プロローグ
雲の合間から差す月明かりが人影を照らしている。
――美しい少年であった。
短く切りそろえられた黒髪に雪のように白い肌、中性的で整った顔立ちに灯る青い瞳はサファイアを連想させる。
少年が身に纏う白の装束は、ところどころ赤色の染みで汚れていた。少年の手に握られた一振りの日本刀、その切っ先からも血の雫が滴っている。
少年の足元に転がるのは無数の死骸。
人の形をしながらも鋭利な牙や爪を持つもの、毛むくじゃらの獣のようなもの、姿形がおよそ生物のそれとは思えない様なもの。骸のどれもが異形であり、およそこの世の存在ではないことが一目で分かる。
惨憺たる光景の中、何一つとして感情の灯らない、人形じみた表情を浮かべて立ち尽くす少年の姿はまるで幽鬼のようだった。
ふいに、機械の電源を入れたように、佇むだけだった少年が活動を始める。ゆったりとした足取りで、地面の血だまりを踏みながら、少年は死骸の一つへと歩み寄った。
彼はその場にしゃがみ込むと、躊躇いなく死体を除け、その下敷きになっていた物を拾い上げる。それは、一つの面だった。下敷きになっていたせいでひどく汚れていたが、元は白い狐を模した面らしい。
少年はその狐面を大事そうに抱えて立ち上がると、懐から取り出したハンカチで付着した血をぬぐい始める。
手を止めないままに、少年は後ろを振り返って、
「それで、一体いつまで覗き見ているつもりだ?」
無機質で、しかし、凛とした声が少年の口から紡がれた。
「――ふふ、流石ね。ひと仕事終えたら大抵油断するものだけれど、常在戦場とは恐れ入ったわ」
その場の惨状にはおよそ似つかわしくない可憐な声が少年に応える。
いつの間に存在していたのか、少年の視線の先に佇んでいるのは一人の少女だ。
金色の髪をたなびかせるその少女は、少年よりも少し年下に見える愛らしい容貌とは裏腹に、何処か妖艶で、得体のしれない雰囲気を纏っていた。
それは少女の持つ残酷的な美しさと相まって、より一層彼女が常識の外にある存在であることを予感させる。
しかし、それは少年も同様であった。
身に纏う衣服も、白い肌をも返り血で染め上げながらも、少年の美は一切の曇りを見せない。
むしろ、まるでそれこそが最上の化粧であるかのように、怖気が立つような美しさで少年はそこに存在していた。
――彼もまた人智の及ぶ存在ではないのだろう。
あたりを充満する、むせ返るような血の匂いを気にも留めず、相対する二人は言葉を交わす。
魔性同士の語り合い、それが持ち得る魔力が世界を呑み込んだかのように、蟲の声も風の音すらも、両者の間に入り込むことを良しとしなかった。降って湧いた静寂のなかに、少女と少年の声だけが響き渡る。
「こんばんは、創一君。あなたの主人との話はついたわ。そちらの準備が整ったらいつでも言って頂戴、あのお屋敷ごと私の能力で幻想郷に送ってあげるわ」
「そうか、色々世話になってすまない」
そう言って礼を述べる少年――創一の顔にはやはり表情が無い。昆虫や人形のようにも見える無機質な瞳が少女をただ見据えていた。
「構わないわよ。私としても彼の稲荷明神、
僅かに口角を吊り上げて、単に楽しんでいるのか、からかっているのかが分からない様子で少女は言う。
変わらず無感情を貫いたまま、少年が応えた。
「宇迦様はともかく、俺みたいなのに恩を売ったところで大して期待はできない。買いかぶりすぎだ」
「あら、随分謙虚なのね。でも、行き過ぎた謙虚は美徳ではないわ。それに、期待するかどうかは私が決めることよ」
「あぁ、まぁそうだな」
創一はあらかた血を拭いとった狐面を懐に入れると、少し思案気な表情を浮かべる。
「それじゃあ……今から一か月後にお願いしよう。それだけあればこちらの準備も整うだろう。すでに下準備は済んでいる」
「分かったわ、有名人も大変ね。忘れ去られれば存在が消える私たちからすればうらやましい限りだけれど。貴方という英雄が居なくなれば、さぞかし外の連中は苦労するでしょうね」
何処かわざとらしい物言いを無視して、創一は返答する。
「いや、そうでもないさ。むしろ、清々するだろ。そもそも、英雄なんて称号は只の都合でしかない。倒すべき脅威が存在すれば成り立つが、それが無いなら只の危険分子だ」
創一の言葉は悲観も怒りも感じさせない、呆気からんとしたものだった。
「大体、周りが騒ぎ立てただけで、俺は英雄視されるような器じゃない。本来の役目である宇迦様の従者すら全うできたとは言い難い。ただのロクデナシだ」
自嘲を淡々と語る創一の姿は、その自己評価が彼にとっては紛れもない、謙遜の類を一切含まない事実であることを表していた。
創一の言葉に少女は納得したように頷く、そして意味ありげに笑った。
