人間らしく、人間らしい   作:雨宮彩織

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告白と懊悩、雨催いに耽る

 それはあまりにも軽薄な、そうして軽い口付けだったように思う。並大抵の少女では到底、成し得ないような奇怪事を、目前の理子と名乗った小悪魔は成し遂げたのだ。甘ったるい芳香を鼻腔いっぱいに満ちさせながら、ほんの僅かに湿った唇の感触を、自覚するともなく自覚していた。

 

 その接吻に触れた少女の粘液が、嫌に甘ったるく感じられたのは、彼女の振り撒く芳香のせいばかりではない。ただ、脳髄だけは本当に、この魔性の少女に蕩かされてしまったのだろう。朦朧たる意識に茫然としたまま、何を考えるわけでもなかった。瞠目するのが、精一杯だったのだ。

 

 そうして僕は、夢現の()い交ぜになった脳内で、つい今しがた聞いた、彼女の告白というものを反芻する。『理子と付き合ってほしい』──付き合う──はて、何故だろうか。自分が、顔も名前も知らなかった、初対面の少女と? 依然として治まらない鼓動を他所に、そんなことを思う。

 

 

「……どうして。唐突すぎます」

「くふふっ。やっぱり、そうだよねぇ」

 

 

 喫驚に締め付けられた咽喉の奥から、僕は無理矢理に声を絞り出した。にも関わらず彼女は、如何にも磊落(らいらく)な口調で睫毛を覗かせながら、(あで)やかに笑っている。あまつさえ、こうした質問を予測していたかのような口ぶりだった。残念ながら今の僕には、荒唐無稽(こうとうむけい)を極めた奇怪な告白の、その裡面(りめん)を推し量ることが、どうにも出来そうにない。

 

 

「じゃあ、一日あげる!」

 

 

 そう言って、彼女は人差し指を立てた。

 

 

「理子の告白の返事を、その後に返すこと! どう?」

 

 

『どう?』と言われても──というのが、本音だった。ただ困惑という感情が胸臆(くおく)を侵略していくだけで、他にどうしようか、どうすれば良いのかという宛ては皆無だ。そもそも、何かの好奇心で僕の寝顔を覗いたというのならまだしも、初対面の人間に対して、口付けと告白とを一挙に畳み掛けてくる女子が、彼女の他には誰がいるだろうか。

 

 呆然と立ち尽くすうちにも、段々と正気は回復してきたらしかった。告白の返事とは、その大概が肯定か否定の二つに一つだ──そう自分に言い聞かせて、やっと治まりかけてきた脈搏に安堵しいしい、不承不承ながら「分かりました」と頷く。その時に彼女が見せた年相応らしい、喜色満面の笑顔だけが、凝固しかけた脳髄に浸透していった。

 

 

「このこと、誰にも内緒だからねっ」

 

 

 

 

 ──嗚呼、やはり、桜の樹の下には屍体が埋まっている。けれど、腐爛(ふらん)したそれを直視したわけではない。強いて言えば、幻視することくらいは出来るだろうけれども……。雨催いの曇天の下に吹くようずに頬を(ぬる)く撫でられながら、花鳥風月の零れ桜を見詰めるともなく見詰めていた。

 

 靴音を歩道に響かせながら、自分には似合わない溜息をしいしい、鞄を片手に武偵校の敷地内を歩いていく。というのも、やはり、峰理子という少女──魔性の騒乱小悪魔──に懊悩(おうのう)させられていたからだった。彼女が自分に齎した面倒は、接吻や告白といったものの後始末にあるのだ。

 

 細かな部分まで突き詰めれば、僕の隣席が例の少女になってしまったこと。そうして、つい先程に昼食を仕舞うまで、僕に話しかけてくるなり、一緒に昼食を()るなりしてきたこと、というのもある。それ以降は『用事がある』という理由を付けて、「えー、理子のこと放っとくの!?」と騒ぐ彼女を説得した上に、今に至るわけだけれど──。

 

 思い返してみると、不思議で仕様がない。峰理子という少女が何故、僕にあれだけの好意を向けているのかが。並大抵の人間は、一目惚れした異性に対して告白こそすれど、接吻を敢行(かんこう)するほど馬鹿ではない。最低限の理性を持っているはずだ。ともすれば、彼女は希少な例外であるのか。

 

 

「……流石に、それはないか」

 

 

 苦笑混じりに頭を振る。落胆する僕の心情を示唆するかのように、目の前を桜の花弁が散っていった。理性の有無に関わらず、彼女の様子を思い返してみても──仮に衷心(ちゅうしん)からの恋情に胸臆が満たされているのなら、あれだけ余裕のある少女の態度を、演戯だとしても採れるはずがない。

