分厚く重たい扉を体全体で押し開ける。扉は錆ついているようで、耳障りな甲高い音を奏でた。普段訪れる者がそう居ないため、手入れが雑になっていたからだろう。もう代えどきなのかもしれない。
そういえば、自分はいつもどうやって入っていたのだろうか。こんな扉を毎度通って居たのか。そんな疑問が浮かぶが、答えは出ない。全く思い出せないのだ。
記憶に穴が空いているというよりは、強い靄がかかっているような、そんな感じだ。鮮明に思い出せるのは、この目を閉じる以前のことくらい。
覚妖怪の象徴である第三の目、それを労わるようにこいしは手で摩った。大昔に閉じた瞳は未だ開いてはいない。心を読む力は封印されたままで、意識は無意識に沈んたままだ。
だが、
「……不思議だな」
そう口にするこいしの顔には笑みが浮かんでいた。
自身の能力によってこいしの頭の中は常に霞がかったように不明瞭で、思考はまとまりをもたない。しかし、今だけは違った。
こいしの脳内は今までにない程晴れている。複雑な思考を行うことはできないかもしれない。だが、意思も目的もこの上なくはっきりしていた。
それが可能なのは、ひとえに腹の底から湧き上がる激情のおかげだ。無意識の微睡みは今、怒りの情念によって焼き尽くされていた。
扉の先に待ち受けるのは、広々とした中央ホール。
大理石の床と柱は光沢を帯び、中央部には大きな赤い絨毯が敷かれている。
壁に取り付けられたガラスの照明と、吹き抜けの天井から釣り下がるシャンデリアが室内を照らしていた。
二階へと続く中央階段の先には、見事なステンドグラスが並んでいて、そこからは日光とは違う淡い光が入り込んでいた。
地霊殿、慣れ親しんだはずの屋敷の様相は既にこいしの知るそれとはまるで違っていた。地霊殿の住人の殆どは妖獣であり、まだ言葉を用いるほど妖怪として成長していない者も多い。
そして、館の主人であるさとりは言わずもがな、会話なしに相手の意図を悟るために、地霊殿は静かなことが常であった。
「……五月蠅い」
あちらこちらから聞こえてくる囁き声に、こいしは吐き捨てるように言った。
両の目を周囲に向ければ、黒や紫色の揺らめく炎が宙を舞い、館内を忙しなく動き回っていた。
我が物顔で館内をのさばる怨霊をこいしは鋭い目つきで睨みつけ、ナイフを握りしめる手に更に力を加える。
怨霊たちに気づかれぬように注意しつつ、こいしは大きく息を吸って吐く。
今すぐにでも怨霊に斬りかかってやりたいというのがこいしの内心だが、優先すべきものが他にある。
欠片だけ残った理性を総動員して、こいしは本の少しだけ滾る激情を押さえた。募る怒りをぶつけるのならば、一山いくらの怨霊どもでは話にならない。
全ての元凶。まだ見ぬ最も憎むべき相手を夢想し、こいしは歩を進める。その表情は内情とは打って変わってにこやかだった。
今の彼女を見て、その怒りを理解できるのは実の姉か、外からやって来た不思議な少年くらいであろう。
階段を上って二階へと上がり、こいしは西側の突き当りにある部屋へとたどり着いた。ダークブラウンのシックな木製のドアを開ければ、木と古本の匂いが鼻腔をくすぐる。全体的に落ち着いた色合いの部屋に、棚に並ぶ本の背表紙が良いアクセントとして効いていた。
大体の仕事をペットに任せている地霊殿の主が、日がな一日の殆どを過ごす書斎。彼女がいつも腰かけていた安楽椅子に、当人の姿は今は無い。
彼女の代わりに、その特等席へ我がもの顔でのさばっていた人物にこいしは目を見開いた。
「――お燐?」
こいしの声に、お燐と呼ばれた少女が反応する。
ぎょろりと向けられたお燐の瞳は闇を湛えたように不気味に淀んでおり、目の下にははっきりとした隈が浮かんでいた。
その姿は、こいし記憶の中にある明るく人懐っこい少女のものとはまるで異なっている。あまりの変わりようにこいしが言葉を失っている中、お燐がにやりと口角を吊り上げた。
「これはこれは妹様……いや、こいし様ですか? わざわざご足労ありがとうございます。丁度こちらから迎えに行こうかと思ったところだったんですよ……」
