メイクデビューは明日にまで迫った。コースは府中の1600m。
東京レース場はトレセン学園から最も近いレース場だ。トレセン学園の練習コースは東京レース場を模しているため、感覚も掴みやすい。このままの調子を維持できればいいスタートを切ることができるだろう。
だが、レースの内容は当日になってみなければわからない。メイクデビューは、まだ実際のレースを走ったことがないウマ娘が多く出走する。緊張感や気合いが悪い方向に作用しやすいのだ。ひとりウマ娘が動揺すればそれは出走する全てのウマ娘に伝わる。
前を急ぐあまり、斜行や接触という不利を受ける場合がある。緊張のあまりゼッケンのホックや靴のベルトを締め忘れ、脱落させて競争中止となってしまう場合もある。以前中山レース場で行われたメイクデビューでは、9人のウマ娘がゼッケンの脱落によって競争を中止した。
レースというものはただ速ければ勝てるというものではない。その時の時刻、気温、湿度、馬場状態、枠順、体調、観客、そして運。挙げればキリがないほどの要素が複雑に絡み合うことで成立する。
「おはよ、トレーナーさん。どうしたの?そんな怖い顔して。」
いつもの様子でシービーが部室に現れた。のっそりと、いや悠々と歩く姿に緊張感は見られない。
「ごめん、寒いと思うけど、着替えるから外に出てて欲しいな。」
「いや、その必要は無い。今日の練習は休みにする。」
こちらをチラリと一瞥して、シービーはスカートの下からハーフパンツを履いた。
「そう、じゃあ今日は河川敷をプラッと流してくるね。流石に上をトレーナーさんの前では着替えられないから、早く外に出て欲しいな。」
「ダメだ。今日は走るな。」
「トレーナーさん、隠れてタバコ吸った?」
「もしかして、緊張してるの?」
制服のポケットから棒付きキャンディーが差し出される。受け取らずにいると、シービーはそれを机に置いた。もうひとつ取り出して、彼女が口に含む。
「今日は休養に充てるんだ。走ること以外なら何をしてもいい。スイーツビュッフェに行ってもいい。俺が奢る。一日中ゲームをしてもいい。俺が相手になる。ルドルフも今日は休養日のはずだ。だが、今日は10時には寝るんだ。」
シービーの最終追い切りはとても良いものだった。だがここで走ってしまえば、その感覚は
練習が連続してしまうと、どうしても効率の良い楽な道を選びがちだ。それはもう『いつも通り』のパフォーマンスではない。一旦走ることから離れて、適度な緊張感と余裕を持たせるべきなのだ。
「それを最初に言って欲しかったな。」
後ろに絞られていた耳がこちらを向いた。
「今日は何がしたい、シービー。」
こう見えてもシービーは年頃の女の子だ。ブランドバッグを見に行きたいとか、化粧品が欲しいとか言われたら相当な出費を覚悟しなければならない。この提案をするのも彼女の走りのためだ。
どんなものが来るのだろうか、心臓の鼓動が速くなる。息が切れているのはタバコのせいだけではないだろう。
やっぱりタバコやめようかな、そう思いキャンディーを手に取るとシービーがゆっくり話し始めた。
「映画、映画が見たい。でっかいスクリーンで。トレーナーさんも一緒に。」
良かった。これならばそこまで出費はかさまない。だが映画を見るにあたってはいろいろと問題がある。
「何を観に行く?でも、映画館は暗くて狭いぞ。人気の作品なら人もいっぱいだ。音も大きい。大丈夫なのか?」
「大丈夫。だって、今の流行りはわかんないし、観たいヤツは映画館じゃやってないもん。」
「……? どうやって見るんだ?」
「視聴覚室があるじゃん。」
そう言うとシービーがスマートフォンを差し出してきた。
「これなんだけど。見たことある?」
シービーが見たいと言ったものは、海外の傑作映画だった。妻と不倫相手を射殺した疑いで無期懲役を言い渡された主人公アンディが、劣悪な環境の刑務所で奮闘し、希望を追って生きてゆくといったヒューマンドラマだ。
「一度だけ、な。」
「良かった。私のお気に入りなんだよね。」
視聴覚室には映像資料とともに、映画作品も多数収蔵されている。その中にこの作品はあった。
シービーは最初こそ大きな音に困惑していたが、しばらくして慣れたようだった。
この映画には、ブルックスという登場人物が居る。主人公とともに刑務所内の図書係をしている老人だ。彼は長期収監されており、仮釈放になるがそれを拒む。しかしながら彼は外の世界に放り出されてしまう。住居と仕事は与えられるが、刑務所に居る間にすっかり変わってしまった世界と自分の居場所の無さに苦しみ、彼は自殺してしまう。
物語はクライマックスに入った。アンディは両手を大きく広げて、雨に打たれている。刑務所の中では雨に打たれる自由は無い。そんなちっぽけな自由を体いっぱいに噛み締めている。
感動して泣くわけでも、内容に興奮するわけでもない。彼女の目はスクリーンの先、ずっと遠くのどこにもないどこかを眺めて感慨に耽っていた。
「自由って、なんだろうね。」
映画は終わり、スタッフロールが流れ始める。それをぼんやりと眺めながら呟かれた言葉は、やけに耳に残った。