今さら謝って泣きついてきてももう遅い! 私は”真実の愛”に目覚めたの!! これからは彼とともに幸せな人生を歩む!!!   作:スポポポーイ

1 / 2
今さら謝って泣きついてきてももう遅い! 私は”真実の愛”に目覚めたの!! これからは彼とともに幸せな人生を歩む!!!

 宮廷のダンスホールを思わせる学園の一室に、王子の断罪するような台詞が響き渡る。

 

 

「ミコト、キミとの婚約関係は破棄する!!!」

 

 

 念のために言っておくけど、別にここはゲームやアニメの世界でもなければ、もちろん中世ヨーロッパ風の異世界でもない。

 現代日本のとある私立高校の教室で、今は文化祭の真っ最中だ。

 

「……王子(おうじ)さん。本気ですの?」

 

 ちなみにこれはクラスの出し物の演劇という訳ではない。

 ウチのクラスは確かに異世界をコンセプトにしているが、あくまで『異世界風喫茶』という要はコスプレ喫茶である。

 

 つまり、これは演技でも余興でもなんでもなく、不測の事態ということ。

 演劇ではない。繰り返す、これは演劇ではない。

 

「ああ、もちろん本気だ。これ以上、キミの彼女に対する横暴な振る舞いを看過することはできないっ」

 

 我が学園一のイケメンと名高く、彼を慕うファンの女子生徒たちからは名前を文字って『学園の王子様(プリンス)』と呼ばれる王子(おうじ)拓真(たくま)が、その端整な顔を苦々しく歪めると、さっきから彼に抱き着いてビクビクと怯えている小動物系美少女を優しく抱きしめつつ、目の前で唖然とするドレスで着飾った美しい少女を睨みつける。

 

「……この婚約は私たちだけではなく、家同士の約定によって成立しているものよ? それなのに、貴方の一存で一方的に破棄すると?」

 

 そう、『婚約』だ。

 現代日本で生きる一般庶民な俺からしてみれば、それは最早雲の上の話過ぎて空想上の産物としか思えない。

 しかし、事実は小説よりも奇なりとはよく言ったもので、実際に王子と彼女は幼いときからの許嫁であり、高校卒業後はそのまま結婚するというのは我が学園では有名な話だ。

 

「両親はオレが必ず説得してみせる。まぁそれも、キミの醜い嫉妬心が引き起こした数々の非道を伝えれば了承してくれるだろうけどね」

「非道、ねぇ……」

 

 王子拓真はただ顔が良いだけのイケメン野郎という訳ではない。誰もが一度は耳にしたことがある大企業『王子コーポレーション』の御曹司であり、成績優秀、文武両道、おまけにフェミニストで人格者という何から何まで完璧なその姿は、まるで乙女ゲーの世界から飛び出してきた”リアルプリンス”と評判だ。

 

 そして、そんな彼の婚約相手なのが、いま目の前で断罪されている悪役令嬢ポジションの少女────西園寺(さいおんじ)美琴(みこと)であった。

 

 これまた物語の世界から飛び出してきたような”ぼくのかんがえたさいきょうのお嬢様”を地でいく彼女は、艶やかな深い闇色の髪を腰元まですらりと伸ばし、そこらのグラビアアイドルが裸足で逃げ出しそうな抜群のスタイルを誇り、誰もが見惚れるような楚々とした佇まいが美しい少女だ。

 その在り方から、彼女には『真なる深窓のご令嬢』『世界遺産:高嶺の花』『絶滅危惧種:大和撫子』『絶対可憐プリンセス』などといった数々の異名を付けられているほど。ついでに言うと西園寺家は旧華族の名家で資産家であり、西園寺美琴は本物のお嬢様らしい。はいはいテンプレテンプレ。

 

 そんな誰もが認める美男美女の二人だからこそ、これまで誰も嫉妬しなかった。

 まるでテレビ越しに人気アイドルを眺めるような感覚に近かったのかもしれない。王子拓真のファンは遠くから黄色い悲鳴を上げて満足し、西園寺美琴に夢中な男子は遠くからその姿を拝むだけで恍惚とする。だから、今日までこの学園の平穏は保たれてきたと言っていい。

 

 

 しかし、いま正にその平和が崩されようとしていた。

 

 

「その非道な行いとやらを私がやったという証拠でもあるのかしら?」

「それは姫香(ひめか)が勇気を出して証言してくれた。内気でか弱く、純粋で穢れを知らない無垢な彼女がオレに噓を言うはずがない」

「当然だね。この学園の生徒会長として、僕が彼女の証言を保証しよう」

「俺様も保証するぜ。文句がある奴は俺様がぶっとばしてやらぁ!」

「自分も同意見っす! 姫香ちゃんが自分たちにウソなんて吐くはずないっすもん!!」

「そういうことです、姉上。貴女には失望しましたよ。このことは家長である父に報告させていただきますので、覚悟してください」

 

 何処から現れたのか、いつの間にスタンバっていたのか、わらわらと湧いて出てきた『G5(学園イケメン五人組)』のメンバーが王子拓真と乙女ゲーヒロインポジションっぽい小動物系美少女を取り囲む。

 ちなみにG5のメンバーは言わずと知れた王子拓真の他に、インテリ系イケメン生徒会長、ワイルド系イケメン不良、熱血スポコン系イケメン後輩、クール従者系イケメン弟の五名である(名前省略)。イケメンってバーゲンセールの如く連呼し過ぎてゲシュタルト崩壊しそうな気分だ。全員爆発すればいいのに。

 

「……そう。王子さん、そして貴方たちも、全員本気で彼と私の婚約破棄を支持する……という認識で良いのかしら」

「当然だ!」

「ふん、ライバルに塩を送るというのもまた一興、ということだよ」

「拓真に姫香を渡す気はさらさらねーが、それとこれとは話が別だ。正々堂々が俺様のモットーなんでな!」

「もちろん本気っす! 正義は自分たちにありっす!!」

「姉上、弟としてせめてもの情けです。ここで全ての罪を認めて素直に謝罪するなら、家を勘当される程度で許してあげましょう」

「皆さん……! わ、わたしのために……ありがとうございますっ」

 

 う、うーん……。

 なんだか雲行きが怪しくなってきたぞ?

 

 最初は楽しかったんだけどなぁ。

 元々、王子と西園寺さんがクラス企画の異世界風喫茶のために貴族の社交界を意識した衣装でコスプレをしていたから雰囲気あったし。

 

 だからこそ当初はリアル婚約破棄イベントだぜわっほいとテンション爆上がりだったんだけど、なんというかこう……あまりの稚拙さに見ているこっちが恥ずかしくなってくるというか、どうして俺はトップカースト連中の茶番劇を見せつけられているんだろうという虚無感に襲われてテンションだだ下がりであった。

 なんとなく微妙な気分になってしまったので、それとなく教室内を見渡してこの婚約破棄イベントを見守っているクラスメイトや客として居合わせてしまった他クラスの生徒たちを観察してみた。

 

 

 ・乙女ゲームの婚約破棄イベントに夢見て心躍らせている女子生徒が2割

 ・WEB小説で人気な勘違いイケメンざまぁ展開を期待してウッキウキな陰キャ勢が2割

 ・婚約破棄されれば西園寺さんがフリーになると息巻いて浮かれている男子生徒が1割

 ・G5に守られているヒロイン少女に嫉妬して歯ぎしりしている女子生徒が1割

 ・G5同士の絡みに鼻息を荒くして掛け算に勤しんでいる腐女子が1割

 ・お前らの痴情のもつれなんて知るか文化祭の邪魔だ他所でやれボケェという層が3割

 

 

 以上、現場からの視聴者層の分析でした(教室リサーチ調べ)。

 

 あれだよね。冷静に考えてみると、君らどんだけ自分中心に世界が回ってると思い込んでんだって話だよね。

 普通、高校の文化祭なんかで婚約破棄なんて宣言する? リモートでやれよ。テレワーク知らないの? WEB会議で画面越しに親戚一同雁首揃えた状態でリモート婚約破棄宣言すればいいじゃない。レッツ働き方改革!

 

 そんな風に益体もないことをつらつらと考えながら現実逃避をしていると、言いたい放題言われて俯いていた西園寺さんが静かに口を開く。

 

「……本当に、婚約を破棄するつもりなのね?」

「今さら謝って泣きついてきてももう遅い! オレは”真実の愛”に目覚めたんだ!! これからは彼女とともに幸せな人生を歩む!!!」

 

 なんか王子が最近のWEB小説でありがちな長文サブタイトルみたいなことを言い出したけど、西園寺さんは特に気にする風でもなく、ただただプルプルと肩を小さく震わせ俯いたまま言葉を紡ぐ。

 

「ほ、本当に……?」

「だからそう言っている!」

「本気なのね? 後になってから許してくれとか、さっきのは気の迷いだったなんていうのは認めないわよ?」

「くどいぞっ」

「ほんっ~~~とーのホントにほんとうに本当に本当に本当に本当に本当に…………婚約破棄するのね?」

「何なんださっきからっ!? ミコトとの婚約は破棄するっ! この王子拓真に二言はない!!!」

 

 傍から見ているとコントか漫才でもやってるのかと言いたくなる言葉の応酬。

 なんだかもうどうでも良くなってきたので、いい加減、この教室から退散しようかと踵を返そうとした────そのときだった。

 

 

「…………シャオラァ!」

 

 

 突然、教室中に体育会系な野太い勝利の雄叫びが響き渡った。

 

「……え?」

「いま誰か叫んだ?」

「もしかして……」

「いやいやいや、うっそだろ?」

「幻聴だ。これはきっと幻聴に違いない」

 

 クラス中の人間が声の発生源である少女に視線を向けつつも、どうしてもその事実を咀嚼できずに混乱している。

 実際のところ、自分もその一人なので思わず「ふぇ…?」とか幼女みたいな声が漏れちゃったし。あらやだ恥ずか死んじゃう。……黒歴史が増えたわ。

 

 そんなことよりも、雄叫び一つで場を支配した西園寺さんである。

 誰もが現実を信じられずに呆然とする中、彼女は勇ましいガッツポーズを崩すと、どこからともなくスマートフォンを取り出したと思ったらどこぞへと電話を掛け始めた。

 

「──もしもし。お父様? いまお時間よろしいかしら? ……これから重要な会合? 知りません、そんなこと。黙って私の話を聞きなさい」

 

 どうやら通話相手は西園寺さんのお父さんらしいのだが、これまでの品行方正お嬢様キャラをかなぐり捨てるような傍若無人な振る舞いに圧倒されて、教室中の誰もが口を噤みつつも聞き耳をたててしまう。

 

「まず結論から申し上げますと、王子拓真さんとの婚約は相手方の一方的な都合により破棄されました」

『──ッ!? ────!???』

 

 ……うん。お父さんの声は聴こえないけど、なんとなく雰囲気で相当パニックに陥っているだろうことが察せられる。そりゃ寝耳に水どころじゃないよね。

 

「お父様。私、約束しましたわよね? これまで育ててもらった恩があるから、最後にひとつだけ、家のために何でも従うと」

『──! ──ッ!!』

 

 あー……、これやっぱり婚約破棄した相手へのざまぁ系な展開なんだろうか。

 なんとなく、そんな臭いがプンプンしてきたぞ。

 

「だから、自分を滅して王子さんとの婚約に異を唱えることもしなければ、高校卒業後は約定通りに彼と結婚するつもりでした」

『──!?』

 

 うわぁ……。西園寺さんの言い分が本当だとしたら、内心では王子との婚約は不本意だったってこと? なら乙女ゲーヒロインへの嫉妬心とかもまったくナシ?