「そう、でもなら尚更良かったわ」
「……どういう意味だ?」
それまで無感情だった創一の表情に、初めて困惑の色が浮かんだ。
怪訝な視線が少女に向けられる。
「ふふ、だってぴったりじゃない! 貴方が今から行く場所は幻想郷よ。外の世界で忘れられ、行き場をなくした者たちの最後の楽園。人から煙たがられる厄介者なんて幻想郷じゃ珍しくないわ」
語る少女の顔は心底楽しそうで、まるで大切な宝物を見せびらして喜ぶ子供のようでもあった。
意外な少女の一面を垣間見て、創一の瞳に僅かに好奇の色が浮かんだ。
「人妖問わず、良くも悪くも灰汁の強い連中の吹き溜まり。全てを受け入れるのが幻想郷なのよ、それは残酷な程にね……貴方も直ぐに幻想郷の一員になれるわ。貴方を勧誘して本当に良かった」
金髪の少女はそう言って創一を見据えると、人外らしく怪しげに、でも何処か優しげに微笑む。
「それじゃあね、創一君。貴方の幻想入りを楽しみにしているわ」
それだけ言うと、少女はくるりと踵を返し、創一に背を向ける。
瞬間、少女の目の前の虚空が裂け、無数の目のようなものが覗く異様な空間が露わとなった。
振り返り、軽く創一に手を振りながら、少女はその空間へと飛びこむ。そして、すぐに空間は消え失せ、もとの虚空へと戻っていく。
創一と異形の死骸だけがその場に残された。
「……相変わらず胡散臭いやつだな」
深いため息をついた後、創一は夜空へと目を向ける。
先ほどより幾分か雲は晴れていた。
星々の輝きと、まだ満ち切っていない月が良く見える。
「……結局こうなったか……まぁいい…………」
自分はもう此処にはいられる身ではない。
もはやあの方の従者では無くなった自分に、この世界で思い残すことも無い。
退魔師としての仕事も十分だろう。
――潮時だ。
もとより地獄に落ちることすら生ぬるい身。楽に死ねるとも思っていないし、そのつもりもない。――だから
「幻想郷だろうが何だろうが、どこにでも行ってやるし、お前の企みにも乗ってやる。精々上手く使ってみろ
◇
「紫様、本当によろしかったのですか?」
「何がかしら? 藍」
心配そうな表情を浮かべる自分の式に、紫は尋ねる。
「あの少年のことですよ。元が幻想郷出身といえど、狐守は既に外の地に根付き、大成した退魔の家系、その当主を呼び込むのは余りにも危険ではありませんか? 紫様が維持しているこの郷のバランスが壊されるやもしれません」
「藍、あなたはわかっていないわ」
藍の言葉に紫は嘆息する。そこには明確な呆れが含まれていた。
自分の式は優秀ではあるが、どうにも創造力が乏しい。
定まった策しか理解できないというのは考え物だ。
真に知恵者と対峙するとき、または大きな脅威を前にしたとき、必要となるのは他でもない型破り、奇策の類である。
事実、あの復讐者は奇策によって月を追い詰め、また、地上に堕ちたあの月の賢者も奇策によってそれを退けた。
今幻想郷が直面しようとしている問題は従来の方法で解決できるものではないのだ。
「幻想郷はすべてを受け入れる。いや、受け入れなければならないの。受け入れるからこそ幻想郷は成り立つのよ」
諭すような口調で紫は続けた。
「外から完全に遮蔽して風がふかなければ、鳥かごも虫かごも機能しないわ。陽の光もなければ花も咲かない。幻想郷には新しい風が必要なのよ。月の都のように排他的で不変のものになれば……
最後をより強調して紫は語る。それはまるで、自己に言い聞かせ、戒めているようにも感じられた。
新しい風を受け入れる。その言葉通り、幻想郷は様々な妖怪や神霊を受け入れて今の今まで発展を続けてきた。
だが、未だ幻想入りを許容できていない存在も居る。それこそが、外の世界で活動する退魔師達だ。
佐渡の化け狸達のように、外の世界にも一定数妖怪は存在している。
そして、それらの全てが人間と上手く付き合うことができているわけでは無い。
中には人に牙を剥く者達だっているのだ。
だからこそ、それらに対抗する者達が必要となる。
科学文明の裏に息づく怪異達を知り、監視し、時に力で押さえつける。
弾幕ごっこではない人外との命を懸けた殺し合いを成す者たち。
怪異を幻想の存在に押しとどめる、外の世界の調停者。
紫が招き入れようとしている件の少年はその一人であり、日本一とも謳われる実力者。
稲荷明神の剣にして、怪異殺しの一族たる狐守家の最高傑作。神代の英雄にも匹敵すると言われるその力を、紫は未だ一端しか垣間見てはいないが、それが眉唾では無いことは間違いなかった。
「紫様のお考えは十分わかりますが、新しい風なら最近頻繁にこちらに訪れる外来人がいるじゃないですか、あの娘では駄目なんですか?」
藍が語る人物には、紫もすぐに心当りが浮かんだ。
