その場所は神域だった。取り立てて特徴がある場所では無い。少し広いと言うだけで、豪華絢爛な調度品が並ぶわけでも、柱や襖に素晴らしい装飾が施されているわけでもなかった。清貧と呼ぶよりは、質素という単語の方が真っ先に浮かぶ畳張りの部屋。
けれども、やはりその場所を神域と呼ぶに他は無い。
可憐という言葉が良く似合う娘だった。超常の存在が持ち得る重圧が彼女にもまた宿っている。にも関わらず、それを押しのけて愛らしさや儚さといったものを見る者に抱かせるのが彼女の持つ美だった。
最も、彼女が見た目ほど儚い存在ではないことは良く知っている。そのエメラルドのような瞳に宿る強い意志は金剛石の如く眩く、そして頑強なのだ。
(まぁ、それでこそ創一の主人よね……)
ヘカーティア・ラピスラズリはそんなことを考えながら、目の前に出された茶飲みに口をつけた。あまり飲みなれた味ではないが、悪くはない。上等な茶葉を使っているからだろうか。少なくとも、以前博麗神社で出されたものとは比べ物にならないものだ。
博麗の巫女は清貧なのか、それとも単に貧乏なのか。彼女にはクラウンピースがお世話になっている借りがあるし、今度何か宝物の一つでも渡して良いかもしれない。
「……それにしても、今回はかなり大胆な賭けに出たわね」
ことりと茶飲みをテーブルに置きヘカーティアは言った。賭けというのは、目の前の少女――
「創一なら幻想郷でも上手く……やっていけるだろうけど……」
上手く、の時点でヘカーティアが言い淀んだのは、件の少年がトラブルに巻き込まれる気質であることを思い出したからだ。最終的には何事も無く切り抜けて見せるのが彼の常ではあるので、心配することはない。だが、決して平穏とは程遠い日常を過ごしそうな予感がするので、上手くというと語弊があるだろう。
「でも、それはあくまで
含みを持ったヘカーティアの言葉を、宇迦之御魂も正確に理解している。彼女は一瞬だけ瞳を揺らすと、すぐにまたヘカーティアを真っすぐに見据えた。
「えぇ、貴方の仰りたいことは重々承知しています。しかし、それでもやはり……これ以上あの子を縛り付けるわけにはいきません。あの子は人間なのです」
「……そう。互いに覚悟あってのことなら構わないけど……」
言いながら、再びヘカーティアは茶飲みをとってお茶を口に含んだ。
思うところが無いといえば嘘になる。だが、考え抜いた末の苦渋の決断であることは容易に察せられた。ならば、あくまで部外者である自分が口を出すことではないだろう。しかし、これだけは彼女に言っておかなければならない。そう考えて、ヘカーティアは一つ息をついてから、再び口を開く。
「でも、これだけは覚えておいてね……私は貴方のことを好ましく思っているけど、それ以上に創一のことを大切な友人だと思っているわ。だから、もしもの時は――――」
続く言葉を口にする必要は無いようだった。地獄の神らしく鋭い光を瞳に宿すヘカーティアに対して、全てを理解したらしい宇迦之御魂がふっと口元を緩めて微笑んだのだ。おかげで、ヘカーティアは毒気を抜かれてしまう。
「やっぱり貴方の胆力ってえげつないわね。普通ここで私に対して笑みなんか浮かべられる?」
大抵の神々がまるで相手に成らない程の上位存在がヘカーティアである。その彼女を前にマイペースを貫ける者などそうそう居ない。優れた武力を持たないタイプの神となれば、指で数える程だろう。
流石は彼のトリックスター、素戔嗚尊の娘の一人と言うべきか。月詠を始めとする尊き神々と袂を分かち、天津神から国津神へと成ったされる、希代の英雄にして問題児の血は、目の前の少女にも色濃く受け継がれているのだろう。そんな風に、呆れが二割ほど混じった感心をヘカーティアは抱く。
「あぁ、申し訳ありませんヘカーティア殿。つい、嬉しくなってしまって……あの子に貴方のような味方が居てくれることが……」
「大げさね。別に創一の味方になろうとするのは人でも神でも、あるいは妖怪でもそれなりに居るでしょう。彼が歩んできた軌跡は決して敵だけを作りだすものでは無かった筈よ」
多くを殺し、恨みを背負ってきたのが狐守創一という少年だが、彼の行為によって救われた者も多い。彼に対して義理を果たそうとする者も多いだろう。最も。
(味方になろうとするのと、味方になれるかはまた別の話だけど……)