 あっ、王子拓真と小動物系美少女がポカーンとして固まってる。似た者同士だね。お似合いじゃん(皮肉)。

 

「けれど、あちらから婚約破棄してきたんですもの。たとえ契約不履行でも、こちらに瑕疵はないですわよね?」

『ッ──! ──! ───────!!』

「……証拠? それなら後で4K動画で送り付けて差し上げますわ。そんなことより────」

 

 あれ、おかしいな……。

 なんか、段々と教室内の空気が肌寒くなってきた気がするんだけど、気のせい? 気のせいだよね? 誰か気のせいって言って(懇願)!?

 

 俺が猛烈な悪寒に背筋をゾワゾワさせたのと同時、それまで俯いたままだった西園寺さんが顔を上げて、その表情を直視してしまったらしい王子拓真が顔面蒼白で泡を吹いて意識を飛ばす。

 こちら側では後ろ姿しか見えていないので、彼が何を見たかはわからない。ただ、きっとそれは矮小たる人間風情が視てはいけないものだったに違いない。

 

 

「──もう、西園寺家には二度と縛られない。これからは、私の自由にさせていただきます」

 

 

 底冷えするほど鋭利な声音で、彼女はそう力強く宣言した。

 

「それでは、会合がんばってくださいませ。……御機嫌よう」

 

 そう言って彼女は容赦なく通話を切ると、躊躇なくスマートフォンを放り捨てて一気呵成に踏み抜いた。

 あまりの威力にディスプレイが割れるどころかフレームから破損した基盤がコンニチハしてるんですけども。完全にお亡くなりになってますね。資源はもっと大事に。お兄さんとの約束だ。

 

「……」

 

 痛いほどの沈黙が、教室内を包み込んでいる。

 もしいま物音ひとつでも立てようものなら命はない。そんな被害妄想にも似た危機感を教室中の全員が共有していると直感した。きっと、いまこの場にいる西園寺さん以外の人間の心情は一致しているに違いない。即ち、嵐よ、早く過ぎ去ってくれ……!

 

「……うふっ」

 

 けれど、現実は非情だった。

 誰もが身動ぎひとつ許されない空間に、西園寺さんの笑い声がこだまする。

 

「うふ、ふふふふふ。ウフフフ」

 

 鈴を転がすような声音で、彼女は笑い続ける。

 静かに、控えめに、淑やかに、彼女は歓喜に満ちた声音で狂笑する。

 

「くふっ、フフフフ」

 

 くるりと、唐突に、なんの前触れもなく、突然に、西園寺美琴は振り返った。

 

「ふふ……」

 

 今この瞬間の光景を切り取って絵画として額に飾れば、きっと美術館に飾れたに違いない。

 

 それほどまでに彼女の微笑んだ姿は神々しくて美しく、喜色に満ちた笑顔は抗いようもなく魅力的で多幸感に溢れていて、見るモノ全ての脳を魅了して破壊するような愉悦の笑みは、いっそ暴力的で、どうしようもなく冒涜的で、とんでもなく倒錯的だった。

 

「うふふ」

「っ……!」

 

 ────わからない。

 

 どうして、西園寺美琴はこちらに笑いかけてくるのだろう。

 

 

 ──その答えを知りたくて、俺は左を見る。

 

 俺の左に立っていたクラスメイトが、水中で逃亡するザリガニ並みのバックステップで飛びのいた。

 

 

 ──大きく息を吸って、吐いて、俺は視線を右側へ向ける。

 

 俺の右隣に居たはずの女子生徒が白目を剥いて気絶していた。

 

 

 ──一縷の望みを託して、俺は自分の背後を確認する。

 

 俺の後ろには、教室の壁しかなかった。

 

 

 

「…………あはぁ♡」

 

 

 

 耳朶をすり抜けて鼓膜に絡みつく嬌声に、俺の意識は強制的に正面へと戻される。

 

 彼女と交わる視線。

 

 俺は本能で察した。

 

 

 ──慈母のように優し気な眼差しに溶け込む狂喜。

 

 ──女神のように理知的な眼差しに隠れ潜む狂愛。

 

 ──童子のように無邪気な眼差しに滲み出る狂念。

 

 

 西園寺美琴が俺に向ける視線は、完全に捕食対象を狙う肉食獣のソレであった。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 私────西園寺美琴という人間は、()()でした。

 

 

 『おまえは西園寺家の娘だ』

 

 

 物心つく前から呪詛のように繰り返し言われ続けた言葉。

 私の根底に深く深く深く根差して存在理由とさえ言えるほどに癒着してしまった呪い。

 

 私は、西園寺家の利のために生きている。

 私は、西園寺家の益のために生きていく。

 

 そこに疑問を挟む余地などなかった。

 それが西園寺美琴にとっての日常で、常識で、それこそが()()()だったから。

 

 私に自我なんてものはなかった。必要ですらなかった。

 

 ただただ西園寺家の命令に従う自動人形(オートマタ)であり続ければいいだけ。

 だから、勉強も、習い事も、人間関係でさえも、私は家の指示にただ従って生きてきた。

 

 

 『はじめまして! おうじたくまですっ』

 『どうじゃ美琴、利発そうな良い子じゃろう?』

 

 

 ある日、私を溺愛する祖父が一人の男の子を連れてきた。

 祖父と昵懇だという王子家の嫡男で、私と同い年だという少年。

 

 

 『この子であれば将来の美琴の伴侶として申し分ない。どうじゃ、嬉しいか美琴? 嬉しいじゃろう?』

 

 

 私は、祖父の目をジッと見つめる。

 嬉しそうに細められた柔らかい双眸────その深淵に蠢く”命令”を読み取り、私はニコリと微笑んだ。

 

 

 『はい、とてもうれしいです』

 

 

 祖父が笑う。父が笑う。母が笑う。

 

 男の子が顔を真っ赤にして照れたようにはにかんだので、私も同じように笑い返してあげた。

 

 祖父が嗤った。父が嗤った。母が嗤った。

 

 

 ────私は、上手に嗤えていたでしょうか。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 私が通う学園は幼稚園から大学までの一貫校で、良家の子女が集まる学び舎として有名です。

 

 そんな学園の高等部に進学したばかりの、春。

 

 私は相も変わらず『西園寺家の娘』のままでした。

 

 そこに不満などない。

 そもそも不満に思う思考回路が存在しないのだから、問題が起きようはずがない。

 

 これからも、私はただ西園寺家の利と益のために生きていくだけ。

 

 

 『……姫香、オレの愛しい人』

 

 

 だからこそ、高等部へと進学した途端、彼が外部入学組の女生徒に心を奪われても何とも思いませんでした。

 王子さんと件の女生徒が仲睦まじそうに逢瀬を楽しんでいる姿を目にしても、嫉妬を抱くこともなく、怒りを覚えることもない。

 

 私の胸中にあるのは────『無』。

 

 『「好き」の反対は「嫌い」ではなく、「無関心」』という言葉を耳にしたことがありますが、言い得て妙だと思いました。

 どうせ高等部を卒業したら結婚することになるのだから、王子さんが高等部の三年間を誰と過ごしても気にならない。何なら私との結婚後も愛妾として囲えばいいとさえ思う。

 

 私の役目は、王子拓真と結婚して王子家の世継ぎを産むこと。

 その後は王子家を西園寺家の傀儡となるように取り仕切ること。

 

 そこには恋慕の情も、親愛の証も必要ない。

 彼は王子拓真としての役割を全うして、私は西園寺美琴としての役割を果たせれば、それ以外のことに頓着する必要など欠片もないのだから。

 

 私はずっとそうやって生きてきた。

 それが私にとっての当たり前だった。

 

 これまでも、これからも、私は終生を”西園寺家の娘”として捧げ続ける。

 

 

 それでよかった。

 

 

 それだけで、よかったはずなのに……。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 その日は委員会活動の関係で、いつもより早い時間に登校していました。

 

 だから、いつもなら登校してきた生徒で賑わっている昇降口も人気が無くて、私以外には見知らぬ男子生徒が一人いるだけ。

 

 クラスメイトではない、顔見知りでもない、西園寺家として親交を深める対象でもない。

 

 それはつまり、私が関わる必要性のない相手であるということ。

 私は言葉を交わすことも、視線を送ることも、会釈をすることもなく、その場を後にしました。

 

 自分の教室がある三階に向かうため、私は階段を上がる。

 踊り場を経由して、また階段を上がる。

 

 一段一段、一歩一歩、なんの感慨もなく歩を進める。

 

 あと少しで三階に辿り着く、その最後の一歩を踏み出そうと右足を軽く持ち上げたとき。

 

 

 一瞬だけ、ふっと意識が遠退いた。

 

 

「──!」

 

 おそらくは、貧血とか立ち眩みだったのだと思う。

 気がついたときには、私の身体はバランスを崩して背中から倒れ込もうとしていた。

 

 ────あ、死ぬ。

 

 根拠なんて何もないけれど、スローモーションのようにゆっくりと流れる時間の中で、私はそう確信する。

 階段の頂上付近から落下して、階段の踊り場まで転がり落ちて、無防備に後頭部を打ち付けた私は死ぬんだ。

 

 そう悟ったとき、ふと走馬灯が脳裏を過った。

 

 

 それまで”西園寺家の娘”として生きてきた、自分。

 これまで”西園寺家の娘”として歩んできた、人生。

 

 

 そこに、彩は無かった。

 そこに、音は無かった。

 そこに、香は無かった。

 

 

 ただ無色透明で、ただただ無味乾燥で、そんな虚構のような日々の記憶。

 

 

 

 

 

 

 

 

「────やだぁ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 じわりと、目尻に涙が滲んで視界がぼやける。

 

 

 ……死にたくない。

 

 

