寮の自室で用事を済ました僕は、待たせていた少女──峰理子とともに、ここ学園島から元麻布へと歩を進めていた。まずは芝浦ふ頭駅を目指して、そこから最寄りである麻布十番駅まで乗り継いで行こうというのが、この少女がくれた提案である。そうして駐車場を抜けたところで、隣を歩く彼女が不意に話しかけてきた。建物越しに見えるのは、今朝から何も変わっていない曇天の空模様である。
「
少女は、腰まである金髪とフリルをあしらった制服とを虚空に靡かせながら、僕の数歩だけ先を行くと、軽やかに身を
「……よく見てますね。好きというか、和服しか持ってないんです。洋服は何回か着たことありますけど、和服と比べると、窮屈で。だから、制服から着替えたでしょう」
その実、生家は祖父と父の影響で、平成でありながら昭和のような風情だった。純日本家屋の邸宅というのが起因して、更には昭和生まれの二人であるから、そうした雰囲気の中で洋服を着るというのも、言われてみればおかしな話ではある。そんなこんなで自分が生まれても、そうした色に染まると言うか、染められると言おうか──特に方針を変えることもなく進んできたのが、この綺月家だった。
「やっぱり精神的に、洋服だとキツい感じ?」
「そうですね。……今日も半日、頑張りましたから」
苦笑しいしい、和服に身を包んだ自分の装いを見直した。正絹仕立ての紬着物は藍白で、紫苑色の羽織は、天然石を連ねた羽織紐で留めてある。そこに適当な草履を履いて、如何にも春らしい淡い装いになっていた。あとは信玄袋を手に提げて、空いたもう片方の手には和傘を握っている。
その和傘を彼女は気に留めたのだろう──恐らくは、僕の風貌を見回して気が付いたものかも知れないけれど──「それって和傘? 雨って降るっけ?」と訊いてきた。小さく頭を降ってから僕は答える。「天気予報を見てきたら、どうやら局所的に晴れるらしいんです。だから、日傘として。僕は、ほら、体質的に紫外線が駄目なので……」
「あー、そっか」。彼女はそれに頷くと、納得したように声を洩らしながら、後ろ歩きを止めて隣に並んでくる。
「そういえば
「よく知ってますね」組んだ後ろ手に信玄袋を握り直しながら、丸眼鏡のレンズ越しに見た少女に感嘆する。装飾された制服を、さながら零れ桜のように靡かせつつ、彼女は愛嬌のある金眼を少し見開かせて、十センチほどの身長差がある僕を見上げていた。それは穏和な目付きだった。
「だって、『史上最年少の芥川賞作家! 大文豪・綺月彩雲の玄孫!』って去年から一気に日本中で有名になって、ずぅーっとニュースや特集番組とかで見かけるもん。そりゃあ覚えちゃうよ。……でも、
「じゃあ、まずは……これ!」と言って、彼女は制服のポケットから、名札を取り出して見せてくれた。そこには確かに、峰理子と彫られている。それは今朝、ホームルームの際に確認できた、彼女に関する唯一の情報だった。
「峰理子って言います! 誕生日は三月三十一日で、十五歳になったの。あと、学科もランクも
ハイタッチを求めてきた彼女に合わせて、自分も手の平を向ける。それが上手く重なったのか、軽快な音が聞こえてきた。自分と彼女とは何がなしに笑みを零しながら、その余韻に浸っている。一瞬だけ触れた異性の手は
それにしても偶然の一致と言おうか、何かしらの仕合わせと言おうか、僕と彼女とは履修する学科も同じらしい。しかし、峰理子という少女の概要を知りたい今の僕にとっては、そうした知らせはある種の
今朝から数えて一時間ほどの会話で、僕は何故だか既に、峰理子という少女の性格を理解したような気がしていた。けれども、それが全くの自信過剰に他ならないことは、自分がいちばん分かり切っている。それでも、そう思ってしまうほどには、彼女の口調や挙止動作は特徴的だった。
「じゃあ次は、
「……今更、僕が自己紹介する必要ってあります?」
「理子が聞きたいから話して! 拒否権は無しねっ」
そう告げた彼女は、たいそう楽しそうな笑顔を浮かべている。
「えっと、作家の綺月彩佳です。十一月十二日生まれの十五歳で、探偵科にAランクで入科しました。趣味は文芸創作と読書、他には──おじいちゃんに習った将棋や囲碁でしょうか。好きなものは……やっぱり猫ですね。ふふっ」
自然に洩れた笑みを手で隠しながら、僕は「宜しくお願いします」と軽くお辞儀する。彼女も「くふふっ」と小さく笑っていて、それから「よろしくね、
