それはあまりにも軽薄な、そうして軽い口付けだったように思う。並大抵の少女では到底、成し得ないような奇怪事を、目前の理子と名乗った小悪魔は成し遂げたのだ。甘ったるい芳香を鼻腔いっぱいに満ちさせながら、ほんの僅かに湿った唇の感触を、自覚するともなく自覚していた。
その接吻に触れた少女の粘液が、嫌に甘ったるく感じられたのは、彼女の振り撒く芳香のせいばかりではない。ただ、脳髄だけは本当に、この魔性の少女に蕩かされてしまったのだろう。朦朧たる意識に茫然としたまま、何を考えるわけでもなかった。瞠目するのが、精一杯だったのだ。
そうして僕は、夢現の
「……どうして。唐突すぎます」
「くふふっ。やっぱり、そうだよねぇ」
喫驚に締め付けられた咽喉の奥から、僕は無理矢理に声を絞り出した。にも関わらず彼女は、如何にも
「じゃあ、一日あげる!」
そう言って、彼女は人差し指を立てた。
「理子の告白の返事を、その後に返すこと! どう?」
『どう?』と言われても──というのが、本音だった。ただ困惑という感情が
呆然と立ち尽くすうちにも、段々と正気は回復してきたらしかった。告白の返事とは、その大概が肯定か否定の二つに一つだ──そう自分に言い聞かせて、やっと治まりかけてきた脈搏に安堵しいしい、不承不承ながら「分かりました」と頷く。その時に彼女が見せた年相応らしい、喜色満面の笑顔だけが、凝固しかけた脳髄に浸透していった。
「このこと、誰にも内緒だからねっ」
◇
──嗚呼、やはり、桜の樹の下には屍体が埋まっている。けれど、
靴音を歩道に響かせながら、自分には似合わない溜息をしいしい、鞄を片手に武偵校の敷地内を歩いていく。というのも、やはり、峰理子という少女──魔性の騒乱小悪魔──に
細かな部分まで突き詰めれば、僕の隣席が例の少女になってしまったこと。そうして、つい先程に昼食を仕舞うまで、僕に話しかけてくるなり、一緒に昼食を
思い返してみると、不思議で仕様がない。峰理子という少女が何故、僕にあれだけの好意を向けているのかが。並大抵の人間は、一目惚れした異性に対して告白こそすれど、接吻を
「……流石に、それはないか」
苦笑混じりに頭を振る。落胆する僕の心情を示唆するかのように、目の前を桜の花弁が散っていった。理性の有無に関わらず、彼女の様子を思い返してみても──仮に
だとすれば彼女は、意図的に綺月彩佳に接近してきたと類推する方が、まだ現実味を帯びているのではないか。それでは、何を目的として──そこだけが気にかかっている。雨催いの曇天も、ようずも、爛漫な桜も、何も教えてはくれない。それだけが無性に面白くなくて、歩調を遅めた。
僕のどこに、例の少女に対する魅力があるのだろう。史上最年少で、文學界新人賞と芥川賞の受賞を果たしたこと? 確かに地位や名誉のある者と恋仲になりたいと思う人間は、多かれ少なかれ存在する──自分自身の存在意義に付加価値を与えたいがための、他人の権威を利用した自己満足という形で。その点、僕は彼女にとって身近な存在だ。
地位や名誉という観点を少し変えると、自分の場合は一族の系譜というものにも、少なからず箔が付いている。綺月一族は元を辿れば、綺月彩雲という大文豪に至るのだ。彼は夏目漱石や森鴎外という
こうした系譜もまた、自己満足の補完には十二分に使えるはずだ。本当に例の少女が、たったそれぎりの理由で、僕に接近してきたとは思いにくいのだけれど……。受賞の際に貰った賞金や印税といった財産を狙うという方が、あまりにも現実的な話だ。そんな高校生がいても困るけど。
少なからず彼女は、僕にある何かしらの魅力のために、僕へと接近してきた──それだけは大いに類推のいくところだろう。けれど、その理由は
本校舎とは少し離れた学科棟の一帯を覆うように、今にも花散らしの雨が降り出そうかという面持ちを見せながら、いささか拗ねたようにして、雲は雨催いに
「ふぅん……」
