人間らしく、人間らしい   作:雨宮彩織

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八面玲瓏、茜雨に降らる

 雨催いの曇天から西陽が顔を覗かせたのは、午後四時も半ばに差し掛けた時分だった。東京湾に腰掛けた斜陽は、茜と紺青、紫金の階調を着色していって、その色彩から逃げるように、僕は手に握っていた和傘を差す。木骨とか和紙とか紋様とか、そういうものに透ける陽光が眩しかった。

 

 依頼を済ましてからは、特筆すべき問題もないまま──とはいえ、道中での自分に対する視線は相変わらず感じていたけれど──僕と理子とは、芝浦ふ頭駅から戻って学園島を往来している真っ只中である。ここで解散しようと話した男子学生寮は、目測しても、まだ幾らか先にあるだろうか。談笑の種はどうにも、彼女のおかげで尽きなかった。

 

 やがて歩いていくうちに、斜陽が武偵校の校舎に翳っていく。瑰麗(かいれい)な色彩も陰に呑まれて、二人を覆いかけていた温和な暖気も、いっぺんにアスファルトの舗道に霧散した。校舎の窓硝子に反照する茜から目を背けつつ、僕は傘を傾けて、その木骨の端に掛かって見える少女に問いかける。

 

 

「──理子ちゃんは、どうして僕に関係を求めるんですか? 告白されてから気になっていたんです。ずっと」

 

 

 一緒に隣を歩く彼女は、上目で僕を一瞥した。そのまま、ふいと真正面に視線を戻したかと思うと、今度は冷淡なアスファルトの舗道にそれを彷徨させている。言い淀んでいるかのような姿が、奔放で諧謔(かいぎゃく)的な理子の性格には不似合いだった。金眼に燦々と降り注ぐ茜に、目を細めている。

 

 

「……一目惚れ。っていうのは、理由にならない?」

 

 

 幾らか悄気(しょげ)たような語調で、上目にこちらを見遣る彼女の仕草が、少女的な小聡明(あざと)さを孕んでいる──そのことに、僕が気付かないはずがなかった。恐らく理子の本心がそこに無いのだとしても、こう何度も一途に言われてしまうと、自分自身でも何だかやるせない心持ちになってくる。あの春霞が、胸臆の(もや)に変貌してしまったのかしら──などと思っているうちに、咽喉からの声は少し掠れていた。

 

 

「……いえ。でも、普通はそうですよね。好きでもなければ、他人に告白なんてしませんし。変に考えすぎでした」

 

「でしょでしょ? 先生はキチンと、可愛い乙女の愛の告白を聞き取ってくださーい、なんちゃって。くふふっ」

 

「ふふっ。まぁ、そこは僕の裁量になりますけどね……」

 

 

 そう言って苦笑を零しつつ、僕は一枚、彼女に見えないように皮を被った。やはり返事は仮初の返事らしきもので、理子が自分に告白した理由の本質というものは、なかなか見えてきそうにない。だから僕は、努めて賢明になろうと皮を被ったのだ。莫迦を演戯しようと皮を被ったのだ。斜に構えて本質に迫るよりも、悠然と待つのが好手と見て。

 

 しかし理子は、やはり僕のことを本気で好いていないように思う。普通なら告白から入るべきものが、接吻を先にするのもおかしい。その後の余裕綽々とした態度も、考えてみれば不思議な話だ。交わした会話も彼女が誘導して主導権を握る形になっていたし、あの溌剌とした語調には羞恥心の欠片も見られなかった。計画していた意図的な行動だろうと類推しているのだが、果たしてどうなのだろうか。

 

 

「ところで、僕のどこが魅力的だったんですか? 告白した以上、それくらいは教えてくれてもいいでしょう」

 

「えっ? えっと……ちょっと待ってね。あっ、そうだ! 三つ! 三つ理由があるの。まず一つ目はね──」

 

 