ヘカーティアは脳裏に過ったその思考を口に出そうとはしなかった。意味が無いからだ。目の前の少女はソレを理解していない程愚かではない。救おうと思えば救われてくれる程、少年が抱える業は単純ではないのだ。
地獄の女神であるヘカーティアですら、初めて
天国や冥界は勿論、地獄にすら落とされない。だとすれば、彼が行きつく先というのは……。
(全くもって嫌になるわ。純狐といい、創一といい、どうして私の周りは自分から破滅しにいく人たちばかりなのかしら……)
ヘカーティアは心の中で嘆息する。目を放せばいつの間にか消えてしまいそうな友人達を想えば心労は絶えない。だが、彼ら彼女らの生き様に魅せられたのは他ならぬ自分自身だ。目を掛けた者が堕落しない限りは、例え地獄や奈落の底までだって付き添う。それがギリシャ女神の意地というもの。故に、ヘカーティアの中に既に迷いは無い。
いざとなれば、宇迦之御魂や創一自身の意に反してでも動き出すつもりだ。神話に語られる女神たちの所業のように、余計なお節介の押し売りだってしよう。
放っておくと取返しがつかないようになるならば、最悪地獄の鎖で縛ってしまえばいい。純狐や創一を見て、以前から時折考えていたことだった。できれば実行に移す時がこないことを祈っていたが、いざとなれば躊躇はしない。ヘカーティアの算段を知ってか知らずか、宇迦之御魂は目を細めて、
「……本当に頼もしい限りですよ」
そんな言葉を口にするのだった。
「あ、この際、創一を私の右腕として地獄に引き抜くというのは……」
「却下です」
周囲の温度が一気に下がった。それは日の当たらない冥府よりも心を凍てつかせるような冷たさで。だというのに、不思議とヘカーティアの額からは冷や汗が垂れる。
重ねて言うが、ヘカーティア程に高位で強力な神はそう居らず、彼女に相対する少女はあくまで戦う力を持たない豊穣神である。ならば、この不条理な状況は何だろうか。
「…………そう、冗談よ。だから、その目はやめてくれないかしら?」
やけに乾く口を開いて、ヘカーティアは笑いながら言った。最も、思いの外上手く笑えなかったため、苦笑いのような形になったのだが。
対する宇迦之御魂は満面の笑みを浮かべている。彼女はその表情のままで、ヘカーティアの冗句まじりの提案(あわよくばという気はあった)を切り捨てたのだった。因みに目だけは一切笑ってない。真っすぐ向けられる無機質めいた視線の奥に、垣間見えるのは湿っぽい感情である。
自分のお気に入りに粉をかけられるというのは、ギリシャだけでなく日本の女神にとっても地雷らしい。神の寵愛というのは、それはそれでまた深い業を生み出しそうではあるが、最早何も言うまい。というか言える空気じゃない。
女神は何処もウェットで面倒くさいという結論を、ヘカーティアは抱くのだった。
◇
怒号が響いた。何の前触れもない、突然のことだった。
行きかう人々が困惑や恐怖の感情を抱きながら、騒ぎの中心から距離を取る。といっても好奇心には逆らえないようで、あくまで見物できるような距離だ。
自然と人が輪になって渦中に視線を向ける形となった。
騒ぎといっても、耳を澄ませてみれば大した内容ではないらしい。ただの喧嘩だった。
外界ならばいざ知らず、魑魅魍魎が蔓延る幻想郷では実にスケールの小さい争いである。それにもかかわらず、野次馬の数は少なくはない。
喧嘩の発端ははっきりしないようである。目撃者によれば、突然男が激怒して隣の男へと殴り掛かったそうだ。
それだけ聞けば、とても奇妙な話である。野次馬の数もうなずけるかもしれない。だが、
「下らないな……」
呆れた様子で創一は呟いた。喧嘩をしている男たちや、野次馬に対して向けたものではない。創一には騒ぎの元凶が早々に分かっていたのだ。
今も殴り合いを続ける男たち、その全身からみなぎる不自然な感情の色。創一にはそれに見覚えがあった。程度の低いつまらない悪戯である。
創一は辺りを見渡した、できるだけ人目につかず、かつ騒ぎをゆっくりと眺められそうな場所を重点的に。
「馬鹿と煙は高いところが好き、か……」
並ぶ家々のうち、ひと際高い屋根から顔をひょこりと出している人影を見つけ、創一はため息をついた。自分の能力で作り出した状況を、文字通り高みの見物をして楽しんでいるらしい。