宇佐美董子、少し前に幻想郷へと侵入し、異変を起こした稀有な外来人である。博麗の巫女を始めとした幻想郷の住人達と関わりを持ち、今なお幻想と現実を行き来する少女。
外に住人でありながら、強力な超能力でもある彼女が、幻想郷にもたらす影響は大きいだろう。
しかし、それでは不十分だと紫は首を横に振る。
なぜなら、彼女は異能を持ち得てこそいるが、怪異を知らない。自分が生きる日常の影に、未だに息づくそれらの存在に無知である。言わば表の人間に過ぎないのだ。
「あの子の存在もなかなかいい刺激になっているけれど、足りないのよ。これからのことを考えるとね……」
そういって紫は苦々しい表情を浮かべる。
藍も直ぐにその内容を察したようで、げんなりとした様子で息をついた。
「……あぁ、あの連中のことですか」
「それもあるけどね、彼らだけじゃないわ。スペルカードルールに不満をもっている妖怪たちは表立たないだけで少なくないのよ」
大抵の妖怪の本分は人を害すること。
スペルカードルールは諸々のリスクを減らした上で、それを疑似的に成す素晴らしいルールだ。
これが現在幻想郷の秩序維持にどれほど役立っているかは言うまでもない。
しかし、それでは満たされないという妖怪も存在する。
命を懸けた争いを、血で血を洗う闘争を望むものは少なくない。
紫に言わせれば古臭い、懐古主義的な老害の如き思考だと吐き捨てたくはなるが。
人間より長い時を生きる妖怪は大抵不変的な存在であることが多い。
新しい変化を受け入れさせるには限界がある。
だからこそ、一度膿をすべて出し切る必要があるのだ。
この幻想郷が更に発展して行くために。
「ところで藍」
くすりと紫が悪戯っぽく微笑む。
「強者と存分に戦いたくて、人を襲って食らいたい、そんな連中の前にとっても強い人間が現れたらどうなると思う? それも博麗の巫女でもなければ里の人間でもない、外来人だったら?」
「な!? それは‼」
藍の黄金色の瞳が驚きで見開かれる。
「……いえ、なるほど。確かにあの少年がうまくやってくれれば当面の問題は片付きますが……しかし、仮にあの少年を死なせれば、それは宇迦之御魂神を敵に回しえるのでは?」
神秘が失われていく現代でも宇迦之御魂命は多くの信仰を集め、いまだに強い神威を保っている稀有な神である。
藍は妖狐であって彼女の眷属である白狐とは違うが、それでもその神格は思わず萎縮するほどに強大である。敵に回してよい相手だとは藍には到底思えなかった。
しかし、紫はそんな藍の瞠目を気にも止めない。
余裕を持った表情で紫は続ける。
「そうならないよう時期が来たら貴方が彼に協力してあげなさい。まぁ、仮に死んでしまったとしても責められる謂れはないわ。私は勧誘こそしたけど、幻想郷の危険性もしっかり伝えたもの」
後は自己判断の領域だ。別に幻想入りを強制したわけでもない。
「向こうも妖怪たちの楽園に狐守の人間が踏み込むことの意味を分かっているはずよ。それに……」
紫の脳裏に創一の顔が浮かぶ。
作り物めいたその相貌に灯る透き通るような青い瞳は、こちらからはうかがい知れない。ともすれば、こちら側が見通されているような気すらさせる。
「ただの親切や好奇心で自分を招いた訳じゃないぐらい彼は分かっているわよ。分かったうえで、私の思惑に乗っているのでしょう。人間だと侮れる相手ではないわ」
「そんな! なら尚更危険なのでは?」
「危険だから良いのよ。今の幻想郷には、使い方を誤ればこちらが手傷を負う、そんな人材が必要なのよ」
真剣な主の眼差しに思わず藍は息を飲む。
つかみどころが無い主が偶に見せる、長い歴史を生きた大妖怪として、そして幻想郷の賢者としての眼差し。
最早、藍には反対する理由は見当たらなかった。
「分かりました、肝に銘じて置きます!」
厳かな態度で頷く藍に満足げな笑みを紫は浮かべる。
「それじゃあ、結界の管理に戻って頂戴。私はまだ他に済まさなきゃいけないことがあるから」
「はい、直ちに!」
きびきびとした動作で藍が足早に持ち場へと戻っていく。
その様子に紫は満足げに頷いた。
頭は固いが、こういう実直なところは好ましい。
あの少年と引き合わせたら、どんな反応をするのだろうか。
霊夢や魔理沙はもちろん、同じ外出身の守矢神社の巫女も見物だ。
外の世界の退魔師という、今までにない異質な存在は。
少年とこの郷の妖怪が繰り広げるであろう闘争は。
一体この郷の住人にどういった影響を与えてくれるのだろうか。
その未知に、紫は自分が柄にもなく心が弾んでいることに気づく。
「……本当に、期待しているわよ
そう言って、幻想郷の賢者であり管理者たる八雲紫は、盤上の駒を弄ぶ老獪な大妖の顔をのぞかせた。