいこの辺境の泊地に着任することに不満を抱いていたりしないかと心配半分、そのような心持で転配予定の艦娘リストに目を通した僕は、そのうちのひとつである重巡艦娘・愛宕の現所属鎮守府の表記に目が留まった。
「佐世保鎮守府、かぁ……」
佐世保鎮守府、そこは僕があの時初めて足を踏み入れた鎮守府。そして『彼女』と出会い今に至るきっかけが生まれた縁深き場所。
「まさか……、いや、まさかな」
もしかすると。いや、いくらなんでもそんな出来た話があるだろうか。
相反する感情がごちゃ混ぜになりつつも、すぐに『ある艦娘が転配で鎮守府を去った後に、同一艦名だが全く別の艦娘としての生い立ちを持つ別人の艦娘が配属になった』という事例があることを思い出した僕は、そんな感情を丁寧に胸の奥に仕舞いつつ、いつも通り司令官としての執務に励み。
そして、その日はやってきた。
「そろそろ夏も本番かぁ……」
その日の朝、僕は珍しく朝から泊地内の散歩に出かけようとしていた。簡素な作りである泊地庁舎の玄関から外に出ると、早くも空に昇り燦々とこの地を照らす陽光が夏の到来を感じさせてくる。空を見上げた僕の視線の先に、軒先に植わった一本の樹木の枝先に咲く花のシルエットが飛び込んでくる。
「この花って……」
「これはね、夏椿ってお花よ。いつもこの時期の朝になるとこんな白いお花が咲いて、でもその日の夕方になったら散ってしまうのよ」
ふと無意識のうちにこぼした何気ない一言に、どこか聞き覚えのある声色が、どこか聞き覚えのある答えを紡いでいく。
「夏椿の花言葉は『はかない美しさ』『愛らしさ』。そして、私の『艦』としての誕生花」
僕にはもう、振り返る以外の選択肢は存在しなかった。ゆっくりと、まるで一秒が何十倍、何百倍に引き伸ばされたかのように景色が視界を流れていく。そして視界の中に、
『彼女』が立っていた。
「久しぶりね、くどうはじめくん、ううん、『すごいしれーかん』さん♪」
そう言って、愛宕はあの時と同じ優しげな笑顔を浮かべた。
「――君は本当に、あの時の愛宕……、なのか?」
僕は知っている。艦娘が艦娘として生きている間は、例え幾年も月日が流れようとその姿は変わることはないということを。それ故にその容貌に似合わぬほどに様々な出来事を見届けてきた艦娘が存在するということを。
僕は知っている、それでも――。
「まだあなたが『すごいしれーかん』になれたかは分からないけれど、私、こう見えて約束はちゃんと守るタイプなの、だからあなたが提督になったって聞いて、佐世保鎮守府の提督にお願いしてここに来ちゃったの、うふふ♪」
「――もしかして、覚えてたの?」
「じゃあ逆に訊くけれど、提督は忘れてたの? あの時の約束」
愛宕があの時摩耶に見せたようないたずらっ子のような表情を垣間見せつつ意地悪に訊ねてきた。
「そういうわけじゃ、ないけれど……」
「うふふ♪ ならよかったわ♪」
そういうと愛宕はまた明るく笑った。
「じ、実は、その……」
彼女が作り出す空気に呑み込まれ、僕の口が勝手に開いていた。
「なにかしら♪」
何気ない彼女の仕草が、何気ない笑顔が、僕をあの時と全く同じ空気感の中に包み込んでいく。
僕は意を決して口を開き、言葉を紡ぎ出した。
「は、初恋ってさ、実らないのが定番って、言うよね?」
「そういうことを言う人もいるわねぇ」
「その恋心を抱いた時にさ、その想いを口にできなくて、そのままその想いだけを胸の奥に仕舞ったままでいて」
「うんうん」
「それから何年も経ってからその相手に出会えて、その想いを相手に届けて」
「届けて?」
「――その思いを相手が受け止めてくれたら、それって、初恋が実ったってことに、なるのかな……?」
僕は彼女の正面をまっすぐ捉え続けながら、思いの丈をどうにか紡ぎ出した。
「そうね――」
その言葉を正面から受け止めた彼女が、一時の間を置いてほんの少し考え事をするような仕草を見せ、
「世の中、何事も例外はあると思うわ、もちろん、初恋についても、ね♪」
そういうと彼女は飛び切りの優しい笑顔を浮かべてみせた。
太陽は刻一刻と高度を上げ、夏の日差しを余すところなく注ぎ続けている。
でも今僕を包むこの熱量はきっと、太陽のせいじゃない。
きっと、そうに違いなかった。