吹き荒れる熱風が肌を撫でる。人の身であったならば応えていただろうそれも、人外に堕ちた身にはそよ風のようにしか感じられない。
手を開き、具合を確かめるように五指を畳んでまた広げる。無為だと分かりきっているその行動を何度か繰り返し、少女――滝夜叉姫はため息とともに動きを止め、視線を前方へと移した。
彼女が見つめる先にもまた、一人の少女の姿がある。
背中から大きく黒い翼を生やした少女だ。
人ではないことが明白な黒翼の少女は目を固く瞑り、力ない様子でぶら下がっている。幾重にも張り巡らされる鎖が彼女の体を雁字搦めに縛り、宙ぶらりんの状態を成していた。
鎖を目で追えば、それは広い岩窟の中に広がり、床や壁に深く打ち込まれた杭によって固定されている。
ひたひたと水滴が落ちる音が静かな空間に響いた。
黒翼の少女の雪のように白い肌に走る赤い線、そこから零れ落ちる命の水が水たまりを作り、後から続く雫が水面に波紋を描いていく。
命の灯がゆったりと、しかし着実に終わりを迎えていく光景。
その様子をしばらく無言で眺めていた滝夜叉姫が、ようやく口を開いた。
「――頃合いか」
鈴の音のような声だった。
しかし、聞き惚れるにはあまりに鋭すぎる。美しい声に滲むのは強い憎悪。
尋常じゃない険を放つ少女は、触れるどころか近づくことさえ躊躇う。
だが、そんな少女に気圧される様子が無い声が、彼女に投げられた。
「……決行なさいますか? 姫様」
口調こそ固いが、何処か親しみが込められた声だった。
音も無く背後に姿を表した男に、滝夜叉姫は向き直る。
「あぁ……お前には苦労を掛けるな、夜叉丸よ……」
「止してください姫様。私は……いえ、私たちはお父君と貴方様に救われた者達です。忌子とされた私に、蜘蛛丸に、貴方方は居場所を下さった。だというのに……私たちは肝心な時に……」
「その先は言ってくれるな。敗北したのは私も同じだ。だからこそ、此度こそ覆すのだ。あの結末を……何の因果か、狐が再びやって来たようだからな……法師殿の話によれば、私ではアレに勝てんらしい。お前が頼りだ。頼むぞ夜叉丸」
「――御意。今度こそ、狐を焼き殺してご覧に入れましょう」
深く滝夜叉姫にお辞儀し、夜叉丸は真剣な面持ちで縛り上げられる黒翼の少女へと歩み寄り、その額へと手をかざす。
夜叉丸の輪郭がボヤケ、体が不定形の気体へと変貌した。
霧状になった夜叉丸が、黒翼の少女に吸い込まれるようにして消えていく。
束の間の静寂が訪れ、岩窟の中を通り抜ける風の音だけが嫌に響いた。
――眠る黒翼の少女が瞳を開く。
その体から膨大な熱が放出され、肉体を縛る鎖がたちまち溶け落ちる。自由になった大翼がはためき、熱風が吹き荒れた。
体に刻まれていたはずの無数の傷が時間を巻き戻したかのように塞がっていく。
荒々しい力の奔流、それを肌で感じて滝夜叉姫は思わず冷や汗を垂らす。しかし、一方でその口角は上がっていた。
「……確認しておこう。意思の疎通は可能か? お前の名前は?」
滝夜叉姫の問いに黒翼の少女が口を開く。だが、そこから零れるのは声にならない音の断片のみ。会話が不可能なのを見てとって、滝夜叉姫は手を突き出して制止する。
「分かった、もうよい。夜叉丸ではないのだろう? 他の怨霊でも、霊烏路空でもない……それが分かれば十分だ」
自分に最後まで付き従った臣下、その消失に覚えた痛みを胸の奥に仕舞い込み、滝夜叉姫は凛とした面持ちで黒翼の少女を見据えた。
「名前が必要だな。百鬼夜行を飾る地底の太陽……空亡、それがお前の名だ。我が命に従い――この郷を焼き尽くせ」
怒りを滲ませた声で、怨霊の姫の命が下された。
◇
地面が揺れ、岩肌の天井からぱらぱらと剥がれた岩片が降る。
所謂お姫様抱っこの形で抱えている火焔猫燐の体を落とさぬように、歯を食いしばってこいしは地に足を踏みしめた。
今も続く地霊殿での熾烈な戦いを想像しながら、こいしは歩を進める。