 

 だとすれば彼女は、意図的に綺月彩佳に接近してきたと類推する方が、まだ現実味を帯びているのではないか。それでは、何を目的として──そこだけが気にかかっている。雨催いの曇天も、ようずも、爛漫な桜も、何も教えてはくれない。それだけが無性に面白くなくて、歩調を遅めた。

 

 僕のどこに、例の少女に対する魅力があるのだろう。史上最年少で、文學界新人賞と芥川賞の受賞を果たしたこと? 確かに地位や名誉のある者と恋仲になりたいと思う人間は、多かれ少なかれ存在する──自分自身の存在意義に付加価値を与えたいがための、他人の権威を利用した自己満足という形で。その点、僕は彼女にとって身近な存在だ。

 

 地位や名誉という観点を少し変えると、自分の場合は一族の系譜というものにも、少なからず箔が付いている。綺月一族は元を辿れば、綺月彩雲という大文豪に至るのだ。彼は夏目漱石や森鴎外という錚々(そうそう)たる面々に並んで、近代日本文学の金字塔と仰がれている。知らない者はいない。他にも文芸評論家、当時の最年少芥川賞作家など、文芸家としての性格を持った先祖は、僕以外にも存在している。

 

 こうした系譜もまた、自己満足の補完には十二分に使えるはずだ。本当に例の少女が、たったそれぎりの理由で、僕に接近してきたとは思いにくいのだけれど……。受賞の際に貰った賞金や印税といった財産を狙うという方が、あまりにも現実的な話だ。そんな高校生がいても困るけど。

 

 少なからず彼女は、僕にある何かしらの魅力のために、僕へと接近してきた──それだけは大いに類推のいくところだろう。けれど、その理由は曖昧模糊(あいまいもこ)としている。そうであるならば、これは、単なる少女の遊びごととして結論を出しておく方が、今後の心理的にも遥かに楽と言えるのかもしれない。そこまで長考して、雨催いの空を見上げた。

 

 本校舎とは少し離れた学科棟の一帯を覆うように、今にも花散らしの雨が降り出そうかという面持ちを見せながら、いささか拗ねたようにして、雲は雨催いに(かげ)っている。そんなうちに僕は、在籍したての探偵科棟の前に向かった。というのも目的は授業ではなく、該学科の生徒向けに依頼を張り出しているらしい、そんな用途の掲示板である。

 

 

「ふぅん……」

 

 

 後ろ手を組みながら、何枚かの用紙が画鋲で留められている掲示板を、適当に読み流しながら吟味していく。成程、こういう案件を探偵科は受け持っているらしい。まずは肩慣らしに簡単なものを受けてみたいけれど──などと一考しているうちには、背後から軽快な足音が聞こえてきた。

 

 

「あれっ? ここに居たんだ」

 

 

 気抜けしたような声に振り返ってみると、そこに立っていたのは、つい十数分前に離散した例の少女だった。どうやら走ってきたらしく、乱れた前髪を指先で直し直し、そのまま僕の隣に並んで掲示板を覗いてくる。「もしかして、依頼でも受けるの? それなら理子が選んであげる!」

 

 そう笑って彼女は、僕が何か言おうとするのも聞かずに、適当な用紙を選んで見せてきた。眼鏡のつるに手を当てて凝視してみると、何とも面倒な依頼である。『警視庁管轄の強盗事件に対する鑑識科との合同捜査』という標題を読み上げているうちに、気が消沈してくるのを自覚した。

 

 

「残念ながら、却下です」

「えっ、なんで?」

「最初は、肩慣らしに受けたいので」

 

 

 苦笑を零しつつも、果たして煩わしげな雰囲気が、語調に現れていたろうか。彼女に「もしかして、意外と面倒臭がり屋さんだったりする?」とからかうように笑われてしまったのは、あの桜のように、顔に紅葉を散らすばかりだ。その紅葉さえも落とす気概で、僕は軽く首を横に振る。

 

 

「面倒臭がり屋というか、自分では、気分屋だと思ってますけどね。やりたいことをやる、気が進まないことは気分に任せて、という感じです。だから、良さそうな依頼とかあれば、受けてみようかなぁ──と来たんですが……」

 

 

「あ、あった」掲示板に視線を流していくうちに、ちょうど良い塩梅(あんばい)の依頼を見つけて、僕は思わず呟いた。用紙を手に取ると、目前の少女も中身を覗き込んでくる。彼女が面白そうに笑ったのは、それから数秒後のことだった。

 

 

