「──遠方より遥々と御足労いただいた皆々様に、まずは衷心から感謝の意を申し上げます。かねてより計画しておりました会見を、只今から開始したいと思います」
絢爛なコンサートホールの舞台上で、綺月彩佳は観客席に向けた簡単な挨拶を述べてから、慇懃に叩頭した。頭上から爛々と降り注ぐ照明に照らされて、整えられた毛髪の一筋一筋までが、白銀のような色彩で虚空に
アンティーク調に仕立ててある丸眼鏡にも、そうした照明は、その金縁の躯体に彩りを添えている。幾筋かの光の束が、彼の目元や視界の端で、煌々とした黄金石や、或いは虹のようにも分裂していって、その果ては輝石みたようなものに変貌していく様を、彩佳は煩わしく思っていた。
右手にマイクを握りながら、傍らに置かれているヴィンテージ調の椅子を一瞥する。そのまま白染めの大島紬の褄下あたりを気にしいしい、指先で摘みながら腰を下ろした。手にしているマイクを据え置きの卓上に静止させると、銀鼠の羽織の襟元を正してから、前方を凝然と見据える。
上下二階層に分けられている観客席は、この会見の模様を報道するために集合したメディアが独占していた。とりわけ階上は、民放各局の放送機材や関係者が、あちらこちらに散在している。階下はというと、こちらもまた全国各地から集結した記者が、文字通り座席を埋め尽くしている。
そんな彼等を前にして、彩佳は目蓋を閉じて瞑目した。やがて開かれた目蓋の向こうに見える瞳は、眼前に存在するはずの面々を微塵も映さずに、ただ宝玉のように煌々とした、彼の瞳の藍白だけを透徹させている。マイク越しに響いた彩佳の声は、それだけでも分かるほどに、玲瓏としていた。それは、転がした鈴の音色のようにも聴こえた。
「──行雲流水という言葉を、皆々様は御存知でしょうか。行く雲、流るる水、と書きます。雲も水も自然を象徴するものですが、同時に双方は、空を行く雲であり、川に流るる水でありまして、千変万化、ただ流動するままに移り変わっていきます。一つとして同じものはありません」
面々は、そんな彩佳の前口上を怪訝そうな面持ちで静聴していた。或いは、それに好奇の入り交じったような目付きで──、階上に点在する放送用のカメラはレンズを絞り、階下に散在する記者は一心に筆を手帳に走らせている。
「自然のままに一切の淀みがなく、また、そうして流動するままの自然の性質に身を任せて行動することを、このように行雲流水と呼ぶのです。晩年、綺月彩雲が『行雲』という作品を書きましたが、その内容もまた、自然主義思想によって、流動する自然の美しさを描いたものでした」
彩佳はそこまで話し終えると、黙考するかのようにして言い淀んだ。しかしそれも一瞬間のことで、会場内の誰かに違和感を覚えさせる暇すら与えずに、話を展開していく。
「いつだったか申し上げました通り、自分の進路は、昨年には既に決まっておりました。具体的には、芥川賞を受賞した数ヶ月後の時点です。その間は、本来なら受験をとうに視野に入れている時期ですけれど、実を申しますと、当時は、さてどうしたものかと彷徨していた時期なのです」
懊悩の数ヶ月前を懐古するかのように、彼は眦の上がった目を細めて、自嘲気味に苦笑を零した。普通の中学生ならば、とうに高校受験を視野に入れている──否、受験を見据えた勉強に励んでいる時分にも関わらず、自分はまだ将来を決めあぐねていた。熟考は必ずしも悲劇を招くとは限らないものの、それが喜劇に直結するとも限らないのだ。
「勿論、世間の一般に便乗して、自分も高校に進学しようかとも考えました。けれども、はっきり申し上げて、一般的な高校で学びたいことがあるのか──と問われると、素直に首肯するわけにはいかないのです。学びたいことは殆ど、この中学校の三年間で、済ませてしまいましたから」
──一般。つい今しがた告げた、たったの二語に、彩佳は何かしら心持ちの悪い気分がして、後に話そうとしたことも放ったまま、その二語に顔を向けつつ没頭していた。胸臆から沸々と想起してくるこの感情は、悄然とも似ているものの、どうやら厭忌に限りなく近しいものに思える。何より、彩佳は過去に一度、これと同じ感情を抱いていた。