何処か嘲るような、粘りつくような嫌な調子でお燐は言う。薄気味悪い悪寒がこいしの背筋を駆け抜けた。
「……あなた、誰?」
気づけば、こいしはそう問うていた。
不安定な口調、暗い瞳が気にかかる。しかしそれ以上に、こいしは覚の瞳を使うまでもなく、半ば直感的にお燐の振る舞いから悪意を感じ取ったのだ。
こいしという少女は他者の機微の変化に極めて疎い。少なくとも、瞳を閉じて以降のこいしはいっそ無遠慮とでも言う様な態度でしか他者と関わってこなかった。
それは、これ以上相手に嫌われないように、自分が傷つかないようにという自己防衛と、他者の心を決して覗かないという強固な意志故のものである。
極論、自分の心も他人の心も分からなければ、こいしが頭を悩ませる問題は大体解決する。心を覗くどころか、察しようとする試みすら止めれば、他人に常に無意識的に、無関心的に接すれば他人に傷つけられることはなく、また自分が他人を傷つける罪悪感を負うことも無い。
勿論、それは他者との関係を永久に放棄するに等しい行為でもあり、それ故に孤独は深まり、寂寥感や虚無感を抱える羽目にもなるわけだが、自分の心にも無意識かつ無関心であれば、その感情すら自覚せずに済む。
自覚できなければそれは無いと一緒だ。少なくともこいしはそう考える。
しかし、世の中にはお節介焼きが意外と蔓延っているものだ。彼女らはこちらが心を閉ざそうが、お構いなしに接してくる。
そのせいで、無関心を貫こうとしても相手のことを知ってしまう。自分のことが知られてしまう。
他者を完全に理解することは不可能だ。しかし、言葉を交わらす相手を全く知らないままでいるというのもまた不可能である。
故に既にこいしは嫌でも知ってしまっている。自分に関わるお節介やきの彼女らを。
肉親である姉はもちろん、分け隔てなさすぎる博愛主義の尼僧や、適当な理由を拵えて他人の荷物を背負うあの少年を。
計算高い人間が笑いものにするだろう彼女らを、こいし自身馬鹿な人たちだと本当に思う。けれど、嫌いではない。
火焔猫燐もその一人だった。何かの拍子に存在を認識するたび、人懐っこい笑みを浮かべて駆け寄ってくる彼女。最初はただ主人の妹である自分に、気をまわしているだけだと思っていた。
しかし、時間が経つにつれ、どうもそうではないらしいということが嫌でも分かった。
知りたくも無いのに、彼女のことを知ってしまった。
誰にも目を向けていない古明地こいしを、お燐は見ていた。主人の妹としてではなく、外ならぬこいし個人に目を向けて、話しかけていたのだ。
飽きもせず何度も何度も。
つい、こいしが彼女に目を向けてしまうようになるまで――
朧げな記憶の中でも、刻みつけられたものはある。
目の前のそれが似ても似つかぬ偽物であるくらいの判断はこいしにだってつく。
火焔猫燐が――私の家族が向ける眼差しはそのようなものでは断じてない。
こいしの指摘に、お燐の姿をした誰かは乱暴に後頭部を掻きむしり、ため息をついた。
「あぁ、まじか。もうバレたか、ってかやっぱ俺には芝居は無理だな。うん、慣れねぇことするもんじゃない……」
ぶつぶつと呟きながら、それが安楽椅子から立ち上がる。警戒を露わにしたこいしが、手に持つナイフを突き出し、身構えた。
「おぉ、いきなり剣呑だな。だがその対応は正解だ」
武器の切っ先を向けられているとは思えない程ひどく呑気な様子で、それは言いながら薄く笑う。
お燐の姿で成される言動の一つ一つが癇に障り、思わずこいしは眉根を吊り上げた。
「質問に答えて。あなた誰?」
「……俺の名前は蜘蛛丸。滝夜叉姫様の側近、左腕ってところかな」
「……そう、ってことはあなた怨霊なのね……」
姉を追い込んだ異変の主犯格、最も憎むべき相手であろう者に近しい存在。今すぐにでも排除するべき障害。
されど、不用意にそれができないということをこいしは正確に理解している。
僅かな逡巡の後、こいしは構えていたナイフを降ろした。
「なんだ、えらくもの分かりが良いな。良すぎて張り合いが無いくらいだが……よっぽどこの化け猫が大事か? そりゃあ、涙ぐましいことだな……」
