東方狐神録   作:パック

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落日②

 

 

 濃密な死の気配を前に古明地こいしが恐れを抱くことは無かった。抱けなかったと言う方が正しいかも知れない。

 突然全てを吞み込んだ絶望を前にして、こいしの胸中を諦念だけが満たす。自分に向けられる砲口に熱と光が収束していく様を見ても、こいしの足は地面に縫い付けられたままだった。

 

 数秒後に全身を襲うであろう熱と痛みが、心底どうでもよく感じられる。目を開いているのも億劫に思えて、ゆっくりと瞼を閉じた。が、予期する痛みはいつになっても訪れず、

 

 「――お前は何をやってるんだ!!」

 

 あらん限りの怒声が響いた。

 思わず肩をびくりと震わせてこいしが目を開けば、視界の端から一筋の流星が墜ちる。

 お空と瓜二つの怪物、それが大きく広げる黒い翼の片翼に星光が着弾し、怪物の口から悲鳴が上がった。

 

 「AAaaaa!?」

 

 こいしが星と見間違ったのは、一本の矢だ。空気を引き裂き、音すら置き去りにする速度で飛来した金属製の矢が怪物の翼に深く突き刺さっていた。

 矢から立ち上るのは、目にするだけで心臓を掴まれるような禍々しい気。

 人外にとっても致命に成り得るだろう矢を怪物は忌々し気に睨みつけると、それを放った人影を見上げる。

 こいしもまたつられるように上空へと目を向けた。

 

 二人の視線の先、灼熱地獄跡へと続く縦穴の入り口付近に、それは浮かんでいる。

 背中に矢筒を担ぎ、腰に一振りの刀を差し、炎の意匠をあしらった朱色の弓を構える人影。

 人影が身に纏う衣装と面は、元は純白だったのだろうが、血に汚れ、赤を通り越して黒く変色している。

 狐面から覗く青い瞳がこいしを鋭く睨みつけていた。

 

 「――ッ創一!」

 

 堪え切れなくなったように、こいしはその少年の名を呼んだ。

 目の端に涙を溜め顔を赤くする少女に少年は嘆息し、

 

 「やっと追いついたと思えば……何をやってんだ? 人を付き合わせて、自分は自殺とか……笑えもしないし、いい度胸だな……」

 

 面で表情こそ見えなくとも、そこに怒りが滲んていることは容易に分かった。責め立てる口調にこいしはたじろぐ。

 

 「うっ……でも、だって……お姉ちゃんたちがッ!」

 

 悲痛な叫びを受け、創一はこいしの周囲の瓦礫を睥睨する。そして、納得したように頷いて、再び口を開いた。ひどく底冷えする声で。

 

 「なるほど、それで絶望したと……随分軽はずみだな。自分の命が自分の裁量だけでどうにかなるものだとでも思っているのか? だとすれば、今すぐそんな甘い考えは捨てろ、傲慢が過ぎる」

 

 吐き捨てるようだった。

 こいしを取り巻く事情を正確に理解しているようでありながら、、創一はその剣呑な姿勢を一向に崩さない。少女の感情、悲哀と絶望の色に染まるそれを異能の目で捉えて尚、手心を加えず失望を露わにしていた。

 向けられる少年の鋭い視線に既にこいしは言葉を発することができなかった。緑色の瞳が所在なさげに揺れ動く。

 

 それでもこのまま黙り込んでいるわけにはいかないと、こいしは必死に頭を働かせ、言葉を探し求めた。

 ぐるぐると回り続ける不明瞭な思考、まともに声が出せるかも怪しい状態でこいしは口を開き、

 

 「――随分容赦がないな黒狐、噂に違わない男よ」

 

 こいしが言葉を発する前に、聞きなれぬ声が割り込んだ。

 黒い翼をはためかせる怪物のものではない。鈴の音のように美しく、しかし思わず身震いするほどの鋭さを秘めた声だった。

 

 縦穴の奥、奈落へと続く闇から、声の主である少女が浮上した。

 桔梗をあしらった紫紺の着物に、腰には鞘に収まった小太刀が一振り。後頭部には揚羽蝶を象った髪飾りが着けられており、艶のある黒髪がより鮮やかに見える。

 少女の暗い紅色の瞳が興味そうに創一とこいしに交互に向けられ、最後に黒翼の怪物に留まる。

 

 「何をぼさっとしておるのだ? 近く寄れ、空亡(そらなき)よ」

 

 少女の命に人語すら持たない怪物が黙々と従った。翼を大きく広げて、怪物が少女と創一の直線上に割って入る。理性を感じさせない怪物の様相とは裏腹に、その行動はまるで少女を守っているかのようだった。

 

 「なんだ、お前早速手傷を負っておるではないか……世話のかかる奴め」

 

