ウマ娘プリティダービー ~月毛のウマ娘~    作:蒙駄目猫

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♯13.愁いと光明

『今年最後のレースとなるGⅠ、ホープフルステークス! 一等星の輝きを見せ、来年のクラシック戦線に名乗りを上げるのは一体誰だ!』

 有馬記念から二日後の火曜日。年内最後のGⅠレースが開催されるとあって、中山レース場は有馬記念よりは少ないとはいえ、多くの観客が足を運んでいた。

 神谷は観客席の一番前、コースと観客席を(へだ)てる塀の前に陣取ると、出走するウマ娘達を観察していく。

「やっぱりアクアスフィアが頭一つ抜けてるか……。いやでも、サファイアペガサスも大きく成長してるな。後は、ロードジュエリーにクイーンズホロー……。この二人がどこまで食らい付けるか、って所かな」

 ぶつぶつと呟きながらメモを取っていく神谷の顔には、楽しそうな笑顔が浮かんでいた。そんな神谷に後ろから近づく二人の人影があった。

「よう。精が出るな」

竜胆(りんどう)先輩、お疲れ様です! ……あー、その。沖野先輩は何で鼻血を両方の鼻から……?」

 声を掛けてきた竜胆に向き直った神谷は、竜胆と並んで現れた沖野の姿に引き()った顔をした。竜胆も心底呆れたような視線を沖野に向けると、大きく溜め息を()いた。

「ホープフルステークスの観戦に来てたウマ娘の太もも、まぁ、トモだな。それをベタベタ触って、後ろ蹴り食らったんだとよ」

「えぇ……」

 竜胆だけではなく、神谷からも冷たい視線を受けることになった沖野は、慌てて弁明を始めた。

「いやいや、違うんだって! 良い脚をしている娘が居たから、筋肉の付きとハリを確認しただけでだな、いやらしい意図なんか欠片もないんだって!」

「お前、ホントその内セクハラで捕まるんじゃないだろうな? 良い脚してるからってベタベタ触るもんじゃないとあれほど……」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐ大の男に、周りの観客からは冷たい視線が向けられる。話の内容が聞こえたであろうウマ娘や、女性からの軽蔑(けいべつ)したような視線に、神谷は二人とは他人であるフリをすることにしたのだが、問答無用で巻き込まれ、周囲から冷ややかな視線を向けられる羽目になるのだった。

 

 発走時間が(せま)り、場内も段々熱気を帯びていく。発走を心待ちにしている他の観客達と同じように、神谷達三人もゲートに注目していた。

「やっぱりアクアスフィアが一番仕上がってるな。サファイアペガサスも前回と比べると成長は見られる分悪くはないんだが、アクアスフィアと比べるとどうもなぁ」

 竜胆の評価は先程の神谷と全く同じだった。やはりこのレースは、アクアスフィアが頭一つ抜けている。それを再確認した所で、ファンファーレが高らかに鳴り響いた。

「いよいよか。前評判通り、アクアスフィアの一人勝ちか、はたまた伏兵が差すか……」

 

『最後に12番グレアダイアモンドがゲートに入ります。GⅠホープフルステークス、今スタートしました!』

 ゲートが開くと同時に飛び出すウマ娘達。横一線に並んだスタートとなり、激しい先行争いなども起こらずにそれぞれが得意とするポジションに綺麗(きれい)に収まったようだった。アクアスフィアの一挙一動を、どのウマ娘も注視しているかのような立ち上がりだった。

『大きな出遅れもなく、綺麗に横一線のスタートとなりました。7番ラッキーフィールドがスーッと上がってハナに立ちます。4番アクアスフィアはその後ろ。その隣12番グレアダイアモンド、3番クイーンズホローはアクアスフィアの真後ろに付きました。二番人気、9番サファイアペガサスは最後方からのレースとなりそうか。第二コーナー終わって1000mの通過タイムは一分二秒六、ややゆったりとしたペース』