地霊殿の地下、灼熱地獄跡へと続く長い縦穴を避ける形で掘り抜かれた岩肌がむき出しの空間は、地下牢として役割を担っていた。
岩盤をくり抜いて作られた部屋に嵌めこまれた無骨な鉄格子と扉。材料が特殊だからか錆こそしていないが、長年手入れをされていなかっただろうそれらはすっかり埃をかぶってしまっている。
元々地霊殿にこのような施設は必要なかった。まず、霊体である怨霊をこのような物質的な檻で封じ込めることが不可能である。ならば、この牢は何を閉じ込めるためのものなのかと問われれば、その答えは怨霊とは別の侵入者を閉じ込めるため故である。
しかし、心を読む覚妖怪の力への畏怖は絶大なものだ。力自慢の鬼ですら地霊殿へ攻め込もうなどという大胆不敵な行動はしない。
そもそも、地底の強力な妖怪を閉じ込めるだけの頑強さがこの雑な牢獄にあるのかというのは大きな疑問だが。
つまりはこの牢獄は永らく無用の長物と成っていたのだ。
それが今本来の機能を果たしていることに、こいしは眉を顰めた。
長い通路を歩いていれば、左右に並ぶ幾つもの牢屋の光景が目に映り、そこかしこから様々な動物の鳴き声が聞こえてくる。それらは皆一様に何処か弱々しい音だった。
沢山の牢の中に閉じ込めらた傷だらけの動物たち。どの動物にも見覚えがあり、こいしは思わず唇を噛んだ。
姉である古明地さとりが飼っていたペット、地霊殿の中でついぞ見ることの無かった彼らはどうやらこの不衛生で窮屈な環境を強制されていたらしい。
ふと足を止め、目の前の牢にこいし視線を向けた。薄暗い牢の中横たわっているハイイロオオカミ、傷から流す血で大きな水たまりを作り、ぴくりとも動かない姿がその生命の断絶を物語っていた。
知らぬ仲ではない。
その狼の飼い主はさとりではあったが、何度もこいしと遊んだ仲でもある。無意識に生きるこいしのことをその狼が何処まで記憶できていたかは分からないが、少なくとも、こいしにとっては良い思い出だった。
けれど、それも終わりだ。柔らかい毛並みを撫でて、暖かい命の体温を感じることはもう二度とできない。
喪失感を胸に抱くも、こいしは再び前を向いて歩を進め始める。
立ち止まってはいられなかった。自分が与えられた役割を果たせなければ、自分を送りだした少年に申し訳が立たない。その信頼に背くことがこいしにはどうしようもなく耐え難かった。
「お姉ちゃん! 何処に居るの!? 返事をして頂戴‼」
あらん限り声を絞り出して、こいしが叫ぶ。
地下牢にも怨霊が潜んでいる可能性は捨てきれないが、背に腹は代えられない。
襲撃されることを視野に入れ、周囲を警戒したまこいしは呼びかけを続けた。
「お姉ちゃん! お願い、返事をして! 助けに来たのよ‼」
薄暗い地下牢にこいしの声が響き渡る。
地下牢を巡りながら再三行われる呼びかけ、それが遂に身を結び、
「――少し声量を落としてくれないか、おちおち寝ても居られない」
こいしに応じる声が上がる。
それはこいしが期待しているものでは無かった。姉のさとりとは似てもつかない、力強い声。こいしは一つの牢に駆け寄ると、その声の主へと目を向ける。
薄暗い牢の中で金色の長髪が揺れた。
鉄格子の先、壁にもたれて座り込んでいるのは息を呑む程に美しい女の姿だ。
着崩した着物から覗く白い肌には幾つもの痛々しい傷が刻まれている。
女が何者であるかは、額から生える朱色の角がすぐに教えてくれた。血の色をした瞳がこいしを見返す。
「あなたは……星熊勇儀……だったよね?」
「あぁ、そうだよお嬢ちゃん。さとりの妹の……こいしちゃんだろう?」
こくりと頷き肯定するこいしに「合ってて良かった」と勇儀が笑みを浮かべた。
「何で地霊殿の地下牢に貴方が居るの?」
こいしの質問に勇儀は罰が悪そうに一瞬視線を逸らして、大きなため息をついた後、覚悟を決めたようにこいしに再び目を向けた。
「……恥ずかしい話、同じ鬼の四天王、鬼道丸に後れをとっちまってねぇ。ほら、この通りさ……」