 言いながら、少女は怪物の翼に刺さった矢を引き抜く。その勢いで少しだけ血飛沫が飛ぶが、瞬時に流れる血は止まり、矢傷が時間を巻き戻すかのように修復された。

 その異常な再生能力を目の当たりにして、創一は面の下で顔を歪める。

 

 創一が放った矢は精神を主体とした人外に極めて有効な、情念の籠った呪具である。呪いを伴う攻撃による傷は、如何に妖怪と言えども容易く再生することはできないはずであった。

 故に、その定型を打ち破った怪物に創一は危機感を覚えずにはいられない。

 朱色の弓を背中に担ぎ、創一は腰の刀の柄に手を掛ける。

 

 「……この怨念と魔力、ようやく会えたな滝夜叉姫。いや、五月姫と呼んだ方が良いか?」

 

 油断なく少女の一挙一動を観察しながら、創一が問う。

 

 「前者で構わない。生きながら鬼道に魅入られ、怨霊となって地獄を彷徨う妾には、父母に賜った名は上等すぎるのでな……」

 

 自嘲を含んだ笑みを漏らしつつ、滝夜叉姫が言った。そして、彼女はその赤い瞳をすっと細め、自分の腰に差す小太刀をゆるりと抜き放つ。

 濡れる白刃は正に鏡面。掲げられた刀身が縦穴の入り口から差し込む光を反射し、狐面の少年を照らした。

 

 「では黒狐よ――始めるとしようか」

 

 その言葉とともに、周囲の空気が張り詰めた弓のように変貌した。 

 それまで不思議と大人しかった黒翼の怪物が、一声上げるとともに体から膨大な熱を発し始める。熱波に巻き込まれないように、滝夜叉姫が怪物から距離を取った。

 

 「こやつの名は空亡、妾の式じゃ。八咫烏の分霊と妾の忠臣を始めとした怨霊たちがこ奴の中で渦巻いておる。感じるだろう? この圧倒的力の奔流を……」

 

 空亡からどす黒い色の感情が湧き出るのを認めて、創一は目を細めた。

 数多の怨霊たちが融け、混ざり合う身の毛のよだつ光景。膨大な怨念に呑まれゆく高貴な気配こそが、他ならない八咫烏のものなのだろう。

 融合はまだ不完全ではあるが、このまま放って置けば、八咫烏という神は確実に堕ちる。

 

 そうして誕生するのは、神格を備えた強大な一匹の怨霊。三大怨霊にも並ぶであろう程の規格外の存在。そうなってはとても手に負えない。

 神格を得ようとも、怨霊はすべからく創一の異能の対象ではあるが、一度に膨大な怨念を吸収すれば、創一の精神が保たない。

 能力による無力化が難しい以上、不完全な状態の内に打倒することが一番現実的な方法だった。

 

 「本当に面倒だ」

 

 言いながら、創一も腰の刀を抜き放って構える。

 強大な神格と怨念を前にして、まるで物怖じを見せないその様子に、滝夜叉姫がにやりと笑った。

 

 「ふ、余裕そうだな。法師殿から黒狐の噂はよく伝え聞いておる。外で随分活躍していたそうだな……実際、この目で見ればそれも頷ける……だが」

 

 吟味するかのように、滝夜叉姫が創一の全身を見渡した。

 赤黒く汚れた装束から覗く少年の四肢は火傷に覆われている。特に右腕の損傷は顕著だった。満身創痍、そう評しても過分ない状態。

 

 「法師殿には流石に手を焼いたと見える、果たして、そんな状態で空亡と妾を相手取れるのか? そこの妖怪はもう使い物にならなそうだが……?」

 

 「ッ!?」

 

 滝夜叉姫の視線が絶望に打ちひしがれていたこいしを射抜く。嘲りを含んだそれに、こいしは握った拳に自然と力が入るのを感じた。

 (そうだ、こいつが……こいつのせいで皆がっ!)

 腹の底から怒りが湧きあがり、再びこいしの体に熱が灯る。憎悪を宿した緑の瞳が滝夜叉姫を睨み、その手に持つナイフの切っ先が向けられた。

 

 「お空に……私の家族に何をした!?」

 

 顔を歪めて叫ぶこいしに、滝夜叉姫は口角を上げる。無意識の仮面を取り払い、憎悪を滾らせるこいしの今の姿が心底愉快だとでも言うように。

 

 「……良い顔をするではないか、初めて覚妖怪を好ましいと思ったぞ」

 

 「うるさいっ!!」

 

 「ははっ、しかし、人の話を聞いていないのは頂けん。言ったはずだぞ、空亡の中には無数の怨霊が渦巻いておると……」

 

