良かったらそちらも。
とある日の夕刻。
幻想的な黄昏の陽の下に、人々は今日を終える事への労いと感謝に包まれる頃。
私は少し緊張した面持ちで、とある部屋の扉の前に立っていた。
よし、約束より10分前ですね。
私は腕時計を確認し、計画通りに進んだ事に安堵する。
でも、少し急いで来たから身だしなみを整えた方が良いかもしれない。
私はそう思い立つと、黒のハンドバッグから手鏡を取り出し少し念入りに整えていく。
でも、何故か一度終えてから見直すと気になる箇所が出て何度か同じ事を繰り返してしまった。
やっと満足いく結果になると、バッグに手鏡を戻して腕時計を再度見る。
少し手間取った弊害で、あと二分で約束の刻限に差し掛かろうとしていた。
······でも、やっぱり少し気になる。
私はもう一度整えようか悩むと、もう時間が迫っている事を言い訳にして気にしないようにした。
後ろ髪を引かれる思いだったけど、仕方ない。
······やっぱり緊張します。
前もそうだった。
スマートファルコンさんや友達と遊びに行く際には寸分違わぬ計画通りに進むのに、彼と逢う時は何故かいつもギリギリになってしまう。
私が私で居られなくなるみたいに。
少し胸が高鳴っていた。心地よい温かさだ。
私はこほんと咳をすると、扉横に備え付けられたインターホンの呼び鈴をゆっくり押した。
扉の奥から家主を呼ぶ音が数回鳴り、誰かが歩いてくる足音が少し聞こえてきた。
私はさっきより高鳴る胸に手を当てて軽く深呼吸する。少し落ち着いたような気がした。
「お、フラッシュか。さぁ上がってくれ」
扉が奏でる軋音と共に、今日の約束相手が姿を現した。
短い黒髪に、少し童顔な顔、私より少し高い背。そして、私を歓迎するかのような満面の笑顔。
部屋着だからだろうか、Tシャツにジーパンというラフな格好。
少し着崩しているけど、相変わらずかっこいい。
「はい、お邪魔しますね」
私は会釈をして、トレーナーさんに促されるまま扉の内に身を滑らせた。
私の胸は、深呼吸をした事すら忘却の彼方に置き去り。
尚、高まり続けるのだった。
☆☆☆☆☆☆☆☆
私はトレセン学園を卒業して、早三年が経過していた。
最初の頃は、私にとってアイデンティティであった『走る事』を捨て去るのは困惑しなかった、と言えば嘘になる。
だって、無意識に呼吸をする事に対して誰も考えないのと同じで。
私にとって『走る事』は、それ位日常の一部だったからだ。
それが在って当たり前、むしろそれが欠落するなんて有り得ない。
だからそれが無い日々というのは少し寂しくも感じたし、何でその穴を埋めればいいか解らずにいた。
ただ私にとって不幸中の幸いだったのが、私は両親の家業を継ぐという夢がある事だった。
すなわち『マイスターになる』という事だ。
両親の様な、正確無比な腕とそれに込める生業に対する飽くなき熱意、そして食してもらう方々に対する返礼とも言うべき溢れんばかりの愛情。
それらを備える完璧なマイスターとなる。
私の幼い頃からの夢が、その欠落を埋めるには最適だったからだ。
私は卒業後、祖国に帰国して今後どうするべきかを両親と相談した。
私がURAファイナルズ後に帰国した際に顔合わせをさせたトレーナーさんを好きな事、でもマイスターの道は諦めていない事。
その結果父からは「日本に知人がいるからそこで修行積みなさい。いつかフラッシュが慕っている彼を婚約者として連れて来なさい。楽しみにしているから」と言われて、今に至る。
あれから数年。私達の関係性に変化は無かった。本当に申し訳ない気持ちで一杯だった。
でも、学園在籍時周りを気にしなければならなかった点が除外されたのは大きかったと思う。
そのおかげで彼と色々な場所に行くことが出来たから。
彼と過ごす時間は本当に幸せだった。
私なんかがこんなんに幸せでいいんだろうか、と思う時もあったくらいだ。
ただ、そんな安寧を過ごす内に私の胸の内に秘めた恋心はどんどん強まっていった。
一緒に歩いている時、他のウマ娘に目を移されるだけでどうしようもなく苛立ったりもした。
男性の本能がそうさせているのは理解してる。でも、嫌で堪らなかった。
だから私は、彼を私のモノにしようと色々計画をした。
その最終段階が「彼の自宅で一緒にお酒を飲む事」だった。
お酒は普段隠している本音を引き出しやすくなる。恋情も、欲情も、何もかも。
その恩恵を背に受けて、今日決める。
──今日絶対に彼を落として、近日中に両親に『婚約者』として連れていく。
少し前を歩く彼の背中を見つめながら、私は胸の中で拳を握りしめた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆
誤算だった。
こんな大誤算があっていいのだろうか。
事前にリサーチするのを失念していた。
私は目の前で早くも潰れている彼を見て、頭を抱えたくなった。
彼はお酒が物凄く弱かった。
缶ビールで乾杯したまでは良かった。そこまでは良かった。
でも、一本目で潰れていた。
お酒弱いのは可愛いと思いますけど、私はどうしたら······
私は缶ビールに口をつけながら、混乱していた。
これは計画に無い。こんなの予想出来る訳がない。
予定では私が先に潰されて、そのまま身体に寄りかかって良い雰囲気作る予定だったのに。
当の私は酔ってすらいなかった。
三本目を開けて、少しずつ喉に流し込んでいるけど、全然酔いそうにない。
そう言えば、私の両親もお酒は強かった。
父は酒豪と言ってもいい位だった。
私のお酒の強さは、両親からの遺伝なんだろうと諦念混じりに思う。
物凄く溜息をつきたくなった。
「フラッシュー」
「はい、どうしましたか?」
「膝枕してくれー」
「え!?」
今何と言ったのでしょうか?
思った以上に私も酔っていたんでしょうか。
「膝枕ー」
「え!?と、トレーナーさん!?」
彼は四つん這いのまま、私の元まで近寄ると私の許可も得ずに私の太ももに頭を載せた。
数秒間、何が起きたのか解らなかった。
だって仕方ないじゃないか。
長年彼と一緒に過ごしてきたが、こんな事初めてだったのだから。
「うわー、寝心地いいなー」
私の太ももに頬を擦り付ける彼。
どことなく幸せそうな表情だ。
私は自然と顔が綻んだ。
こんな無邪気な顔を見せられたら、苦言を呈する気も失せてしまう。
私は彼の頭をゆっくり撫でていると、すぐに寝息を立てて夢の世界に旅立ってしまった。
本当に可愛くて仕方ない。
何でこんなに可愛いんだろう。
私は彼の頭を撫でながら、次の代替プランをゆっくり練るのだった。