 私、こんな人生やだ。

 

 

 ……死にたくないよ。

 

 

 こんな人形みたいな生き方やだ。

 

 

 

 

 ……まだ、死にたくないよぉ。

 

 

 

 

 藻掻くように、足掻くように、必死に手を伸ばそうとするけれど、私が()()を自覚した途端に、周囲の景色はまた元通りの時間の流れを取り戻す。

 

 刹那に感じた浮遊感。

 

 次いで降りかかる重力という名の現実。

 

 

「────!」

 

 

 縋るように小さく突き出した指は虚空を掴むばかりで、そこには、祖父も、父も、母も、婚約者も、誰もいない。

 

 

 

 『おまえは西園寺家の娘だ』

 

 

 

 だというのに、最後の最後で私の頭の中に響いたのは、そんな呪いの言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………嫌だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だイヤだイヤだイヤだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ死にたくない死にたくない死にたくない悔しい死にたくない死にたくない死にたくない抱きしめて死にたくない人形のまま死にたくない死にたくない哀しい死にたくない頭を撫でてよ死にたくない死にたくない駒みたいに死にたくない死にたくない手を繋ぎたい死にたくない死にたくない死にたくない虚しい死にたくない道具扱いで死にたくない死にたくない死にたくない私を視て死にたくない死にたくない死にたくない淋しい死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない温もりが欲しい死にたくない死にたくない死にたくない私は西園寺家のための死にたくない死にたくない死にたくない美琴じゃない死にたくない死にたくない死にたくない見捨てないで死にたくない死にたくない死にたくない誰か死にたくない死にたくない死にたくない私を────────助けて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うえっ!? あ、危ないっ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 背中から階段に落ちる寸前、誰かが私を強引に抱き寄せた。

 

 私を守るように優しく伸びた両腕が、私を護るためにぎゅっときつく締められる。

 

 上下左右があやふやになるほどゴロゴロと階段を転がり落ちて、私の意識もぐるんぐるんと揺れて揺らいで心も揺らぐ。

 

 曖昧な思考の片隅で、朦朧とする理性の狭間で、たったひとつだけ知覚できた事実。

 

 

 

 私はいま、ひとりぼっちじゃない。

 

 

 

 そんな些細なことが、たったそれだけのことが、私にとっては堪らなく嬉しくて、どうしようもなく胸が高鳴って、とんでもなく切なかった。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 踊り場まで転がり落ちた私達は、ようやくその動きを止める。

 けれど私は、声を発することも、身動ぎすることもできなかった。

 

 思っていたような衝撃も、身体の痛みも無かった。

 思ってもみなかった衝撃と、胸の痛みに言葉が出ない。

 

「いっ…づぅ……」

「っ……」

 

 すぐ近くから、痛みに呻くような声が聞こえた。

 目の前には、痛みに顔を顰めている彼がいた。

 

 私は彼の腕の中ですっぽりと包まれていて、私を助けてくれた彼に覆い被さるように横たわっていて、私のことを救ってくれた彼にひしと縋りついている。

 

 お礼を言わなければ──。

 早く退いてあげないと──。

 彼は怪我をしていないだろうか──。

 

 そんな当たり前なことが次々と頭に浮かぶ。

 いま何をしなければいけないか、頭では理解している。

 それなのに、私の身体はちっとも言うことを聞いてくれやしない。

 

 制服越しに伝わる彼の温もりが心地好くて──。

 きつく抱きしめてくれる力強さが恋しくて──。

 全身から感じる彼の感触を、独りじゃないという証を失ってしまうのが心細くて──。

 

「あー……、えっと、あの、その…大丈夫、でした…か?」

 

 彼が心配そうに、おずおずといった風に訊ねてくれる。

 それと同時、申し訳なさそうな顔をした彼は、さっと両手を広げてしまう。

 

 

「────ぁ」

 

 

 満たされていた何かが、急速に失われていくのが分かる。

 

「っ……!?」

 

 嫌だと言いたかった。

 離れたくないと伝えたかった。

 

 でも、彼の温もりが遠ざかる恐怖に喉が震えて、声が出てくれない。

 

「──!」

「え……?」

 

 心臓が握り潰されてしまったんじゃないかと思うくらい、胸の奥が締めつけられて痛い。

 孤独と絶望に全身が引き裂かれそうで、途轍もなく切なくて、これまで感じたことのない喪失感で気が狂いそうになる。

 

 知らず、涙が勝手にぽろぽろとこぼれ落ちて、彼の胸元を濡らしていた。

 気がついたらもう、我慢なんてできなくて、湧き上がる衝動を堪えることなんて不可能で、私は彼の首筋に顔を埋めて縋りつく。

 

「ひょっ!? え゛、えぇ……?」

 

 彼を困らせたくない。迷惑なんてかけたくない。

 それでも、初めて感じたこの温もりを、この感情を手放したくなくて、駄々をこねる幼子のように小さくイヤイヤと首を横に振ってみせる。

 

「うっ……。いや、でも…あー…………くそっ」

 

 困惑したような彼の反応が窺える。

 その事実に、罪悪感で押し潰されて死にたくなった。

 

「えっと、よくわかんないけど……。嫌だったら言って。すぐ止めるから」

「あっ……」

 

 背中に温かな感触が戻ってきてくれて、彼の腕がきゅっと私を抱きしめる。

 それだけじゃなくて、ぎこちない手つきで、慣れない動きで、不器用にゆっくりと、彼が優しく私の頭を撫でてくれた。

 

 

 彼の腕に抱かれて────。

 彼の温もりを肌で感じて────。

 彼の匂いに包まれて────。

 

 

 それが幸せすぎて、あんまりにも安らかで、いつの間にかウトウトしていた私は、まるでお母さんにあやされる赤ん坊のようにあっさりと眠りに落ちてしまった。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 目を覚まして最初に飛び込んできた光景は、知らない天井でした。

 

「ここは……?」

 

 どうやらベッドで寝かされていたらしいと分かって、慎重に上半身を起こしてみて辺りをキョロキョロと見渡してみる。

 

「……」

 

 傍には誰もいない。

 どうやら私は、カーテンの閉め切られたベッドの上で一人眠っていたらしい。

 

 

 ──あれは、夢だったんでしょうか?

 

 

 今更ながらに現実感のない展開に、ふとそんなことを考えてしまって、私はどうしようもなく泣きたくなった。

 

 ……いやだ。

 

 あのとき感じた彼の温もりが、幸せで満ち足りた記憶が、すべて夢の中の出来事だったなんて、そんなの耐えられるはずがない。 

 

 

 

 もう一度、彼に会いたい。

 

 

 

 会って、名前を教えてもらいたい。

 会って、もっとお話してみたい。

 会って、また抱きしめて欲しい。

 

 飢えるように強烈な飢餓感に、身を焦がすような焦燥感に、いっそ死んでしまいたくなるほどの喪失感に、私の意識は完全に覚醒する。

 

「あら、目が覚めた?」

 

 気遣うように開けられたカーテンの隙間から養護教諭が顔を出してきたので、ここが保健室なんだと察した。

 

「あの……」

「具合はどう? 身体がだるいとか、気分が優れないとかある?」

「えっと……。いえ、大丈夫そうです。それよりも────」

 

 

 

 

 

「私を運んでくれた方について、詳しく教えて欲しいのですが……」

 

 

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 私のことを助けてくれた男子生徒は、私を保健室へ運び込むと引き留める先生の言葉も聞かずに慌てたように逃げ去ってしまったらしい。

 

 名前も、クラスも、学年も不明。

 顔もおぼろげにしか覚えていない。

 

 私が彼のことでハッキリと覚えているのは、彼の匂いと、あの温もりだけ……。

 

 

「──必ず見つけ出す」

 

 

 それでも諦められない。諦められる筈がない。

 

 私は既に知ってしまったのだ。彼の匂いを、温もりを、彼という存在を────。

 

 この日、歪だった私という存在が、罅割れていた私の心が、一度粉々に砕け散ってまた再構築された。

 ”西園寺家の娘”としての私は死んで、ただの西園寺美琴として新しく生まれ変わったのだ。

 

 

「待っててね、愛しい人」

 

 

 興奮を抑え込むように、私は両手で自分を強く掻き抱いて身悶える。

 

 

 

「…………うふふ」

 

 

 

 もう絶対、逃がさないから。 

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 顔も名前も分からなくたって、ヒントはある。

 

 あの日、私はいつもより大分早い時間に登校していた。

 そんな私と同じタイミングで登校していたということは、彼は私と同じ委員会か、もしくは普段からあの時間に登校している人物。

 

 また、三階への階段を上っていたということは、同じ学年の男子生徒である可能性が高い。

 

 ほらね、もう全男子学生のうち三分の一にまで絞り込めた。

 あとは各クラスを回って虱潰しに匂いを嗅いでいけば……、嗅い…で…………?

 

「それだと、ただの変態だわ」

 

 確かに彼を見つけるためだったら手段を選ぶつもりはないのだけれど、さすがにそれはちょっと……。一応、こんな私でも乙女の端くれとして最低限の羞恥心はあるんです。それに彼以外の匂いを嗅ぐなんて想像しただけで吐き気がして最低最悪な気分になってしまう。

 だから、何かこう…合法的にピンポイントで彼だけの匂いを嗅ぐことができる案はないでしょうか……。

 

 結局、大した名案が思い浮かばなかった私は、偶然に頼って校舎内をひたすらさ迷い歩くという方法に行きついた。

 廊下で男子生徒とすれ違う度にドキドキと胸を高鳴らせて、匂いを嗅ごうか葛藤して、でもやっぱり踏ん切りがつかなくて諦める。そんなもどかしくて悶々とするだけの日々が三日も続いたときです。

 

 私がもう日課となりつつある校内探索に勤しんでいると、廊下の前方から二人組の男子生徒がこちらに向かって歩いてきました。

 二人とも顔は知らないので、おそらくは別クラスの人なのでしょう。

 

 向かって右側の男子生徒は小太りな体形なので違う。彼は中肉中背だった。論外。

 次に、逆側を歩く男子生徒に注目する。

 

 体形は中肉中背。一致する。

 頭髪の色は黒く、染髪していない。一致する。

 特にヘアスタイルにこだわりはないのか、寝ぐせだけ直したような無造作ヘア。一致する…気がする。

 顔は地味目。お世辞にも整っているとは言えないけれど、崩れている訳でもない。要検証。

 身に纏っている雰囲気は……内気で冴えない、けれどその根幹に潜む優し気な気配が自然と伝わってくる。高評価。

 

 彼と私の距離が、残り数メートルのところまで迫る。

 

 不意に、彼と視線が合わさった。

 