そう言って、勇儀は自分の左腕を差し出して見せた。否、その表現には誤りがある。正確には腕を見せたわけではない。なぜなら、こいしに差し出された部分、肩の先からあるはずのそれが無かったのだから。
こいしの目に映るのはぶらぶらと揺れる着物の袖だけだった。
「――ッ!? その腕!?」
左肩から先を失っている勇儀の姿にこいしは驚愕する。
「鬼道丸の奴にぶった斬られてね、嫌な感じのする刀を持っていると思ったら……案の条妖刀だった。つけられた傷は一向に治らないし、腕と一緒に力の大半も持ってかれちまったみたいだ。これじゃあ誰かさんの二の舞だよ」
自嘲を含ませる乾いた笑いが勇儀の口から零れ落ちた。
鬼の四天王の一人、星熊勇儀の実力は地底に住む誰もが知るところだ。
力の強い鬼の中でも群を抜く怪力の持ち主。怪物の中の怪物。その勇儀が敗北したという事実は俄かには受け入れがたい。
「……鬼道丸ってのはそんなに強いの? 四天王の一人って割には、あんまり話に聞いたことないけど……」
こいしは勇儀と同格の鬼が地底に存在していたことすら知らなかった。それは普段人と話す機会の少ないこいしの情報取得が微々たる故だか、それを差し引いたとしても、鬼道丸という鬼が話題に上がった覚えがまるでない。
「あー、あいつは昔気質の鬼な上、武人的な面が強い奴だからね……今の幻想郷の気風がとことん合わないんだろうよ。血や肉片が飛び交う凄惨な戦いは、今じゃあ荒くれ者が多い地底ですら見なくなって久しい」
遠い目をして勇儀は語る。その言葉からは何処か寂寥感のようなものがが滲み出ていて、
「……貴方も不満があるの?」
ふいにこいしの口を衝いて出た問い。それを受けて勇儀の目が僅かに見開かれた。
「……不満? 何にだい?」
「この幻想郷についてよ。怨霊達や、鬼道丸率いる旧都の鬼や妖怪、皆今の幻想郷に不満があって、それが爆発しちゃったから決起したんでしょ? 私はこの幻想郷が好きだけど、貴方はどうなの? 過去の方が良いって思うの?」
それが純粋な疑問から出た言葉で、何の裏表も存在しないものであることが勇儀には直ぐに分かった。
その問いは明地こいしが他者を知ろうとするが故だ。
相手を理解しようとする試み。歩み寄ろうとする態度。心を閉ざした覚妖怪という噂とはあまりにかけ離れたその姿に。
真っすぐに向けられる緑の瞳に勇儀は面食らった。
「それ、は……いや、懐かしむ思いはあるが、私は、私は……」
一切飾り気のない眼差しを前に、その瞳を揺らし始めたのは勇儀の方だった。
星熊勇儀をよく知る者が今の彼女の姿を見れば、自分の目を疑わずにはいられないだろう。
鬼を始めとした旧都の荒くれものたちを束ねる器量、気迫、何事にも容易くは動じないその王者然とした威風堂々の振る舞いが、彼女からはすっかり欠落していた。
それは妖刀という精神そのものに負荷をかける武器によって、幾度も体を傷つけられたことが大きく起因しているのだが、それを頭で理解していても尚、勇儀の動揺は収まらない。
なぜなら、それはずっと勇儀の中にあった迷いだったからだ。妖刀の力が増幅させたものだとしても、火種は元々ずっと勇儀の胸の奥底で渦巻いていた。
変わりゆく郷を地の底で眺めながら、昔を懐かしんだことなど、何度あったかとても数えきれない。
今の幻想郷を嫌っているわけでは断じていない。そこに嘘はない。しかし、命を賭して妖を討とうとする人間、それを迎え撃つときの高揚感。鬼としての本性が余すことなく満たされるあの瞬間が、恋しいのもまた真実だった。
肌に突き刺さる殺気、憎悪と共に振るわれる刀や槍。酒が注がれた杯を庇う余裕なんて無いくらいの、濃密な死の気配。
忘れようとも忘れられぬ時代への憧憬。期待が無いわけでは無い。
だからと言って、鬼道丸のように吹っ切れた行動を起こす気は勇儀には無かった。しかし、それこそが勝負の命運を分けた決定的な差なのだろう。
鬼道丸のように頑なに生きることもできなければ、萃香のように自由に生きることもできない。