通りを進んでいくと、この学園島と本土とを繋ぐ連絡橋が視認できた。というのも、話に聞いたところ、東京武偵校を中枢とする学園島は人工浮島らしく、南北二キロ・東西五〇〇メートルの広さで東京湾に浮かんでいるようである。
本校舎や各学科棟は勿論、学生寮からコンビニ・ファミレスに至るまで存在しており、最低限の生活には困らないというのが、入学の数日前から寮生活を続けてきた感想だった。モノレールも通っており、交通の便にも文句はない。その付近はゲームセンターやDVDレンタル店などで賑わっており、一種の商店街みたような雰囲気を漂わせていた。書店が一つだけど存在したのも、個人的には喜ばしい。
「ところで、なんで僕を
連絡橋の背後に屹立する大東京のビル群を望みながら、目下の東京湾に視線を落とし落とし、独り言ちるようにして零す。思えば、彼女は何度か僕を『先生』と呼んでいた。メディアやファンにそう呼ばれるのなら、まだ慣れているけれど、この少女とは今朝に話したばかりの関係である。
彼女は、その金眼を心持ち上目遣いにして僕を見ると、またしても可憐に目元を綻ばせた。それはやはり、既に今朝から見慣れている、彼女の得意な表情そのものだろう。
「えっとねぇ、小説家だから『先生』って呼んでるのと、あとは理子がそう呼びたいから! もしかして嫌だった?」
「別に、嫌ではないですよ。むしろ慣れています」
「おぉー、さっすがー! やっぱりプロは違うねっ」
そう言って、彼女は隣で飛び跳ねながら手を叩いてくれた。「ありがとうございます」と、僕は照れ隠しに笑う。子供みたく橋の欄干に手を遊ばせながら、口元を隠して。
「じゃあ、先生も理子のこと、好きに呼んでいいよ?」
隣から聞こえてくる声に、「そうですか」と返事する。それから少しだけ、彼女のことをどう呼ぼうか少考した。無難なのは苗字で呼ぶことだけれど、いざ提案してみると「堅苦しいから嫌かも」と即座に否定されてしまった。
「理子さんと呼ぶのはどうですか。苗字よりは堅苦しい印象も無くなると思いますよ」と伝えても、「そもそも、『さん』っていうのが他人行儀すぎるかなぁー」と言われてしまい、これも駄目らしい。他には何があるだろうか。
「理子ちゃん──は、ちょっと軽薄ですね」
「それ! 可愛いからそれにしよう!」
「……特に構わないなら、そう呼びます」
無邪気な声ではしゃぐ彼女を、眼鏡のレンズ越しに覗きながら、流石に『ちゃん』を付けて呼ぶのは、初対面の相手にしても、軽薄すぎではないのか知らん──と思いつつ、相手がそれで良いのであれば、と考えを打ち切る。これは彼女特有の友好的な態度なのだろう、とだけ付け加えて。
それでも、一時間きりの初対面な少女を理子ちゃんと呼ぶのは、流石に気が引けた。しかし提案したのは自分で、承諾したのは彼女──理子ちゃんであるのだから、どうしたものか。せめて心の内で理子と呼び捨てにするくらいなら、
そんなことを考えているうちには、既に学園島は自分たちの背後にあった。現在はコンテナ群の立ち並ぶ芝浦のあたりを横目にして、適当な談笑をしいしい、芝浦ふ頭駅に向かっているところになる。屹立するビルの影を踏みながら髪を靡かせて、その隙間に
「先生は、今みたいにお出掛けすることってあるの?」
「体質が体質ですから、幼少期から殆どしていません。最低限、通学や用事の時に限りますけれど……。これからは依頼も受けていきたいですから、より頻度が増えますか」
「じゃあ、理子と一緒にいっぱいお出掛けしよう!」
「えぇ。東京の地理には疎いですから、それも手ですね」
高架下に沿って、やがては交差点を通り過ぎていく。縦横無尽に大東京を行き交う自動車の音を、聞くともなく聞きながら、左をビル群に右を首都高にと挟まれて、心持ち影になった、仄暗い閑散とした通りを歩いていく。すると果たして、芝浦ふ頭駅と
「……なんか、見られてたね。たぶん先生の方かな」
駅構内へと続く階段を上りながら、不意に理子は、声を潜めて僕に洩らした。先程から制服の襟元を整えていたのは、そうした視線に堪えかねて、なんとか気を紛らわそうとしていたからだろう。心持ち気恥しいのか──彼女にしては物珍しそうな、ぎこちない笑顔がまた、新鮮だった。
「髪色といい、和服姿といい、僕は良くも悪くも目立ちますからね……。あとは綺月彩佳という人間に対しての、知名度ですか。居心地が悪いなら、先に自分の切符だけ買って、ホームに行ってても構いませんよ。どうします?」