 一瞬だけ唖然としたような理子の語調と面持ちに、僕は何かしら物珍しさを感じた。それは彼女が駅で見せた、ぎこちない笑顔を感受した時と同じであるように思う。どこか素めいた態度が、僕にそう思わせたのだろうか。いつもらしい調子に戻ってからは、動揺したように視線を彷徨させたりしているものの、最終的には華奢な三つ指を掲げた。

 

 

「理子ね、テレビで初めて見た時に、凄く綺麗な顔の子だなぁって思ったんだ。後は、穏やかで優しそうに話してるから、一緒に話せたら、何だか良さそうだなって……。それに、学科も一緒でしょ? だから親近感っていうか……」

 

 

 気恥ずかしそうに笑う理子の態度を見て、これは彼女の衷心から湧き出た、最高純度の告白だと僕は思った。裡面に何かを秘めていそうな今までの態度とは反転した、真に迫った傑作が胸を突いてくる。理子が僕を異性として好きかはともかく、告白の本質の一端はこれだ──と直覚した。照れ隠しの笑みを零しながら、僕は無言で頭を下げる。

 

 

「一目惚れってそういうものですよね。容姿とか性格とか、そういうものに惹かれて、それが恋情になるから。好きだという感情の根幹には、何かしら魅力がありますし」

 

 

 彼女にとって何かしら魅力があったから、彼女は僕に関係を求めたのだ──少なからず、交際した上で得られる魅力というものが。それは名声のある者と恋仲になって、自分自身の存在意義に付加価値を与えたい──的な自己顕示欲ではないかと一時は思ったものの、その類推は違った。

 

 芝浦ふ頭駅に到着した昼下がり、理子が気恥ずかしそうに『見られてたね』と、ぎこちなく言ったのが、それを暗に物語っている。仮にも自己顕示欲があるなら、僕と一緒にいることを得意に思えるはずだ。それが得意にも思わず、まして気恥ずかしそうにしているのは、話にもならない。

 

 歩いているうちに建物の合間から射した陽線は、幾筋もの集塊となって、虚空を茜の一直線に染めていった。それが彼女の面持ちを明瞭に映し出していて、一時は校舎に翳っていた斜陽も、その裸体を覗かせて茜を横溢している。瑰麗な空模様には、雁群が微細な胡麻みたく飛んでいた。

 

 

「でも、一目惚れした相手が同じ学校の生徒だったなんて、ロマンス漫画かライトノベルにありそうでしょう。そういう話は大体、主人公が目的を持っていて、その目的を果たすためにヒロインに接近していく……とか、ね」

 

 

 そう問いかけると、理子は眦を下げて静かに微笑した。それは肯定も否定もない、どっちつかずの日和見(ひよりみ)を示唆した左見右見(とみこうみ)な態度にも思える。そうして、彼女が今朝に敢行した奇怪事というのは、どうやら刹那に思い付いた類推が裡面にあるかも知れないと僕は直覚した。

 

 少なからず理子には、何か達成したい目的があるのだろう。それには僕のような人間が必要で、こうした相手と手早く関係を結ぶには、恋情を煽る方が話は早く、その効果は思春期の男子高校生が相手なら見込める──と読んだのかも知れない。しかしそれは、初対面の僕に提案して協力させるほど、簡単に言い出せるものではないらしかった。

 

 ──理子ちゃんの物語は、どうなるんでしょう。

 

 それから二人は、自動車の駆動音とか、何処からともなく聞こえる喧噪とか、雁や烏の鳴き声とか──そんな噪音交響楽を耳にしいしい、特に会話をするでもなく、悠然と東京湾に腰掛けている斜陽を望んだり、お互いにお互いを一瞥したりしていた。傘を傾けて理子の姿を見ようとすると、もう何度も視線が合っている。それは今もであった。

 