 トクンと、私の心臓が大きく鳴動する。

 

 彼と私の距離が縮まる。

 

 一歩一歩、歩みを進めるたびに、二人分の速さで距離が縮まっていく。

 

 彼と擦れ違う、その瞬間────、

 

「っ……!」

 

 無意識でした。けれど、後悔はない。

 

 

 彼が通り過ぎた後に漂う微かな残り香。

 

 

 全神経を総動員して記憶の中に眠るあのときの匂いと照合。

 

 

 

 

 

「…………あはっ♡」

 

 

 

 

 

 今すぐ彼に追い縋って抱き締めたい衝動をなんとか堪える。

 というか、匂いを嗅いだだけで腰砕けになりそうで実際には立っているのが精一杯です。何なんですか、これ。あれでしょうか。禁断症状でしょうか。動悸が不整脈で下腹部が疼いて脳が蕩けて今すぐにお手洗いに駆け込まないと今後の学園生活というか社会的に死んでしまいそうなので今は戦略的撤退なんですこれで勝ったと思わないでください絶対に逃がしませんから顔は覚えました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今すれ違ったのって、一組の西園寺美琴だよね? 遠目で見ても美人だったけど、近くで見るとヤバいな」

「へー……。あの子、西園寺さんって言うんだ」

「あれ、知らなかったの?」

「うん。まだうちのクラスの女子ですら全員覚えきれてないのに、他クラスの女子なんて尚更だよ」

「おまえって異性関係は奥手っぽそうだもんなぁ。というか、ムッツリって感じ」

「う、うるさいな! 放っといてよ……」

「だけどよ、もし西園寺さんに一目惚れしたんなら止めておけよ。西園寺さんって婚約者いるって話だし」

「え、そうなの……?」

「そうそう。しかも、相手が学年一のイケメンって名高い、あの王子拓真らしい。クラスの女子が噂してた」

「…………そっか」

 

 

「そっかぁ……」

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 運命の邂逅を果たして早一週間。

 私は恙なく今まで通りな学園生活を送っています。

 

 本音を言えば、今すぐにでも彼を確保して抱き着いたまま全身を鎖でぐるぐる巻きにして一生離れられないようにしたいのですが、そういう訳にもいきません。

 

 良い意味でも悪い意味で、私という存在はこの学園で有名です。

 容姿にしても、家柄にしても、あの婚約者のことについても……。

 

 そんな私がいきなり彼に好意を寄せても、良い結果にならないのは目に見えています。

 ですから、まずはどうすれば彼と私が幸せを享受できるか、その方法を模索するべきでしょう。他に好きな人ができましたと馬鹿正直に告げて幸せになれるのは、物語の世界だけなのですから。

 

 幸いと言っていいのか、彼の周囲に女の気配はありませんでした。

 いまは下準備の方を優先です。千里の道も一歩からの精神で確実に行きましょう。最悪、いま彼に恋人ができても問題ありません。最終的に私が奪えば解決ですので。……過程? 目的を見失ってはいけません。結果が良ければそれで良いのですよ。

 

 まず着手したのは、西園寺家の影響下から抜け出すこと。

 未成年という足枷は難儀ですが、遣り様はいくらでもあります。

 

 これまで使いどころが無くて貯めるだけだった貯金を元本に、未成年でも取引可能な資産運用に片っ端から手を出しました。

 株、債券、投資信託、FX、仮想通貨などなど……。今の時代、インターネットさえあれば自宅に居ながら楽にお金が儲けられるので笑いが止まりません。ちなみに口座開設などの手続きで親権者の承諾が必要だったので、将来のために社会勉強の一環がどうたらとか、損失を出したらすぐに手を引くだとか言って無理矢理説得して押し切りました。

 

 そして半年後、私はゼロの桁がこれでもかと並ぶ圧倒的な口座残高を背景に弁護士と税理士を雇い、次のステップに進みます。

 興信所に依頼して西園寺家と王子家の弱みになりそうな情報を集めました。もちろん、将来の布石のためです。もし聞き分けがないようなら、これをリークして両家を…………ウフフフ。

 

 そうして彼との出逢いから一年が過ぎた頃。私が二年生に進級したタイミングで程よく証拠も集まってきたので父を脅し……ゲフンゲフン、父の説得を試みました。

 

 しかし、勘違いしてはいけません。

 

 一応、私だって人の子です。血も涙もない鬼ではありません。これまで家からどのような扱いを受けていたとしても、それが世間一般からすれば恵まれたものであったと理解しています。

 真意はどうあれ、西園寺家にはここまで育ててもらった恩がある。自覚したからと言って、それまでの関係性がすべて消えて無くなるなんてことはないのだから。

 

 私は復讐がしたいんじゃない。

 ただ単に、西園寺家にとってはあれが当たり前だったというだけ。異端なのは私の方だ。

 

 

 だから、顔を蒼褪めさせて私を化け物でも見るような目で見上げている父に、私は満面の笑みで告げる。

 

 

 ──これまでの恩返しも込めて、あとひとつだけ貴方の言うことを聞いてあげます。

 

 ──但し、その代わりに今後は私の好きなように生きます。私が誰と生きようが、どんな人生を歩もうが、文句は聞きませんので悪しからず。 

 

 

 結果、父の口から出た”お願い”は、高校卒業後と同時に私が王子拓真と結婚することだった。

 

 ……いいですよ。それで自由になれるなら、それで彼と私が幸せになれるなら、あの男と結婚しましょう。

 ファーストキスでも処女でも、なんでも捧げてあげます。子供だって何人でも産んであげる。でも、それだけ。そこに価値なんてない。

 

 都合のいいことに、彼はあの外部入学組の女生徒に夢中だ。

 なら、お互いに仮面夫婦を演じて、表面上だけ取り繕って、あとは干渉せずに自分が真に愛する人とだけ幸せに暮らせばいい。

 

 

 ────異常だ。

 私のこんな考えはただの自己満足で、すべて自分勝手な欲望の押し付けで、彼の都合なんてお構いなし。

 もしかしたら、彼には軽蔑されるかもしれない。おそらく、理解はされないでしょう。

 

 彼に嫌悪されれば、きっと私は泣いてしまう。

 彼に拒絶されたら、きっと私は死んでしまう。

 

 それでも、誰にも彼との幸せを邪魔されないようにと考えたら、こんな愚かな方法しか思いつくことができなかった。

 

 

 ────やっぱり私は異常だ。

 

 

 彼のためなら苦じゃないはずなのに、どうして私は……涙が止まらないのだろう。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 二年生になってからの学園生活は、まるで天国のようでした。

 

 その最大の要因はもちろん、婚約者である王子拓真と同じクラスになれたこと────なんてことはなく、彼と同じクラスになれたことだった。

 

 それまで遠巻きに窺うことしかできなかった昨年に比べて、教室での彼と私の距離は常に一〇メートルを切っている。……これはもう同棲していると言っても過言じゃないかもしれませんね。

 しかし、油断は禁物です。ここで調子に乗って彼に話しかけようものなら、彼の立場を危うくして迷惑をかけてしまうかもしれません。それは私としても本意ではないのです。

 

 今はまだ、私はあくまで西園寺家のご令嬢で、王子拓真の婚約者で、この学園の高嶺の花(マスコット)

 

 だから、少し離れた場所でも彼と同じ空間に居られる今の生活に満足しておきましょう。過ぎたるは猶及ばざるが如しの精神です。

 

 毎日、教室の斜め後ろの席から彼の横顔を眺めていられるだけで幸せ。

 稀に、ふとした拍子に彼と目が合うだけで幸せ。

 教室内で擦れ違うとき、彼の匂いを堪能できるだけで幸せ。

 

 幸福指数の濁流に溺れて志半ばで昇天してしまいそうです。

 なるほど、これがハッピーエンドというものですか……。実に興味深いです。

 

「……はぁ」

 

 人気のない放課後の教室。私はいま、彼の机に顔を埋めて深呼吸していた。

 だって帰りのSHRの際、午後の授業からウトウトしていた彼が机に突っ伏して寝ていたんですもの。これはチャンスとばかりに、私は教室から人が居なくなるのを待って彼の机に飛び込んだ。……これはもう実質同衾なのではないでしょうか?

 

「……あふぅ」

 

 どうも、私のような女の子を世間では『ヤンデレ』と呼ぶそうです。

 彼が教室で友人の方と楽しそうに語らっていたライトノベルというもので学びました。つまり、私という存在は彼の性癖と合致しているということ。やはりもう、これは運命なのでは……?

 

 けれど、ひとつだけ理解に苦しむことがあります。

 創作上のヤンデレという存在ですが、物語の描写で想いを寄せる相手の私物を盗み、予め用意していた新品とすり替えるというシーンがありました。

 

 これはいけません。

 

 どんな理由があろうと、たとえ新品の物と交換しようと、窃盗は窃盗。立派な犯罪です。

 あんなもの自分の自制心の無さを愛情と偽って誤魔化しているに過ぎません。お金を持っているのに万引きを繰り返す病気の人と同じです。私をあんな低俗な人たちと同列に語らないでいただきたいです。

 

 私はきちんと、彼が所有権を放棄したものに限って回収していますから!

 

 そう、これは所謂リユースです。リサイクルと言っても良いでしょう。

 ちなみに私のオススメは使用済みの汗拭きシート。いみじくも彼は無香料タイプのものを愛用してくれていますから、夏場なんて彼の汗と匂いを大量に吸い込んだ汗拭きシートを堪能できます。

 

 え? どうやって回収してるのかって?