「迷子の猫探し──くふふっ、こういうの好きなんだ?」

「えぇ、まぁ。実家に猫がいる影響で」

 

 

 照れ隠しの笑みを零しつつ、彼女の反応を、乳白色の前髪の合間から(うかが)い見る。──すると、どうしたことだろうか。両の手を強く握りながら胸元に掲げていて、先程よりも爛々とした瞳の色をしいしい、頬に紅潮を差しながら、少女は何故だか、僕の顔を食い気味に見詰めていた。

 

 

「猫を、その……モフったり、してるの?」

「はい。あとは、一緒に縁側でお昼寝したり」

「えー、いいなぁー! 理子もモフってお昼寝したい!」

 

 

 彼女は羨望(せんぼう)の眼差しを向けながら、些か拗ねたようにして口を尖らせた。とはいっても、京都にある実家の猫を愛玩(あいがん)していたのは、せいぜい、ここ東京に発つ前までで、そこから今に至るまで、なんと野良猫の尻尾すら見ていない。気紛れに猫と触れ合いたいのは、自分も同じなのだ。この依頼はまさに、棚から牡丹餅(ぼたもち)──という(ことわざ)の通りだろう。

 

 

「あっ、じゃあさ!」

 

 

 矢庭に彼女が切り出したのは、そんな折だった。

 

 

「その依頼、理子も手伝ってあげよっか? 人は多い方がいいし、もしかしたらモフれるかもしれないじゃん?」

「……それが本音ですよね。別に、構いませんけど」

「えっ、ほんと!? やったー! ばんざーいっ!」

 

 

 ──笑壺(えつぼ)に入ったように両手を上げている少女の姿が、どうにも今朝、僕が見た通りの嫣然な小悪魔だとは思えなかった。どちらが彼女の本性なのか知らん、或いはどちらも、彼女の持つ何かしらの目的のために被った猫なのか知らん──と、勘繰らずにはいられないほどの変貌である。

 

 だから僕は、浮かべた薄ら笑いの裡面に、彼女に対する疑惧(ぎく)というものを並べ立てていた。同時にそれを、出来るだけ今回の一件で、類推から仮定にまで持っていきたいとも考えている。峰理子という少女の性格、趣味嗜好(しこう)、生い立ち、能力──何かしら分かることがあるかも知れない。好意的に振る舞われている現況は、利用してやるつもりだ。

 

 

「それじゃあ、レッツゴー!」

「ちょっ──」

 

 

 などと考えを巡らせていると、彼女は唐突に僕の手首を掴むや否や駆けだした。異性の肌に特有な、肌理細かで温和な感触を自覚する暇は殆ど無い。ただ華奢なそれを少女に握られているという僅かな感覚の他には、彼女の甘ったるい芳香と、頬を撫でる春風とにのみ意識が向いている。

 

 少女の足取りは軽かった。屹立(きつりつ)する学科棟を背後にすると、二人して髪を靡かせながら、どうやら校門に向かっているらしい。遠目に見えるブレザーやセーラー服の視線を受けつつも、彼女は一顧(いっこ)も与えず飄々(ひょうひょう)として駆けていく。

 

 

「いぇい、校門とうちゃーく! くふっ、楽しかったね」

 

 

 少女はようやく立ち止まると、向き直り際に僕の手を撫でるように離した。円弧を描く髪の軌跡が、一筋二筋と虚空を彩っていく。細めている目元には睫毛が煙っていて、緩んだ口元の向こうには、八重歯が可愛らしく覗いていた。膝に手を当てながら小さく溜息をしいしい、心持ち彼女と同じ程度になったろう目線に立ちつつ、やっと口を開く。

 

 

「……はぁ。いきなり、走り出さないでください」

「えへへっ、ごめんごめん。それで、何処に行くの?」

「元麻布です。依頼主の自宅周辺を捜索してみようと思いまして。──けど、まずは自室に寄らせてください」

 

 手元の用紙を一瞥してから、四つ折りにして鞄に仕舞う。そう告げた時の彼女の顔が、雲間から射しかけてきた春光にあてられて、よく見えた。少しだけ面食らったような顔をして、なおも爛々とする金眼を僕の方へと向けている。

 

 

「自室って、ちょっとした準備とか?」

「えぇ。少し、制服を着替えたいので」

「それって私服姿? 見たい見たい!」

「見世物じゃないですよ、僕の服は……」

 

 

 一人で快活にはしゃぐ少女を横目にして、僕は桜の樹の上にある広大な雨催いの曇天を見遣った。それがなんだか、不穏に思えてしまって仕様がない。暗に、禍殃(かおう)の到来でも告げているかのように──そんなことだけを直覚した。

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