後ろ手を組みながら、何枚かの用紙が画鋲で留められている掲示板を、適当に読み流しながら吟味していく。成程、こういう案件を探偵科は受け持っているらしい。まずは肩慣らしに簡単なものを受けてみたいけれど──などと一考しているうちには、背後から軽快な足音が聞こえてきた。
「あれっ? ここに居たんだ」
気抜けしたような声に振り返ってみると、そこに立っていたのは、つい十数分前に離散した例の少女だった。どうやら走ってきたらしく、乱れた前髪を指先で直し直し、そのまま僕の隣に並んで掲示板を覗いてくる。「もしかして、依頼でも受けるの? それなら理子が選んであげる!」
そう笑って彼女は、僕が何か言おうとするのも聞かずに、適当な用紙を選んで見せてきた。眼鏡のつるに手を当てて凝視してみると、何とも面倒な依頼である。『警視庁管轄の強盗事件に対する鑑識科との合同捜査』という標題を読み上げているうちに、気が消沈してくるのを自覚した。
「残念ながら、却下です」
「えっ、なんで?」
「最初は、肩慣らしに受けたいので」
苦笑を零しつつも、果たして煩わしげな雰囲気が、語調に現れていたろうか。彼女に「もしかして、意外と面倒臭がり屋さんだったりする?」とからかうように笑われてしまったのは、あの桜のように、顔に紅葉を散らすばかりだ。その紅葉さえも落とす気概で、僕は軽く首を横に振る。
「面倒臭がり屋というか、自分では、気分屋だと思ってますけどね。やりたいことをやる、気が進まないことは気分に任せて、という感じです。だから、良さそうな依頼とかあれば、受けてみようかなぁ──と来たんですが……」
「あ、あった」掲示板に視線を流していくうちに、ちょうど良い
「迷子の猫探し──くふふっ、こういうの好きなんだ?」
「えぇ、まぁ。実家に猫がいる影響で」
照れ隠しの笑みを零しつつ、彼女の反応を、乳白色の前髪の合間から
「猫を、その……モフったり、してるの?」
「はい。あとは、一緒に縁側でお昼寝したり」
「えー、いいなぁー! 理子もモフってお昼寝したい!」
彼女は
「あっ、じゃあさ!」
矢庭に彼女が切り出したのは、そんな折だった。
「その依頼、理子も手伝ってあげよっか? 人は多い方がいいし、もしかしたらモフれるかもしれないじゃん?」
「……それが本音ですよね。別に、構いませんけど」
「えっ、ほんと!? やったー! ばんざーいっ!」
──
だから僕は、浮かべた薄ら笑いの裡面に、彼女に対する
「それじゃあ、レッツゴー!」
「ちょっ──」
などと考えを巡らせていると、彼女は唐突に僕の手首を掴むや否や駆けだした。異性の肌に特有な、肌理細かで温和な感触を自覚する暇は殆ど無い。ただ華奢なそれを少女に握られているという僅かな感覚の他には、彼女の甘ったるい芳香と、頬を撫でる春風とにのみ意識が向いている。
少女の足取りは軽かった。
「いぇい、校門とうちゃーく! くふっ、楽しかったね」
少女はようやく立ち止まると、向き直り際に僕の手を撫でるように離した。円弧を描く髪の軌跡が、一筋二筋と虚空を彩っていく。細めている目元には睫毛が煙っていて、緩んだ口元の向こうには、八重歯が可愛らしく覗いていた。膝に手を当てながら小さく溜息をしいしい、心持ち彼女と同じ程度になったろう目線に立ちつつ、やっと口を開く。
「……はぁ。いきなり、走り出さないでください」
「えへへっ、ごめんごめん。それで、何処に行くの?」
「元麻布です。依頼主の自宅周辺を捜索してみようと思いまして。──けど、まずは自室に寄らせてください」
手元の用紙を一瞥してから、四つ折りにして鞄に仕舞う。そう告げた時の彼女の顔が、雲間から射しかけてきた春光にあてられて、よく見えた。少しだけ面食らったような顔をして、なおも爛々とする金眼を僕の方へと向けている。
「自室って、ちょっとした準備とか?」
「えぇ。少し、制服を着替えたいので」
「それって私服姿? 見たい見たい!」
「見世物じゃないですよ、僕の服は……」
一人で快活にはしゃぐ少女を横目にして、僕は桜の樹の上にある広大な雨催いの曇天を見遣った。それがなんだか、不穏に思えてしまって仕様がない。暗に、