 その度に可愛らしく微笑みを浮かべる彼女の姿が、もう小悪魔なぞではなくて、ほとんど眇たる可憐な一少女として僕自身の胸臆に首肯されてきた。組んだ華奢な後ろ手と、小首を傾げながら零す愛嬌のある笑み、そうして靡く髪の毛、斜陽が燦々と反照している瞳の色──まるで黄昏時の一場面を描いた絵画のような構図で、少女はそこにいる。

 

 聳える木立には青々とした葉が幾枚も幾枚も重なって見えて、その名前も分からないような木の幹から枝から葉から何からに至るまで、芽吹くような春らしさが横溢しているように、僕には思えた。殊にそれが緩く春風に靡いて、或いは煌々と落陽に照らされて、僕の目を射す時には──。

 

 

「いぇい、男子寮とーちゃく! お話してたら一瞬だねっ」

 

 

 可憐な声には春を秘めて、華奢な短躯からは芽吹きを横溢させて、理子は靡く葉のような足取りで僕の前に立ち止まった。それから弧線を描くように向き直ると、こうした軌道を追って、幾筋もの髪の毛が彼女の周囲を円舞していく。そんな理子に一拍だけ遅れて、僕もまた歩みを止めた。建物越しに見えるのは、あの瑰麗な空模様である。

 

 

「楽しいことってね、特別に早く過ぎちゃうんだってさ。──先生はどう? 理子と一緒に居れて楽しかった?」

 

「……はい、とても。家族以外と外出するのは久々で」

 

「えへへ、それなら良かったぁー。なんか嬉しいなっ」

 

 

 そう言って、彼女は無邪気な笑みを零した。僕にしろ理子にしろ、会話の内容なんて、他愛のないものはきっと忘れてしまっているだろう。それでも普通の高校生らしい会話をしたはずだと、お互いにそう思っている。彼女のお気に入りになったカフェは、いつに行こうかしら──なんて。そんなことを思い返して、僕は人知れず含み笑いをした。

 

 

「あと、今日は依頼を手伝ってくれてありがとうございました。理子ちゃんが一緒だったから、捜索も聞き込みも分担して負担が少なく出来ましたしね。感謝してます」

 

「えー、別に褒められるようなことしてないよ? ただ猫ちゃんがモフれればいいなぁー、って思ってただけ! ちゃーんとモフれたし、色々と楽しかったし、満足だけどねっ」

 

 

 楽しそうに頬を緩める理子に頷きながら、僕は帯に忍ばせていた懐中時計を取り出す。銀の鎖に繋がれている本体は和光謹製で、文字盤を取り囲むように、蔦らしい紋様が刻まれてあった。懐中時計らしくアンティーク調の雰囲気を醸成しながら、秒針は一秒ごとに時間を削り取っていく。文字盤を見てみると、だいたい五時付近を指していた。

 

 

「……あっ、もう五時だ。理子ちゃんは夕食の準備とか、大丈夫なんですか? 僕はこれから済ます予定ですけれど」

 

「今日はコンビニで買うつもり! 先生は自分で作るの?」

 

「取り敢えずは。面倒な日はお惣菜とか買いますけど」

 

「へぇー……じゃあ、理子があんまり邪魔して長引かせても悪いし、キリもいいし、今日はそろそろ解散にする?」

 

「そうですね、時間も時間ですから。早いうちに」

 

 

 僕は懐中時計を帯に仕舞い込んで、そう返事しいしい頷いた。彼女も小さく頷き返すと、組んでいた両手を解く。

 

 

「じゃあ先生、今日はお疲れー! バイバイっ!」

 

「うん、お疲れ様でした。さようなら」

 

 

 綻ぶ顔を隠そうともしないまま、理子は朗らかに手を振った。控えめに振る僕とは真反対で、それが一層、彼女の性格──少女らしさを全面的に押し出して首肯している。

 

