雨が降っていた。ぽつりぽつりと空から滴る雫が体を濡らしていく。十一月の雨はそれなりに冷たいはずだが、不思議なことに寒さを感じない。精神的なものか、肉体的なものなのかはわからない。
――この身はいつまで人でいられるのだろうか。
そんな疑念を打ち払い、改めて目の前の女に向き直る。赤い水たまりの上、仰向けで倒れ伏すその女に……。
女の体はところどころ傷だらけで、その胸には短剣が深々と突き刺さっている。流れ出る血液は未だ止まらず、致命傷であることは明白である。
しかし、息も絶え絶えながらに女の目ははっきりと力強く自分に向けられていた。
「……結局、お前は一体何がしたかったんだ? あれだけ大掛かりなことをして、一体何をそこまで追い求めていたんだ?」」
返答は期待してなかった。しかし、女は無理やり上体を起こして口を開き、そして――
「フフ、アハハ、アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ‼」
女が笑う、嗤う。血を吐きながら、体中の傷を気にも留めずに狂ったように笑い続ける。いや、実際狂っているのだろうこいつは、最初から。
「何が可笑しい?」
努めて冷静に、できる限り静かな声で尋ねる。
湧き上がってくる憎悪に流され過ぎてはいけない。目の前の女に付け入られるからだ。
例え瀕死であっても油断はできない。
本能は早くこの女に止めをさせと告げていた。だが、できることなら動機の一つでも聞いておきたかった。
「アハハ、ごめんなさい。馬鹿にしているわけじゃないのよ。ただ、貴方があまりにもいじらしくて! もうたまらなくなっちゃって!」
耳にまとわりつくような、甘ったるい猫なで声でそう言って、女は目に浮かんだ涙を人差し指で拭う。
「いじらしいだと?」
「ええ、とっても。だって貴方、本当は気づいてるんでしょ?」
「……何のことだ?」
「あら、この期に及んでとぼけるつもり? いや、自覚がないのかしら? というより気づきたくないのかしら?」
煙に巻くような女の態度にいら立ちが募る。
「だから何の――」
「貴方と私は同じよ」
女の顔から笑みが消え去る。先ほどまでころころと変わっていた表情が嘘だったかのように、今目の前にいる女は無表情で、人形めいた無機質さを感じさせていた。
女の言葉の意味は分からない。しかし、こちらを射抜くその萌黄色の瞳に、心の内をを見透かされているようで、とにかく気色が悪かった。
整った女の顔は血の気を失い、白粉でめかしこんだように白い。普通なら目の前の此れは思わず感嘆の声が漏れるほどに美しいのだろう。なんせ大昔からその美を武器に人心を惑わしてきた化生だ。
しかし、自分には女が化け物にしか見えない。
視界に入れることすら不快で、甘ったるい声も、身に纏う香の匂いも全てが気色悪くて仕方がなかった。
引導を渡す時ぐらい会話を試みようと考えた自分の愚かな選択を呪いたい。
「……もういい、まともに答えるつもりがないことは分かった。どのみちここでお前を殺せば済むことだ。じゃあな化け狐、お前の企みもここで終わる」
「ええ、終わるわね。三千年以上に渡る私の妄執がようやく……あなたは本当にいつも私の予想を超えてくれる」
血を吐きながら恍惚とした表情で女は笑う。それがまた、心底腹立たしくて気色が悪い。
「貴方に出会えてよかった。貴方を愛してよかった。貴方の母になれてよかった。あぁ!なんてしあわせなのかしら‼」
「黙れ! お前を母親だと思ったことなど一度としてない。血のつながりもなければ種族も違う。不愉快だ」
「つれないわね。私は貴方をこんなにも愛しているのに。親の心子知らずとはよくいったものだわ」
「…………」
やはり相手にするだけ無駄なのだろう。意地でも母親面を通すつもりのようだ。
そんな俺の心情を察したかのように、女は続ける。
「貴方がどう思っていようと、私があなたを本当の子のように思っていたのは本当よ。私の言葉が嘘じゃないことは貴方ならよくわかるでしょう。愛しているわ」
女の熱を帯びた視線が向けられる。あぁ、そうだ。この言葉に嘘はないのだろう。此れの愛情は偽りじゃない。それがわかる、分かってしまう。自分の瞳が持つ力が恨めしい。
ふと、女が何かに気づいたように目を細める。
「あぁ、もうそろそろ限界みた――」
ぱちゃりと女の口からひときわ多くの血液がこぼれる。目の焦点が揺らぎ虚ろへと変わっていく。悠久を生きる化生に、今確実に死の足音が近づいていた。
しかし、怨敵の死が目前になっても俺の心は晴れない。
目の前の女は最早痛みも死も疎んでいなかった。むしろ、この状況を心の底から喜んですらいる。
「最後に少し忠告しておくわ。そろそろ認めたほうが楽よ。自分という存在を、ね……だってあなたはもう――」
幼子を諭すかのように、女は穏やかな顔を浮かべる。
「――元には戻れないのだから」
力を失った女の体がばしゃりと水たまりの上に倒れ、飛び跳ねた血と泥が混ざった雨水が足元を汚す。
次第に強まっていく雨の中でこと切れる直前の女の声はあまりにも微かで、けれど、よく耳に残った。
「いよいよですね、創一様。……創一様?」
「えっ、あぁすまん。なんだって?」
「いよいよですねと……いかがいたしましたか創一様?」
「創一が上の空なんて珍しい。もしかして体調悪いの?」
口々にそう言って、顔を覗き込んでくる二人の少女に、心配はいらないと笑みを返す。
「少し感傷に浸っていただけだから。俺だってそれぐらいするよ」
「そう、ですか。それならばいいのですが……」
「まぁ、慣れ親しんだ世界だから名残惜しいよね。私も寂しいし」
「そうだな、寂しいな。けど、感傷は終わりだ。待たせちゃ悪い。早く行こう」
二人を連れて、見慣れた庭先に出る。雲一つない夜空に浮かぶ満月を背に、金髪の少女がそこに佇んでいた。
「準備はいいわね」
少女は手に持つ扇を開き、口元を覆い隠す。
「あぁ、やってくれ八雲」
「それでは――」
今度は扇を閉じて、大きく横に振るう。その瞬間あたりを紫紺の輝きが包む。
「狐守当主殿にその従者達。この幻想郷の賢者八雲紫があなたたちを歓迎するわ」
開かれる巨大な境界の裂け目が建物ごと俺たちを飲み込んでいく。足がつく地面がぐにゃりと揺れるような感触がして、自分がどこに立っているのかわからなくなる、浮遊感とも何処か異なる妙な感覚に襲われる。
「うう、何この感覚気持ち悪い」
「少しの我慢だ六花。嫌なら俺の手につかまれ、多少はましだろ」
そう言って差し出した右手を少女の白くか細い手がつかむ。そこから伝わる氷のような体温が熱帯夜にはちょうど良くて、心地が良い。
「あらあら、仲が良くて結構ね。さて、もう到着よ」
光が晴れ、地を踏みしめる感触が取り戻される。夜空は相変わらず満月が浮かんでいて、慣れ親しんだ屋敷ごと移動させたために、景色にそれほど大きな変化はない。しかし、ここが今まで自分たちがいた世界と異なることは確かに分かった。
「それでは改めて――幻想郷へようこそ」