人間らしく、人間らしい   作:雨宮彩織

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──新版──
眇たる可憐な一少女


 ──春に殺された。どうやら僕は一時、死んでしまったらしい。目蓋を射す朧気な曙光(しょこう)に目を醒ますと、窓硝子の向こうにある校庭に、爛漫(らんまん)と咲き乱れている桜の樹が見えた。きっと、あの桜の樹の下には、屍体(したい)が埋まっているのだろう。そうでなければ、こんなにも美しいはずがない。

 

 朦朧(もうろう)な、春に(とろ)けかかった脳髄を刺戟(しげき)してくるのは、あの春霞に覆われた雨催いの向こうから静謐(せいひつ)に、音も香もなく降り立ってくる、たった幾筋かの織り成す春光だった。それきりに寝惚け眼を擦らされながら、教室の机に伏せていた顔を上げる。自分の左半身に、窓硝子を擦り抜けた陽光が射すのを感じつつ、その麗らかな陽気に安堵していた。

 

 

「──あ、起きた? おはようっ」

 

 

 矢庭に両の耳が聞く、心持ち弾んだ少女の声はどこか、この春陽だとか春風だとか、そういった類と同じように、やたら甘美に感じられた。そうして、自分がいま感受している美しいものというのは、あそこに爛漫と咲き乱れている桜の──それぎりではなかったことに、不意に気が付く。

 

 それを自覚すると同時に、僕は思わず、椅子を引くなり身じろいだ。というのも、つい先程の声の主であろう眇々(びょうびょう)たる可憐な少女が、隣席から自分の顔を覗き込んでいたからに他ならない。春暁の微睡(まどろ)みに溺れてしまったのか知らん、これは夢か何かを見ているのではないのか知らん──と思い思い、丸眼鏡のレンズ越しに、少女を見詰める。

 

 

「……びっくりした。いつから居たんですか」

「うーんとね、さっきから?」

「さっきから、ですか……」

 

 

 一二〇ほどの脈搏(みゃくはく)が、けたたましい早鐘みたく心臓を鼓動させている。それは彼女にも勿論、気取られているに違いない。ただ気休めに手を当てつつ静めながら、口元に人差し指を遣って考え込むように答えた少女に、呆然とした。喫驚(きっきょう)に上手く声が出ない咽喉を、無理やり震わせてみる。

 

 

「……早い登校、ですね」

「でしょ? ちょっと用事があったんだよねぇ」

 

 

 まだ八時を回らない今では、この一年A組の教室には二人ぼっちだった。あとはただ、塵埃が春光に皓々(こうこう)と照らされて、輝石みたく色彩を放っているきりで、それがまた、一帯の森閑を増幅させている。そんな夢現の中で、僕は少女を観察した。いつからか隣席に座っていて、机に頬杖をつきながら、自分の寝顔を覗いていた、可憐な少女を──。

 

 (こと)に彼女は、日本人離れした風貌みたように思える。両側頭部にリボンで結った髪は、胸元のあたりで(なび)かせており、余した後ろ髪は腰まで下ろしていて、その髪色というのがまた、如何にも、西洋人形らしい金髪なのだった。

 

 二重になった目蓋のところには長い睫毛(まつげ)が覗いていて、愛嬌のある大きな瞳は、金眼だろうか──この陽春に爛々(らんらん)としていた。綺麗な鼻筋と小ぶりな口が端整な顔付きを形作っていて、少しあどけなさの残る雰囲気ではあるものの、そうした点も合わせて、やはり西洋人形みたく思える。

 

 武偵校の制服を羽織っているのかと思いきや、視線を寄越してみると、もはやそれは制服の体を成していなかった。白地のセーラー服に映えるのは、赤色をした襟元、同色のネクタイとプリッツスカートなのだが、それら全てに、着飾った西洋服みたようなフリルが装飾されている。どうやら袖口にもまた、そのフリルで装飾がしてあるらしい。

 

 しかも、その少女の短躯をまとう西洋風の制服を観察していると、およそ十六歳の異性とはなかなか思えにくい、少女らしからぬ胸部をしているのに驚愕した。とうに成熟しきった魅惑的な感じを、双丘から横溢(おういつ)させている。のみならず、これまたフリルをあしらったハイカットを履いた太腿は、雪肌の艶めかしい健康的な少女のそれであった。