四天王の中で最弱であったはずの鬼道丸は見違える程に力をつけていたが、同時に勇儀自身の力も衰えていたのだろう。
本心を覆い隠し、迷いに揺れる拳が、一つの執念の下に磨き続けられた刃に敗北するのは必定だった。
「……私と同じなら手伝ってもらおうと思ってたけど……まぁいいわ。ねぇ、お姉ちゃん知らない? この地下牢の何処かに幽閉されてるみたいなんだけど……」
言いよどむ勇儀に見切りをつけて、こいしは姉の行方を尋ねる。
思案気な顏から一転して、呆けたように口を開き、やや遅れて勇儀が応答した。
「……あ、あぁ、悪いね。残念ながら知らないんだ。目が覚めたらこの牢の中だったしね、タイミング的には私より先にさとりの方が先に囚われただろうし……
「……そう。じゃあ、私もう行くね」
簡素に別れを済ませ、こいしは来るりと踵を返す。
数歩歩いてからあっと声を上げ、こいしは立ち止まって勇儀のいる牢を顧みた。
「一応助けた方が良い……? 鬼道丸に協力する気も無いんでしょ?」
「流石にそれは……無い、な」
「そ、それは良かった。でも、貴方ならこんな檻抜け出せるんじゃないの?」
「いや、それがそうでもない。牢そのものはなんてことないが、強い呪いが掛けられてるみたいでね、内側からはどうにも……万全ならどうとでもなるんだろうが……」
「分かったわ。ちょっと扉から離れてて――【本能・イドの解放】」
放たれるハート形の弾幕が鉄の扉へと殺到する。妖力に反応したのか、扉を淡い光が包むとともに、魔力の障壁が展開されるが弾幕の集中砲火を前に、あえなく甲高い音とともに砕け散った。
牢の扉がひしゃげて転がり、それを見下ろすこいしが満足気に頷く。
「じゃあ、後は好きにして頂戴。バイバイ」
「え? あ、ちょっと……」
笑みとともに手を振ってこいしがその場を立ち去る。咄嗟に勇儀はそれを呼び止めようとするが、ふと我に返って伸ばした手を引っ込めた。
呼び止めたところで、少女にどんな言葉をかけるというのか。
今の自分に何ができるのか。そもそも何がしたいのか。其れすらもはっきりしていないこの体たらくで。
この郷が好きだと断言できる少女が羨ましかった。
迷いのない足取りで、真っすぐに前を向く少女が眩しく映った。
「くそっ、何をやってんだか……」
苛立たし気に頭を掻きむしり、勇儀は残った自分の右腕を見つめた。
力を失ったと言っても、まだ拳は残っている。ならば、まだできることは残っているはずだ。
他者をどれだけ羨んだところで、勇儀は星熊勇儀でしかない。鬼道丸のようにも、萃香のようにも、こいしのようにも振舞えない。
鬼として好き勝手に生きたいと思えど、旧都の住人たちのことを考えれば、足を踏み出すことができずにいた。彼らを放っておくことことができなかった。
だが、それが、それこそが――
「――私、なんだよな……」
荒っぽいことと酒が大好きな旧都の連中を好ましく思うし、その喧騒を愛おしいと思う。それが紛れもない星熊勇儀の真実だ。
そして、勇儀が愛した光景ははるか昔の幻想郷では見られなかったものだ。
「……そうだ、そうだった」
独りごちる勇儀の口角が自然と吊り上がる。呆れるようで、楽し気でもある笑みだった。
かつての憧憬、過ぎ去った時代に勇儀は恋焦がれている。だが、同時に勇儀は今の時代を愛しているのだ。
ならば、どちらを選ぶかは決まりきっていた。
「……本当に、何をやっていたんだろうな……私は。答えなんて、最初から出てたじゃないか……」
我がことながらあまりにも滑稽だった。
「酒の肴にもなりゃしない……」
笑い上戸の萃香ですら失笑するレベルの馬鹿さ加減。このような醜態を大勢に晒されずに済んだことが唯一の救いだった。
勇儀はゆっくりと立ち上がり、大きく右肩を回す。
「さて――名誉挽回と行こうか!」
拳を力強く握りしめ、獰猛な顔つきで勇儀は牢の外へと足を踏み出す――全ては愛しい幻想を守るために。
◇
暗闇の中、細かな振動が体に伝わる。
微睡む意識の中、ゆっくりと瞼を開けば、綺麗な緑色の瞳が心配そうに此方を覗き込んでいた。今にも泣きだしてしまいそうな顔だ。