 全員がアクアスフィアの様子を(うかが)いながらの展開となったレースは、向こう正面でも大きな動きはないまま、早くも第三コーナーに差し掛かる。ここで、最後方に陣取っていたサファイアペガサスがやや前傾姿勢を取ってじわじわと先頭へと進出を始めた。

「あんな所からスパートを掛けて最後まで持つのか?」

「長距離向きだとは思うが、それだけスタミナに自信があるんだろうな」

 竜胆と沖野の驚き混じりの言葉に、サファイアペガサスをオペラグラス越しに見た神谷は、その表情からスタミナに自信があると見て取った。ロングスパートを掛けたサファイアペガサスは、楽しそうに前へ前へとと脚を進めていた。

『第四コーナーに入り、各ウマ娘の動きが激しくなっていきます! アクアスフィアはまだ動かないか、ラッキーフィールド先頭! 二番手にはグレアダイアモンド、クイーンズホローもそれに続く! ラッキーフィールドが十七人のウマ娘を引き連れて、最後の直線に入って来ます!』

 ラッキーフィールドを先頭に、集団が一塊(ひとかたまり)となって中山レース場の短い直線に入ってきた瞬間、神谷はもちろん、他の観客達も、レースをしているウマ娘達までもがアクアスフィアが消えたかのような錯覚を起こした。

『な……なんとなんと、アクアスフィアが先頭に立っています! アクアスフィア、集団を(ひき)いて坂を上って行く! 集団を抜け出したサファイアペガサスが懸命に追うが差が縮まらない! アクアスフィアだ! アクアスフィアだ! 今堂々とゴールイン! 圧巻の走りでホープフルステークスを制したのはアクアスフィア! 鮮烈な輝きを見せつけ、クラシックへの第一歩を踏み出した! 二着はサファイアペガサス、三着にはグレアダイアモンドが入っています!』

 瞬きの間にコース上から消え、再び現れた時には先頭に立っていたアクアスフィアは、坂をまるで平地のように駆け抜け、勢いそのままにゴールへと吸いこまれていった。あまりの早業(はやわざ)に、観客席からは喝采ではなく、困惑と歓声とが複雑に入り交じった(どよ)めきが上がっていた。

「……とんでもないウマ娘だな。一瞬コースから消えたよな?」

「消えたなぁ……いや、本当に消えたわけじゃないと思うが、消えたなぁ……」

 沖野の乾いた笑い混じりの感想に、神谷は言葉が見つからなかった。結果は降着だったとはいえ、フューチュリティステークスでヴァイスシュトルムが見せた走りは、来年のクラシックでも間違いなく上位に食い込める素晴らしい物だった。これなら、皐月賞、日本ダービーの二冠も夢じゃないと、手応えを感じてさえいた。しかし――。

 アクアスフィアが見せた走りは、そんな幻想を打ち砕くには充分以上のものだった。

「『人の夢と書いて儚い』……かぁ」

「どうした急に」

「いや……、とんでもない()がクラシック路線に駒を進めたなぁ、と」

 神谷の悄気(しょげ)たような声に、顔を見合わせた竜胆と沖野は、神谷の背中を慰めるように叩くと、悄気たままの神谷を連れて中山レース場を後にした。

「何にしても、これで年明けまでレースはないし、今晩の忘年会は呑むぞ!」

「それに、神谷にはヴァイスシュトルムをどうやって口説き落としたのか教えて貰わないとな!」

「っな、そんな人聞きの悪いことしてないですよ!」

「やかましい! 優秀な美少女ウマ娘を口説き落とした手腕を共有して、そのきっかけになった先輩孝行をだな……!」

 騒ぎながらレース場を後にする男三人には、先程までの暗い雰囲気は見当たらなくなっていた。

 

 トレーナー達の忘年会で竜胆と沖野にしこたま呑まされた神谷は、ふらふらとした足取りでトレセン学園内を彷徨(うろつ)いていた。タクシーで正門まで戻ってきたのは良い物の、酔っ払ったことで方向感覚を失っていた神谷は、タクシーを降りてからトレーナー寮のある方向ではなく、トレーナー室のある学園内に向かっていた。