そうした彩佳の態度にも気が付かず、記者たちは、待望していた話題に意識を傾注させる。身を乗り出して、一語一句も聞き漏らさぬ覚悟で、聴覚を必要以上に酷使しながら、彩佳の話に聞き入っていた。玲瓏な彼の声以外には森閑ばかりが漂流していて、彼以外が釐毫の吐息を放つことさえも
「ここで懊悩という川に身を委ねても、行き着く先は懊悩という名の大海です。そこで、気晴らしに外出してみよう──と思い立ったのが、結果して功を奏したと言いましょうか。哲学の道に面したところに自宅があるので、晩夏の黄昏時に呑まれたまま、悠然と遊歩道を歩いていました」
当時の情景を克明に思い返しながら、彩佳はマイクを握る手を緩めて、穏和な面持ちで淡々と続けていく。眼鏡の躯体やレンズに爛々と映射する幾多の照明にも、今となってはもう、殆ど彼は気にしないでいた。それよりも、脳裏に浮かみ現れていく色鮮やかな色彩の方に、惹かれていた。
「昊天に腰掛けた斜陽に降られている
「そうしていると」と彩佳は続ける。
「このような物思いに耽っている自分が、この山紫水明の大自然を前にすると、次第次第に空蝉の内の、
その時の心境を体現するかのように、彼は悄然とした口調で語りながら、やはり自嘲気味に、目元に笑みを浮かばせている。しかし「けれども」と逆説的に示した声色は、彩佳の抱いている泡沫の内に秘めてあった喜色が、ストロボを焚いたカメラみたように、軽快に弾けたらしく思えた。
「自分の来るべき先というものを、誰に言われるでもなく、不意に、自然に思い付いたのです。それこそ、観音菩薩か何かの神託のように。たとい、そうであるならば、こうした自然の流れに行雲流水の如く身を委ねて、その流れのままに生きてみたい──と、そう思った次第です」
彩佳はそこまで告げると、マイクを卓上に手放した。もしや、ここで会見を終わらせてしまうのではないのかしらん──と、内心で狼狽しかける面々には気にも留めず、彼は緑茶の入っている茶器に手を伸ばした。冷めかけた緑茶を啜ると、小さく溜息を吐いて、またマイクを手に取る。
彩佳が口を開いたのは、無意識の瞑目を終えてから数秒後だった。握る手に筋を浮かべて、伏せがちにした眼鏡越しの藍白を炯々とさせながら、間一文字に結んでいた口元を緩めていく。そこには彼の心模様が横溢していた。数ヶ月越しの機会を待ちかねた面々に向けて、鷹揚に宣言する。
「──東京武偵校に、入学致します」
最初に声を上げたのが、この観客席の中の誰だかは知れない。ただ、一度は反響したその波が、反響に反響を重ね、やがて潮騒に変貌していって、遂には潮騒とも呼べぬ喧噪に発展していく様を、彩佳は黙然として見遣っていた。
その喧噪が一頻り落ち着いた頃に、彼はまた口を開く。動揺と興奮の余韻が冷めやらない面々は、揃いも揃って彼を凝視し、レンズを向け、インクを歩かせていった。「そう来たか」と呟く民放の社員が居れば、「号外だ」と零す新聞記者も居る。「下らねぇ」と毒を吐く軽薄な者も居た。
「胸の内を申し上げますと、自分でも何故、こうした展開になったのかという理由が、明確に分かっておりません。不意に思い付いたと言うより、やはり、観音菩薩の救済であるとか、そうした神託として考えでもしない限り、納得がいきませんから。だから、行雲流水という前口上を皆々様に示しました。その前口上は、ここに帰結するのです。
行雲流水という思想に基いて考えるならば、こうして偶発的に起こった自然の流動に、やはり行く雲と流るる水の如く、そのまま身を委ねることが宜しいのではないか──いっそ懊悩を重ねていくくらいなら、こうした流れに悠然と
そう語る彩佳の面持ちは、穏和で晴晴としていた。澄んだ藍白の瞳で面々を見渡しながら、弁舌に万丈の気を吐いている。聴衆はいつの間にか、そうした彼の語り口に魅入られてしまっていた。淡々とした口調の裡面に秘めてある、彼の言い知れぬ魅力を、垣間見たような気がしていた。
