一行コピー:「きみが死ぬまで、そばにいるのをやめない」
死神たちは運命を知っていた。
時折現れる特異点だけが彼女たちを悩ませた。
これは、二つの世界の境目を行き来する、二つの魂の物語。
1.
他界。それは死ぬということ。他の世界へ行くという甘やかな旅の言葉ではない。
幼稚園生だった頃に両親がふたりとも癌で死亡し、小学生だった時分には幼馴染みが交通事故で死んだ。中学時代には親友が自殺。俺にとって重要だった人間たちは、みんな思いもよらない形で去っていった。
俺は死ぬことがとても恐ろしいことだと感じていた。だがその一方で、自分を置いていく人間たちを追いかけたいと思う気持ちもあった。ふたつの気持ちがないまぜになると、ひどい恐怖におびえているにも関わらず、死というものに近づきたいという一瞬が襲ってくる。
今日もそうだった。暗い夜道の中で、ふと強烈に死の近くで立っていたいと感じた。
風が極まって強い。横殴りの風だ。車の通りが非常に多いこの場所で、ガードレールの上に足をかけていた。ひどく震えていた。このまま、この上に立つことができれば。その後には、制御できない足の震えと強烈な風のせいで、俺はどちらかに落ちるだろう。そうなれば、あとは運だ。
実際にそうしてみた。この一センチにも満たない足場で身体を支えるのは難しい。俺の身体は未練がましく姿勢を支えようとしている。後ろに倒れ込んで逃げようとするのを気合で制する。風よ、吹け。車のクラクションがうるさい。何度も何度も警告の音がなる。遠くを見ようと思った。あぜんとした様子でこちらを眺めているおばさんがいた。両手には荷物がパンパンに詰まったビニール袋。風の音。耳のそばでざわざわと触れていく空気の粒子。その構成要素に思いを馳せた。恐怖が遠のいていく。
不意の突風。身体が揺れる。
後ろに倒れるな。
いくなら前だ。
不幸なドライバーを巻き込んで、この世界にさよならを告げる。
さあ、みんなが旅立った別の世界へ。
そんな言葉を脳裏に浮かべながら、わざと前に倒れ込んでいく。
耳をつんざくようなスキール音。そして、衝撃。潰れる音。
気がつけば、俺はガードレールのこちら側でぼうっと立っていた。
次々と通り過ぎていく光を放つ鉄の塊。
その向こう側に、俺はどこかで見たことのある少女の姿を見ていた。
光を通して白くきらめく髪を揺らした、真っ黒なワンピースを着た美しい少女を。
それはいつか、俺のことを置いていってしまったあの子に似ている気がした。
口内に砂糖のような甘さの記憶が蘇る。
闇の中で、何枚もの写真を撮るように。いくつもの光景が瞳に焼きついていく。彼女の唇が形作る言葉を、車の通り過ぎる轟音でまったく聞こえないはずのそれが、確かに、音のように、頭の中に刻み込まれた。
ここではない
それだけを残し、その少女はきびすを返し、車の影に隠れた刹那に姿を消す。
——その日以来俺は、この狭い世界の中で、自分が死ねる場所を探し始めた。
2.
七月最後の登校日に、そいつは唐突に俺の目の前に現れた。
雨が地面に叩き付けられる音が、まるでラジオのノイズのようにざらざらと鼓膜をくすぐる。雨は冷たいが、どこか気持ちよさも感じた。暗色の傘が群となって校庭を縦断していく。この気候では、だらだらと屋上でたむろす人影も他にはない。だから俺は雨が好きだった。古い小説に書かれてあるような、学校の屋上が自殺の名所である時代。それはとっくに通り過ぎてしまっている。強固で背の高いフェンスに囲まれ、最上部がこちら側に曲がっているから、死だけを渇望するような軟弱な人間では突破することも難しい。
なんとか今学期もやりすごしたか、と俺はどこかで思っている。普段の俺はとてもじゃないが死にたいなどと考えていない。とりあえずごく普通の人生を送ろうという努力はしているつもりだ。
努力。死ねばそれまでの人生にどんな意味があるかはわからないが、努力をするということや、その結果を享受するということには快感が伴う。それだけがモチベーションとなっているのに、俺の生はまるで通常運行しているかのように他人には見えるらしい。俺が時々、強烈に死にたいと思うこと。それを俺以外の誰も知らない。
このまま雨に当たり続けて、身体に異常が出るまでそうしていられたら。誰にも発見されず、ただひたすらに苦しんで、じわじわと死んでいく。そういうところを想像した。苦しいのは嫌だと思った。どれだけ大きな苦痛でもいいから、できるだけ短い時間で。向こうの世界に行くなら、そういう風なのがいい。
「まったく、いくじなしだよな」
独り言を呟いて、さっさと帰ってしまおうと思った。
「その通りだ、このいくじなしが」
ほとんど咄嗟に、俺は自分の身体をフェンスに叩き付けていた。そのように跳躍していた。あまりに驚いたせいだ。こういう反応をするから俺はけっこうひょうきんなやつだと思われているらしいのだが、そんなことはともかくここには俺以外誰もいなかったはずだ。そんな気配はいっさいなかった。
「なにをそんなに驚いているのか知らないが、ここはおまえだけの場所ではない。雨を浴びて青春気分でも味わっていたのか、おまえは」
女子だった。うちの学校のスカートを穿いている。白く透き通る髪の少女。いや、美少女か。こんなきれいな女子は学校内では見たことがない。口調は乱暴だが、かわいいと感じる声質だった。口の中に、なぜかこんぺいとうの味が広がった。背はあまり高くない。この雨の中なのに傘も差さず、髪の先から水が滴っている。
上から下まで観察し終え、そして俺は気がついた。
交通事故で死んだ幼馴染みにそっくりだ。髪の色以外、なにもかもが。