 …………企業秘密です(乙女の嗜み)。

 

 いけませんね。

 最近、どうにも彼の好みだというライトノベルというものに思考が犯され──侵され──毒されている気がしてなりません。淑女たるもの、もっと気を引き締めなくては……。

 

 

 

「……机って舐めたらダメでしょうか」

 

 

 

 私はもう、手遅れかもしれません。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 二学期最大のイベントと言えば、文化祭です。

 私が所属するクラスの企画はどういう経緯を辿ったのか、いつの間にか『異世界風喫茶』というものになっていました。

 

 内装をダンスホールのように装飾して、教室の隅にはビュッフェ形式の真似事として市販のお菓子と紅茶が並び、BGMとしてワルツを流す。

 おそらく、本当の上流階級の方々からすれば失笑モノでしょうけれど、重要なのは現実世界のリアルさではなく、『異世界風』というコンセプトに基づいた中世ヨーロッパ風の世界観を構築することらしい。詳しくは知りません。

 

 お客様は好きな衣装にコスプレし、お菓子や紅茶を軽く楽しんだら教室の中央でそれっぽく踊る。

 当然、雰囲気を出すために私たちスタッフ役の生徒も全員コスプレです。

 

 そして一体誰が何処から調達してきたのか、やたらと質の良い、本格的なパーティドレスや衣装が用意されていました。

 私や王子拓真といった眉目の良い生徒は貴族衣装に身を包んで雰囲気作りのためのダンス要員。それ以外のクラスメイトたちは従者スタイルで受付や誘導、お菓子の補充といった雑用に従事する役割分担です。叶うなら私の従者には彼になってもらいたいというか、どちらかと言うと私が彼の従者になりたいと申しますか、正直に言えば彼の傍に居られるならメイドでも奴隷でも何でも来いな心意気なのですけれど自重しました。

 

 出来ることならクラスの準備にかこつけて彼の近くに居たかったのですけれど、ダンス要員は全員別室でダンスの練習に専念。教室の準備はそれ以外のメンバーが担当するということで断腸の思いで諦めました。

 しかも、演技の一環として語尾とか口調も物語の中に出てくる貴族風にしようなんて話になってしまい、なんだかもう自棄っぱちになった私は死んだ魚のような目をしながら頷いたのですことよ。おほほほほ。……はぁ。

 

 そうして迎えた文化祭一日目。

 結局、準備期間中は一度も彼と接触するどころか傍に近づくことすらできなかった私は、自暴自棄になり、不貞腐れて、完全に油断しておりました。

 

「……? ……!? っっっ!!!?」

 

 ダンス衣装に着替えて教室で待機していると、スタッフ担当の生徒たちが従者スタイルに変身してゾロゾロと教室に入ってきたのです。

 それ自体は問題ありません。メイド服や執事服だけでなく、何故か教会の聖職者や冒険者のような衣装の方たちまでおりましたが、そこは異世界風というコンセプトを考えればありでしょう。何人かの生徒は獣人キャラクターを意識したのか、犬や猫といった獣耳や尻尾も付けています。

 

 

 問題は、彼です。

 

 

 貴族家に仕える庭師の丁稚を思わせる簡素な作業服は、実年齢以上に彼を幼く見せていて、なんというかこう……ショタ感が増しました。

 それだけでも危険だというのに、彼の頭には垂れた犬耳がわふわふといった風に生えているのです。彼に犬耳を付けさせた衣装担当のクラスメイトには最大級の賛辞を贈呈したい所存。今度、匿名で金一封を包むとしましょう。

 

 そう、何を隠そう、私は猫よりも犬派です。

 子犬とか小型犬の愛らしさには特に弱いのです。

 

 それなのに彼ときたら────

 

 

 元々男子としては小柄な彼が衣装によって普段よりもさらに幼い印象になってでもそれだけじゃなくて緊張からか内気で臆病な性分が前面に出てきてしまってさっきからビクビクとしている様が怖がりな子犬を連想させてそこに加えて常日頃トロンとしている彼の眠たげな目と好きなライトノベルの影響から始めたらしい捻くれキャラでは隠し切れない優しい眼差しが合わさってそれはもう宛ら光と闇が両方そなわり最強に見えるというか一瞬これは現実ではなく白昼夢でも見ていたのかしらと心配になってしまって思わず三度見してしまったのですけれどでもそこに彼が居るってことは現実ってことでしょうから私の時代が来ましたねやったね美琴ちゃん大勝利これはもはや大本営発表ということでつまり何が言いたいのかというと私にもよく分からないのだけれどそんなことより焦茶色の垂れ耳が私の大好きなビーグル犬を思わせてこれはもう私を誘っているのでしょうかそうでしょうそうなんでしょうビーグルの子犬なんて私的にもうクリティカルヒットなんですけれどこんな誘惑ってありますかやっぱり誘ってるんじゃないですかカワイイヤッター神様ありがとうございます今度お賽銭に札束を入れておきますイヤッッホォォォオオォオウ!

 

 

 ……失礼。少々、取り乱しました。

 

 でも、ちょっと待っていただけないでしょうか。

 弁明をさせていただけるのなら、これはちょっと卑怯だと思うのです。

 

 不意打ちで彼の犬耳ルックを拝んでしまったのですよ?

 我を忘れるのも致し方のないことと言えるのではないでしょうか。

 

 正直、西園寺家による厳しい教育で培われた鋼の精神力が無ければ、即座に動揺して暴走して即死でした。

 初めて西園寺家の教育に感謝したかもしれません。

 

 ポーカーフェイスを崩さず、身動ぎひとつせず、鼻血も出さずに耐えきった私を誰か本気で褒めてください。

 ……あ、やっぱり結構です。見ず知らずの相手に褒められても嬉しくもなんともないので。

 

 それに、せっかく褒めてもらえるなら彼にお願いしたいです。指名料を払えば可能でしょうか? オプション料金も払うので頭とか撫でてください。ナデナデシテー(脳死)。

 

「……はっ!?」

 

 あまりの尊さについつい悟りを開いてしまいました。

 おそらく等覚まで至っていたのではないでしょうか。これぞ煩悩の為せる業ということですね(違います)。

 

 そんなことより、私がトリップしている間に彼がクラスの一部女子生徒に囲まれているのですけど。

 これはどういうことでしょう。どういうつもりかしら。貴女たち普段は王子拓真と愉快な仲間たちを相手に黄色い悲鳴を上げていたでしょう? 「意外と似合ってるじゃん」「照れちゃって可愛い」「……ペットにしたい」じゃないんですよ。

 

 今さら彼と犬耳の組み合わせがどれほど魅力的か気がついたのですか? 

 遅いですね。そこは既に私が通り過ぎた道です。まぁ、かく言う私もさっき気がついたのですけれど……。

 

 ふふ……。貴女たち、なかなか良い趣味してるじゃないですか。気が合いますね。

 私たち、仲良くなれると思うのだけれど、排除を前提にお友達になれないでしょうか? ダメですか、そうですか。別にいいです。どちらにしても最終的には排除しますので。……排除しなきゃ(使命感)。

 

「ねぇねぇ! お手して、お手!」

「よーしよしよし、いーこだねぇー」

「……尻尾モフらせて」

 

 …………は?

 

 え、待って、待って下さい。

 

 お触りアリなシステムなんですか、ここ? そういうお店でしたの!?

 それならそうと最初から言ってくれれば、大金払ってでも貸し切りましたのに……。

 

「え、あの…ちょっ!? や、やめて……」

「まぁまぁ、いいじゃん。別に減るもんじゃないし」

「いや、あの俺の精神がすり減るんですけど」

「なら別に減っても問題ないね」

 

 あ、あぁ……っ!? いま、犬耳を撫でる流れでさらっと彼の頭を撫でましたね!

 ズルいです。私だって撫でてもらったことはあっても、彼の頭を撫でたことなんてないのに……っ!

 

「うわっ!? えぇ……? ごめん、その……あ、当たっ」

「当ててんのよ」

「何でそこでドヤ顔なんですか。あと、そっちは尻尾の付け根モフるの止めてもらっていいです?」

「……拒否」

 

 ねぇ、ちょっと……。

 貴女たち、少しボディタッチが露骨過ぎません? 淑女としての自覚はないのかしら? 同じ女としてはしたないわよ? 尻尾を触るどさくさに紛れてお尻にタッチなんてそれもう立派なセクハラじゃないうらやまけしからんちょっとその場所代わってください。

 

 それに、彼も彼です。

 ちょっと鼻の下を長くして満更でもなさそうなのは、どういうことなんでしょうか。女なら誰でもいいんですか? なら別に私でもいいですよね? ほら、胸とかその子より私の方が大きいですよ? それに容姿だって負けるつもりはありません。我ながら多少性格というか人格に問題がある気もしますが、そんなものは些細なことです。それに私、尽くすタイプですから。なんならもう骨の髄までしゃぶり尽くす勢いで尽くし倒しますよ? 

 

 だから、その…私じゃダメですか……?

 

 

「ねぇ、せっかくだから記念に写真撮っていい? てゆーか撮るね!」

 

 

 なん…ですって……?

 まさか撮影NGじゃなくてOKだったなんて……。わ、私も欲しいです! 彼の子犬フォームの写真欲しいです!!

 

 ああ……、こんなことなら最新の一眼レフカメラを常備しておけばよかったです。

 いえ、まだ諦めるのは早いですね。最近のスマートフォンはカメラ機能も優秀らしいので、これで私も…わ、わた……し…も…………どうやって混ざればいいんでしょうか?

 

 自然な感じで話に混ざる?

 

 『せっかくだから私も記念に一〇〇枚ほどよろしいでしょうか?』

 

 ダメですね。そもそも表面上は私と彼にクラスメイト以上の接点なんて無いですし、彼女たちとも親しくはありません。

 このタイミングで話しかけるなんてどう考えても不自然でしょう。

 

 ……え?

 

 じゃあ、私だけ彼の写真を手に入れられない……?

 あんなぽっと出の阿婆擦れどもが彼の愛らしい写真を持っているのに、こんなにも彼のことを想っている私は脳内メモリーにしか保存できないのですか? そんな残酷な仕打ちってあります? だって頭の中の映像って現像できないんですよ? 知ってました? 私は知りたくなかったです。

 

 どうすれば……。どうすればいいのでしょうか。

 こうなったらもう、一か八かでこっそり遠くから撮影してみましょうか? いえ、でもそれだと盗撮になってしまいますし、さすがに盗撮は……とう、さ…つ……?

 

 

 ……。

 …………。

 ………………。

 

 

 そうか、その手がありましたね。そうです。そうですよ。別に撮影した映像を公開したり、誰かに売ったりする訳でもないですし。ほら、誰にも迷惑は掛かってないじゃないですか。そもそもバレなければ迷惑に思う余地すらないのですし。それにあれです。車だってドライブレコーダーで許可なく通行人や対向車を撮影しているじゃないですか。お店の防犯カメラもそうです。いちいち撮影対象に許可なんて求めてないでしょう? だから、私が隠しカメラを仕込むのも問題ないですよね。あれです。防犯目的なんです。ほら、この学園は良家の子女が多数在学していますし、良からぬことを企む輩が紛れ込んでいるとも限りません。ですので、防犯カメラの一台や二台どころか教室内を全方位カバーできるだけの数が必要なのは必然的に明らか。うふふ……我ながら完璧な理論です。幸いにも、以前実家の弱みを握るために用意した隠しカメラがありますからそれを流用することにしましょう。……え? 盗撮も立派な犯罪? ……知らない概念ですね。

 

 

 

 はぁ……。綺麗に三六〇度撮影できたらVR用のアバターとか作成できないものでしょうか。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 文化祭二日目。

 一日目とは違い、今日は学園の外からお客様がやってくる日です。

 

 昨日の反省を活かし、早朝から準備に奔走したので既に防犯対策も万全。

 今日こそは彼の犬耳ルックを一秒たりとも逃しません。これで私も彼の愛らしい姿をいつでもいつまでもいくらでも堪能し放題ですよイヤッッホォォォオオォオウ! 文化祭最高ー!