 理子はそのまま、軽やかに身を翻して歩き出した。心持ち茜色に染まった髪の毛や、フリルで装飾された制服を春風に靡かせながら、どこか浮き足立ったような足取りをして、一歩二歩と歩を進めていく。何を考えるともなくその背姿を見送っているうちに僕は、僕自身の心境に突如として現れた──同時に今までとは一変した思想を発見した。

 

 それは理子に対する思いの吐露、彼女の言葉として換言するならば、告白の返事というものを、今ここでしてみたくなったのだ。その期日は明日だと理子は言ったけれども、そうして僕も、その言葉の通りに従おうと思っていたのだけれども──例えば寝床の狭苦しい暗闇の中で懊悩(おうのう)するよりも、今ここで分かりやすい単純明快な返答に、実に淡泊な感情で素直に乗付けたい気持ちになったからであった。

 

 

「──ねぇ、理子ちゃん」

 

 

 あの華奢な膝が七歩目を踏もうと持ち上がりかけたところで、僕はいよいよ彼女の背姿を呼び止めた。ふいと立ち止まった理子は首だけを回して半身で振り返ったかと思うと、いきおい片足を更に引いて、真正面に向き直る──そんな彼女の一挙手一投足に、僕は端無くも息を呑んだ。

 

 斜陽から燦々と降り零れる茜の雨に、理子は黙然として降られていて、西洋人形みたいな髪色も制服の装飾も、今ではもう全て的皪(てきれき)としたような、そんな瑰麗の一面を秘めている。そこに逆光して翳る彼女の面持ちは、爛々とした双眸のたったそれぎりでしか、色を現してはいなかった。僕を凝然と見詰めてくる金眼に、魅入るばかりであった。

 

 

「……えっと。やっぱり、話したいことがあります。少しだけ早いですけど、告白の返事、させてくれますか?」

 

 

 胸臆は凪いだ水面のように平穏としていて、しかし切り出した言葉は、継ぎ接ぎの雑音に塗れた録音機のような不出来さだった。それでも僕は構わず、丸眼鏡のレンズ越しにがんこうけいけいと視線を透徹させる。やがて無言で頷いた理子は、そのまま元の通りに歩み寄ってきて、それから、やや華奢な身躯を強ばらせて、いよいよ(ほぞ)を固めたらしい。

 

 

「……たった半日でも理子ちゃんと一緒にいて、少なからず性格とか趣味嗜好とか、見聞きするうちに何となく分かった気がしました。愛嬌もあって、快活な態度で接してくれるから、話してて楽しいし、飽きが無いのも事実です」

 

 

 でも、と僕は続ける。視線を理子から逸らしてしまったのは、彼女の背後に悠然と佇む斜陽が眩しかったから──たったそれきりの詰まらない言い訳を、口の中に転がした。

 

 

「でも、まだ少し早いんじゃないのかな──って感じました。僕は理子ちゃんを殆ど知りませんし、理子ちゃんが僕をどれだけ知っているかは分かりませんけど、どちらにしろそれは、色々と報道されているものの、上辺だけの評価だと思います。僕の素なんて当然、知らないでしょう?」

 

 

 そう問いかけると、逆光に翳る少女の影法師が、やや頷いたように僕には見える。すると彼女は矢庭に声を上げた。

 

 

「……けど、そういうのは付き合ってからでも知れるじゃん。理子は先生のことがもっと分かるし、先生も理子のことがもっと分かるようになるよ。それじゃ駄目なの?」

 

 こうした彼女の声を聞いていると、それは悄然のうちに恋々とした情を内包しているような語調だった。いや、どちらかというと、後者の方が多分を占めているらしい。それは小さく握られた手の様子からも、如実に現れていた。しかし僕は、そういうものに一顧も与えず委曲を尽くす。

 

 

「たとい最初は良かったとしても、後々いつかは相手の欠点が見えてしまうものです。その時に僕は幻滅したくないし、何より幻滅されたくない。相手の美点も欠点も受け入れるのって、急に踏み込んでいく限りは難しいでしょう」