「うーん、こんなに階段があったっけ……? それに、やけに廊下が広いなぁ」

 神谷が今居る場所はトレーナー寮ではなく、トレセン学園内なのだから廊下が広いのも当たり前の話なのだが、正常な判断力を失うほどに酔っ払った神谷は知る(よし)もない。千鳥足でよたよたと歩き続ける神谷は、体が覚えているのに任せて廊下を歩く。そうしてたどり着いた扉の鍵を開けようとして、家とは異なる鍵の感覚に神谷は違和感を覚えた。

「ん~? こんな感触だったか?」

 普段と違う感覚を(いぶか)しがる神谷が扉を開けて電気を()けた先は、よく見慣れたトレーナー室だった。

「あ~……こっちに来ちまったのか……まぁ、良いか。こっちでも寝られるし」

 そう独りごちると、神谷は部屋に入って暖房の操作盤を弄る。暫くして低いモーター音と共に暖かい風を送り始めた暖房に満足して、神谷は部屋の奥へ足を向けた。ソファを今日の寝床とすべく、厚手の毛布をクローゼットから取り出し、鼻歌交じりにソファに歩み寄る。神谷が正面に回り込むと、そこには既に先客がいた。

 その先客は、薄手のブランケットに包まりながら、まるで猫のように丸まって寝息を立てていた。

「……ああ、ヴァイスシュトルムもここにいたのか」

 そう呟いた神谷は、何故ヴァイスシュトルムがとっくに寮の門限を過ぎ去った時間にも(かか)わらず、ここにいるのかを深く考えることもないまま、向かい側のソファに寝転がり、あっという間に深い眠りに落ちていた。

 再び動く者の居なくなったトレーナー室には、二人分の寝息と規則正しい時計の音。それから、神谷の鞄の中で震える携帯の着信音が響いていた。

 

 

 今年最後のレース中継を栗東寮の食堂で見ていたヴァイスシュトルムもまた、ホープフルステークスでアクアスフィアが見せた走りに衝撃を受けていた。この前、自分が出走した朝日杯フューチュリティステークスでは、斜行からの二着降着という残念な結果に終わったものの、走り自体はそう悪くない物だったと自負していた。しかし、今日アクアスフィアが見せた走りは、ヴァイスシュトルムのそんな自信を文字通り粉砕した。

「……スフィアは軽々とあの坂を登れるんだ」

 ぽつりと呟いたヴァイスシュトルムは茫然自失といった様子で、ふらふらとした足取りでそのまま寮を出て行った。

 

 あてもなく彷徨(さまよ)い歩いていたヴァイスシュトルムは、神谷のトレーナー室に明かりが点いていないことを確認して、がっかりとした。そういえば、中山レース場に直接観戦しに行った後、そのままトレーナー達の忘年会に出席すると昨日話していたような気がする。

 そう思い出したヴァイスシュトルムは、溜め息を吐いて再び学園内を歩き始めた。いくら合鍵でトレーナー室に入れるとはいえ、たった一人でだだ広い部屋に居たいとは、今のヴァイスシュトルムには思えなかった。

 

 結局、学園内を方々(ほうぼう)歩き回った末に、ヴァイスシュトルムがたどり着いた先は屋上だった。日がとっぷり暮れて、ますます寒さを増した薄暗い屋上に漂ううら寂しさが、今のヴァイスシュトルムには心地良かった。

 いつかのように屋上から遠く見える街並みの灯りをぼんやりと眺めるヴァイスシュトルムは、その実、何も目に映していなかった。彼女の脳裏(のうり)にはホープフルステークスの映像が常に再生されており、それにずっと気を取られていた。彼女の脳には、とてもじゃないが今目に映っている風景を処理する余裕がなかったのだ。