そう話しているうちに、切符売り場と改札口が見えてきた。理子はそれを一瞥するものの、すぐに今までの奔放らしい態度に戻って、「ううん、むしろ先生の彼女候補なんだーって自慢しちゃおうかな──? なぁんて。くふふっ」と、今朝のように
「……告白の返事、拒否で返したっていいんですよ」
「えぇー、そんなこと言わないでさぁ! もっとこう、何か感想とか無いの? 理子みたいな超絶かっわいい女の子が、先生に一目惚れでキスして、告白までしたんだよ!?」
「ちょっと、こんなところで騒がないでくださいっ」
如何にも奇を
とうとう決まりが悪くなった僕は、出来るだけ
今の脈搏が一〇〇以上を打っているのは、恐らく歩調を早めているせいばかりではない。泰然を気取っていることが見え透いた演戯だとしても、綺月彩佳という人間の印象を打ち壊しにしないためには、そうするしかなかったのだ。張り詰められた気は、なかなか
「先生、行くの早いってばぁ! ……はぁ。怒ってる?」
彼女が僕に追い付いたのは、改札を抜けた駅のホームだった。乱れた気息を心持ち整えながら、膝に手を当てて上目遣いに自分を見上げてくる。心做しか語調は
「……怒ってはいないです。ただ、どうにも気恥しいのに耐えかねて、逃げてしまっただけで。理子ちゃんが僕に何を言っても構いませんけれど、外聞を
理子はそれを聞くと、心持ち安堵したのだろうか、「えへへっ、それなら良かったぁ」と締まりのない笑みをしいしい、納得したように見える。──と、折り良く鉄道がやって来たので、二人して乗車の気持ちを整え始めた。唸るような風切り音と風圧とを感受しつつ、また静静と……。
「先生、乗ろうっ。レッツライド!」
「そんなに急がなくても……、うわっ」
手を引かれて入った車内には、僕と彼女の他には数人しかいなかった。仕事の出張みたような中年男性、出掛けらしい老紳士と老婦人くらいで、若年者といえば自分たち二人のみだろうか。彼等を横目に、僕は適当な座席に腰を掛けた。荷物を整理しているうちに、理子も隣に並んでくる。
「よいしょ──っと。二人がけだから、丁度いいねっ」
金髪を円弧に踊らせながら、彼女はスカートを押さえつつ座席に座った。その踊った髪の毛が、またしても甘ったるい少女の芳香を、僕の五〇センチ間近で振り撒いていく。何か、香水でも付けているのか知らん──と思いながら、
そうこうしているうちに、鉄道は発車したらしい。頬杖を突きながら窓硝子の向こうを眺め遣ると、東京湾に浮かぶビル群や学園島が横凪ぎに見えてくる。「あのビルはねぇ──」とか教えてもらっているうちに、ふと理子が浮き立っているらしいことを、その語調や表情から感受できた。
「……それでね、理子ね、すっごく綺麗なカフェ見付けちゃったんだ! なんかこう、秘密の隠れ家みたいな感じ? もし良かったらさ、先生も理子と一緒に行こうよ!」
「へぇ、カフェですか。そういうところには滅多に行きませんから、たまには良いかも知れませんね。適当な時間が取れたら行ってみましょうか。何処にあるんですか?」
そうした彼女の様子に影響されてしまったのだろう──僕も心做しか弾んだ調子になってきて、それからは今朝のことも依頼のことも頭の片隅に追いやったまま、目前の少女と、さも歳頃の高校生らしく談笑していたように思う。その意識の根幹に、抱いた結論の影を垣間見ながら──。
「……くふっ。なんか先生、楽しそうだね」
不意に理子は、小動物みたような愛嬌の笑みを洩らした。目を細めて、そこから僅かに覗いた金眼を僕に向けている。こう言われたのは、自分自身の心境の変化を自覚してから、そんなに時間は経っていなかったように思うが、どうだろう。
「僕よりも理子ちゃんの方が、よほど楽しそうですよ」
「もちろん好きな人と話せたら、きっと楽しいもんねっ」
無邪気な声色で彼女はそう返事した。相変わらず、何かしら僕に魅力を感じているらしい──なればこそ、理子は自分に告白と接吻をしてきたのだ。そうして僕は昼下がり、それを単なる少女の遊び事として結論したのだ。恋愛遊びをしてみたいだけの少女が、少し手順を間違えて、いきなり告白から入ってしまった──と、そう仮定して……。
こうした理子の様子を見ていると、今朝のような嫣然な小悪魔の面影は微塵も見えなかった。むしろ、あれは夢であったのか知らんと本気に思えてしまうほどで、いま可憐な笑みを零している女子高生が、真個の峰理子でありはしまいか──そう考えると、何故だか嫌に腑に落ちてくる。
「……はぁ。そうですか」
小さく溜息をしいしい、「ちょっと先生、乙女の恋心を