嘲りの感情を全く隠さず、蜘蛛丸が鼻で笑う。
「……大事よ。大切な私の家族だもの……」
静かな声でこいしが応えた。
妖獣であるお燐は概念的な妖怪に比べてその存在が肉体に依っている。精神に重きを置いた類の妖怪であれば、肉体を八つ裂きにされたとしても致命には至らないが、お燐は違う。
もし、ここでこいしがお燐の体に致命傷を与えてしまえば、彼女を助けることは絶望的になるだろう。
故にこいしは動けない。
目の前で大切な家族が囚われているというのに、こいしには成す術が無いのだ。
しかし、そんな危機的状況にも関わらず、こいしの表情は何処か落ち着いたものであった。
「お前――」
こいしの様子に不信感を抱いた蜘蛛丸が眉を顰め、口を開く。
だが、
「――一つだけ教えて」
蜘蛛丸の声に被せる形で、こいしが尋ねた。
緑の瞳が濁った怨霊の目を真っすぐに見据える。
心を閉ざした妖怪の空虚なものではない。
明確な意思と感情が灯った瞳だった。
「あなたは、あなたたちは……一体何がしたいの?」
ここまで大仰なことをして、自分の家族やその他大勢を傷つけて、お前たちの辿る道は、目指すべき頂は何なのかと。
純粋で、至極当然の疑問。
それが口を衝いて出ることは何もおかしくはない。
しかし、蜘蛛丸にとっては予想外だった。
異変を起こすにあたり、地霊殿の主要なメンバーや異変解決に赴くであろう人物の情報は仲間内で共有されている。
怨霊にとっての宿敵であり、最大の生涯たる古明地さとりの実妹の存在は決して無視できるものではなかった。
地道な調査によって結論付けられたのは、古明地こいしが如何に行動の読めない、得体の知れない存在であるかだ。
異変勃発時に偶々こいしが居合わせたのも偶然にしか過ぎない。
思考も心も持ち合わせていないような、空っぽな人形。恨みという不都合な、されど人間らしい感情によって存在を確立させている怨霊にとって、古明地こいしは最も唾棄するべきものだ。
共感どころか理解もできない。視界に入れることも度し難い化け物。いっそ心を読む化け物の方がましだとすら蜘蛛丸は考える。
だからこそ、こいしの言動は蜘蛛丸の予想を悉く裏切った。
そもそも、身内である火焔猫の肉体に取り憑いたところで、こいしを止められるとは端から思っていなかった。
だが実際はどうだろうか。
目の前の少女の瞳には、紛れもない色が灯っている。
憎い敵を前にした怒りと短慮な行動を押さえようとする理性の色。
家族を心配する情に、怨霊の行動理由を知ろうとする姿勢。
そこに立っているのが少なくとも人形ではないことを蜘蛛丸は悟った。
静寂が訪れる。
書斎に添えつけられている振り子時計の秒針の音だけが嫌に響いた。
いっそ不自然なくらい、
「……理由を問うか……まぁ、当然だな。しかし、話したところでお前達に理解できるものじゃない」
「それでもいいから、教えて」
間髪入れずにこいしが言った。
僅かな逡巡の後、蜘蛛丸がぽつりぽつりと語り始める。
「……怨霊とは、悪意や恨みによって輪廻の輪から外れた爪はじき者達だ。他者に悪意を、憎悪を抱くことこそが存在意義であり、理由である。俺たちは悪としてしか生きられない」
未来永劫霊として彷徨うこと、それが怨霊に課せられる罪である。
そこから逃れる術は無い。怨霊としての罪を自覚し、悔い改めることが怨霊が救われる唯一の道だという話があるが、眉唾ものだ。
なにより、
「俺は、俺たちは怨霊になったことを後悔していない。人に恨みを抱かなければ良かった等と、思ったことは一度も無い。俺たちが生きるためには、憎悪が必要だった。他者に害された傷を埋めるには、他者を害するしかないのだ……」
そこで言葉を止めて、蜘蛛丸は一度大きく息を吸った。
目を吊り上げて、憤怒の表情を浮かべて、怨霊は吠える。
「――改心などするものか! そんなものを俺たちは救いだとは思わない! 俺たちは恨みを捨てない! この胸に燻る憎悪は誰にも奪わせない!!」