 

 と、そう息巻いていたのですが……。

 

 

「ミコト、キミとの婚約関係は破棄する!!!」

 

 

 まさかの王子拓真からの婚約破棄イベントです。

 やらかしました。この人、やらかしてくれましたよ……!

 

 なんならもう、私の頭上で祝福の鐘状がリーンゴーンと鳴り響いているような気がします。

 

「……王子さん。本気ですの?」

 

 想像もしていなかったまさかの展開に、思わずロールプレイしていた貴族令嬢口調で訊ねてしまいました。

 いえ、もうそんな些細なことに構っていられる余裕なんてありません。これはチャンス。千載一遇の大チャンスです。必ずやモノにしてみせますとも!

 

「ああ、もちろん本気だ。これ以上、キミの彼女に対する横暴な振る舞いを看過することはできないっ」

 

 ちょっと何を仰っているのか分からないのですが、下手に否定して勘違いでしたと婚約破棄を撤回されても困ります。

 ここはいかにも悪事がバレて無駄な足搔きをしている惨めな令嬢風に家の都合を盾に反論してみましょう。

 

「……この婚約は私たちだけではなく、家同士の約定によって成立しているものよ? それなのに、貴方の一存で一方的に破棄すると?」

「両親はオレが必ず説得してみせる。まぁそれも、キミの醜い嫉妬心が引き起こした数々の非道を伝えれば了承してくれるだろうけどね」

 

 本当に説得してくださいね? 絶対ですよ?

 とは言え、この程度ではちょっと弱いでしょうか。まだ油断は禁物。絶対に負けられない戦いが、ここにあるのです。

 

 決定的な言質を取るためにも、非は完全に向こうにあると証明するためにも、もうちょっと相手の失言を引き出しましょう。

 

「非道、ねぇ……」

 

 本当に私、いったい何をやったのでしょうか。

 まったくもって身に覚えがないのですけれど……。

 

「その非道な行いとやらを私がやったという証拠でもあるのかしら?」

 

 むしろ私は彼女と王子拓真の仲を応援するために、嫉妬から嫌がらせをしようとする王子拓真のファンたちを牽制して守ってあげてすらいたのだけれど。

 これは恩を仇で返されたということでしょうか? いえ、でも、婚約破棄自体は私としても願ったり叶ったりですから、彼女と王子拓真からの恩返しと言えなくもない……?

 

「それは姫香が勇気を出して証言してくれた。内気でか弱く、純粋で穢れを知らない無垢な彼女がオレに噓を言うはずがない」

 

 えぇ……。まさか彼女の言い分だけを信じて婚約破棄を宣言してしまったのですか?

 もっとこう、盤石で言い逃れができないような決定的な証拠とかを揃えてください。必死になって決定的な言質を引き出そうと躍起になっている私が馬鹿みたいじゃないですか。

 

 ほら、何かあるでしょう?

 証拠写真とか、現場に落ちていた私の私物とか、そういう物的証拠を出してくださいよ。捏造でもいいですから!

 

「当然だね。この学園の生徒会長として、僕が彼女の証言を保証しよう」

「俺様も保証するぜ。文句がある奴は俺様がぶっとばしてやらぁ!」

「自分も同意見っす! 姫香ちゃんが自分たちにウソなんて吐くはずないっすもん!!」

「そういうことです、姉上。貴女には失望しましたよ。このことは家長である父に報告させていただきますので、覚悟してください」

 

 アッハイ。

 もういいです。貴方たちに期待した私が愚かでした。

 

 あとどうでもいいのですが、弟はいつの間にこんな愉快な仲間たちの仲間入りを果たしてしまったのでしょう。

 こんな底の浅い弟で西園寺家は大丈夫なのでしょうか? この子が西園寺家を継いだ行く末が些か不安ですが、私には微塵も関係ない話なのでやっぱりどうでもよかったですね。

 

「……そう。王子さん、そして貴方たちも、全員本気で彼と私の婚約破棄を支持する……という認識で良いのかしら」

 

 これ以上粘っても無駄そうですから、話を前に進めましょう。

 

「当然だ!」

「ふん、ライバルに塩を送るというのもまた一興、ということだよ」

「拓真に姫香を渡す気はさらさらねーが、それとこれとは話が別だ。正々堂々が俺様のモットーなんでな!」

「もちろん本気っす! 正義は自分たちにありっす!!」

「姉上、弟としてせめてもの情けです。ここで全ての罪を認めて素直に謝罪するなら、家を勘当される程度で許してあげましょう」

「皆さん……! わ、わたしのために……ありがとうございますっ」

 

 私としても本当にありがとうございます!

 感動に震えて涙している彼女をチヤホヤしている光景のなんと素晴らしいことか。その意気です。もう少し頑張ってください。

 

「……本当に、婚約を破棄するつもりなのね?」

「今さら謝って泣きついてきてももう遅い! オレは”真実の愛”に目覚めたんだ!! これからは彼女とともに幸せな人生を歩む!!!」

 

 ……それは奇遇ですね。

 私も昨年、彼との”真実の愛”というものに目覚めて絶賛暗躍中なんです。うふふふ……。

 

 さて、もうそろそろ良いでしょうか。

 冤罪による衆人環視の前での一方的な婚約破棄宣言。誰がどう見ても私に過失はないですし、今さら撤回など両家の面子からして不可能でしょう。

 

 私は歓喜に打ち震えそうになる身体を懸命に抑え込み、震える声で王子拓真に改めて問いかける。

 

「ほ、本当に……?」

「だからそう言っている!」

 

 ダメよ。まだ笑ってはダメ。

 念には念を入れて言質を取らないと。後になってから「あのときは知らなかったんだ」とか「騙されていただけなんだよ」と言って縋られても迷惑ですもの。

 

「本気なのね? 後になってから許してくれとか、さっきのは気の迷いだったなんていうのは認めないわよ?」

「くどいぞっ」

 

 もう一声!

 

「ほんっ~~~とーのホントにほんとうに本当に本当に本当に本当に本当に…………婚約破棄するのね?」

「何なんださっきからっ!? ミコトとの婚約は破棄するっ! この王子拓真に二言はない!!!」

 

 ”二言はない”いただきましたっ!

 

 

「…………シャオラァ!」

 

 

 あらいけない。あまりにも嬉しくて、つい淑女らしからぬ勝利の咆哮を上げてしまいましたわ。やだもう美琴ったらはしたない。ごめん遊ばせ。おほほほほ。

 

 ……はっ!?

 

 いけないいけない。

 夢のような展開にテンションが降り切れて、思わず貴族令嬢ロールプレイが出てしまいました。

 

 けれど、今はそんなことをして時間を無駄にしている場合ではありません。

 『兵は拙速を尊ぶ』と昔の偉人も言っていました。この好機を必ずモノにするためにも、外堀どころか内堀と言わず、一気に本丸まで攻め落としてしまいましょう。

 

「──もしもし。お父様? いまお時間よろしいかしら? ……これから重要な会合? 知りません、そんなこと。黙って私の話を聞きなさい」

 

 電話口で困惑している父の都合など知ったことではありません。

 そんなことよりも、一秒でも早くこの吉報をお伝えしなければ。……この想い、父に届け!

 

「まず結論から申し上げますと、王子拓真さんとの婚約は相手方の一方的な都合により破棄されました」

『破棄ッ!? 破棄だと!???』

 

 そうです。破棄です。紛れもなく婚約破棄ですよ。

 

「お父様。私、約束しましたわよね? これまで育ててもらった恩があるから、最後にひとつだけ、家のために何でも従うと」

『待て! 頼むッ!!』

 

 待ちませんし、頼まれてもごめんです。

 

「だから、自分を滅して王子さんとの婚約に異を唱えることもしなければ、高校卒業後は約定通りに彼と結婚するつもりでした」

『美琴!?』

 

 私は本当に結婚するつもりだったんですよ? 約束通りに……。

 西園寺家にはこの年まで何不自由なく育ててもらった恩があります。たとえそこに親子としての情愛は無くとも、家の都合だったとしても、そのことに感謝している気持ちは本当でしたから。

 

「けれど、あちらから婚約破棄してきたんですもの。たとえ契約不履行でも、こちらに瑕疵はないですわよね?」

『ッ──! 待て! 証拠はあるのか!!』

 

 ああ、王子拓真が本当に自分から婚約破棄を宣言したのかを疑っているのですね?

 まさか彼の子犬ルックを永久保存するために仕込んだ隠しカメラが、こんな形で役に立つとは思いませんでした。

 

「……証拠? それなら後で4K動画で送り付けて差し上げますわ。そんなことより────」

 

 

 ああ……、急速に自分の頭が冷めて、覚めて、醒めていくのがわかる。

 これまで靄に包まれていた願望が、霞がかかっていた想望が、霧に覆われていた待望が、押し込めていた私の内側から外側へと濁流となって押し寄せていく。

 

 ねぇ、お父様──。

 どうして私が、一方的に有利な立場にいながら、お父様のお願いを訊いてあげたと思っているの?

 

 西園寺という家に感謝しているのは本当。

 でもね、それだけじゃない。それだけじゃなかったの。

 

 どうせ理解していないのでしょう?

 だって、それはそうよね。私は何も言っていないもの。気持ちを伝えることも、言葉を届けることもしなかった。

 

 でもね……。

 

 あの日、彼に触れて、温もりを感じて、泣いて、縋って、甘えて、私は知ってしまったの。

 

 誰かが無条件で自分の傍にいてくれるということの、安心を、安寧を、安息を、安楽を、安堵を、安泰を────。

 

 だから、期待してしまったのでしょうね。

 無理だと悟っていても、無駄だと理解していても。

 

 私は欲張ってしまった。

 願ってしまったのだ。縋って、甘えて、手を伸ばそうとしてしまった。

 

 ねぇ、お父様──。

 どうして最後まで、私のことを理解しようとはしてくれなかったの?