 「怨霊……ねぇ、創一……」

 

 僅かに希望を持った瞳が創一を見る。それに少々居心地の悪さを感じながらも、創一は重たい口を開いた。その残酷な事実を少女へと突きつけるために。

 

 「……悪い、希望には応えられそうにないな。俺の能力だけであの状態にまで堕ちた者を戻すのは不可能だ」

 

 「――ッ!?」

 

 悲痛な声を漏らすこいしから視線を逸らし、創一は空亡の後方に控える滝夜叉姫を鋭く睨んだ。

 

 「……随分と悪趣味だな」

 

 「怨霊に堕ちた身の上なのでな。それより、本当に勝てるつもりか? その様で……」

 

 「弱音を吐いたら手でも抜いてくれるのか? 御託はいらない、蜘蛛丸を討ったのは俺だ。恨みを晴らしたければ来い、俺を殺せばいい。俺もお前が邪魔だから殺す」

 

 「邪魔だからか……気持ちの良い男だな、妾たちと同じ匂いがするのに、どうしてそのように在れるのか……」

 

 世界を壊そうとする自分を悪と糾弾するのではなく、己の都合で排除すると宣言する少年に、滝夜叉姫は笑みを漏らした。

 少年と道満が繰り広げた戦いは既に共有されている。三毒を焼き払う龍に、数多の負の感情を背負って戦う少年の姿は、滝夜叉姫から見ても目を奪われずにはいられなかった。

 

 そして、こうして直接相まみえた今、滝夜叉姫にも一つ分かったことがある。目の前の少年は自分たちと全く同じものを抱えているということだ。

 他者から奪ったものでは無い、まごうことなき少年が抱いたであろう負の感情。さとり妖怪のような目が無くとも、千年以上己の怨嗟と向き合ってきた滝夜叉姫には、それがありありと伝わった。

 

 その故は知らないが、自分が想像できない地獄だとしても驚きはしない。だからこそ、それ程の激情を胸の底に秘めながら、未だに道を失わず、そこに立っていられる少年が滝夜叉姫には異常に見えて仕方なかった。だが、同時に尊敬の念を抱かずにも居られない。

 

 「機会があれば、もう少し言葉を交わしたかったものだ……」

 

 心の底から残念そうに滝夜叉姫が呟いた。

 

 「……殺し合いながらなら、話してやる」

 

 ぶっきらぼうに言い捨てて、一歩、少年が()()()()()()()()()。その瞬間、足元で透明な何かが割れる音が響いた。それが生成した小規模の結界を踏み砕いた音であると滝夜叉姫が理解したとき、少年は空亡のわきをすり抜け、既に目前まで肉薄していた。

 

 「――ッな!?」

 

 滝夜叉姫の顔が驚愕に染まる。

 即席の結界を足場にして行う踏み込み。

 優れた脚力を持つならば、ただ飛翔するより、踏み込みを行った方がより速い。それは決して不思議ではなく、むしろ道理に沿っている。

 だが、空中戦に慣れる者であればあるほど、そのような発想は稀であった。

 空を自由に駆ける者達が、わざわざ地に足を着けて不自由な動きを行おうとは考えないのだ。また、仮に思いついたとしても、それを滞りなく実行するには相応の修練が必要となる。

 

 故に、そんな技法の使い手は幻想郷には存在しない。

 空を翔ける機会が極端に少ない、外の世界で活動していた創一だからこその選択。

 そして、予想外は常に思考に空白を挟む。

 須臾に満たない時間ながらも、滝夜叉姫の行動には遅れが生じた。身を翻す余裕など残ってはいない。

 

 大上段から振り下ろされた創一の一刀を、滝夜叉姫は辛うじて小太刀で受けた。

 刃の衝突に火花が散り、甲高い音が鳴り響く。

 重力を味方につけた刀の圧力を前に、滝夜叉姫の細い両腕が悲鳴を挙げる。

 小太刀が折れなかったことが奇跡に思えるくらいの衝撃。拮抗など期待できるはずもない。切っ先が徐々に頭上へと迫る。

 既に力を受け流せる段階には無く、このまま押しこまれるだけで勝負が付きかねなかった。

 

 だが、これは決して一騎打ちではあらず。

 少年の肩越しにこちらへ大急ぎで向かう空亡の姿を認めて、滝夜叉姫は内心安堵する。

援護が入る数舜の間ならば耐え忍べると。が、そんな滝夜叉姫の心の動きを、創一の異能の目が見逃すはずはない。

 刀を押しとどめることにばかり意識を向けだした滝夜叉姫、そのがら空きとなった腹部に創一が鋭く蹴り込んだ。

 

 「がっ!?」

 