「実在する人間だということがわかったか。まったく、おまえは文学的ロマンを感じるにはややセンスに欠ける男だよ。外見はまあまあだが、行動がとかくコメディックに過ぎる。わたしの期待を返せよ」
なにかひどいことを言われているのは理解した。
「勝手に期待するなよ。人間は都合よく動きゃしないんだよ。だいたい、おまえどこの誰だよ。上級生かもしんないけどよ、おまえだって充分おかしいだろ」
すこし、間があった。目の前の少女が、すこし迷ってから、目つきを鋭くした。
「アンブレラだ」
はねつけるような言い方だった。
「アンブレラ・ゴッドフィールド。二年だよ。おまえ……同学年じゃないか。あ、なんとかやま、さと……」
「アシヤ・マサトだ。名前と名字をくっつけて読むんじゃない。日本語がわかんねえんだろうけどな」
「失礼なことを言うな、マサト」
即呼び捨てだったが、それを指摘することはしなかった。アンブレラの表情は、情けないことだが非常に恐ろしく見えた。美しかったが、息を呑んだのは語気に押されたせいだ。
「わたしは文学部に所属しているし、おまえよりも遥かに日本語に堪能だ。薔薇だって漢字で書ける。おまえはどうだ」
「んなもん書けなくても困らねえよ」
「よってわたしが上でおまえが下だ。口答えするな、このクソボケカスが」
美少女なのに口汚すぎないかこいつは。小説をいくら読んでも話し言葉が美しくなることはないんだな。俺はどこかで残念に思いながら、「わかったよ」と返した。俺の心中には、不快感よりも、もっと別のもどかしい感覚があった。
「あんたが上でいい。そしてさっさと消えてやる。だから俺にこれ以上関わってくれるなよ。現実なんてこんなもんなんだ」
雨でもう全身ぐっしょりとしている。校内を歩く時、奇異を抱かれるだろう。だがそんなことは知ったことじゃない。傘なんてなんでもいい。アンブレラ。いいや、どうでもよくないさ。この胸のうずきは。それに、なんだかとても死が恋しい。
「そんな簡単に済むと思うなよ、マサト。残念だがこれは運命なんだ」
白い髪の少女を背に去ろうとした瞬間、俺はまた彼女の方へ振り返った。
彼女の背後には虹がかかって見えた。視界の遥か先の世界には陽の光が降り注いでおり、そのせいで光のアーチがかかっていたのだ。
だが俺にはそれが、なにかもっと恐ろしいものであるように思えた。
「クソみたいな運命だな、アンブレラ・ゴッドフィールド」
フルネームで言い捨てて、俺は再び歩き始める。
「こんな運命の下に生まれるつもりじゃなかったよ、アシヤ・マサト」
雨中で寂しげに響く彼女の声。
舌が思い出すこんぺいとうの味。
3.
帰宅して即座にシャワーを浴びようと風呂場に入った。すぐにカミソリを手に取って、手首に押し当てた。順序が違う。目的もだ。自分の行動が制御できない。バスタブに湯を溜め始める。息を整える。刃の先端を確かめる。まだ錆びてはいない。使える。早く湯が溜まらないかと考える。湯気を見つめている。こんぺいとうの味を確かめる。また会いたい。アンブレラ・ゴッドフィールド。いや、違う。神原美傘。あの子に会いたいのだ。これはいったいなんなのだろう。そうだ、あの子の名前。アンブレラ・ゴッドフィールドだと?
俺はカミソリを元の場所に戻した。汗と雨を軽く流してすぐに着替えを済ませ、自室のベッドに身体を横たえた。自分の思考が飛び回っていて安定しないのはわかっている。しかし俺は、もっと考えなくちゃいけない。なにかがおかしいのだ。それにアンブレラのあの姿、俺はもっと別の場所で見たことがある。
「ここではない」
俺はその言葉を自分の口ではっきりと発音した。
俺には幼馴染みがいた。名前を神原美傘といった。とても仲がよかったように記憶している。結婚したいなと明確なビジョンもなく考えた時期もあった。だが結局、手を握ったことすらなかった。でも彼女はやさしかった。アンブレラとは全然、違っている。外見も。でも、同じところはある。彼女は本が好きだった。アンブレラ。あいつは文学部だといっていた。これは偶然だろうか。それとも、本当に運命なのか。
いいや、運命という言葉は、違う。そうじゃない。
起き上がり、一冊の本を手に取った。「ラピスラズリ」という小説だ。だが一度も読んだことはない。用があるのはその中身。一通の、俺宛の手紙だ。
自殺した親友——大川彼方が、死ぬ前に俺に託した私的な遺書だ。
『あいつが迎えにきた。俺は一緒に行こうと思う。明日はきっと強い雨が降る。恐れてはいないさ。強く手を握ってくれるなら、それで』
彼方はドアノブとネクタイで首を吊って死んだ。その右手は死してなお硬く閉ざされた。何日か経ってようやくそれが開かれた時、そこには青いこんぺいとうが握られていた。
こんぺいとう。確か、緑色のが好きだったんだよな。俺は最初に遺書を読んだ時、美傘が迎えにきたのかと思った。俺はそれをうらやましく思っていた。だから彼方が自殺した時、すこしも悲しいと思わなかった。でも、手のひらから見つかったこんぺいとうの色を聞いた時、涙が自然と流れいてた。
結局、美傘は迎えにきてくれなかったのか、って。
俺は手紙と本を元の場所に戻し、大川のことを考えた。実は俺は、あいつがどうして死んでしまったのかを知らない。なにも悪いことなどなかったはずなのに。
俺は結局、自分のことばかり考えているということなんだろう。親友だと思っていた相手の死の理由とか、突然の衝動とか。あと、美傘のこととか。なんだかもう、よくわからなくなってしまう。他人のことだといってしまえばそれだけだが、この混濁した他人への感覚は、他人というものにあまり考えを巡らせないからそうなるんだと思う。
アンブレラ・ゴッドフィールド。
本当にあんなやつはこの世界に存在したのか?