 

 要求の目的は訊ねても、計画の裏を読もうとはしても、私の本音を訊こうとはしてくれなかった。

 

 ──真意を察して欲しかった。

 ──含意を汲んで欲しかった。

 

 西園寺家の当主としてではなく、西園寺家の娘としてではなく、ただの父親として、ただの娘として、私を視て欲しかったのに。

 

 伝えていないのだから、伝わるはずがない。

 言っていないのだから、察するはずがない。

 

 勝手なのは私で、傲慢なのも私で、強欲なのも私。

 

 それでも信じてみたかった。

 そこに家族としての情が、絆のようなものが、一欠けらでも残っているんじゃないかって……。

 

 

 『……それなら高校卒業と同時、王子拓真と結婚しなさい。おまえと王子家との婚姻は西園寺家として重要な────』

 

 

 私はその”お願い”を了承した。

 これが私なりの最後の親孝行だと、そう割り切って、そう切り捨てて、私は家族というものを諦めた。

 

 

 ────私は異常だ。

 西園寺家として間違っているのは私で、異端なのも私で、狂っているのも私。

 

 

 ────私は異常だ。

 ひとりの女として彼のことを求めているのに、彼だけを欲しているのに、他の誰かと結婚することに頷いている。

 

 

 ”西園寺家の娘”として生きていた私と、”西園寺美琴”として生きようとしている私。

 そんな二律背反に耐えかねて、心が悲鳴を上げて、仕方がないから私は仮面を被ることにした。

 

 

 ライトノベルに影響されたのだと自分を納得させて、私の中に私だけど私じゃない別なキャラクターを作り上げて、内に眠るドロドロした想いを、底に沈むグチャグチャとした感情を誤魔化したのだ。

 

 

 でも、それも今日で終わり。

 

 

 ふと正面からの視線に気がついて、()()()()()()()に焦点を合わせる。

 

 

 私の婚約者だったモノが、それに縋りついているモノが、愕然とした様子で私を視ていた。

 

 そう、そうよね。

 今、私がこうしていられるのも、彼らのおかげなのよね。

 

 ねぇ、王子拓真さん。

 貴方は私にとって、最善の婚約者だったわ。

 

 ねぇ、何処の誰とも知れない泥棒猫さん。

 貴女は私にとって、最良の福音者だったわ。

 

 だから、あのときのように笑いかけてあげましょう。

 幼いときは私が哂うと、貴方はとても嬉しそうだったものね。

 

 

 ────ありがとう、私の元婚約者さん。

 

 

 あらあら。私が心の底から嗤いかけてあげたら、嬉しさのあまり気絶してしまったみたい。

 

 でも、もうそんなことどうでもいいわね。

 そんな些細なことに構ってあげるほど、暇じゃないの。

 

 さて、それじゃあこちらも、お仕舞にしましょう。

 

 

「──もう、西園寺家には二度と縛られない。これからは、私の自由にさせていただきます」

 

 

 通話口の先で絶句している父に別れの言葉を告げて、もう用済みとなったスマートフォンを踏み砕く。

 代替になるスマートフォンは個人弁護士を介して用意してあるので、西園寺家として契約しているこちらはもう要らない。

 

「……うふっ」

 

 終わってみれば、呆気ないものだった。

 捨ててしまえば、味気ないものだった。

 

「うふ、ふふふふふ。ウフフフ」

 

 言いようのない虚無感も、埋めようのない寂寥感も、気がつけば自然とこぼれる笑みと一緒に霧散していた。

 

「くふっ、フフフフ」

 

 視線を感じる。

 気配を感じる。

 だから、彼が何処にいるのか、私には手に取るようにわかる。

 

「ふふ……」

 

 振り向けば、彼がいる。

 驚愕したような、困惑したような顔をして、どこか焦燥に駆られていた。

 

 そんな姿も愛らしくて、愛おしくて、だから、ついつい笑ってしまう。

 

「うふふ」

「っ……!」

 

 そうね。不思議よね。

 もしかしたら、アナタは覚えていないのかもしれない。階段で助けた相手が私だって気がついていないのかもしれない。

 

 それとも、覚えていて、気がついていて、それでも何事も無かったかのように振舞っているのかしら。

 

 ずっと聞きたかった。

 ずっと知りたかった。

 

 でも、今となってはもういいの。

 

 アナタが覚えていなくても、気がついていなくても、知らんぷりしていたのだとしても、そんなこと、私には関係ないもの。

 

 私はアナタの温もりを、忘れないから。

 私はアナタの匂いを、覚えているから。

 私はアナタの存在を、知っているから。

 

 だから、これからでいいから。

 

 

 ──彼が何かを確かめるように、横を向いた。

 

 巻き込まれたくなかったのか、視線の先にいた無関係の生徒たちがサッと距離を取った。

 

 

 ──彼が助けを乞うように、逆を向いた。

 

 昨日、彼にセクハラを働いていた三人組の一人が気を失って倒れていた。

 ごめんなさいね。思い出したらなんだかムカムカしてしまって、つい殺気を送ってしまったの。別に許してくれなくていいわ。どうでもいいから。

 

 

 ──彼が救いを求めるように、後ろを向いた。

 

 残念でしょうけれど、無駄よ。

 そこには誰もいないもの。何もないの。私の視線の先に居るのは、アナタしかいないの。

 

 

 だから、これから始めましょう。

 

 

 アナタと、私の、二人の人生を────。

 

 

 

「…………あはぁ♡」

 

 

 

 ねぇ、だからお願い、私を視て。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 彼女が、一歩前に出る。

 

 応じるように、俺は一歩後退った。

 

 彼女が進んだ分だけ、俺も退く

 視線は逸らさない。逸らせない。

 

 縮まらない、二人の距離。

 

 でもやがて、それも終わりを迎える。

 

 何事にも終わりはやってくるとは言うけれど、今だけは、終わってほしくなかった。

 

「っ……」

 

 俺の背中が、廊下と教室を隔てる壁にぶつかったのだ。

 咄嗟に背後を振り返って、目の前に広がる見慣れた教室の壁に愕然として、ハッとして正面に向き直った。

 

「……ふふ」

 

 いつの間にか、数メートルはあったはずの距離がゼロにされていた。

 

「さ、西園寺さ──」

 

 取り繕うように口をついて出た言葉は、しかし最後まで言い切ることが出来ずに遮られた。

 

 ドンッと苛立つように、彼女の両手が俺の顔を挟むようにして壁を叩いたのだ。

 

 

 ……壁ドン?

 

 

 え? 俺、いま西園寺さんに両手で壁ドンされてるの?

 普通、こういうときの男女の立ち位置って逆じゃない?

 

「……美琴」

「はい?」

「美琴って呼んで?」

「アッハイ」

 

 ふぇぇ…、さからえないよぉ……。

 

 いや、本当に無理です。顔は笑顔だし、目も優し気だし、声も機嫌良さそうなんだけど、纏っている空気というか、オーラみたいな圧が強すぎて断るとか無理です。

 

 いやちょっと待って! これ、本当に西園寺さん? 本当に、()()西園寺さんなの?

 

「……ねぇ」

「は、はい」

 

 唯でさえ近かった二人の距離感が、更に縮まる。

 

 相手の瞳に、自分の姿を捉えてしまえるほどに……。

 ふとした拍子に、僅かに身動ぐだけで、俺と彼女の唇が触れ合ってしまいそうなほどに……。

 

「ずっと、この日を待っていたの。()()()から、こうなる日を、こうなれる日を、私はずっと待ち望んで、そのために、それだけのために、今日まで準備してきたの」

 

 どこか熱に浮かされるような瞳で、彼女は惚惚と語る。

 揺れる、潤む、その目は、語り口調は、焦っているようにも、逸っているようにも思えた。

 

「思っていたのとは、考えていたのとは違う形になってしまったけれど、それでも結果は変わらない」

 

 彼女が口を開く度に、彼女の吐息を、その息遣いを間近に感じてしまう。

 

「もう私を縛る家はない。私を縛り付ける婚約者もいない」

 

 奈落を思わせる深く暗い瞳は、滲んだ涙でキラキラと目映くて、まるで闇夜に浮かぶ幻想のようだった。

 

「……やっと、ここまで来れた」

 

 消え入りそうな声で絞り出された言葉に目を見開いて、至近距離に迫る彼女を見据える。

 目に入ったのは、なぜだか彼女の端麗な顔でも、色香を振りまく艶やかな身体でもなく、小さく震えるか細い両肩と両腕だった。

 

「西おん…っ……美琴さ…………美琴」

 

 微かに眉根を寄せて、僅かに眉尻を下げて、彼女は華やぐように顔を綻ばせる。

 

 俺が学園でも有名な西園寺美琴について知っていることは少ない。

 

 誰もが羨むような名家のお嬢様で、

 誰もが羨むような容姿に恵まれていて、

 誰もが羨むような婚約者が傍にいる。

 

 そんな程度の、誰でも知っているようなことしか知らなかった。

 

「……美琴」

 

 俺が()()()()()()西園寺美琴という女の子について知っていることは多くない。

 

 弱弱しく震える細い肩。

 小さく縮こまる白い肢体。

 甘えるように縋る華奢な手。

 幸せそうに微笑む穏やかな幼い寝顔。

 

 俺が彼女について()()()()()ことは、その程度だ。

 

「君は、どうしたいの?」

 

 自然とこぼれだした疑問は、きっと彼女の望んだ言葉ではないのだろう。

 

「……お願い」

 

 彼女は一瞬だけ虚を突かれたように瞠目して、次の瞬間には妖艶にはにかんで、それが俺には幼子が怯えながら駄々をこねているようにしか見えなかった。

 

「私のものになって」

 

 それは、なんて傲慢な懇願なのだろう。

 

「私をアナタのものにして」

 

 それは、なんて悲壮な哀願なのだろう。

 

「私を…視て……」

 

 それは、なんて幼稚な嘆願なのだろう。

 

 

「んっ……」

「……!」

 

 

 

 ふわりと、唐突に、なんの前触れもなく、突然に、西園寺美琴は俺と口付けを交わした。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 気がついたときには、もう遅かった。

 彼が瞠目したのが分かったけど、それもすぐに気にならなくなる。

 

「んっ……」

「……!」

 

 唇に感じる柔らかな感触。

 『ファーストキスはレモンの味』なんて話を耳にしたことがあったけれど、そんなものは嘘だと知った。

 

 現実には味なんてしない。

 どちらのものとも知れない、微かなリップのぬるりとした触感があるだけ。

 

 この行為に、いったいどんな意味があるのだろう。

 生殖行為のように子を生すためでもない、神前で誓う意味もない、ただ単に互いの唇を触れ合わせているだけ。

 

 そう、それだけ。

 

 たった、それだけ。

 

 それだけのことなのに、どうして私の胸はこんなにも高鳴っているのだろう。 

 

 全身が火照ったように熱くて仕方がない。

 

 身体中が()()を求めて我慢できない。

 

「ぁ…ん…っ……ふ……んんっ」

 

 本能の赴くままに、舌を伸ばす。

 

 彼が身構えたのが分かったから、逃がさないように両手で彼の頭を支える。

 

 私が伸ばした舌先が、彼の固く閉ざされた唇を強引に押し開く。

 