 苦悶の声と共に後退する滝夜叉姫にくるりと背を向けて、創一は迫る空亡へと対応する。

 主を害された怒りか、金切り声を上げる空亡。直線上に主人が居る以上、右手の大砲は使えず、空亡が取った手段は打撃による接近戦だった。

 だが、それこそ創一の土俵である。

 体中に規格外の力の奔流を流す空亡は、その怪力においても鬼に劣らない。しかし、そこには技と駆け引きというものが欠落していた。

 ならば、恐れる道理は無い。力で勝る相手を知恵と技で制する、それこそが古来より受け継がれる妖退治の形というものである。

 

 砲を嵌めこまれた右手、鈍器となるそれが大きく振りかぶられて、創一の頭へと叩きつけられる。容易く頭蓋の骨を砕くであろう一撃。

 如何に特別な刀といえど、ただ受ければ刃は欠けるだろう。下手をすれば折れることだって考えられる。

 故に創一は刀身の(しのぎ)で一撃を受け、そのまま力を横に流す。狙いが乱されるまま、標的のいない空白に空亡の渾身の打撃が虚しく空ぶった。

 

 姿勢を崩し、晒された隙に一刀。黒い翼に朱色の線が入り、鮮血が散った。

 思わず後退する空亡に、それは悪手だと創一が刀の切っ先を突きつける。再び足元に作られる即席の結界。それを足場に、刺突を放とうと創一は構えを取り――背中に走った悪寒に、反射的にその場から身を翻した。

 

 眩い光を撒き散らして、一筋の雷の矢が創一が先ほどまでいた場所を通り抜ける。標的に躱された矢が、そのまま空亡に直撃した。だが、直ぐにその傷は創一が与えた切り傷とともに数舜の内に修復される。

 再生能力を当てにした|同士討ちを辞さない攻撃。

 体中から雷を発する滝夜叉姫の姿を認めて、創一は内心舌打ちをした。

 

 「はは、よくぞ今のを凌いだ! だが、いつまでもつかな?」

 

 賞賛の声と共に、雷撃の勢いが増す。

 怨霊が操る魔力を伴った雷。それは本来の雷と異なり、光速には届かない。だが、音速の域にはあり、何より本来の雷よりよほど出鱈目な軌道を描く。

 空亡と滝夜叉姫の挟撃にはとても耐えきれない、そう考えて、創一は再び勢いを取り戻す空亡の攻撃を捌きつつ、隙を見て空けた片手で拝む形を取った。

 

 「稲荷大神に恐しこみ恐しこみ白す。降り注ぐ稲妻から我が身を守り給え!」

 

 地獄に居ても尚、その願いは神へと届く。淡く温かい光が創一の身を包み、その背に向けて放たれる雷の矢が明後日の方向へと狙いを変えた。

 雷除けの祈願、高出力で発現するその護りこそ、少年がどれほど稲荷明神の寵愛を受けているかの証明。

 かつての主の守護に背を任せて、創一は空亡へと振るう剣戟に勢いを乗せる。幾重も重なる剣閃が空亡の体へと傷を刻んでいく。が、それらは全て致命には届かず、与えた端から傷が修復された。

 切りが無い、内心毒づきながらも、創一は終わりの見えない攻防に身を置く。

 

 その背後で、怨霊の姫は呪いを紡いでいた。

 (雷だけが妾の呪法だと思うなよ!)

 雷はあくまで高位の怨霊が持つ一般的な能力にしか過ぎない。そしてそれは滝夜叉姫の真骨頂ではあらず。

 嘗て朝廷を覆すため、丑の刻の神へと祈り、人外の道に足を踏み入れてまで磨き上げた呪法。その脅威が、今まさに少年の背に襲い掛かろうとしていた。

 

 五芒星の描かれる魔法陣が滝夜叉姫の頭上へと出現し、陣の中からずるりと巨大な腕が顔を出す。腕に肉は無い、角ばった白い骨だけでそれは形成されており、二の腕から先は存在せず、魔法陣でぷっつりと途切れている。

 ぎしぎしと音を立てながら拳が握られ、巨大な腕が肘を曲げ、大きく振りかぶられた。人一人など容易く肉塊に変え得るだろう、巨腕の一撃が創一の背に放たれようとする直前、滝夜叉姫は首筋に刺さる殺気に攻撃の手を止め、咄嗟に小太刀で防御の構えを取る。

 

 がきんと刃が嚙み合わさる音が鳴り、火花が散った。

 向けられたのは憎悪に染まった緑の瞳。一瞬でも対応が遅れていれば首を掻っ切られていた事実に冷や汗を垂らしつつも、滝夜叉姫はあえて不敵に笑って見せる。

 

 「悪いな、うんともすんとも言わぬから、ついつい()()()()()()。で、今更どうした?」

 