「お燐! 目が覚めたのね! 大丈夫? 何処か痛むところは無い?」
「……こいし様?」
「そうよ、お燐。気分が悪いとかない? 指何本に見える?」
指を三本立てながら、切羽詰まった声でこいしが詰め寄った。
その勢いに少々押されながらも「大丈分ですよ」とお燐は笑みを浮かべ、自分の足で地面へとゆっくり降り立つ。
「まだ私が抱えててあげるよ」というこいしの提案には流石に申し訳ないとお燐は困り顔で返す。
こいしが此処まで自分を心配してくれたことがお燐には少々以外であり、同時に嬉しくもあった。安心させるようにお燐は手を伸ばし、こいしの頬へと触れる。
「心配してくれてありがとうございます。こいし様が助けて下さったんですか?」
「ううん、違うよ。創一がね……いや、話すと長いから後にしよう。今は先にお姉ちゃんを探さなきゃ」
「――あっ――」
お燐の顔から急速に血の気が引き、その瞳が大きく揺れた。
その尋常ではない反応に、訝しく思ったこいしが首を傾げる。
「お燐……?」
「あ、ああ! さとり様! ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「ちょっと! どうしたのお燐!?」
震える唇から謝罪の言葉ばかりが溢れ出す。気でも狂ったかのようなお燐の変貌に、こいしも困惑せずにはいられなかった。
「ね、ねぇ! お燐ってば! 一体どうしたって言うの!? 何をそんなに……」
その時ふとこいしの頭をよぎったのは、怨霊である蜘蛛丸にお燐が乗っ取られていたときのことであった。
取り憑かれている間の記憶は無い物だと考えていたが、もしそうでなければ、お燐は意識を保ったまま、主人であるさとりやこいし、地霊殿の住人達に牙を剥いたということである。
自責の念によってこのような状態に陥っても仕方がないかも知れない。そう考えて、こいしは必死にお燐を落ち着けようと言葉を探す。
「怨霊に取り憑かれてたんなら、仕方ないよ。お姉ちゃんだってそんなことで怒ったりしないって! 心が読めるんだから、誤解なんてしようもないんだから!」
「ち、違うんですこいし様! 憑かれる前なんです! あの蜘蛛丸とかいう怨霊が現れる前に! 私はさとり様を……‼」
「え!? 憑かれる前って……じゃあ、それはお燐の意思で行ったってこと?」
こいしの疑問にお燐は慌てて首を横に振る。
「いえ、そんなことは……! 信じてもらえないでしょうが……意思に反して体が勝手に動いて……」
「いや、別に信じるよ。なんかそういう能力の持ち主が相手方に居たってだけでしょ?
っていうか、やっぱりお燐の意思じゃないんじゃない。気にする必要ないよ」
「そんな! そんなわけにはいきません!! 私は、私は許されないことを……」
目じりに涙を溜めて叫ぶお燐を見つめ、こいしは一つ大きく息を吸い込むと、
「――いい加減にしなさい‼」
普段とは違う、妹を叱る姉のような口調で一喝する。
その突然の変容にお燐は目を見開き、唖然とした表情で口を開けていた。
呆れたようにため息を吐き、こいしは続ける。
「あのね、お燐、私たちは家族でしょ? ……家族でしょ!?」
未だに状況を飲み込めずにいるお燐にこいしが語気を強めれば、ようやくお燐が我に返って応答した。
「え、あ、はい! そうです!」
「よろしい。お燐、よく聞いて。私たちは家族なんだからさ、話合えばいいんだよ。お燐が何かしちゃって、それが悪いって思うなら……ちゃんとごめんなさいすればいいだけだよ」
言いながら、こいしは微笑む。
こいしがよく笑う少女であることはお燐も知るところだ。だが、その様相は今までとはまるで違う。作り物めいたものではない、真っすぐに相手を見つめる眼差し。
お燐の主人に似た、優しくて、温かい笑み。
「お姉ちゃんは優しいから、きっと許してくれるよ……だって、私の最高のお姉ちゃんなんだから! だからほら、一緒にお姉ちゃんを探そう? 一人で心細いなら、私も一緒に誤ってあげるからさ」