あるいは、あまりに他人について考えないから、ただ見落としていただけなのか。
気がつけば呼吸が乱れていた。息を整えてから、俺は決心した。
地階に降り、小さな果物ナイフをタオルに包んだ。それを学生ズボンのポケットにねじ込む。タオルのほとんどが外にはみ出して垂れている。しかし外見はとりあえず取り繕われている。
俺は紺色の傘を差して、再び学校の方へと歩を進めた。
4.
かすかな記憶だけを頼りに校内を歩き回った。文学部の教室を探していた。だが途中で、俺の頭の中にぴりぴりとした感覚が走った。あまりにも突然過ぎる、そしていままで感じたことのない衝動だった。俺はそれを必死で抑えた。自分がおかしくなっている。いや、それはとっくの昔にそうだった。こいつを学校に持っていこうと決めたあの瞬間から、俺の身体はそれをしようとしていたのだ。
だがあいつの姿は見つからなかった。どこがあいつの部室かもわからないし、家に帰ってるかもしれない。でもどうしてか、ここにいるような気がしている。
「異常だよな」と俺は自分にいった。「異常なんだ。それはわかっている。わかっていてもどうしようもないことだってあるさ。そうだろう」
俺はこの状況ではもっとも危険な場所へと、自分でもよくわからないまま足を運んだ。職員室だ。俺はそっと扉を開けると、中の様子をうかがった。
静寂。
風呂場から湯気が溢れる時のように、静けさが流れ出してきた。
右から左へと、そっと視線を流した。
椅子の上で、老教師が胸をおさえていた。
その後ろにアンブレラが立っている。
彼女はなにもしなかった。声をかけることも、助けようとすることも。見てすらも、いないようだった。その視線は窓の外を見ている。ひどい雨が降っている。しかし雫が窓を叩く音がしない。この世界になにもないかのように、静かだ。
俺は老教師が苦しんでいるのがわかった。口をぱくぱくとさせ、泡を吹いているのが見える。どうにかしなければまずい状況だった。しかし俺はなにもしなかった。ポケットに手をあてた。アンブレラの横顔をにらんだ。彼女が気づいた。悲しげな表情で俺のことを見た。口元が歪む。
俺は弾けたように走り出し、屋上へと向かった。
あの口元、あの笑み。
あれは美傘のものだった。
美傘が俺のことを迎えにきた。
そして俺は——幸せな気持ちで階段を駆け上った。
5.
俺のことにほとんど興味なんか持っていないはずの叔母が、怒声を張り上げたことが一回だけある。
「死にたくて死ぬ人なんかいません。みんなこの世に未練を残して死んでいくんです。それをうらやましいですって? あなた、おかしいわよ」
しかし、叔父はそれを「そのとおりだ」と肯定した。そして叔母のことを諭した。
「いまマサトはおかしくなっている。仕方のないことなんだ。私たちは遺されたものとして、こうした現実に対応しなくっちゃいけないんだよ」
それ以来、俺は死にたいことを他人に打ち明けなかったし、だから誰にも怒られることはなかった。もっとも、ほめられたこともありはしないが。
「雨の日だ。美傘が俺のことを迎えにきてくれた。うれしい、うれしいよ」
誰にともなく、そう口にした。
扉が開く音。雨が地面に叩き付けられる音が一気に広がった。現実感が取り戻されていく。誰が俺を迎えにきたって?
俺はそいつを見た。アンブレラ・ゴッドフィールドのことを。
「おまえは美傘なのか?」
俺の言葉に、アンブレラは首を振った。
「なにをいってるのかわからないよ。わたしはアンブレラだ。確かに、アンブレラには傘という意味がある。でもそれがどうしたというんだ? マサト、おまえはわたしの運命だ。……おまえ、いろいろとおかしいよ」
「おかしいのはアンブレラ、あんたの方だろ。さっき、職員室で見たよ。おまえが先生のことを見殺しにしているところを」
「なんのことだ? わたしはおまえが教室を覗きに来てから、後を追い続けていただけだ。わたしには気づかないし、あっちにふらふら、こっちにふらふらと歩いて、そうかと思ったら走り回ったりして。どう考えても頭がおかしいよな。気持ちがどこかに吹っ飛んでいる。そんな様子だから、心配して後をついてきてやったのだぞ」
「じゃああんた、彼方を連れて行っちまった方の死神か。まあ、それならそれでいいと思うよ。結局のところ、人間は最終的に、他の世界へと旅立たざるをえない。それが誰の手によるものであっても。あんたでもいいさ……アンブレラ・ゴッドフィールド。あんたはとっても綺麗に見える。美しいよ。たぶん俺の人生で一番の美少女だよな……嫌な話だけどさ、美傘よりも身体は成長してるし、言葉遣いがなっちゃいないのが残念だけど、ものすごい勢いで彼女にしたいくらいだ。身体の線の美しさに、やわらかそうな身体つき。雨にぬれた制服のせいでとっても扇情的だよ。俺の中のタナトスがエロスに変わってしまいそうなほどに」
そう捲し立てると、アンブレラはとても悲しそうな表情で俺を見つめた。
「やっぱおまえ、頭がおかしいよ。わたしの人生の中でもとびっきりに頭がおかしい。どうしておまえがわたしの運命なのか。わたしはひたすらに嘆かざるをえない。とにかく、何度も何度も雨に当たって、身体に悪い。帰るとしよう、なあ、マサト?」
くるりと踵を返すアンブレラの姿を見て、俺はいてもたってもいられなくなった。即座にタオルをひっぱりだし、中に包まれていた果物ナイフを握り込んだ。それを腰だめに構えて突進した。どこでもいい。そうだな、柔らかそうな脇腹を一突きにする。それですべてがはっきりするはずだ。俺の中に芽生えていた、よくわからないもの。殺意か、それとも死に近づきたいというどうしようもない欲望か。とにかく、突き刺してやる。こいつからはどんな色の血が流れるだろうか。以前自分から流れたそれを見た時は、けっこう鮮烈な赤をしていた——
金属の音がして、俺は正気に戻った。地面に果物ナイフが落ちている。
それにアンブレラが視線を落としている。
「——はやく行こう。そいつはわたしが預かっておくから」
ナイフを拾いあげ、まるで傘でもさすようかざすアンブレラ。
俺はそのまま、彼女の手で殺されたいと思った。
それはとてもせつなく、とても遠い願いに感じられた。
6.