 皮肉を含んだ挑発に眉一つ動かさず、こいしは爛々とした双眸のまま、

 

 「――貴方を倒せば、お空は助けられるんじゃないの!?」

 

 ぎしりと歯を噛み締めて問いかけた。尋常ではない怒気を孕んではいるが、その言葉は悲痛でもある。彼女の問いに、滝夜叉姫が首を縦にふることを懇願しているようでもあった。

 白けた様な表情を一瞬作った後、滝夜叉姫が盛大にため息をつく。

 

 「何を言うかと思えば……馬鹿かお前は? そんな単純な話ではないから、黒狐も打つ手なしと言っているんだろう……糞餓鬼め」

 

 冷酷な視線と共に小太刀が薙ぎ払われ、こいしの軽い体が大きく後退する。

 間合いと相手を鑑みて、滝夜叉姫は骨の巨椀を引っ込めると、その代わりに再び雷を呼び起した。

 彼女の周囲で、幾つもの火花がばちばちと煌めいて散る。

 

 「多少は良い顔をするようになったと感心したが……すっかり興を削がれた。まだこの期に及んで碌な覚悟もできていないとはな……」

 

 心底見下げ果てた目がこいしへと向けられる。

 創一による初撃を辛く受け止めた滝夜叉姫には、次の一手が無かった。あと数舜でも空亡の援護が遅れれば、それだけで既に勝負は決していただろう。

 もし、あの時こいしが空亡の足止めを担っていれば、敵となった家族に武器を向ける覚悟を持ち得ていれば。

 既に滝夜叉姫が一刀の下に切り捨てられていたことは疑いようが無いのだ。

 故に、滝夜叉姫がこいしに抱く悪感情は止まらない。憎悪に中に半端な甘さが残る姿こそ、彼女が最も嫌うものだった。

 

 「満を持しての奇襲も失敗とはな……殺気が漏れ過ぎだ、無意識に引きこもっていた方がマシだったのではないか?」

 

 「――ッッ!?」

 

 その言葉がこいしの怒りの火に油を注いだ。確かに、こいしが未だに精神を無意識の領域へと完全に埋没させていれば、無意識を操る能力は十全に機能し、奇襲は成功していたかもしれない。

 だが、心を見失ったこいしが、再びそれを取り戻せたのは他ならない家族のおかげだ。

 

 姉であるさとりが、お燐がお空がこいしに他者と心を通わせる眩しさを教えてくれたから。そして、直ぐ隣でボロボロになりながら戦う少年が、人の心に向き合うその姿勢を見せてくれたから。

 無意識の底から浮き上がるこいしへの侮辱は、彼女らへの侮辱へ直結する。それだけは我慢ならなかった。

 (こいつだけは何としてでも殺す。例え、()()()()()()()()()()()()

 体の内から湧き上がる熱にこいしは身を任せて――

 

 「頭を冷やせ!」

 

 背後から再び響く怒声が、過熱するこいしの思考に冷や水を浴びせた。

 咄嗟にこいしが声の主を見やれば、件の少年は襲い来る空亡の猛攻を凌ぎつつ、こちらを一瞥もしないままに叫ぶ。

 

 「心の声にただ従えば良いというものでは無い! 心というものは常に流動的だ。自分の願いとその流れが常に一致することはない! だからこそ、理性を働かせろ!」

 

 連戦による消耗は少年の体を確実に蝕んでいた。空亡の殴打が少年の体を掠め、肉片と血の飛沫が舞う。それでも、少年は言葉を重ねることを止めない。

 

 「感情に飲み込まれるな、自分を失うな! お前の真の望みはなんだ!? 優先することは!? 怨霊の戯言に付き合う必要なんて無いんだ! お前はそいつとは違う、自分の怨恨以上に大切なものがまだ残ってるだろう!?」

 

 怨霊とは全てを奪われた者達の成れの果て。無残に、絶望のままに生を終えた彼らには、他者への怨嗟だげが残される。

 だが、古明地こいしは違うはずだ。まだ、その手には己の感情以外に大切なものが握られているはずだ。ならば、悲嘆にくれるのも、憎悪に身を焦がすのも早計に過ぎる。

 

 「まだお前の望みは完全に潰えてはいないはずだ! 機はある、時間だっていくらでも稼いでやる! だから――とっととそいつを片付けろ!」

 

 叫びながら、袈裟懸けに放たれた鋭い斬撃が空亡の体に深い傷を作った。少年の気迫に押されるように後退した空亡に、少年はあえて追撃の手を止め、くるりと体を半回転する。

 自分たちへと向き直った少年に、滝夜叉姫が眉を顰めた。

 

 「……意外と現実が見えていないのか? ここからの挽回など、どうにも――」

 