「……はい、はい!」
涙ながら何度も頷いて見せるお燐に、こいしは慈愛に満ちた表情を浮かべる。あんまりにも泣きじゃくるお燐を慰めようと、こいしはつま先立ちで手を伸ばしてお燐の頭を撫でた。丁度母親が子供にするように、とてもやさしい手つきで。
お燐は照れくさそうに体をよじって目を逸らすが、二本の尻尾が忙しなく揺れるのを見る限り、満更でもない様子だった。
自分も他人を観察する目が養われてきたなとこいしは内心調子づく。
「……落ち着いた?」
「はい。とっても」
「よかった! じゃあ、二人でお姉ちゃんを探しましょう。今創一が、私の恩人が地霊殿で敵を押さえてくれているの、早く加勢に行かなきゃ、お燐を怨霊から助けてくれたのも創一なのよ」
「創一さんですか? それは、私も是非ともお礼を言わなければなりませんね」
「うん、ちょっと偏屈だけど、良い人よ」
件の少年の能面顔を思い出しながら、こいしは破顔した。
◇
お燐とこいしが二人並んで、無骨な地下通路を駆け抜ける。通路の最奥、他の牢に比べて一回り大きな独房の中に彼女は居た。
「お姉ちゃん‼」 「さとり様‼」
その姿を認めた二人が口々に悲痛な声を上げる。
薄暗い牢の中で、ぐったりと倒れ伏しているさとりはどう考えたって元気そうには見えなかった。
慌てて駆け寄ってみれば、目を固く瞑るさとりの額からは血が流れ出ていた。かなりの量出血したのか、床にできた血だまりの量は相当で、さとりの顔は病的に白い。
「待ってて! 今助けるわ!」
妖力を漲らせ、放った弾幕によって牢の扉を壊す。そして、こいしとお燐はすぐさまさとりの体を抱き寄せて、必死に呼びかけた。
「お姉ちゃん! しっかりして、もう大丈夫よ‼」
「さとり様! どうか目を覚ましてください! 私はまだ貴方に……‼」
「…………っ、うぅ……」
苦し気なうめき声がさとりの口から洩れた。
「お姉ちゃん‼」「さとり様‼」
再び二人が呼びかければ、体をよじるとともに、さとりの両目がゆっくりと開かれる。
「……こいし? それに……お燐?」
「そうだよお姉ちゃん! 良かった、私もう目を覚まさないんじゃないかと……! 大丈夫? 吐き気とかは!? 指何本に見える!?」
お燐にやったように、こいしは指を立ててさとりへと突き出す。その行動に、苦笑しながら「三本」とさとりは答えた。
さとりの視線が今度はお燐へと向く。
思わずお燐が体を強張らせた。それにいち早く気づいたこいしが、そっとお燐の手を握る。
伝わるこいしの体温が、早鐘を打つお燐の鼓動を落ち着かせた。意を決して、お燐は口を開く。
「……さとり様、申し訳ありませんでした。さとり様を守ると言ったのに……私はさとり様を傷つけた、本当に、本当にごめんなさい!」
泣きそうな顔を浮かべてお燐は頭を下げる。その様子をしばらく眺めていたさとりが、くすりと笑みを浮かべ、
「お燐……貴方は悪い子ね」
「――ッッ!?」
お燐の体がびくりと痙攣し、冷や汗が垂れた。お仕置きを恐れる子供のように、お燐がぎゅっと目を瞑る。
だが、そんなお燐の予想とは裏腹に――温かい手のひらがお燐の頭にぽんと置かれて、優しく撫でまわした。
「――え?」
ぽかんと口を開けて固まるお燐にさとりは微笑みながら、
「私はあなたの責任じゃないって言ったはずよ。あれはまんまと敵の策に嵌った私の落ち度、お燐が気を落とす必要なんてないの」
「でも……」
「でもじゃないわ、あなたは悪くない。むしろ、ごめんなさいねお燐、あなたを随分悲しませたみたいで……お燐は私を許してくれるかしら?」
「え、ええ! それはもちろん」
「そう、ありがとうねお燐。それじゃあ、この話はもうお終いね」
有無を言わせない様子でさとりが話を打ち切ると、視線をこいしへと移す。
「それで……状況はどうなのこいし? 霊夢や魔理沙たちが異変解決に動いたかしら?」
「さぁ、そっちは知らないわ」