 ヴァイスシュトルムの頭で延々と再生される映像の中では、アクアスフィアが中山レース場を(かろ)やかに駆けていた。

 中山レース場最後の直線に入る瞬間、まるで瞬間移動やワープでもしたのではないかと、思うほど鮮やかに先頭へと躍り出たアクアスフィア。彼女がゴール直前にある急坂を、まるで平地かのように駆け抜けた姿は、きっと新聞やテレビ、ネットニュースを(にぎ)わす事だろう。なんなら、もう既に賑わっているのかもしれない。

「……はぁ」

 頭の中で幾度(いくど)となく繰り返される映像に溜め息を吐いて、塀の上に置いていた腕に頰を乗せたヴァイスシュトルムは、再び街並みに目を向ける。今度こそ、その瞳に街の灯を映した彼女は、しばらくそのままの姿勢で眺め続けたのだった。

 

 

 ドイツ生まれで比較的寒さに強いヴァイスシュトルムも、一時間も()てば風を(さえぎ)る物のない屋上で吹き(すさ)ぶ、骨まで凍えさせるかのような冷たい風に耐えきれなくなった。歯をカチカチと鳴らして両腕で体を抱きながら、急いで暖を取れる場所とヴァイスシュトルムが考えた先は、神谷のトレーナー室しかなかった。

 寒さに震える指で何とか鍵を取り出し、鍵穴に鍵をうまく差し込めずに数分程格闘することになったとはいえ、ようやく鍵を開けたヴァイスシュトルムは、すぐに部屋の暖房のスイッチを入れる。ソファに畳んであった薄手のブランケットに包まり、部屋が暖かくなるまでソファに丸まっていると、やがて部屋は暖かくなっていった。

「ふぁぁ……」

 体が温まり、部屋も心地良い暖かさになってきた頃、瞼が落ちてくるのを防げなくなったヴァイスシュトルムは、チラリと時計に目をやる。時計は縦一直線に長針と短針が並び、寮の門限まで少なく見ても二時間はあった。

「……少しくらい寝ても大丈夫だよね」

 言うが早いか、ヴァイスシュトルムはトレーナー室の扉を施錠し、部屋の灯りを落とした。光がなくなり、暗くなった室内で転ばないよう慎重に歩いてソファまで戻ったヴァイスシュトルムは、薄手のブランケットに再び包まるとソファに寝転がった。

 暫くして再び襲い来る睡魔に抗うことなく身を委ねた彼女は、ほんの一瞬だけホープフルステークスのことを思い返したが、それもすぐに思考の埒外(らちがい)へと消え去ってしまった。

 睡魔に負けたヴァイスシュトルムにできることは、真っ暗になった暖かな部屋で、穏やかに寝息を立てることだけだった。

 

 

 栗東寮では、門限を大幅に過ぎてもなお戻ってこないヴァイスシュトルムについて、ちょっとした騒ぎになっていた。スマホを寮の部屋に置いたまま姿をくらましたヴァイスシュトルムを(さが)すべく、彼女と同室のサザンエースや仲の良いエイシンフラッシュ、それにフジキセキやエアグルーヴらが方々探し回ってなお見つからず、彼女の担当トレーナーである神谷とも連絡が取れない(正確には、神谷を除いた他のトレーナー達とも連絡が中々付かないのだが)ことに、いよいよ彼女達も冷静さを欠き始めていた。

「ええい、ヴァイスめ……、一体どこに……」

「いい加減日も変わるのに……。この寒さで凍えてなければ良いのだけど」

 苛々(いらいら)とした様子で右親指の爪を噛むエアグルーヴは、再びヴァイスシュトルムが行きそうな所を考える。

 彼女が寮を抜け出した時はいつも、トレセン学園の屋上かその近くに必ず居たことから、学園の外である河川敷や神社、公園などは除外しても良いだろう。同じ理由から、街の外に出ているとも考え難い。であるならば、やはり学園内のどこかに居るはずなのだ。