 「死人は黙ってろ」

 

 如何に絶望的な状況にあるかを知らしめようとする滝夜叉姫に、創一は冷たい声で言い捨てるとともに、袖下に隠し持っていたクナイを投擲した。超人的な膂力で放たれたそれは空気を引き裂き、滝夜叉姫の首へと寸分たがわず迫る。

 

 「ッ貴様!?」

 

 盛大に顔を歪めながら、滝夜叉姫は小太刀で不意の一撃を防ぐ。額に滲み出た脂汗を拭いながら、滝夜叉姫は創一を鋭く睨むが、既に少年の視線は全く違う方向へと向けられていた。

 

 狐面から覗く青い瞳がこいしを真っすぐに見つめる。面のせいで少年の表情は分からない。もっとも、仮に面が無かったとしても、少年の乏しい表情から考えを読み取ることができたかは怪しいところであった、

 だが、少年の瞳の奥には何かとても強い決意が秘められている。そんな風にこいしは直感した。

 時間にすれば僅か数秒の内の出来事が、何故か永久のようにも錯覚される中、ゆっくりと少年が口を開く。

 

 「お前が絶望していることは分かってる。状況的にもそれは仕方ないだろう。だがな、()()()()()()()。容易に生を諦めることは周りの者へ対する裏切りだと思え」

 

 「――ッッ」

 

 こいしの中で、少年の言葉が力強く反響する。こいしの脳裏に浮かび上がるのは、いつも自分を気にかけてくれていた家族たちの顔だった。

 (――そうだ。私、まだ死ぬわけには……)

 自分が如何に軽はずみに考えていたのか、そのことを悟ってこいしは歯噛みする。

 

 「いいか、こいし。生きるということは足掻くということだ。だから、命の限り足掻き続けろ。それでやっと見えて来るものだってある。活路を見出したいのならば、尚更な」

 

 そう言い残して再び少年は踵を返し、雄たけびを上げる黒翼の怪物へと挑みかかった。

 体を覆う火傷も、幾つも刻まれる傷も、まるで意味を成さないとばかりに軽やかな足取りで、温かな光に背を押されるように――

 

 「……稲荷神の剣とは、かくも厄介な者なのか……おかげで、また面倒な()が増えた」

 

 億劫そうに頭を抱えて、滝夜叉姫は自分を睨む緑色の眼光に向き直る。憎悪に曇っても、無意識に晴れてもいない。まさに中道。抱く迷いは捨てきらず、されどそこに傾倒もしない。全てを呑み込んで事を成そうとする瞳。そこに覗く顔は最早妖ではなく、人間のそれだ。

 

 だが、だからこそ滝夜叉姫の脅威と成り得る。言葉で惑わすことも、心の隙に取り憑くことも最早できないだろう。

 なのに、滝夜叉姫は自然と上がる口角が抑えきれなかった。嘲笑ではない、それは敵への称賛と腹の内から湧き上がる歓喜故だ。

 積もり積もった怨念の宿業、その相手は神でも妖でもなく、中道に立つ人間こそが相応しい。

 そして、覚らしくも妖怪らしくもないこの少女もまた――

 

 「来るがいい古明地こいし! お前を我が真の敵と認め、敬意を以て打倒そう!!」

 

 雷が空気を震わせ、轟音が鳴り響く。熱を発する光が徐々に形を成し、幾つもの雷の矢が作り上げられた。

 滝夜叉姫が腕を振るとともに雷の矢が一斉にこいしに向けて撃ち出される。

 

 【本能・イドの解放】

 

 なみなみと妖力を注がれたこいしの弾幕が、雷の矢にぶつかりあって相殺した。

 妖力と魔力の衝突によって起る煙が晴れぬうちに、両者は次弾を発射し合う。

 雷と弾幕が飛び交い、それを華麗に躱していく両者の姿は、それこそ一見すると弾幕ごっこに興じているだけにも思える。

 だが、内情はまるで違った。飛び交う弾一つ一つに込められているのは明確な殺意だ。

 相手を死に至らしめるだけの力を込めて弾を撃ちながら、両者はともに互いの首を掻き切る隙を探り続ける。

 撃って躱し、躱して撃つ。両者の攻撃が互いの体の掠め、二人の少女の肢体に幾つもの朱色の線が描かれ行く。時に滴り、時に飛沫と散る血潮を気にも止めず、紅と緑の瞳が睨み合う。

 そして、幾重にもわたる打ち合いの末、遂に拮抗が崩れる瞬間がやって来た。

 

 「――ッッ!?」

 

 肩口に雷の矢を受け、こいしは苦痛に呻く。雷撃がこいしの体を焼き焦がし、その動きを緩慢にさせた。

 その隙を狙って、滝夜叉姫が再び雷の矢を降らす。

 弾幕で撃ち落とすことも、回避することも不可能だと悟り、こいしが取ったのは守りの一手。

 