創一はすぐに狭い通路へと入り、素早くかつひっそりと突き進み、人影が座すであろう家屋の裏手へとたどり着く。
周りに人の目が無いことを確認して、創一は飛翔して屋根の上へと静かに降り立った。
人影は創一に背を向けていて、完全にその存在に気づいていない。鼻歌すらうたっている始末だ。
創一は無言で片手を手刀の形にして振り上げると、
「ふふ、いいぞいいぞもっとやれ。イッツ、ルナティックタ――イタッッ!?」
人影の後頭部めがけて思いっきり振り下ろした。
悲鳴が上がり、人影が頭を押さえて蹲る。かと思えば、直ぐに涙目で顔を上げ、創一を睨みつけた。
「おいお前! いきなり何を――――」
抗議の声が途中ではたと止まる。
人影、もとい奇抜な恰好をした少女の瞳が丸くなり、魚のように口がパクパクと空く。
随分な間抜け面だった。相も変わらない知己の様子に、思わず創一は口元を緩める。
「よぉ、久しぶり」
フリーズする少女に先んじて創一はそう言った。そして、ようやく落ち着きを得たらしい彼女もまた口を開き、
「――――ゲェッ!? 創一かよ!」
顔を歪める失礼な少女目掛けて、再び創一は無言で手刀を叩きこんだ。
◇
「うぅ……出会って五秒で傷物にされるなんて……地獄的過ぎるぜ。獄卒以上の鬼畜め!」
頭にできたたんこぶをさすりながら、クラウンピースは涙目で言った。中々の声量だったために、聞きつけた周囲の客や店員が懐疑の視線を創一へと向ける。二人は今、人里のある甘味屋に訪れていたのだ。
「誤解を招く表現は止めろ。お前のせいで変な噂が広まったらどうしてくれる?」
不満を口にする創一を、キッとクラウンピースが睨みつける。
「ふん! そんなの知るもんか! バーカ、馬鹿創一! 略して馬鹿一!」
見た目相応というか、可愛らしいともいえるレベルの語彙の低い罵倒。無論、創一はその程度で気分を害するほどに短気ではない。だから、別に聞き流せるのだけれど、あえてそうする理由もないので、創一は思い付きで反論してみることにした。
「その言い方だと馬鹿の一等賞みたいだな……あんまり言うならお前を悪戯の犯人として、退治屋やら自警団やらに突き出すが?」
「えっ……それは、ちょっと……」
思わぬ反撃に、クラウンピースが明確に怯んだ。顔色も少し青い。人里で能力を振るうことが、良くないことである自覚はあるのだろう。
実際、悪戯いえど人里の退魔師や自警団から見れば笑いごとでは無いし、少なくとも創一がやったようにチョップ二発で済むとは思えない一件である。
「えっと……嘘だよな? 創一はそんなことしないだろ? あたいら友達だし……まぁなんだ。さっきはあたいも少し言い過ぎたというか……」
打って変わって、クラウンピースは怯えたような表情を浮かべる。正直な話、妖精の中では群を抜いた力を持つ彼女に、並の退魔師やまして自警団程度がどうこうできるようにも思えないが、脅しとしては機能したようだった。
「うーん、どうだろうな? お前も言っていたが、ほら、俺って鬼畜だろう?」
感情がまるで籠っていないような無表情のまま、創一は考え込む素振りを見せた。クラウンピースの顔から更に血の気が引く。
「ごめん! ごめんって! なぁ、考え直せよ。あたいら無二の親友じゃん! もうかれこれ七年くらいの付き合いだろ!?」
「久しぶりにあった無二の親友への第一声がアレか……やっぱ突き出すか? 手荒な真似されても、最悪
「あーー! 言った! 言いやがったな‼ 流石にそれは絶対言っちゃダメな奴だってくらい、あたいだって分かるぞ!酷すぎるだろ! やっぱお前鬼畜だよ!」
創一が零した言葉に、クラウンピースが猛烈に非難の声をあげた。
妖精というものは自然の化身であり、大本である自然が無い限り、肉体が消滅したとしても再び復活を果たす。人の畏れから成る妖怪も似たようなものだが、妖怪は忘却されたり、強い精神的な攻撃を受けて完全な死を迎えることもあるので、やはり妖精という種族が持つ不死性は頭一つ抜けている。最も、その代償とも言うべきか妖精は人間以上に脆弱な存在なのだが。
「そりゃあお前、妖精は一回休みになるだけだけどな! 痛いは痛いんだよ! それをお前――友達に向かってなんてひどい! ご主人様に言いつけるぞ!」
びしっと、クラウンピースは指を創一目掛けて突きつけた。
「ヘカーティアなら笑いながら聞いてそうだけどな」