 

 

 選り好みの二極端な僕にとって、例えばこうした告白の返事というものは、我ながら穏便が過ぎるほどの配慮だった。何につけても歯に衣着せぬ物言いで、行雲流水たる綺月彩佳という人間の思想は、その意思だけを羅針盤として行動に反映されていく──だからこそ曖昧模糊(あいまいもこ)な言い回しに、二極端の間の扞格(かんかく)を覚えずにはいられなかった。

 

 こうした物珍しい一種の例外に感心するとともに、これこそが現時点での自らの尊ぶべき、そうして行動に反映すべき意思なのだと首肯する僕自身が、同時に存在している。告白の裡面に秘された何か──峰理子という可憐で摩訶不思議な少女──これらが影響したのには間違いない話だ。

 

 そう自覚するや否や、僕はようやく彼女から逸らしていた視線を、いきおい元のように戻せたのである。口の中に転がしていた『理子に対する後ろめたさ』という言い訳は、既に僕自身には釐毫(りごう)の差し響きを与えることはない。とにかく眩い斜陽に目を細めてみると、やはり逆光のせいで、理子の面持ちを窺い見ることは難しいようであった。

 

 

「……そっか。先生がそう言うなら、理子も諦める」

 

 

 頬を撫で、髪の合間を吹き抜けていく春風が、物悲しそうな音色を帯びた彼女の声を耳元にまで運んでくる。けれど僕には、そうした理子の心境に同情するだとか、例えば先程のように後ろめたさを新たにするだとか、そういう世人の持つ低俗(・・)な精神は持ち合わせていなかった。

 

 

「やっぱり、ちょっと変だったかな。いきなりキスしちゃったりとか、その……怒ってる、よね。もしかしたら、理子がしつこく話しかけてくるのが本当は嫌だったとか……。そういうのだったら、ちゃんと謝る。ごめんね」

 

 

 斜陽に的皪とした少女の影像は心持ち項垂れて、悄然としたような語調がまたもや春風に乗せられてきた。理子の問いを反芻して答えるならば、僕はその接吻とやらには怒っていない。──けれど、茫然としてはいたらしかった。しかし、他の点も自分にとっては些細な問題でしかなく、告白の是非を判断する材料にさえなりはしなかったのだ。そうした心情を滲ませながら、僕は小さく首を横に振る。

 

 

「それより、何か勘違いしてませんか」

 

「えっ? 勘違い、って……」

 

 

 呆気に取られたらしく頓狂な声を出して、理子はやや瞠目したように見えた。僕は一つ頷くと、先を続ける。

 

「恋愛関係になるのは『まだ早い』とは言いましたけど、『お付き合いをしない』とは、一言も言ってませんよ」

 

「だから──」。そう零した声が端無くも詰まってしまったのは、返す返すも僕自身の失態だった。努めて泰然を気取っていようと理解していても、脈搏は何故だか加速度を増していく。それは、告げようとした言葉がある意味をして、自分から彼女への告白に該当するからであろうか。

 

 しかしその告白というものは──恐らく理子が僕に向けたものと全くの同一であるように──異性に対する感情の何ものでもなかった。恋情に焦がれる憧憬でもありはしなかった。あくまでも極めて、友誼(ゆうぎ)的な枠として収まっていたのだ。その事実を反芻しいしい、臍を固めて口を開く。

 

 

「──だから、っていうのも、変かもしれませんけど……。改めて、僕の友達になってくれますか?」

 

 

 口元から洩れた言葉は、春風に乗せられて彼女のもとまで漂流していく。あの細やかな指先から舞い上がって、肌理細(きめこま)かな頬を撫でて、茜に紅潮したらしい耳の、その鼓膜の奥へ奥へと押し遣っていった。こうした刹那に紫雲へと翳った斜陽の薄明かりで、僕はようやく、理子の面持ちを的皪とした逆光に邪魔されることなく直視できたのである。