髪を後ろで縛り、赤いフレームの眼鏡をかけると、アンブレラはとても地味な印象になった。俺たちは同じ紺色の傘を使って歩いていた。パラパラと傘が叩かれる音。世界が灰色に染まっているように見える。まるで過去の光景であるみたいだ。
どこに歩いているのか意識していなかったが、とにかく、そこについた。背の高いマンションの六階、その一室だ。
『GODFIELD』
横向きの表札にはそう書いてあった。
「入れよ。まだ同年代の男を入れたことのない部屋だ。おまえがはじめて、ということだ。なんだかとても背徳的だろう」
「そうでもない」
そう言いながら、俺は胸を高鳴らせながら部屋への一歩を踏み出した。身体が冷えている。胸の中は熱いのに、寒気がする。
「こっちに乾燥機があるから、服はそっちで乾かせ。風呂場はそっちだ。おまえ、身体が相当冷えているぞ。こうして触れていても、冷たさを感じる」
肩にアンブレラの細やかな指が触れていた。手のひらはとても暖かい。もっと触れていて欲しかった。手のひらだけじゃない。俺はもっと、彼女の体温が欲しいと思った。首を振って、ありがたく風呂場を使わせてもらうことにした。
「いいのかよ」と俺はいまさらながらに訊いた。
「いいんだよ。マサトはわたしの運命なんだから」
それならばいいと、俺は納得した。
シャワーはかなり熱かったが、体温が低下しているせいだろう。ぱっと終わらせて外に出る。タオルで身体を拭いている時、これは普段、彼女が使っているものなんだなと思った。いろいろな実感が身体の温度を上昇させた。
「次はわたしだな」
彼女は彼女で別のタオルを肩にかけていた。おそらく風呂上がりはいつもああいう格好をしているのだろうなと思った。俺は彼女を見送ったあと、ふと思い立って果物ナイフを探した。しかしそれはどこにも見当たらなかった。
カーテンを開けて、窓の外を見る。六階なんてたいした高さじゃない。そう思っていたが、案外といい景色だった。こうして見てみると、屋根というのはけっこうカラフルなんだな。雨が降っていなければ、もうすこし綺麗に見えるかもしれない。でも灰色がかかって見えている、というバイアスのおかげで脳内補完ができている可能性も否めない。俺はまたここからの景色を見たいと思った。もっと別の形で。
アンブレラがなかなか戻ってこない。いや、あれから五分も経っていない。俺は寂しさを感じた。彼女がシャワーを浴びているところに突っ込んでいこうか。獣になって彼女を奪ってみようか。キッチンで包丁を探し出して、シャイニングごっこでもしてみようか。いっそのこと、そこで彼女を滅多刺しにして、あの白い髪の毛を赤く染めてしまおうか。それはあまり気分のいい想像じゃなかった。そうじゃないんだ。今の俺が彼女に抱いているのは、もっと別の感情だ。運命、だったか。運命とはなんなのか。いまはそのことについて訊いてみたい。
雨か。こんな雨の日。雨の日。雨の日、雨の日、雨の日の中で、雨の日だ、俺は頭の中にぐるぐると回る言葉を追いかけた。それが窓の外に逃げていく。待ってくれよ、置いていかないでくれよ、みんな。俺はとても寂しいんだ。寂しがりなんだ。俺だけを置いてどこかにいかないでくれ。窓の鍵を開けなくては。こんな単純な作業にもたつく。いらいらしてくる。窓をぶっ叩いてやりたいが、そこをぐっとこらえてなんとか鍵を持ち上げた。よしよし。窓をスライドさせるとザーッという音が耳の中から脳へと流れ込んでいった。六階もあれば充分な高さじゃないか。よし、ここから飛び降りてしまおう。きっとみんなが待っている。父さん、母さん、美傘、彼方。いまからいくよ。そっちにいったとき、俺の首は無様に折れ曲がっているだろうけど、それくらいは見逃してくれよ。せっかく久しぶりに会えたんだ。こんなに大きくなったんだぜ、俺は。おまえたちと違って、成長しているんだ。こんな手すりなんて簡単に越えられるんだ。濡れた鉄製の手すりはとてもよく滑った。思い切って足を振り上げて乗り上げようとした瞬間に、俺は身体を支えている手のひらがぬるりとして、その役目を放棄したことを感じた。ああ、こんなものだよな。いつだって人間は、自分のイメージした通りには生きられない。死ぬ時だってそうだ。みんな、俺のイメージとは違う死に方をしてしまった。風が自分の周囲を流れていく。いい感じだ。でもこの落下感は、嫌だな。とても怖いよ。もうすぐ、もうすぐ来る。痛いんだろうな。きっと痛いよ、首の骨が折れた時、すぐに死ねればいいんだけど、すぐに。
すぐに乾いた音が炸裂し、身体の枠組みが歪んでいくのを感じた。痛みが遅れてやってくる。即死じゃない。痛い、身体が動かない、声が出ない、怖い、怖い、死にたくない。
7.