悪人が改心してハッピーエンドを迎える、そんな結末を許せるものか。
何が善か、何が正義か。
結局は全て大多数の都合だろう。そんなものに惑わされてなるものか。隷属してなるものか。
この幻想郷だって同じだ。
彼の賢者は全てを受け入れる等と嘯いているが、この郷ですら大多数にとって都合の悪いものは排斥される。
それも当然の話なのだろう。秩序を守るためには、不穏分子を排除せねばならない。何処もやり方は朝廷と一緒だ。
怨霊という存在は何処でも排除されるべき悪でしかない。
ならば――
「――自分たちの居場所は自分たちで掴みとる。俺たちが怨霊のまま、自由に生きることを許される世界を。地底での出来事はその前哨戦に過ぎない。俺たちを長年縛り続けてきたこの屋敷と旧都の陥落を以て、俺たちは地上を支配する‼」
刺すような鋭利な視線がこいしを見返す。
「受け入れられないというなら足掻け、止めてみろ! 憎悪を以て、俺たちは悪としてお前達を迎え撃つ!」
怨霊の叫びが木霊した。
じっと話に耳を傾けていたこいしが、天井を仰ぎ見る。そして、噛み締めるように沈黙を保った後、再び蜘蛛丸を見つめた。
「……そう」
重たい声がこいしの口から絞り出される。
「……それがあなたたちの目的、動機なのね……ありがとう、知れて良かったわ」
「妙なことを言う。身内を人質に取られている者の言葉か、それが……」
「そっちは許せないけど、でも理由が分かって良かったと思うのも本当よ。今まで怨霊を目撃したことは何度もあったけど……あなたちのことを知ろうとしたこと無かったから……」
何処か申し訳なさそうに言うこいしに、蜘蛛丸は思わず笑いを漏らす。
「はっ、それが普通だ。知ろうとする方がよっぽど可笑しい」
こいしの反応は、ますます予想外だった。
調子が崩されて仕方がない。
「それで、どうする気だ? 家族の体を傷つけられないと言ったがな、ならばお前は俺にこのまま嬲り殺される気か? 賢い選択とは思えないが……」
多少毒気が抜かれようとも、手を抜く気までは無い。
直ぐにでもこいしに襲い掛かれるように、妖獣の鋭い爪を構えながら蜘蛛丸は問うた。
「それじゃあ、お燐を助けられないじゃない。悔しいけど、私は怨霊を妖怪から引きはがす方法なんて知らないし……だから、大人しく他人に頼ることにするわ……」
「何? それはどういう……」
蜘蛛丸の疑問への解は直ぐに明らかとなった。
書斎の扉がゆっくりと開き、一人の少年がその場に現れた。
「ッお前は!?」
蜘蛛丸の顔が驚愕に歪む。
雪のように白い肌に、中性的な顔立ち。宝石のような青い双眸。
その少年を、蜘蛛丸は知らない。
しかし、見覚えはあった。
重なる面影があった。
少年の纏う白い装束が、顔の側面にずらした白狐の面が、蜘蛛丸の記憶の底を掘り返す。
「――ッ狐守‼」
怒りを滲ませた声で怨霊が叫び、少年の下へと疾駆する。
射殺すような視線を前に、少年は予想通りといった顔を浮かべて、
「相変わらず、恨まれる相手に事欠かないな……」
落ち着き払った様子のまま、抜き打つ刀で振るわれる鋭爪を凌ぐ。
耳障りな金属音が響き、火花が散った。
◇
狐守家とは、稲荷明神に忠誠を誓い、その命によって妖退治を生業とする一族である。
その歴史は古く、千年以上前の平安中期にまで遡る。
稲荷の神こと宇迦之御魂神はあくまで純粋な農耕神であり、武神的性質を持たない。それは神使である白狐たちもまた同様で、当時都を跋扈していた悪鬼羅刹たちに対して、彼女たちは無力であった。
そこに追い打ちをかけるかのように、外来よりダキニ天信仰が持ち込まれ、修験道より飯綱信仰が発足する。
そして、既存の信仰が大きく揺らぎ不安定となった時期をまるで見計らったように、ある一匹の妖狐が日の元へと現れた。
妖狐の存在によって在来の妖狐たちの動きも活発となり、魑魅魍魎渦巻く平安の闇は一層深いものとなる。
そんな混沌を収め、奢り高ぶる妖を討つ刃として、稲荷明神が見出したのが只の人間であった等と誰が信じられようか。