 

 こうした彼女の風貌は別にしても、とりわけ面識の無い異性に寝顔を覗かれる──などという奇怪千万な、驚愕(きょうがく)に値するべき事態を目の当たりにして、僕は唖然としていることしか出来なかった。しかし眼前の少女は、それを微塵も気に留めていないらしく、例の声色で話しかけてくる。

 

「ねぇねぇ。もしかしなくても、最年少で芥川賞作家になった綺月彩佳さんでしょ? 本当に綺麗な髪の毛と目なんだね。ちょっと羨ましいかも──なぁんて。くふふっ」口元に当てがった手の合間から、特有らしい愛嬌のある笑い声を()らしつつ、隣席の少女は、からかいだか照れ隠しだか、そんなような風をして、睫毛の覗く目元を(ほころ)ばせた。

 

 

「……ありがとうございます」

 

 

 その動作に見蕩れているうちに、いま自分が相対している彼女といった存在がまるで、この春に生まれた、魔性の小悪魔みたように思えてきた。少女でありながら少女らしからぬ雰囲気と、窓硝子から射す春光に爛々とした金色の瞳と、そうして、嫣然(えんぜん)とした目付きの、それこそに──。

 

 依然として黙然としている僕に対して、こうした自分の態度を、眼前の小悪魔もどきは、殆ど何も気にしていないようだった。ただ頬杖を崩して、肉惑的な太腿に華奢(きゃしゃ)な両手を当てながら、妖艶(ようえん)な微笑みを浮かべつつ座っている。僕を見詰めているというよりは、ゆらくめいた面持ちだった。

 

 これは夢か、はたまた現であるのか──僕はただ、この窓際の最後列にある席に独特の、長閑(のどか)で穏和な雰囲気を味わいたいばかりに、入学式を終えた翌日の教室に、ただ一人だけポツネンと微睡んでいただけなのだ。そうして、いつの間にか寝落ちてしまっていた折に、この少女は音も香もない春光、或いは魔性の小悪魔のように、現れたのだ。

 

 夢現のどちらとも付かない僕の脳髄を蕩かしたのは、どうやら、この春だけではなかったらしい。下手をすれば、夢見心地を見せているのは、彼女ではないのか知らん──と勘繰ってしまうほどには、今の自分は動揺していた。それを少しでも緩和させようと思い思い、いったん席を立つ。

 

 

「あれ、どっか行っちゃうの?」

 

 

 すると彼女は、(いささ)か面食らったような声を出した。愛嬌のある金眼で上目遣いに、僕の顔を覗き込んでいる。

 

 

「えぇ、御手洗の方に」

「ふぅん……。ねぇ、待って」

 

 

 彼女の傍らを数歩ほど通り抜けたところで、矢庭に指先を掴まれた。肌理細(きめこま)かで温和な感触が、そのまま伝わってくる。それが久々に触れた異性の感触であることを自覚する余裕というのは、何のせいか朦朧とした脳髄には、それほど残されてはいなかった。(かえりみ)みるのが関の山であった。

 

 少女は僕を引き止めると、掴んだ手を解いて、椅子から立ち上がる。虚空に靡いた金髪が、皓々とする塵埃の合間を掻い潜って、それらを輝石みたように、彼女の周囲を舞い上げていった。或いは、鼻腔をくすぐる甘ったるい芳香を振り撒きながら、可憐な面持ちの眇々たる少女は、背伸びをして、僕の首元に華奢なその両腕を回してきたらしい。

 

 次に感じたのは、柔和な何かが軽く唇に触れる感触で、それが接吻だと気が付いたのは、目前に迫った小悪魔が、口元で何かしら音を立てたからだった。そうして僕から顔を離すと、首元に回していた腕も解いていく。彼女はそのまま、人差し指で唇を拭い取りながら、或いは、甘美な風に舌舐めずりをしながら、先のような──否、それ以上の、魔性の小悪魔にも相違ない、妖艶な笑みを浮かべていた。

 

 

「あのさ、理子と付き合ってほしいなっ」

 

 

 少女の肌理細かな肌に、ほんの僅かな紅潮の色が差し込まれているように見えたのは、そこに春の陽射しが爛々と降り注いでいるからだろう──それだけを、願っていた。




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