「やはり、もう一度トレーナー室に居ないか確認するべきじゃないか?」

「うーん……。トレーナー室の鍵がないと、さっきと同じ結果にならないかな……?」

 エアグルーヴの言葉に、フジキセキは神谷と連絡が付いていないことに懸念(けねん)を示した。もしも空振りに終われば、いよいよヴァイスシュトルムの体調が心配になる。ちらりと窓に目をやったフジキセキは、八の字を寄せた。

 彼女が視線をやった窓の先では、見慣れた景色に雪が深深と積もっていく。その様が、なおのことフジキセキの不安をかき立てていた。

「しかし、学園内のめぼしい場所には居ないと考えて良いんじゃないか? ヴァイスはバカな行動はするが、何時までも凍えるような場所で過ごすようなバカではない。フジ、お前もわかっているだろう?」

「それは……、その通りだけど……」

 普段の快活な様子は鳴りを潜め、歯切れも悪く返事をするフジキセキに、エアグルーヴは苛立ち混じりの溜め息を吐いた。

 何度目かの剣呑な空気に、サザンエースも居心地悪そうに椅子の上で身動(みじろ)ぎした。夕方、ヴァイスシュトルムが悄然(しょうぜん)とした様子で食堂から出て来た時、サザンエースは彼女とすれ違っていた。

 様子がおかしいとは思ったが、人は誰しもそっとしておいた方が良い時もあると知っているサザンエースは、ヴァイスシュトルムの背中を見送るだけに留めたのだった。

 寮の外を散歩して気分転換できれば、すぐに帰ってくるだろう、等と呑気に考えていたあの時の自分を叱り飛ばしたい気分だった。

「はぁ……ヴァイスは一体どこ行ったんだろ……」

 

 

 ソファで丸くなっていたヴァイスシュトルムは、体をぶるりと大きく震わせた。

「……うぅ、頭痛い。今何時だろ……」

 ぼんやりとしたまま、スマホをスカートのポケットから取り出そうとして手を入れたところ、そこにあるはずの感触はなかった。首を傾げて数十秒考え込んだヴァイスシュトルムは、寮の自室に置いてきたことをようやく思い出し、重々しい溜め息を吐いた。

「あー……やっちゃった……。またサザンに『スマホは持ち歩かないと意味ないでしょうが!』って怒られるやつだこれ……」

 苦々しい表情を浮かべたヴァイスシュトルムの脳内では、既に怒り顔のサザンエースがガミガミと小言をヴァイスシュトルムに伝えてきていた。頭を振って想像上のサザンエースの顔を霧散させたヴァイスシュトルムは、改めて時間を確認しようとソファの座面に両手を付いて起き上がろうとして、違和感に気付いた。

「……あれ? 部屋の電気が何で点いて……?」

 彼女が眠ったときには消したはずのトレーナー室の照明は、明々(あかあか)と点灯していた。

「……まさか」

 ヴァイスシュトルムが恐る恐るといった風にソファの正面に目を向けると、そこにはヴァイスシュトルムの予想通り、厚手のブランケットに包まって眠りこける自分の担当トレーナー、神谷の姿があった。

「……」

 ヴァイスシュトルムはあまりの衝撃に、魚のように何度も口を大きく開けたり閉じたりを繰り返した。ぱくぱくと何度も開閉させる口からはしかし、何も言葉を(つむ)ぐことができない。

 それに対する神谷は、自分の担当ウマ娘がかなりの衝撃を受けていることなど露知らず、高鼾(たかいびき)をかき続けていた。

 神谷から漂うアルコールにも似た臭いに顔をしかめたヴァイスシュトルムは、彼が起きる気配がないことに(いささ)か平静を取り戻した。それから彼女は目的の時計に目をやって時刻を確認し、今度こそ悲鳴を上げた。

Schlecht, schlecht, schlecht, schlecht!(やばいやばいやばいやばい!) Was soll ich tun!?(どうしよう!?) Ich kann nicht glauben, (こんな時間まで)dass ich bis zu dieser Stunde geschlafen habe!(寝ちゃうなんて信じられない!)