「ありとあらゆるものに神は存在する。司る神の存在しないものはない。日本のように、ひとつの事象に対してひとつの神を当てはめる例は稀だが、どんなものごとにも必ず神との関係性がある。正確にいえば、関係性がない、という関係性までを含めて、定義がなされているということだ。未成熟な神話はその限りではないし、日本の思想というのは思想に過ぎないから、新しく現れた事象に対しては、誰かが思考を巡らせてやらなければ神の実体など見つけられない」
それはいったい、どこの学問で学べることなんだい。
「これは神が神に教える学問の内容なんだ。人間の言うところの倫理だ。他にも、神様の倫理には、いろいろなものがある。たとえば、神様は基本的に人間を救いたいと考えている。人間はその手を振り払いがちだけれど、神様というのはとても自分勝手な存在だから、他人のありようなんて関係ないんだ」
俺のことを神様は救ってくれるのか。
「救ってやったじゃないか。おまえには死神がついているんだ。死神は死を司る神だ。そして彼女たちの職務は、定められた死を定められたように運行させ、滞りなく運命を運営することなんだ。だが時々、人間の中から反逆者が現れる。神様の作ろうとする秩序を壊してしまう存在だ。彼らは自分たちの生を神様のように好き勝手しようとする。死神たちがもっとも嫌がる職務は、本来あるべき魂の場所以外に自分を解き放ってしまう人間たち——彼らを、本当の魂の場所へと導こうとすることだ。それはとても面倒くさくて、時間のかかることだから」
そうだろうな。人間って、死にたがりほど長生きだもんな。
「いいや、違うさ。彼女たちが恐れているのは、時間が浪費されることじゃない。人間という存在に感情移入してしまうことだ。運命を受け入れなければいけないのは人間ではないから、だからわたしたちは、この仕事がしたくない」
そいつはごめんな。なあ、アンブレラ・ゴッドフィールドよ。あんたは突然現れたように見えたけど、実はもっと前から俺のそばにいてくれたんじゃないか。最初から最後まで、そう、ゆりかごから墓場まで、俺のことを見守っていてくれる。そういうやさしい死神なんだろう。そうじゃなければ、こんなあたたかく、俺のことを包んでくれるはずがないじゃないか。
「勘違いするな、芦谷理人。わたしは自分の職務をより簡単に、停滞することなく、スムーズにこなしたいだけなんだ。だからおまえの心を補正してやらなくちゃいけない。壊れてしまったおまえの心を修理して、本来の道へと戻してやらなくちゃいけない。何度も何度も、手間をかけやがって。わたしが死神でなければ、この手でぶち殺してやりたいくらいなのだぞ、このクソボケカスが」
本当にごめんよ、アンブレラ。俺が情けないばっかりに、苦労をかけて。
「そんな呼び方をするな。アンブレラだなんて、傘、傘と言われているみたいで気持ちが悪いんだ。アン、と呼んでくれ。その方がすっきりする。それに、おまえの心の安定には役に立つだろう。親しい人間がいるということが、人間をこの世界に引き止める最大の力になる。大丈夫だ、わたしはずっとそばにいる。おまえが死ぬ時まで、ずっとそばにいてやるよ」
8.
はじめて俺がアンを見たのは、神原美傘が死ぬよりも、ずっとずっと前の、あの日。
でも——
9.