「これは観音菩薩が与え給うた、自分に対する救済という名の、一種の好機ではないのかと思うのです。現在の東京といえば、かつての都であった京都のように、政治と文化の中枢であります。そうした最先端の地へと赴くことで、新たな知見を得ることができるのではないか──また、従来の探偵の印象とは全く異なる武装探偵ですが、こうした新たな探偵論というものに、実は興味が無かったわけではございません。むしろ、多分の興味を向けておりました」
武装探偵──武偵と通称される新たな国家資格は、今から数年前に設立された。凶悪化の一途を辿っていく犯罪者に対して、新たな対抗策として生み出されたのが武装探偵になる。免許を保持している者は武装が許可されているのが特徴で、警察に準ずる逮捕権等も有するなど、法律の範囲内とはいえ、幅広い活動が期待されているのだ。その武偵を育成するのが武偵校で、これは東京のみに限った話ではない。日本全国各地、或いは世界各国にも存在する。
「その点、東京武偵校は非常に都合の良い立地でした。どうやら港区の、レインボーブリッジに隣接するようにして存在するようですが、港区といえば、慶應義塾大学や東京タワーなどで有名でしょうか。何より、かねてから気にかけていた武偵という存在に、自らがなる──というのは、これこそ、何かしらの仕合わせのように思えています」
そこまで言い切ると、彼は眦の上がった切れ長の目元を綻ばせながら、口元に手を遣りつつ、小さな笑みを零した。
「自分は行雲流水という四文字に、例えば言霊のような、不可視の魅力があるように思えてなりません。こうして東京武偵校への入学が決定したのも、直感による偶発的な決断の結果ではなく、行雲流水という四文字が何処かで仕合わせてくれた、それこそ必然であったのかもしれません。
そうして、この来るべき先が、自らの唯一無常の安寧の地だとは微塵も思っておりません。艱難辛苦に苛まれる時もあるでしょうことは、容易に首肯できるところです。しかし、行雲流水の為すべきところとなりました先に、何かしら仕合わせがあるのだろうと類推して、今後も行く雲、流るる水の如く──先の人生を歩んで参りたいと思います」
静穏な口調で彩佳は言い終えると、握っていたマイクを卓上に手放した。ここで初めて、彼は掌が汗ばんでいたことを自覚する。我にもなく演説に没頭してしまっていたのかしらん──と苦笑しいしい、着物の褄下を摘みながら起立した。そのまま手を膝の前に当てると、恭しく叩頭する。
降りしきる照明に爛然と映射する彼の髪は、やはり一筋一筋に至るまで、白銀のような色彩を誇って煌めいていた。目蓋の向こうに隠れた藍白の瞳もまた、玲瓏に澄み渡っている。そうして、コンサートホールに咲き誇った満開の喝采が、煌々と照らされた綺月彩佳という文学少年の先を、何処かに暗示しているようにも、そう思えてしまった。
そのことを彼が感受したかは定かではない。ただ、何の気も見せない泰然とした態度で、正絹から仕立てた大島紬の着崩れだけを気にしいしい、元のようにして腰を掛ける。
「ここまでの話をご清聴いただきまして、誠にありがとうございました。これ以後は十数分ほど、質疑応答の時間を予定しております。あれば何なりとお申し付けください」
彩佳はそれだけ告げて、丸眼鏡の色付きのレンズ越しに、民放各局の社員だとか、新聞社の記者だとかに、右から左へと視線を巡らせた。それを左から右へと戻す頃には、見ただけでも既に、十数の腕が上がっているように思える。その内の一人を、「お願い致します」と彼は指名した。
「東都日報の榎本と申します。この度は東京武偵校へのご入学、誠におめでとうございます。二つ質問を申し上げたいのですが、そこではどちらの学科を専攻なされるのでしょうか。宜しければ、武偵ランクもお教え願います」
彩佳は途中に挟まれた好事の挨拶に頭を下げつつ、溌剌とした口調の、若々しい記者の質問に耳を傾けていた。彼はこうした話の最中に何回か頷きながら、思案げに目蓋を瞑っている。しかし、その記者の質問が終わってからは、大した間を置かないままに、いつもの通りに返事を返した。
「主に探偵術や推理学などを学ぶ、
その返事に対して、榎本記者は「ありがとうございます」と一礼をしてから、手持ちのノートに向き合った。それと同時に、また別の記者が何人か挙手をしている。先程より数は減ったものの、それでもまだ多い。彩佳は適当な記者を指名すると、「どうぞ」と手で示しながら先を促した。