 慌てふためきながらもトレーナー室の電気を消し、きちんと扉を施錠したヴァイスシュトルムは大急ぎで栗東寮へと駆けだした。

 外へと飛び出して月光を身に受けながら疾駆するヴァイスシュトルムは、一枚の絵になるような美しさであった。しかし残念なことに、それを目にする者は誰一人として居なかった。

 

 

 翌日、ヴァイスシュトルムは暗い顔をして栗東寮の掃除を行っていた。

 ヴァイスシュトルムが昨晩、日付が変わってから栗東寮の玄関にたどり着いたと同時に、寮から不安そうな顔をした二人のウマ娘、フジキセキとエアグルーヴが姿を現した。目を丸くした二人に頭を深く下げて謝罪したヴァイスシュトルムは二人から酷く怒られることを覚悟していた。だが、心底安堵したフジキセキに無言で抱きしめられエアグルーヴからも「心配させるな、たわけ」とだけ言われて完全に拍子抜けしてしまった。

 その後、ちょっとした注意と門限破りの罰として、都合二日に渡る栗東寮内の掃除を言いつけられて今に至る。

「まさに陰陰滅滅(いんいんめつめつ)といった様子だな、ヴァイス」

「ルドルフ……」

 誰も居ない談話室の掃除を終え、ソファに座って小休止していたヴァイスシュトルムは、後ろから声を掛けてきた人物にばつが悪そうに応えた。それを気にした様子もなく、シンボリルドルフはヴァイスシュトルムの隣に腰掛ける。

「ふむ……その様子だと、反省は十分したみたいだな」

「……まぁ、ね。フジにもエアグルーヴにも、他にも大勢に迷惑掛けちゃったから」

 ヴァイスシュトルムは弱々しく笑みを浮かべると、改めてシンボリルドルフに向き直った。

「ルドルフにもごめん。心配してわざわざ様子見に来てくれたんでしょ?」

「いいや、談話室で(くつろ)ごうとしただけだよ」

 そう(うそぶ)くシンボリルドルフに対し、ヴァイスシュトルムは笑みを浮かべると続けた。

「ふぅん? Obwohl du mich schon seit einer Stunde beobachtest?(一時間前からずっと私の事を見ていたのに?)

「……Ich weiß nicht, wovon zum Teufel Sie reden(一体、何を言っているのかわからないな)

 ヴァイスシュトルムの追求に涼しい顔をして受け流すシンボリルドルフは、表面上は普段と変わらない様子だったが、視線は泳いでいた。そんなシンボリルドルフにヴァイスシュトルムはニコニコと微笑むばかりだった。

「まぁ、いいや。それにしても、ルドルフってドイツ語も話せたんだ? 英語とフランス語ができるのは知っていたけど」

「ヴァイスのように欧州圏の留学生と話す機会も多いから、自然とな。恪勤精励(かっきんせいれい)、これも生徒会長の(つと)めというものだ」

「ほんと、そう言うとこだよ」

 (あき)れたようにシンボリルドルフにそう言って、談話室のテレビを点けたヴァイスシュトルムは、手元のリモコンでチャンネルを変える。

『……最優秀ジュニア級ウマ娘の受賞は、デビューから無敗でGⅠウマ娘となったアクアスフィアがほぼ確定したと言っても過言ではないでしょう』

 たまたま変えた情報バラエティー番組で、最優秀ウマ娘の受賞についての特集を組んでいたらしい。画面の下部には視聴者からのリアルタイムコメントを表示しているらしく、そこにはアクアスフィアで確定だと言うコメントが溢れていた。

『そうですね。朝日杯フューチュリティステークスでヴァイスシュトルムの斜行がなければ、どちらが受賞するかわからなかったとは思いますが……たらればの話をしてもしょうがないですね』

 コメンテーターの悔しそうな顔と、コメント欄に流れていった数少ない自分への応援コメントに、ヴァイスシュトルムは目を見開く。それを見たシンボリルドルフは真面目な顔をして口を開いた。