 【茨符・コンファインドイノセント】

 

 周囲に茨が張り巡らされ、咲き誇る大輪のバラが盾となって、雷の矢からこいしの身を守った。雷によって花が焼け落ちた茨が、その報復だとでもいうように鞭のようにしなりながら滝夜叉姫へと襲い掛かる。

 

 「――甘い!」

 

 小太刀による一閃が容易く茨の一本を切り裂く。続く茨の連撃も、滝夜叉姫を捉えることは出来ない。舞を舞うように動きながら振るわれる小太刀が茨を全て斬りおとした。が、それでいい。こいしの目的は攻撃ではない。それはあくまで、滝夜叉姫の視界を迫る茨で覆いつくすために過ぎなかった。

 

 「――ッ!?」

 

 既に懐へと入り混んでいるこいしを目にして、滝夜叉姫は顔を歪める。無意識を操る者から目を離す代償、それが今にも彼女の身を裂こうとしていた。

 

 だが、まだ対応する間は辛うじて存在する。極限の状態に一層高まった集中で、滝夜叉姫はこいしの一挙一動を観察しにかかった。

 刹那の瞬間、こいしの視線が滝夜叉姫の首に向き、ナイフの刺突がその視線の軌跡に沿って突き出される。

 (狙いは首かッ!?)

 体の力を総動員して小太刀を動かし、滝夜叉姫は首に迫る刺突を横から払いのけようとして――空ぶった小太刀と胸に刺さったナイフに瞠目した。

 

 「っは?」

 

 事態が呑み込めず、滝夜叉姫の口から思わず間の抜けた音が漏れる。

 首を狙うと見せかけて、本命は胸への刺突。こいしが行ったのは単純なフェイント。それも剣術に精通する者からみれば、ひどく拙い出来でしかないものだ。

 だが、例え拙くとも、それは技量で勝るはずの滝夜叉姫へと確かに届き得た。

 

 「……やっぱり、あなた首を狙われたときだけ過剰に反応するよね」

 

 確信とともに、ぽつりとこいしが呟く。、

 先ほどのこいしの奇襲、首を狙ったそれは、殺気が漏れ過ぎだという理由で敢え無く防がれ終わった。しかし、よくよく考えれば疑問は残る。

 

 確かに、あの瞬間のこいしの能力には淀みがあったのだろう。だが、こいしと無意識を操る能力との付き合いの長さは一朝一夕ではない。少しの淀み程度で、そう簡単に見切られるのか。

 

 実際、直前までのこいしの潜伏は看破されることは無かった。滝夜叉姫がこいしの存在に感づいたのは、こいしが首に狙いを定めた丁度その瞬間。

 よって、ある仮説が立てられる。

 滝夜叉姫にとって首を狙われるという行為は、こいしの能力による干渉をはじく程に彼女の心の奥底、無意識へと刻まれているのではないか。それこそ、決して忘却できないトラウマとして。

 

 そして、その予想は見事に的中していた。

 こいしは知る由がないが、嘗て朝廷に反旗を翻し逆賊として討たれた彼女の最後、それは忠臣の目の前で首を刎ねられるというものだ。

 千年以上の月日が流れようとも、その敗北の瞬間がもたらした絶望の味を忘れ去ることは出来ない。滝夜叉姫が冷静な対応を行えないのも当然のことだった。

 

 「……見事だ、覚の目を閉ざしたままで、よく気づいたな……」

 

 体から力と魔力が抜け、存在が希薄になっていくのを感じながら、滝夜叉姫が言った。

 

 「心が見えなくたって、私は盲目じゃないもの。この両の目で……貴方を見ることは出来る」

 

 何処か慈悲を感じさせる表情を浮かべて、こいしは消えゆく怨霊を見送る。

 

 「さようなら……」

 

 告げられた別れに滝夜叉姫は何も言わず、一瞬目を伏せた後、最後の力を振り絞って――こいしの両肩を掴んだ。

 

 「――!?」

 

 驚愕するこいしをよそに、滝夜叉姫は一層肩を掴む力を強める。

 滝夜叉姫の体中に魔力の奔流が駆け巡り、ちりちりと火花が散った。瞬時に状況を悟り、さっと顔を青ざめさせるこいしに滝夜叉姫が意地悪く笑い、

 

 「――覚えておくと良い、怨霊というものは総じて諦めが悪いんだ」

 

 「お前と同じでな」、その言葉の直後、特大の雷撃が二人の身を包んだ。短い悲鳴は雷鳴に埋もれ、眩い光が辺りを照らす。

 自傷を辞さない攻撃、既に死に体であった滝夜叉姫が耐えきれるはずはなく、雷撃に喘ぐこいしより先に、その体が霧のように霧散した。

 