「日本文藝新聞社の壬生と申します。探偵科でAランクだと仰りましたが、それに対しての感想をお聞かせ下さい」
壬生記者の問いに小さく頷きながら、彩佳は答える。
「武偵ランクは、Eを最低としてSまであります。Aは六段階中の五段階目となりますが、最高に至らなかったのは、自らの稚拙なことに他なりません。学科が求める特有の能力・基礎身体能力・基礎学力を総合してランクは結論されるようですが、とりわけ基礎身体能力については、自分自身に非があると痛感しております。ひとまずは出来る限りのことをして、Sランクの頂に手を延べるべく尽力致します」
そう返答する彩佳の握った手は、
そのことを、会見を取材に来た面々の殆どは分かっていた。だからこそ、こうして躍起になる彼の気概に感心させられてもいる。しかし、穏和な彩佳の見せる表層的な風貌や性格というものとは別の、もっと深層に存在した、飛翔へと至る一途な向上心──そうしたものを感受していた。
壬生記者もまた、彩佳の言葉からそれを感じ得たのだろう──「頑張ってください、応援しています」と激励した。「ありがとうございます」と返した彼の言葉は、力強い。
彩佳はまた適当な記者を指名した。残る人数も片手で数えられるほどで、これならばすぐに会見は終わるだろう。
「京都新聞の遠藤と申します。例えば綺月先生が
揮毫とは、将棋・囲碁棋士や有名人、政治家といった著名人が座右の銘などを書にしたためることで、扇子であるとか色紙であるとか、そういったものに揮毫されることが多い。つまるところ彩佳の座右の銘は──ということなのだろう。この問いにもまた、間髪を入れずに彼は即答した。
「『行雲流水』です。理由はもうお分かりでしょう。敢えて異なるものを挙げるとすると……、『
そう言って、彩佳は笑みを零した。成程、というように遠藤記者は軽く頷くと、「申し訳ございませんが、続けて質問させてくださりますか」と言う。彼はそれに快諾した。
「先生にとって、行雲流水に生きるとは何でしょうか」
いかにも哲学的な問いかけに、初めて彩佳は黙考する。彼にとって行雲流水とは、単なる座右の銘などではない。綺月彩佳という人間の人生観を左右することとなった、単なるたった四文字に、それだけの影響を持つ言葉なのだ。
マイクを握る右手を下げながら、彼は何度か、眼鏡の奥の藍白の瞳を瞬かせる。そのまま目蓋を瞑って瞑捜していた。傍目にはたった十数秒ほどの時間でも、彩佳にとっては、数分の長考をしているかのように錯覚しているのだ。
そんな虚構の数分の中で、またしても彼は、胸臆に沸々と沸き立ってくる感情に整理をつけていた。それは先程、
徐に開かれた、丸眼鏡の向こうの目蓋の奥は、またもや眼前に存在するはずの面々を微塵も映さずに、ただ宝玉のように煌々とした、彼の瞳の藍白だけを透徹させている。彩佳が視ているのは、現在でも未来でもなく、過去だった。
「──それは、人間らしいということです」
伏せがちにした藍白には、哀愁の色が混じっていた。
作者の綺月銀華です。前回に引き続き今回もお読みいただきまして、誠にありがとうございます。新聞記事の書簡体形式を採った前話でしたが、本話は三人称視点で書きました。多少なりとも、彼がどういった人物なのかは把握していただけたかと思います。また、前話では活かしきれなかった当方の文体というのも、把握していただけましたでしょうか。一人称でも、大体あのような感じに描写します。
ついに、次回からは本編に入ります。どういった進行になるのか、まだ自分自身でもまとめきれておりませんが……。ある程度の空想はしております。そうした内容も併せて、心待ちにしていただければ、嬉しいです。
お気に入り・評価はもちろん、批評を含めた感想もお待ちしております! どうか軽率になさってください。非常な励みになりまして、また創作意欲の向上にも繋がりますので、当方としては、やはり、心待ちにしている限りです。
それでは、今回はこのあたりで擱筆させていただきます。次回をお楽しみに! 綺月銀華でございました。