前程万里(ぜんていばんり)、君の挑戦はまだ始まったばかりだ。来年から始まるクラシックロードも安穏無事(あんのんぶじ)とはいかないだろう」

 そこで一度言葉を切ったシンボリルドルフは、ヴァイスシュトルムが自分をじっと見つめて話を聞いていることを確認して、口元を(ほころ)ばせた。

「しかし、君が朝日杯FSで見せた走りは見事なものだった。結果こそ残念だったが、そのことに失望落胆(しつぼうらくたん)し続けるのはここまでだ」

 はっとしたようにヴァイスシュトルムは目を見開く。自分が負けてからずっと、そのことが頭の片隅を陣取って居たことに、目の前に居るシンボリルドルフは気が付いていたらしい。恐らく、フジキセキやエアグルーヴ、サザンエースなども気が付いていたことだろう。

「ヴァイスシュトルム、君がクラシックロードで勇往邁進(ゆうおうまいしん)する様を楽しみにしているよ」

 微笑みを浮かべてそう言ったシンボリルドルフは、ソファから立ち上がると談話室の出入り口へと歩く。慌ててソファから立ち上がったヴァイスシュトルムは、シンボリルドルフの方へ体を向けた。

「ルドルフ!」

「うん?」

 振り返ったシンボリルドルフに、呼び止めたヴァイスシュトルムは何かを言おうとして口を開け、再び閉じた。何を言おうとしたのか自分でもわからないが、何かを言わなければならない気がしていた。

「……」

 ヴァイスシュトルムは一度大きく息を()いてから、黙って待っているシンボリルドルフに再び向き合う。そして、決意を込めて宣言した。

「クラシック級ではあんな負け方しないし、絶対に結果を残すから見てて。後、ルドルフに絶対レースで勝つ」

 ヴァイスシュトルムの宣言に目を(またた)かせたシンボリルドルフは、破顔一笑したあと挑発的とも取れる顔をしてみせた。

「ふふっ、君がこの寒気凛冽(かんきりんれつ)な冬を乗り越え、百錬成鋼(ひゃくれんせいこう)の努力を見せてくれることを楽しみにしているよ」

「言われなくても」

 シンボリルドルフの言葉に負けじと返したヴァイスシュトルムの顔は、悩みが解消したようで晴れ晴れとした顔をしていた。シンボリルドルフは彼女の顔から憂いが払拭(ふっしょく)されたことに内心安堵し、軽口を叩いた。

「それにしても、やはり笑顔の君は氷肌玉骨(ひょうきぎょっこつ)だな。いや、天姿国色(てんしこくしょく)と言った方が正しいだろうか……。何にせよ、君がクラシック級で見せる姿が楽しみだ」

「っな……!」

 そう言い置いて、今度こそ談話室を出て行ったシンボリルドルフの背中を見送ったヴァイスシュトルムは、顔を真っ赤に染めて立ち尽くしていた。いくらヴァイスシュトルムが容姿を()められ慣れているとは言え、シンボリルドルフやフジキセキに面と向かって褒められることへの耐性はなかった。

「……何でルドルフ達は、臆面(おくめん)もなくキザったらしいことを言えるかなぁ」

 そう言ったヴァイスシュトルムの脳裏には、シンボリルドルフとフジキセキの顔が浮かんでいた。やれやれと(かぶり)を振り、掃除の続きに戻るヴァイスシュトルムはしかし、耳と尻尾に現れる喜びを隠し切れてはいなかった。




一カ月ぶりですってよ奥さん。時の流れは早いですわね。

いやほんと、冗談抜きで早すぎない??? もう年末年始がすぐそこまで来てるんだけど??? 2021年がもうすぐ終わるとか信じたくない……。

そんなこんなで13話でごぜーますわよ。楽しみにしていた方には、お待たせしすぎたぶん、楽しんで頂けたらなぁと思いながら、次もまた読んで頂ければと思います。

次の話こそは物語の中でも年を越してれば、と思います。

それではまた次話で会いましょう。
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