 怨敵の消滅をその目で確認しつつも、こいしにもまた余裕はない。

 ひどくゆっくりと流れる数秒の時間を経て、ようやく雷の呵責から解き放たれれば、熱と痺れに侵されたこいしの体からふっと力が抜けた。同時に、今まで無視していた物理法則が突然牙を剥く。晒される重力のままにこいしの体が頭から真っ逆さまに落下し、奈落へと飲み込まれ行く直前、

 

 「――よくやった」

 

 短い労いの言葉と共に、こいしの体ががしりと受け止めれた。所謂お姫様抱っこの形でこいしを抱え、創一が頭上を見上げて口を開く、

 

 「けど、残念ながらここからが勝負どころだ。いよいよあれがその本領を発揮する」

 

 創一の視線の先にあるのは、ひどく取り乱した空亡の姿だ。翼を振り乱し、頭を掻きむしり、目から涙を流し、嗚咽とも絶叫とも取れない音を響かせるその姿は正に半狂乱と言った様相だった。

 その壮絶な姿に胸の奥に痛みを覚えつつ、こいしは痺れて眩む思考を何とか働かせて、創一の言葉に疑問を挟む。

 

 「本領って……さっきまで本気じゃなかったってこと? 式神って主人が居なくなったら弱くなるものじゃないの?」

 

 「普通はそうだが……あれは特別だ。被せてある式が強化じゃなくて制御の方にリソースを割いていたんだろうな。今までの空亡は力を押さえられてた状態というわけだ」

 

 「何でそんなことを?」

 

 「迷い込んだ鼠の一匹二匹処理するのに、一緒に山一つ消し飛ばす兵器をどう思う?」

 

 地上に進出した後で何もかもを消し飛ばすというのであれば遠慮はいらないのだろうが、地底の世界の、それもごく限られた空間においては、特大の火力を持て余すのは目に見えている。故に、ここぞという時まで力を制御するというのは道理にかなう行動だ。

 

 「あぁ、なるほどね。そういうこと……」

 

 納得したと頷いて、こいしは再び空亡へと視線を移す。未だにこちらに攻撃を加えるそぶりも見せず、慟哭し続けているだけではあるが、徐々に纏う妖気が膨らんでいくのが目に見えて分かった。

 先ほど以上の力の奔流に思わずこいしの頬に冷や汗が垂れる。

 

 「……勝算はあるの?」

 

 緊張の面持ちで唾を呑み込み、こいしが尋ねると、創一は首を左右に振る。

 

 「思いつく策はいくつかあるが……現状では実行できないな。だが、こうして二人揃って生きているんだ。なら、やれるだけやるしかないだろう」

 

 目の前の状況に反して、肩の力を抜いた、自然体といった様子で創一が答えた。

 

 「生きることは足掻くことって?」

 

 「良い言葉だろ? 恩人の受け売りなんだ。血反吐を吐こうが、前へ進んで生き抜いて見せろってな、それが人生だと……」

 

 語る創一の声は何処か弾んでいる。それを見て、こいしはふっと口元を緩めた。

 

 「過激そうな人ね」

 

 「過激だよ、そして何より眩しかった。まるで太陽みたいな人だった……思い出話はよそう。これでは走馬灯みたいだ。生きて帰ったら幾らでも話してやる」

 

 「私知ってるよ、それ死亡フラグって言うんでしょ?」

 

 「良く知ってるな。だが安心しろ、現実では死に分かりやすい伏線なんて無い。お迎え担当の死神ってのはそうお優しい連中じゃないんだよ、だから、気にせず精一杯生きればいい」

 

 「精一杯……うん、そうだね。その考え方は素敵だと思う。私ももう少し頑張ろうと思えるもの!」

 

 元気よく笑って、こいしが創一の腕から飛び起きた。負った傷は治りきっておらず、体力の消耗も激しい。

 満身創痍の人間一人に、妖一人、客観的に見れば絶体絶命の状況に違いは無い。

 けれど、そんな様子を一欠けらも見せずに、少年と少女は前を向く。

 ようやく動き出した黒翼の怪物――空亡の闇を湛えた様な不気味な瞳と宝石のような青と緑の瞳が交わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 農耕神と知られる稲荷明神ですが、実は火除けだったり雷除けだったりの逸話も存在しています。
 火の神、鍛冶の神として祀られる側面もあり、稲荷明神の力を借りて刀工三条宗近が打った「小狐丸」の伝承を耳したことがある人も多いでしょう。
 古事記では出番全くなくて空気なのが個人的に不満に思うポイントです。

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