 

 たなびく紫雲の絶え間から燦々と振り零れるのは、紫金と茜の綯い交ぜになった陽線であった。それらが眇たる少女の実体と影法師とを一挙に照らして、釐毫の穢れすらも見当たらない、清浄無垢な肢体を黄昏に描き出している。或いは八面玲瓏(はちめんれいろう)たる瞳にも燦然と反照し、かつ彼女の眉目良(みめよ)い容貌の仔細までを、それと如実に証明しきっていた。

 

 そうした理子の面持ちを観察するともなく観察していた数瞬のうちに、ほどなく僕は彼女の耳朶(じぼ)がやけに紅潮しているのを──初めは斜陽のせいかと思ったけれど、どうやらそうではないらしい。瞠目して覗いている瞳は僅かばかりの感涙にさえ潤んでいるらしく、やがて射しかかった陽光に目を細めると、眦を伝って紅涙が滴下していった。

 

 それを無邪気らしく拭った理子の目元が、気恥ずかしさに耐えかねて綻んでいるのも、僕は知っている。つい先刻まで悄然としていたはずの彼女の面持ちは、誰の目にも分かりすぎる以上に晴れがましくて、更には雲間から射した陽線にあてられつつ、眦も口元からも零れ落ちてしまいそうなほどに可憐な、とびきり屈託のない笑顔をしていた。あとは息を呑んだままに、大仰に一度、頷いたきりだった。

 

 

「……ふふっ。ありがとうございます」

 

「ううん、こちらこそ。ありがとね、先生っ」

 

 

 お互いに顔を見合わせつつ、またも僕と理子とは笑みを零す。僕のそれは羞恥心から来たものでも弛緩した調子から来たものでもなくて、ただ純朴な喜悦と安堵が形を伴って洩れ出たのだろう。友人と呼べるようなクラスメイトが皆無だった自分にとって、峰理子という奔放で摩訶不思議な新友人の存在は、素直に喜べるものとして首肯できた。

 

 同時に僕は、そうした僕自身の直情的な要求を改めて自分自身に頷くとともに、それとはまた別の、やや狡猾な意図を多分に秘めたもう一つの心情というものを自覚する。というのは、『努めて賢明になろうと』或いは『莫迦を演戯しようと』皮を被る──これこそに他ならなかった。『斜に構えて本質に迫るよりも、悠然と待つのが好手と見て』、僕は先程の告白というものを決断してもいたのだ。

 

 理子が綺月彩佳という人間に何かしら惹かれて、そうして接近してきたことは既に明々白々である。だから僕は賢明かつ莫迦を演戯することで、いつか彼女がその目的の一端でも吐露するであろう時までを、悠然と観察しいしい、同時に、クラスメイトや友人としても関係を続けるのだ──そんな明暗二通りの心持ちを、笑みの裡面に潜めている。

 

 ──といった僕の腹心などは微塵も類推していなさそうな態度で、理子は綻ぶ口元を隠そうともしないままにいた。

 

 

「友達……友達……。……えへへ」

 

 

 そう小さく洩らしながら、彼女は両の手を胸元で握り締めている。下がった眦も、綻ぶ口元も、喜悦に紅潮した頬も、そんな屈託のない笑みをするから僕は──狡猾な心情を抜きにしても、彼女のことを友達にしたいと、そう思ったのかも知れない。

 

 

「じゃあ、理子と先生、今から友達だね」

 

 

 そう告げる少女からは、あの甘ったるい香りがしていた。




ここまでお読みいただきありがとうございました。作者の雨宮彩織です……!

作品冒頭の報告でも告げたとおり、改稿部分のストックはここまでとなります。いかがだったでしょうか? 少しでも面白いとか可愛いとか思ってくれたら、ぜひお気に入り登録、評価、感想などくれますと嬉しいです! たいへん励みになります……!

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