尊い血の者でも無い、辺境より刀一つ引っ提げて上京して来た流れ者。京の武士どもと比べるべくもない、華奢な体躯の女子とも見まがう様な少年。
その話を聞いた多くの神々が、退魔の者達が失笑を禁じ得なかった。
見苦しい足掻きだと。稲荷神は乱心したのかと。
されど、それらは全て覆されることとなる。
平安の世に蔓延る闇を少年は瞬く間に切り裂いて行った。
荒れ狂う大蛇を、燃える獅子を、猛る鬼神を――彼が最後に相討った妖狐とそこから続く長きに渡る因縁については、今語るのはよそう。
つまりところ、少年が名乗り始めた狐守の名を心に刻みつけた悪鬼羅刹の数は多い。
伝承からこそ名は省かれるが、直接その刃を味わい、辛酸を舐めた者達は狐守という一族への憎悪を忘れない。
また何の因果か、最も大きな活躍を成した初代当主に、似た容貌をもつ現当主の苦難は尽きない。
◇
「――お前たちさえ居なければ‼ 俺たちはあの方の下へ辿り着けた‼」
喉元を狙った爪による薙ぎ払い。一瞬のうちに間合いを見切り、最小限の後退だけで創一は攻撃を回避した。
「主人が討たれる様を眺めていなければならなかった苦しみが! 駆けつけられなかった絶望がお前らに分かるか‼」
怨嗟の叫びと共に繰り出される爪の連撃を、防戦一方の姿勢で創一は捌き切る。
反撃する余裕が無いというよりは、そもそも反撃する意思が介在しない戦い方。
それにいち早く気づいた蜘蛛丸が、油を注がれた炎の如く更に怒気を強めた。
「何のつもりだ!? 俺を侮っているのか‼ 真面目に戦え‼」
「此方も真剣だ。戦う気はないがな……」
「ッ何!?」
述べられた答えに、蜘蛛丸が瞠目する。
それによって僅かに遅れた蜘蛛丸の動作、その隙を逃さず、創一が放った鋭い蹴りが蜘蛛丸の体を後ろに突き飛ばした。
「ッッ‼」
怯む蜘蛛丸を差し置いて、創一自身も後ろへと飛び退き、両者の間合いが開く。
美しく煌めく刀身を蜘蛛丸に向けることなく、創一は刀を鞘へと納めると、状況には極めて似つかわしくない脱力した姿勢を取った。
少年の異様な行動に、流石の蜘蛛丸も怒りより困惑が勝つ。
「……お前、一体何のつもりだ?」
「言っただろう。戦うつもりは無い。その体は持ち主に返してもらう。できるだけ傷が無い状態でな」
「何を言うかと思えば……俺がそんな要求を呑むと思っているのか?」
「思ってないさ。だから、俺も強硬手段を取る。だけどその前に、俺はお前に二点謝罪しなければならない」
「謝罪だと……?」
増々困惑を強める蜘蛛丸をよそに、創一は人差し指を立てて見せる。
「まず一つ目、盗み聞きするつもりは無かったんだが……お前とこいしの会話を聞いてしまったこと。これは純粋に申し訳なく思う。そして、二つ目。これが一番重要なんだが……」
僅かな逡巡の後、創一が蜘蛛丸を真っすぐに見据える。
「……お前の憎悪の一端を、怨霊としての在り方を知った上で……敵とはいえど、今から俺はこれ以上ない程に、お前の尊厳を奪う行いをする。許せとは言わない。恨みたければ……いや、違うな。俺はその権利すら今から剥奪するのだから……」
蜘蛛丸には、少年の言葉が理解できない。元より、自分たちは己の存在を懸けた死闘を興じているはずだった。
故に、この期に及んで少年が言う尊厳を奪う行いというものが、蜘蛛丸にはまるで想像できない。まさか、敵の命を奪うことに躊躇いを見せているわけではないだろう。
様々な疑念が募っていく中、ふと、蜘蛛丸は当たり前のように見落としていた違和感に気づく。
「……待て、そもそもお前、一体どうやってここへ来た?」
何故今までその不自然に気づかなかったのか。蜘蛛丸自身不思議にならない。
元の住人達を追いやって、今の地霊殿は怨霊の館と化している。
怨嗟の声を零しながら徘徊する怨霊達に気づかれないまま、館に侵入することなどどう考えたって不可能だった。
それができるとしたら、目の前の古明地こいしぐらいである。
少年に同様のことができたとはあまりに考えにくい。
そこまで思考を働かせて、蜘蛛丸は更にもう一つの違和感をようやく意識した。
(何故……何故こんなにも館が静かなんだ!?)