「ん…ふぅ……っ…ぁむぅ………んっ……」

 

 まだだ。

 

 まだ足りない。

 

 私が求めているものは、まだ遠い。

 

「ふ……ん…ぁ……ぅん………」

 

 伸ばして、這わせて、彼の口腔を蹂躙する。

 押し入るように、抉じ開けるように、舌を割り込ませる。

 

 噛み合わせの僅かな隙間を見つけて、縋るように、願うように、祈るように、私は舌を挿し込んだ。

 

「…っ……ふむ……ぁ…んっ……」

 

 逡巡するような抵抗も、すぐに消えた。

 諦めたように、絆されたように、慰めるように、彼が私の舌先を迎え入れてくれる。

 

 直に感じる温もりと、粘つくような唾液。

 

 息をするのも忘れて、私は貪る。

 

 彼の舌を絡み取って、私の舌で転がして、その柔らかくて固い不思議な感触に全神経を集中させた。

 

「……ふぁ…んっ」

 

 どれだけ、求めていたんだろう。

 どれほど、続けていたんだろう。

 

 永遠にも思えるし、一瞬であったようにも感じる。

 

 酸素が不足してぼーっとする頭でそんなことを考えながら、私はゆっくりと、名残惜しむように、そっと彼の唇を開放した。

 

 

 距離を取った分だけ、互いの舌先から延びた唾液が糸を引く。

 

 

 真っ直ぐに伸びていた二人を繋ぐ透明な糸が、やがて重力に負けて落下を始めた。

 

「ぁ……」

 

 その光景に胸が締め付けられて、無性に悔しくて、辛くて、哀しくて、彼との繋がりを断ちたくない私は追い縋るように再び彼と唇を重ねる。

 

「はむっ…ん……ぅん………ふぅ…」

 

 二度目のキスは、すんなりと受け入れられた。

 

 ツルツルとしたエナメル質の感触が楽しくて、

 顔にかかる彼の鼻息が擽ったくて面白しくて、

 肌で感じるよりも高い体温にときめいて、

 絡み合う舌先での追いかけっこに心が躍る。

 

 私は両手を下ろして、そのまま彼の腰に回してぎゅって抱き寄せた。

 

「んんっ……!」

 

 背中に温かな感触が()()()()()()()()、彼の腕がきゅっと私を抱きしめる。

 それだけじゃなくて、ぎこちない手つきで、慣れない動きで、不器用にゆっくりと、彼が優しく私の頭を撫でてくれた。

 

 ぽろぽろと、ほろほろと、ぼろぼろと、頬を伝って流れる熱い雫は際限がない。

 

 

 彼の腕に抱かれて────。

 彼の温もりを肌で感じて────。

 彼の匂いに包まれて────。

 

 

 私の心を覆っていた罅割れた殻が、溶けるように、蕩けるように、はらはらと流れ落ちた。

 

「…………んっ」

 

 ずっと続けていたい気持ちを押し殺して、私は静かに唇を離すと、すっと視線を下げて俯いた。

 

 

 ──今はちょっと、彼の顔を直視できる自信がない。

 

 

 今更ながらに、不安になってしまった。

 突然こんなことをしておきながら、何を悩んでいるんだろうと自分でも呆れてしまう。

 

 関係ないはずだった。

 彼が自分をどう思っていようと、私が彼を想う気持ちは不変だから。だから、嫌われても、疎まれても、関係ないと思っていた。最悪、監禁でもして時間をかけて私を受け入れてもらえれば、それで良いとさえ思っていた。

 

「……」

 

 私は、また欲張ってしまった。

 

 彼の温もりを感じられれば、それで満足できた筈だったのに。

 彼の匂いに包まれていれば、それで満足だった筈だったのに。

 

 私は、また期待してしまった。

 

 愛してほしい。

 恋してほしい。

 

 好きになってほしい。

 手を伸ばしてほしい。

 

 私の心に、触れてほしい。

 

「……!」

 

 勇気を出して、私は顔を上げた。

 必死の思いで、彼の顔を窺った。

 

 

 彼と()()()()

 

 

 昂る鼓動に、滾る想い、疼く心に、揺れる私。

 

 

 迫る濡れた瞳に、重なる濡れそぼった唇。

 

 

 

 私のなけなしの理性の糸が、プツリと音を立てて千切れ飛んだ。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 ……早まったかもしれない。

 

「み、美琴……?」

 

 正直、場の空気に流された感は否めない。

 それでも後悔はない。反省もしない。

 

 ……いや、やっぱりちょっと考えなしだったかもしれない。

 

「おーい?」

 

 いずれにしても、賽は投げられた。

 投げてしまったのは、自分自身。

 

 なら、後は野となれ山となれの精神だ。

 

「……もしかして、嫌だった?」

 

 だって、もう二度と、自分が一番後悔しない選択肢は何かを考えた結果が、()()だったのだから。

 

「──ぐ、────しょう」

 

 突然、電池が切れたかのようにストンと真顔になって、ピクリとも動かなくなってしまった美琴。

 こちらが何度呼びかけても反応が無かったけど、ようやく意識が戻ってきたらしい。虚ろな瞳を怪しく煌めかせて、何事かを小さく呟いている。

 

「────っこん」

「え? なんだって?」

 

 上手く聴き取れなくて、思わず鈍感系主人公みたいな台詞を吐いてしまった。

 俺がちょっとした気恥ずかしさに苦笑していると、無表情でトリップしていた彼女の表情に生気が戻り、またもや両手を駆使した逃げ場のない壁ドンが繰り出された。男前すぎる。

 

 

「今すぐ、結婚しましょう」

 

 

 ちょっと男前すぎやしませんかねぇ……?

 俺の困惑した様子に、何かを察したらしい彼女が鷹揚に頷いて答える。

 

「安心して、もう新居は用意してあるから」

「違う、そうじゃない」

 

 お願いだからこちらを置いてけぼりにして、未来に生きないでもらえます?

 

「あ、もしかしてタワーマンションは嫌い? 大丈夫、一戸建ても確保してあるから!」

「そうじゃねぇよ」

 

 いい加減、不動産から離れて? もっと前提として気にすることが別にあるでしょ?

 

「あのさ、今すぐ結婚って言われても……無理だよ」

「……え?」

 

 どうして、そこで信じられないって顔をして固まるのか。

 もっと常識的に考えてほしい。俺たちの間には、もっと根本的な問題が立ちはだかっているのだから。

 

「その、法的に……無理」

「法的……?」

「俺、まだ十七歳だから。結婚って男子は十八歳からでしょ。だから無理」

「……あ、うん」

 

 キョトンと呆けたように、彼女は小さく頷いた。

 でも、少しするとしきりに首を傾げて、何やら訝し気に眉根を寄せてみせる。

 

「……ねぇ」

「ん?」

 

 やがて自分の中で結論が出たのか、彼女は俺の両頬に手を添えると、じっと瞳を覗き込んでくる。

 まるでこちらの真意を読もうとするように、含意を汲み取ろうとするように、彼女は瞬きすらせずに問いかけた。

 

 

「それって、法的な問題が無ければ私と結婚してくれるってこと?」

 

 

 考えてもみなかった質問に、頭が真っ白になる。

 彼女の言葉を咀嚼して、質問の意図を理解して、もう一度頭が真っ白になった。

 

 一拍して、脳が再起動。

 

 そのとき、ふと最初に頭に浮かんだ答えに、俺は慌てて取り繕うように視線を泳がせた。

 

 でも、どうやら『目は口ほどに物を言う』という諺は本当のことだったらしい。

 静かに俺の目を見据えていた彼女が、ニンマリと唇を横に広げて笑みを作る。

 

 

 

「…………んふぅ♡」

 

 

 

 内心を悟られて羞恥に悶える俺を揶揄うように、彼女は笑った。

 自らの泣き顔を誤魔化すように、彼女は笑った。

 

 

 それは、とても魅力的な笑顔だった。

 

 

「じゃ、行きましょうか」

「え、何処に?」

「もちろん、私たちの新居です」

「ふぇ……?」

 

 強引に引きずられ、有無を言わせずタクシーに乗せられて、辿り着いた先にはタワーマンションがそびえ立っていた。

 

「……マジか」

 

 空を見上げて呆然とする俺を余所に、西園寺美琴は含むように笑いながら、するりと俺の首に両手を回す。

 

「もう、逃がしてあげない」

 

 躊躇なく唇を重ねて、彼女は宣言する。

 

「もう絶対に、離してあげない」

 

 悪戯気に微笑んで、彼女が俺の手を引いた。

 

 

 

「末永くよろしくね。……()()()?」

 

 

 

 このあと滅茶苦茶(ry

 




あとがき

五千字程度で可愛いヤンデレコメディ短編を書きたかったはずなのに、いつの間にか迷走してイミフなお話に……。どうしてこうなった。

【人物設定】
・彼
 主人公と見せかけたヒロイン。
 名前は木下 昴(きのした すばる)という設定だったが、作中で活かされることはなかった。
 友人に勧められた捻くれぼっちが主人公の青春ラブコメに影響を受け、斜に構えた性格を目指すも、根が小心者なのとお人好しな性格が災いして上手くいっていない、という設定だが、作中で活かされることはなかった。
 西園寺美琴のことは数日後に廊下で再会した際に背格好から察するも、確信が持てず今に至る、という設定だが、作中で詳しく描写されることはなかった。
 彼女には淡い気持ちを抱きかけていたものの、再会直後に婚約者の存在を知ってしまい、恋心に発展する前に霧散した、という初期設定だったが、作中で上手く活かされることはなかった。

・西園寺美琴
 ヤンデレと見せかけたクレイジーサイコ甘えん坊。
 死にかけたことで覚醒し、命の代わりに情緒が死んだ。
 彼に対する想いは完全にインプリンティングであり、家族愛が得られなかったことからくる依存であるとも自覚している……が、そんなの関係ねぇの精神で突っ走るヤバいお人。

・王子拓真
 ざまぁ要員と見せかけた道化。
 本人は知らないが、王子家としては一年足らずでかなりの規模の個人資産を築き上げた美琴の資産運用能力に期待しており、結婚したら不振が続く投資部門を任せようとしていた。
 ちなみに、不振の一因は大企業になっても一族経営に拘ったことによる弊害だったりする。
 もちろん、このあと滅茶苦茶怒られた。

・乙女ゲーヒロインポジションの小動物系美少女
 ただの乙女ゲー好きの夢見る乙女。
 面白半分でG5のメンバーに乙女ゲーのノリでイベントを消化していったら上手くいってしまって後に引けなくなってしまった哀れな人。 
 最終的に逆ハーエンドを目指すも法の壁に阻まれ挫折した。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。