目を覚ますと、タオルケットがおなかのあたりにかけられていた。ベッドの上だ。嗅ぎ慣れない、しかしとても心地のよい匂いがした。これはきっとアンの香りだと思った。
「大変だったぞ、マサト」
ベランダで、身体を預けたまま気を失っていた。アンが言うには、そういうことになっていたらしい。それをどうにかこうにか引きずって、あれこれして、寝かせた。それにとても苦労したようだ。
「なあ」と俺は見慣れぬ天井を見つめながら呟いた。「運命って、なんなんだろうな」
アンは、すぐには応えなかった。俺の額に冷たいタオルを乗っけてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「わたしが勝手に決めたことだ。あの場所で、扉を開けて、その先に待っていた人間。そいつをわたしの運命にしようと思った。ただ、それだけのことだ。そしてそれが偶然、マサトだった。そういうことだよ」
「必然だろう、だってそれは、運命なんだから。知ってたんだろう、アン」
返答がない。かすかに、嗚咽が聞こえていた。布同士がこすれる音がした。俺は視線を動かさなかった。時間が経つのを待った。それはすこしの間のことなんじゃないかと、俺はそう思った。でもそれが実際、どれくらいの間だったのかは、まったくわからなかった。そういう感覚が麻痺していた。
「知らなかったよ、わたしは。マサトがそこにいてくれるということを知らなかった。それに、ここまでおかしくなってしまっていたことだって、知らなかった。あんなに一緒にいたのに、気づかなかったよ、わたしは」
「そういう設定なんだろう、アン」
「……そうだね。まあ、そういうことにしておくよ。設定だというのは、確かだしね。あなたがおかしくなっているのと同じように、わたしもだいぶおかしくなっている。自分で、そういうことくらいわかっているつもりなんだ。だから、運命という設定を自分の中で決めて、すべてを投げ出す覚悟であの扉を開けたんだ」
俺はようやく腕をかすかに動かした。近くにアンがいないかと探すように、闇雲に手を動かしたが、手の届く場所に彼女の身体はなかった。
「ねえ、マサト。本当にわたしのことがわからないのか? わたしが誰かって。あの時、マサトはまるでわたしに初めて会ったかのような反応をしていた。いや、違う、違うな——わたしの中に、わたしではない誰かを見ていた。そう表現するのが正しそうだ。実際、そんな感じだったし」
「そうだな。うん、隠しても、仕方がないしな」
白々しいな、と俺は思った。だけど、これは現世のことだから。だから仕方のないことだと、すぐに考えを改めた。
「死神だと思ったよ、アンのことを。何度も何度も、俺の大切なものの死に関わって来た、そして俺を迎えにきた死神だって」
手が彷徨う。彼女に触れたい。アンに触りたい。ほんのすこしでいい。身体のどこだっていい。髪の毛だって構うものか。きみを構成する分子のどこかと接続されていたいのだ。
「ああ、そうだよ、マサト。わたしは死神だ。おまえの死神なんだ。おまえが死を迎えるその時まで、ずっとそばにいてやるよ」
宙空を独り寂しく舞う手のひらを、アンの手がやさしく包んだ。とても暖かかった。それは死神のものだとはとても考えられなかった。間違いなく人間の体温だ。
「なあ、もっと訊かせてくれよ。アンの人生のこと、運命が決まる前の日のこと、俺はもっと知りたいんだ。こんなにもそばにいてくれるアンのことを、絶対に忘れたくはないからさ」
「ああ、ああ、教えてやるよ。全部ぜんぶ、もう二度と忘れないように教えてやる。だから、すこし待っていてくれ。涙が止まらないんだ」
感情移入のし過ぎだな、と俺は笑った。
自分のために泣いてくれる死神に、愛おしさすらも感じながら。
10.
次々と仲間たちが別の世界へと旅立っていき、その死神はとても寂しい思いをしていた。しかし彼女は、自分の感情を殺してまでも、職務に忠実であらんとしていた。彼女の職務は、死というものが円滑かつ予定通りに運営されるのをしっかりと管理すること。これは神様が決めた秩序を守ることだった。これがもし乱れてしまうと、人間の生は定められたものよりもずっと短くなってしまうから。それは人間たちに概ね不幸を与える。命数を使い切らずに死んでしまうような人間は、みんなを幸せにするものと相場が決まっているのだから。
それは神様のロマンチックな感傷だったかもしれない。そんなことはないと、さっさと死んでよかったと思える人間があんなにもたくさんいるじゃないかと。早すぎる死を惜しまれる人間がいっぱいいるじゃないかと。人間たちは神様の視点を持っていないから、わからないから、声を張り上げて神をののしる。神様はそれでいいと思っていた。そうすることで、人間たちの心はいくらか慰められるから。そして今日も世界は正しく運行されている。すべてが運命に則って、もっとも大きな幸せを享受できるようにと管理されている。
それでもこの世界には、神様の作った秩序を破壊してしまおうとする人間がいる。ここにも、そんな少年がいた。仮に彼をAと名付けよう。
神様は人間を救おうとする。死神であっても例外なく。
だから手を伸ばした。Aが悲しみのどんぞこにあった時、何度も何度も手を伸ばした。だがその手は、ついに人間と結ばれることはなかった。だって、神様と人間は住む世界が違うから。これも運命だと、死神は考えた。だったら、この運命のどこかに、彼を救う方法が定められているはず。彼女は考えに考え抜いて、ひとつの方法を見つけ出した。そしてそれを実行するための職務が、運命として、彼女に与えられた。人間としての肉を得て、下界の人間たちを、秩序を破壊するものたちを修復せよと。
それはとても辛いことだとわかっていた。彼女はいくつもの死を見送ってきた。神様と人間だから、それにはなんとか耐えられた。でも人間と人間になってしまったら、同じ立場の仲間を見送ることが、彼女にはできるだろうか。ましてや相手は少年で、もしも愛し合ってしまうようなことがあれば、自分もまた滅びてしまうのではないかと思った。
でも、もしそんなことがあったとすれば、それもまたすべてのものがもっとも大きな幸福を掴むための運命なのではないか。そうも、考えられた。そして、神様が人間を救いたいと考えているのならば、人間としての肉を受けたその身体は、また別の神が救ってくれるに違いない。
あるいは、自分で自分を救うのかもしれないが。
彼女はすこしずつ身体を慣らした。その作業には苦痛が伴った。人間の生の感情は、神様のそれとはまったく違っていた。人間の言葉で言えば、リアルでありすぎるのだ。そのリアルさに何度も何度も受肉を拒否してしまった。だが最後には、勇気を振り絞って、完全なる一体化を果たした。そして彼女は、いままで果たせなかったことを果たすべく、Aに手を差し伸べた。
だがその時、彼女はAに拒絶された。
死神め、と彼はいった。
それからの数年間、彼女は死神としての自分と、人間としての自分を何度もスイッチしながら、影で少年を支え続けた。彼はあまりにも強力な特異点だ。すぐに死にたがる。すぐに死んでしまう。それを補正し続けなければいけない。それには近くにいなければいけない。人間としての自分が、物理現象としての精神が、Aを恋しく思う気持ちが、幾度も幾度も拒絶されてぼろぼろになる。
だからわたしは、この物語を書き始めた。すべてはわたしが考えたストーリー。勝手に決められた設定が運命となり、そしてわたしはついに決めようと思った。この恋しさを、別のなにかに向けてしまおう。そうすれば割り切れる。Aへの感情は、所詮人間としての肉が勝手に仕上げたもの。それにシンクロした死神の心には、これがリアルであってはならない。虚構であるならば、創作であるならば、きっと耐えられる。だってそれは、妄想の世界となるんだから。
なのにどうして、おまえはそこで、そんなふうに立っていたんだ。
死神じゃなくっても、信じてしまうだろう。
運命のことを。
どんなに過酷でも、おまえのことをずっと愛していこうって。
そんな風に、身体が思い込んでしまうじゃないか。
11.