簡潔に述べられるこいしの言葉に、さとりは一瞬何を言われたのか分からないというような顔を浮かべ、目を点にした。
「……ん? え、何……一体どういうことなの? 地上に援軍を呼んできてくれたのでしょう? あ、もしかして守屋神社の方に頼ったのかしら?」
少々以外ではあるが、それならばまだ納得はできるとさとりは頷く。しかし、さとりの期待に反して、こいしは左右に首を振った。
「いいや、違うけど……」
二人の会話に大きな空白が生じた。こいしの答えが悉く予想を裏切る展開に、さとりは槌で殴られた傷の痛みとは別に頭痛を覚える。
話の行く先が怪しくなってきたことを悟りつつ、意を決してさとりは重たい口を開いた。
「……じゃあ、あなた一体誰とここに来たの? 一人ではないでしょう?」
「うん、創一と一緒に」
「……誰それ?」
見知らぬ人物の登場にさとりの眉間の皴が一層深まる。
「最近幻想郷にやって来た外来人だよ、外で退魔師やってたみたいで、腕っぷしは随分強いみたい。今地霊殿で道摩法師? とかいう不吉な男と戦ってるわ」
「……ちょっと待って、色々情報が多くて脳が受け付けないわ……その創一とかいう人は信用におけるの……?」
道摩法師、伝説の陰陽師である安倍清明のライバル蘆屋道満の別名。そのような大物の出現にも驚かされるが、それを食い止める外来人というのもまた異様な響きだった。
守矢神社の巫女のように外来人の中でも特別な力を持つ者は居るが、それにしたってこいしの語る状況はイレギュラーであり、想像し難い。
だが、さとりにとってそれらのことは些事に過ぎなかった。今目の前で起こっている出来事に比べれば、吹けば飛ぶ程度の問題に過ぎない。
創一という名前が明らかに男性の名であることは間違いないだろう。それ故に、
「……うん、とっても……」
さとりの問いに照れくさそうに頬を染めながらも、はにかんだこいしの姿が、槌で殴打された以上の衝撃をさとりへともたらした。
「え……何その反応? え、え、ちょっと待って! 知らない間に知らない男に妹取られた……!? え、そんなことある!?」
「いや、さとり様、それは流石に早計なのでは……?」
体を震わせて取り乱すさとり。主の見慣れぬ姿に困惑しつつも、おずおずと疑問を述べるお燐をさとりは一喝する。
「甘いわよお燐‼ 吊り橋効果だとか、白馬の王子様効果だとか! 窮地に差し伸べれる異性の手というものを甘く見てはいけないわ……数多くの書物を読み漁って来た私には分かる‼」
「本の知識……ってさとり様! 出血悪化してますよ! 落ち着いてください!」
実践経験の伴っていない知識をひけらかすさとりに、いたたまれない気持ちになるお燐だったが、さとりの額からどくどくと勢いを増して流れる血流にさっと顔を青くして叫んだ。
しかし、珍しく頭に血を上らせているさとりには忠告に耳を傾ける余裕などありはしない。
「落ち着いていられるわけないでしょ‼ こいし、その男、今すぐ私に会わせなさい!私の第三の目で、ちゃんとこいしに相応しい相手が見定めるわ‼」
「え、いやでも……多分創一すごい嫌がると思うよ?」
「何ですって!? だったらそれまでの男と言うことよ、心が読めないこいしを言いくるめるなんて! なんて卑怯な男なのかしら!」
「お姉ちゃん……あんまり創一の悪口言わないでよ……」
拗ねるように呟かれたこいし言葉にさとりは愕然とする。
「なッッ!? 落ち着きなさいこいし、あなたは上っ面に騙されてるだけ! 人間の、それも男なんてただの獣よっ!!」
「……もういいよお姉ちゃん」
一向に興奮が冷めない様子のさとりに、こいしが呆れたように言い放った。ため息とともに向けられるこいしの緑の瞳。
いつもは何処を見ているか判然としない、空虚だった瞳の中に混じるのは明確な敵意の色。今までにないほど冷たい視線を受け、さとりは声にならない呻き声を上げた。それこそ、呪具で殴打されたとき以上の精神的ダメージが満身創痍のさとりに止めを刺す。
血を流し過ぎたことも相まって、ふらりと支えを失って倒れる体を慌ててお燐が抱き止めた。