「うっ……それは、そうかもしれない」
妙な一点で主人と友人への信頼を一致させる二人である。実際それは的中していて、かの地獄の女神が今の二人を見れば、微笑ましいものを見る目を向けて口元を緩めているだろう。
「まぁ、ご主人様はともかくだ。あたいの心は深く傷ついた、謝れ!」
抗議の声に創一は肩を竦めて嘆息する。そして店内の壁に取り付けられたメニュー表を指差して、
「見ろ、新作のスイーツが中々美味そうだ。俺はアレにするが、お前は何にする?」
「はぁ? 話を変えようとしてもそうは――」
「いいのか? 折角奢ってやるのに」
「え? まじ? ちょっと待ってくれ、新作も良いが期間限定も気になる……くそ、どれにすればいいんだ……」
不機嫌な様子はなりを潜め、すっかり真剣な顔つきになったクラウンピースは壁のメニューと睨めっこを始める。彼女を横目に、相変わらずチョロい奴だと創一は思うが、同時にその変化の無さに安心すらした。
「二つ頼んでしまえばいい。食べきれん分は俺が処理する」
「おお! そうか、よし、そうと決まれば早く注文しようぜ! おーい、店員さん!」
元気な声で手をあげるクラウンピース。見た目がどう見ても童女である彼女のそんな行動に、女性の店員が微笑ましげな表情を浮かべながら、こちらの席へとやってきた。注文を済ませば、料理が届くまで手持ち無沙汰となる。
さっきまでのやり取りを丸っきり忘れた様子で、クラウンピースがふと思いついたように言った。
「なぁ、ところでまだ聞いてなかったけどさ、そもそもなんでお前が此処に居るんだ? 私みたいに、幻想郷での役目を負ったのか?」
「……いいや、違う。全ての役目を果たしから俺は此処に居る。要するに隠居だ。俺はもう宇迦様の使徒じゃない」
創一の答えがかなり予想外だったようで、クラウンピースは目を丸くした。創一が神の使いを止めた、というのがとても信じられないようである。
「そうなのか……? それじゃまぁ……おめでとうって言った方が良いのか? でも別に、お前いやいや従者やってたわけじゃないだろうしな……」
「言っておくが、妙な気遣いはいらないからな。ずっと前から宇迦様と話し合って決めたことだ」
言葉を探すような彼女の様子に、先んじて創一は釘を差して置く。だが、彼女は首を傾げると、
「あたいがなんでお前を気遣わなきゃならないんだよ? それよりお前、ちょっと頭を下げてくれ」
なんて、突拍子もない頼み事を口にした。当然、創一も頭に疑問符が浮かぶ。
「何故?」
「いいから、年上の言葉に逆らうんじゃない」
「中身はずっと変わらず子供の癖に……これで満足か?」
年功序列など、寿命がまるっきり違う種族同士で出されてもはた迷惑なだけの価値観である。反論の言葉は幾らでも浮かぶが、それはそれで面倒だと感じた創一は仕方なく折れることを選んだ。ため息一つを吐いて、言う通りに頭を少し下げる。
「……何のつもりだ? 気遣いはいらないと言ったはずだが……」
自分の頭に置かれた小さな手の感触に、創一はジトリと目の前の童女を睨む。わざわざ机から身を乗り出して、対面に居るクラウンピースが創一の頭を撫で始めたのだ。本当に子ども相手にそうするように。
しかし、当のクラウンピースは呆気からんとした様子で言う。
「気遣い? 意味わからんこと言うなよ。私はお前よりずっと年上のおねいさんなんだぞ? 頑張った子を褒めるのが当然だろう。ご主人様もこうやってあたいを誉めてくれるからな」
胸を張って、堂々と言い張るクラウンピース。そんな態度で言われれば、創一としても反論する気が失せた。年齢的にクラウンピースが自分より年上だというのも事実ではある。その場合、お姉さんというよりは婆というのが正しいだろうが。
「なんか今、あたいにすごい失礼なこと考えなかったか?」
「ん、まさか俺と同じ読心能力に目覚めたか? オメデトウ、そこから先は最高に地獄だ」
「反応に困ること言うなよ……まぁ、幻想郷はそういう能力持ち結構いるらしいし、心配ないだろ。何はともあれ――」
自虐めいた物言をする創一を、クラウンピースは真っすぐに見つめる。勿論、その手は未だ創一の頭から離れてない。彼女は撫でるのを止めないままで、
「――お疲れさまだ、創一。改めて、幻想郷へようこそ。お前を歓迎するぜ!」
にかりと、満面の笑みを見せるのだった。