アンの文芸部に入ってから作った小説を、いくつも読ませてもらった。
そこにはアンという存在の感情が、いろいろな形で刻まれていた。
その中には、一柱の死神のことを書いたものがあった。
大変だよな、神様も。
そんなふうに、俺は思った。
アンは、おそるおそる、ボロボロになった学習ノートを俺に差し出した。
中身を読んで、俺はアンという死神が、自分の職務に対して生真面目すぎるんじゃないかと、胸が張り裂けるような思いをした。
そこにはアンの人生が、端的に記されていた。強い感情の動きを覚えた時に書きなぐる日記。それが、この時代を感じさせるノートの、小道具としての存在意義だ。
こんな設定を考えたりしていたら、誰だってその物語に感情移入してしまうだろうな。でも、物語だと思うことで、それが嘘っぱちのものであると定義づけることで、どうにか正気が保てる。そういうやり方を心得ているのだ。
老練なんだな、と俺は苦笑した。
「これがわたしのすべてだ。思い出してくれなんて言わない。でも、新しく知ってくれということは、できるだろう」
俺は肩を撫でる彼女の手のひらに、もっと様々な感覚を味わわせて欲しいと願っている。
「なにをいっているのかわからないことも、いっぱいあるからな。そういうことを、ひとつひとつ解決していくのもいいかもしれない。そうしたら、俺にもきっと、生きていく力というか、意義というか、繋ぎ止めてくれる存在としてのアンっていうか……死神の願いをかなえてやれるような気がする」
「ん。わたしの方も、まだまだ割り切れないことがいっぱいあるけどな」
俺たちは次第に、言葉を交わすこともなくなっていった。夜という時間がじわじわと過ぎていき、ごく自然に、俺たちは互いを見つめ合って、ある種類の同意を得た。
12.
契りを結び終えた直後、俺の中に大きなむなしさと、死への衝動が襲いかかって来た。俺は武器を探した。闇の中を這いずりまわり、おそらく奇声と思わしきものを張り上げて、水の匂いでキッチンを探り当てた。すぐにそいつを見つけることができた。果物ナイフよりも大きな刃を持った包丁を。
そいつの刀身の冷たさを感じていると死にたいという感情が、あいつを殺してやりたいという激情へと変わった。
「思い出したぞ、アン! 俺の両親が死んだ時、あの時、俺の背後に忍び寄ってきた。それだけじゃない。交通事故で美傘が死んだ時、あの葬式の時に俺の袖を掴んだ。彼方のやつが死んだ時もだ。俺の腕を引っ張って、なにかしようとした。毎回毎回おかしいと思っていたんだ。やっぱりおまえは死神だな! 死を齎す神だ! 俺の周りからいつも大切なものを奪おうとしていやがる! 次に狙うのは俺の、俺のこの感情に違いない! 俺のことを殺して、俺のなかにあるおまえへの恋しさをも抹殺するつもりなんだ! そうして自分の仕事を果たして、自分の得点にするつもりなんだろう」
半身を持ち上げているアンに、包丁を振り上げたまま近づいた。死神は俺のことを暗闇の中でじっと見つめている。透き通るような白い髪は、室内の微かな光の影響で、別の色に染まって見える。いまは、ほのかにオレンジのような色をしていた。そのあたたかな色合いに、俺の中の殺意が揺らぐ。こいつは俺の大切なものを何人も向こう側の世界に送ってしまった死神なんだぞ。ここで始末してやらなくちゃ、せめてこの肉体だけでもズタズタにしてやらなくっちゃ、あまりにもやるせなさすぎる。
「殺す」
俺はそう言い放った。
「わかった」
アンは瞭然とした声と共に、頷いた。
「殺していいよ、マサト。あなたはあの時もそういって、わたしのことを殺そうとした。でもあなたはやさしいから、それができなかった。今度は途中でやめないでいいよ。あなたの心の赴くままに、わたしのことを殺せばいい。もうわたしたちの心も、人生ってやつも、めちゃくちゃにぶっ壊れてしまっているかもしれない。でも生き残れば可能性はある。マサトだけでも、幸せになれるかもしれない。天寿をまっとうできるかもしれない。みんな先に逝ってしまった。わたしには向こうに逝く勇気はない。でもマサトがやってくれるなら、こんなにうれしいことはないんだよ」
俺の手が、下がる。
「マサトこそ、わたしにとっての死神なんだ。でもあまりにも優しすぎて、自分のやろうとしたことをすべて否定して、そして……そうか、それで、すべてを忘れてしまったんだ。マサトにとっての死神、わたしという存在を、記憶ごと消した」
「そんなばかな」
「いいや、そう考えれば、辻褄が合う。そうやって、ギリギリのところで生きているのがマサトなんだ」
「そんなでっちあげの設定で俺を、俺を、俺を、どうするつもり、俺をどうするつもりなんだよ、俺を」
アンは俺に身体を寄せる。
「わたしは決めない。でも、もしマサトがわたしを殺すならば、先に謝っておくよ。ごめんね、マサト。マサトが死ぬまで、ずっと一緒にいてあげられなくて」
自分がおかしくなっていくのを肌で感じる。愛している。殺してやりたい。いますぐ死んでしまいたい。向こうの世界に行きたい。恋しい。父さんや母さんに甘えたい。美傘に会いたい。もう一度、彼方と一緒に馬鹿な遊びをしてみたい。いやだ、死にたくない。ずっと一緒にいたい。死ぬのは怖い。殺したくもない。アンにそばにいて欲しい。死ぬまでずっと一緒だ。このぬくもりを喪いたくない。嫌だ、頼む、独りにしないでくれ。おまえが俺の死神なら、どうか、どうか、待ってくれよ。
もう俺にはここしか残っていないんだ。
ここが最後に残された、俺の魂の場所なんだ。
13.