「お燐、ごめんなさいね。私ちょっと今回は立ち直れないかも知れないわ……いや、本当に……ダメージが洒落にならない」
「そんな! なんとか堪えて下さいよさとり様! どうか死なないで下さい!!」
「え? いや別に死ぬほどじゃ――」
「まだまだ死ぬには早いですよ! 甥っ子や姪っ子の顔がこれから見れるかもしれないってのに!!」
「んッグフッッ!!」
「それ止め刺してない……?」
悪気が無いお燐の言葉に卒倒するさとり。
再び呆れかえるこいし。
凶悪な異変の渦中にあって尚、何処か気の抜けた空気がその場には漂っていた。
あまりに場違いな雰囲気に思わずこいしの口元が緩む。それを見たさとりとお燐もまた、互いに顔を見合わせて笑みを浮かべた。
言葉では言い表し切れない感情がこいしの胸を満たし――
光が目を眩ませ、轟音が耳を劈く。
膨大な熱が焦がし、爆風が吹き飛ばした。
本の一瞬の出来事だった。
全身に鈍い痛みを覚え、歯を食いしばりながらこいしは地に伏せていた体を起こす。
状況を確認しようにも、舞い上がった土埃が白茶色の帳となって視界を覆っていた。
焦れる気持ちを押さえ、こいしは大人しく吹き抜ける風が帳を取り払うのを待つ。そして、露わとなった光景に言葉を失った。
こいしの目が捉えたのは、滅びの跡。
粗雑な作りながらも頑強であったはずの岩盤の牢獄は見るも無残な崩壊を遂げていた。
多量の岩石に格子や扉に使われた金属が微かに混じった瓦礫の山、こいしの視界に存在するのはただそれだけだ。
呆然自失となること数秒。我に返ったこいしの頭にさとりとお燐の顔が浮かぶ。
「お姉ちゃん! お燐!」
弾かれたようにこいしが二人の名前を呼んだ。だが、その声に応じる者は居ない。
重ねて言うが、こいしの視界に映るのは瓦礫の山だけである。
ならば、彼女の愛しい家族は一体どこに行ったというのか。
そんなことは考えるまでもない。それ故に、古明地こいしは考えたくない。その現実から目を背けることを望む。
もし、彼女が今まで通りの人物であったのならば、それはとても容易な行動だっただろう。無意識の中に閉じこもり、思考を放棄し、脊髄反射で動く人形であった古明地こいしならば、目の前の悲劇に心を軋ませることも無かっただろう。
しかし、彼女は変わった、変わってしまった。
無意識に浸る彼女を放って置かない人々が、遂に彼女の閉ざした心を開かせたのだ。
だからこそ、彼女は現実に直面する他ない。既に殻は脱ぎ去ってしまったのだから。
そして、それは表へと芽吹き始めた彼女の心を打ち砕くには十分だった。
「――あっ――――」
言葉にならない音の断片がこいしの口から零れた。
膨大な熱を伴う光線によって穿たれた岸壁の先に広がるのは、永遠に続くかのような深い穴。
地霊殿の中庭にぽっかりと空く、熱地獄跡へと続く縦穴。隔てる壁の崩壊によって、その縦穴と地下牢が繋がった。
其れを成した怪物が、ぎょろりと三つの瞳をこいしへと向ける。闇を湛えたような暗い双眸に、胸元で怪しく光る赤い瞳。
黒い翼がはためき、肌を焼く熱風が吹きつける。
全てを蹂躙するかのような、暴力的な存在感を放つ怪物の姿を、こいしは知っていた。
「――お空……?」
恐る恐る名を呼ぶ少女に怪物は答えない。
ただ一心に、吟味するかのように怪物はこいしを見つめ、
「――AAAaaaaaaaaaaaaaaa――――!!」
絶叫が空気を震わした。
同時に、こいしの淡い期待が音を立てて崩れる。目の前の少女は、自分の知る家族ではないのだと。姉とお燐を襲ったのが、何かの間違いではないのだと。
畳みかける絶望に、ふいにこいしの四肢から力が抜けた。
限界を迎えた精神には最早体を突き動かす気力すら無かったのだ。
黒翼の怪物が右腕をこいしに向けて突き出した。
腕に嵌められる砲身、第三の足と呼ばれるその砲口に光と熱が収束する。数秒後に襲うであろう閃光に消し炭にされる自分の姿を幻視して――こいしは両の瞳をそっと閉じた。