蜘蛛丸と創一の立ち合いの音が、他の怨霊達の誰の耳にも届かないことなど考えられない。騒ぎを聞きつける者がいることが当然だ。
だが、一向に誰も姿を表す様子が無い。
(くそ! 怒りに我を忘れて気づくのが遅れた‼)
そもそも、それほど大声ではないとはいえ、大多数の怨霊が紡ぐ恨み言は閉じた部屋でも微かに響くものだ。
しかし、その音はいつの間にか止んでいた。
つまり、怨霊たちは既に片付けられたと考えるのが妥当である。
「だが、どうやって!? いくら怨霊の殆どが直接の力は弱い存在だと言っても、戦いになればそれなりの騒ぎに――」
「――
そう言って、創一は蜘蛛丸を指さす。
「もっと正確に言うと、戦いにならない。俺と、
「ッお前‼ 侮るのも大概に――」
怒りを爆発させようとする蜘蛛丸に、創一は極めて冷静な声で「違う」と告げる。
「俺は実力どうこうの話などしてない。これは相性の問題だ。どれだけ始祖に近い者だろうと、吸血鬼は太陽の下では灰になるし、鰯の頭と節分の豆を克服できる鬼は存在しない。怨霊が、俺を超克することは無い」
言いながら、創一がゆらりと一歩前に出る。
「――は?」
蜘蛛丸の口から間抜けな声が漏れ出た。
目の前で起こったことが、理解できなかったのだ。
創一に対してではない。
蜘蛛丸の目が向けられているのは自分の足元、一歩後ろに引かれた己の右足にだった。
何故、自分は今足を引いたのか。それも、少年が前に出ると同時に。
それではまるで――
(――怯えているというのか!? 俺が、こいつに‼)
到底受け入れられる事実ではない。恨むべき相手に、恐れを成す等あってはいけない。
これは何かの間違いなのだと、蜘蛛丸は再び熱を取り戻した怒りと共に、再び目の前の創一を睨む。
「どうした? 何をぼさっとしてるんだ?」
気づけば、既に創一は手を伸ばせば届く程の位置にまで歩みを進めていた。
創一の立ち姿に険は無く、収めた刀の柄に手を当ててすらいない。無防備にも見える状態。
その姿が――たまらなく恐ろしかった。
「っひ!」
背筋が凍てつくような悪寒に襲われ、思わず見っともない声が蜘蛛丸の口を衝いて出る。
「俺に近づくな!」
咄嗟に体を動かして、蜘蛛丸が爪を振るう。
怒りによってではない、恐怖によって成された冷静さを欠いた一撃。
創一は自分の腕を蛇のように蜘蛛丸の腕に絡ませその一撃をいなすと、そのまま蜘蛛丸の体を地に押し付けて、身動きを封じた。
児戯をあしらっただけのような、あまりにも呆気が無い決着。
「ッ離せ‼」
蜘蛛丸は力の限りもがくが、人間離れした怪力で的確に関節を押さえた拘束はびくともしない。
焦燥と恐怖に歪む蜘蛛丸の顔に、創一が無雑作に空いた手を伸ばした。
五指が蜘蛛丸の顔を鷲掴む。
指の間から、此方を見下ろす青い双眸と目が合った。
「――――っあ」
その瞬間、蜘蛛丸は直感した。
自分が今から辿る絶望を、死より恐ろしい結末を理解してしまった。
「――めてくれ、止めてくれ……それは、それだけは……」
それが無駄であると分かっていても、蜘蛛丸は懇願の声を止めることができなかった。
一種のうわごとのように繰り返される言葉に、少年は表情を変えることなく――その処刑刀を、自身の忌むべき異能を振り下ろす。
「がッ……!? あっ、ああああああああッ…………‼」
蜘蛛丸が苦悶の声を響かせる。
走馬灯の如く、蜘蛛丸の脳裏に生存の記憶が蘇った。
それは怨嗟の記憶だ。
怨霊である蜘蛛丸を確立させる起源。
そのすべてが色褪せていく。
あの時抱いたはずの感情が、憎悪が
魂が蹂躙され、漂白される。
色が消え去り、白紙へと戻される。
薄れゆく自我の中、少年の声が静かに響いた。
「お前の憎悪は俺が引き継ぐ、摩耗させたりはしない……それだけは約束しよう」
この日、幾つもの魂が浄化され、輪廻の輪に回帰した。
仏にすら出来かねないこの奇跡を、多くの者は救いと言うだろう。
しかし、それが最後に残った拠り所すら踏み砕く残酷な行為であることを他でもない、奇跡を成したその少年は知っていた。