アンはものすごく料理が下手だった。
作ってくれと何度もせがんだら作ってくれたのだが、今度から無理に頼むことはしないように、心にそう刻みつけた。
結局、ふたりでカップ麺を食って、お互いに今学期はなにをしていたのかを適当にだべった。それだけでもけっこう、楽しかった。
自分のことばかり考えて、過去にばかり目を向けていたから、こうしたことがとても楽しくて心地よいのだということをずっと忘れていたような気がする。
だがそうしたくだらない話の種はすぐに尽きてしまった。それくらいに、俺たちの生活というのは灰色に染まっていたようだ。
仕方なく、俺たちはふたりでソファに寄り添った。アンがこんぺいとうをくれる。昔よくたべたよね、といって、俺にはピンク色のそれをくれた。
「青が彼方で、緑が御傘。わたしは白だった。わたしは色のついたこんぺいとうが欲しかったんだがな」
自然と、互いの手を繋いでいた。あたたかい。二度と離したくないほどに。
「なんの連絡もしてないから、相当心配かけてるはずなんだよな」
ふと、叔母と叔父のことが気になった。俺は連絡用のなにかを持っていない。友達もいない。連絡が取れず、下手したら警察沙汰になっている可能性もある。
「それは常識的な判断だな、マサト」
クスクスとアンが笑った。
「なんでそこを強調するんだ」
「おまえ、いろんなところがおかしいんだから、常識的なところとそうじゃないところはきっちりわけてやらないとな。ちゃんと矯正してやるには日頃から気をつけることが大事だ」
ひどい言われようだと思ったが、俺は自分がどこかおかしいことくらい自覚している。自覚しているからこそ、ひどく恐ろしく思えることがいくつもある。
俺は繋いでいる方とは逆の手で、包帯の巻かれているアンの二の腕を撫でた。
アンはすこし痛そうに口元をゆがめた。俺はすぐに触るのをやめた。
「ごめん」
「……まあ、燃えるだけ燃えるのはいいが、金、暴力、セックスとあったら、どれかひとつだけでいいんじゃないかと思ったよ。ふたつはなくていい」
「そんなつもりじゃなかった」
「わたしだってそんなつもりじゃなかったよ! でもわたしの中にも、おまえと一緒で、どうしても止められないなにかが住んでるみたいなんだ。お互い様だ。今度はもしかすると、わたしがマサトを殺そうとするかもしれない。それこそどんな方法でも考えられる。男性的にズブリとやろうとするんじゃなくて、こう、締めつける感じで……」
話していて恥ずかしくなったのか、アンはだんだんと声をちいさくしていた。俺の方も、また殺し合いをするはめになりそうな感じで体温がありゃりゃな感じの方向に昂りつつあるのを感じて、ごまかすために手を強く握った。
アンも呼応するように握り返してくれる。
「なあ、死ぬまで一緒って、言ったよな。ずっと一緒だって」
「ああ」
「アンは、つらくないか。もしおれが先に逝っちゃったら」
「別に」
「そうか。ありがとう。そう言ってくれることに、なんだかひどい安心感がある」
「ひとりで安心するなんて、自分勝手だな。でもそれはお互い様か」
「うん、お互い様かもな」
——そう言ってから、俺は、ずっと探していた答えがすぐそばにあるのではないか、ということに気づいた。
「アン」
「なんだ、マサト」
「俺の死ねる場所って、どこなんだ。おまえは知ってるんだろう。死神だから。運命を知ってるんだろう。職務上の秘密で話せないのかもしれないが、俺は知りたい……」
握っていた手を振りほどき、アンの胸へ抱きついた。包むように抱き返される。
「教えてくれよ、アン」
長い沈黙。人の肌のぬくもり。このまま、ごまかされてしまう。それでもいいと思えるくらい、ここは心地よかった。ここが俺の魂の場所だ。俺はひたすらにそれを信じようとした。もしそうであれば、どれだけ幸せだろう。
ぞっとするほど冷たい声が、耳元で囁かれた。
「教えてやるよ、マサト。おまえの魂の場所は、ここではない」
それはまぎれもなく死神の声だった。
だが、顔をあげると、アンは悲しそうな表情で俺のことを見つめていた。必死に笑みを作ろうとしながら、瞳を潤ませて。
「……だって、わたし、わからないから」
俺はその言葉の意味を、自分のいいように解釈することにした。
それから、やさしくて嘘つきな死神とキスを交わした。
俺の死に場所はまだ見つかっていない。
それでも、俺は信じている。
ここが、
こここそが、俺たちの魂の場所だと。