土曜日、日曜日は中央開催のレースや選抜レース(選抜レースに関しては、金曜日に出走できなかったウマ娘のための予備日がある)が朝から夕方まであるため、基本的に日本ウマ娘トレーニングセンター学園内は人影もまばらになる。トレセン学園に来るウマ娘も、大半は自身の所属するチームの練習であったり、自主トレーニングが目的となるので、トレーニングコースやジム、体育館、図書室にと集中する。つまり、ヴァイスシュトルムのように学園の屋上へと向かうウマ娘や人々は、かなり少ない方だと言える。人っ子一人いない廊下を
「……ぁふ」
あくびを一つしてから、昨晩フジキセキに散々可愛がられ、ゴールドシチーに
トレセン学園に所属するトレーナーたちは、基本的には月に何度か行われる選抜レースを見学し、それに出走したウマ娘の中から将来有望なウマ娘をスカウトする(場合によっては、ウマ娘からの逆スカウトを受ける場合もあるし、選抜レース前から将来有望だと噂になるウマには、フライング気味にスカウト攻勢をかけることもある)。そうして、担当するウマ娘と無事に専属トレーナー契約を結ぶことができれば、晴れて専属トレーナーとしてウマ娘にトレーニングを行うことができる。勿論、トレーナーの付いていないウマ娘に軽く指導を行ったりもするが、その場合とは熱量が異なるのである。
担当ウマ娘と共にメイクデビューから始まるトゥインクルシリーズでの輝かしい結果を目指し、彼女たちのトレーニングや体調管理などを行いながら、彼女たちに寄り添う。
担当ウマ娘が、厳しくも華やかなトゥインクルシリーズで結果を出し、夢を掴み取る事がトレーナーの評価につながる。そのため、入学する事がすでに素質の証明となっているトレセン学園でありながらも、より良い素質を持つウマ娘をスカウトしようと、選抜レースはもちろん、ウマ娘同士が行う模擬レース、果てはファン感謝祭での余興レースに至るまで、トレーナーたちは『レース』と名が付くものには、血眼になってまでウマ娘の素質を見極める事に必死になる。それは、新人トレーナーであろうがベテラントレーナーであろうが変わりはない。新人トレーナーはこれからのために、ベテラントレーナーは過去よりも輝かしい結果のために。そんな様々な思惑が交差する世界に、新たなトレーナーが足を踏み入れた。
この春からトレーナーとなった
レースが終わる度に、ウマ娘の前にあっという間にできあがるスカウトの列に神谷も加わり、スカウトしようと声をかけてみるものの、実績のない新人トレーナーである神谷のスカウトを受けるウマ娘は残念ながら一人もいなかった。神谷と同じ新人トレーナーであっても、トレーナーとしての名家出身者や、ベテラントレーナーである師匠を持つ者には、ウマ娘側からのスカウトもあったことから、やはり、そういう要因も必要なのだろう。
そうこうしているうちに、開催された六レースのうち、五レースが終了していた。最終レースこそは必ずと、神谷も気合いを入れ直す。しかしながら、神谷のスカウトを受けてくれたウマ娘はゼロ人だった。
一人くらいはスカウトを受けて貰えるのでは、と思っていた神谷は、話すらも聞いて貰えない状況に、自分の認識が甘かった事を思い知らされた。肩をがっくりと落として、のろのろと帰り
「よう。その調子だと、スカウトした子全員にフラれたか?」
「っ!
気安く声を掛けてきた竜胆という先輩トレーナーに、神谷は肩をすくめて返事を返す。そして、スカウトできたウマ娘の
その
「そう落ち込むなって、俺だってここに来たばっかの頃は、全く相手にされなかったことだってざらにあったんだ」
「はぁ……」
「そうだ、どうせなら『
「……はい? 月女神?」
突然トレーナー業やトレセン学園に関係のなさそうな単語を出され、神谷は鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔をしてしまう。竜胆は神谷の様子がおかしかったのか、くつくつと
「ああ。満月の日、
「はぁ……竜胆先輩は信じてるんですか?」
あまりのオカルトっぷりに、
「信じてるも何も、俺もこの目で見たのさ。それから割とラッキーが続いてる。お前も騙されたと思って見てみろ。うまい具合に、今日は満月だしな。そんじゃ」
そう言い残して、スカウトしたウマ娘のデータ表を挟んだクリップボードとバインダーを持って、竜胆はトレーナー寮の方へと歩き去っていく。その背中を見送ってから、神谷は校舎へと足を進めた。本当に屋上に月女神がいるかどうかは兎も角、生徒ならば注意も必要だろうと思ったのだ。
「幸運をもたらす月女神ねぇ……いくら日本が迷信深いと言っても、本当にそんな女神が居るとは思えないけどなぁ……」
肌寒さに
「……やっば。寝過ぎた。またフジキセキに
そうぶつくさと独り言を
ヴァイスシュトルムがそうしてから十分ほど
――夜に学園の屋上を見ると、幸運の月女神を見ることができる――。そんな
神谷は階段を最上階まで上がり、屋上へ出る扉の前に立つと、一つ呼吸を整えてから意を決して扉を開ける。そこには肩ほどまである長く美しいホワイトブロンドの髪を風に遊ばせる、珍しい月毛を持つ美少女ウマ娘の姿があった。
ぱっちりとしたアーモンド型の目には、ガラス玉のような空色に透き通った瞳が輝き、顔の中央部にはすっと鼻筋が通り、薄い小さな唇はしかし瑞々しさを湛えている。頰から顎先にかけては無駄な肉のないすっきりとしたシャープさを持っていた。月光に照らされ浮かび上がる透き通るような白い肌に、カモシカのような足、そして出るとこは出て引っ込むところは引っ込む、そんなモデルのような美しい体型でもって屋上に
「ねぇ、そこで固まられると邪魔なんだけど」
鈴を転がすような
「なんだ、新人のトレーナーさんか……。いくらトレーナーさんでも、こんな時間に学園内をうろつくのはよろしくないんじゃない?」
柔らかい雰囲気で、
「いや、満月の日に屋上へ来ると、月女神に会えるって情報を貰ってね。確かめに来たんだ」
「……は?」
神谷の嘘でも本当でもない言葉に、
「あはっ、あはははははっ! 真面目な顔して何を言うのかと思ったら、そんな眉唾物な噂の真偽を確かめるためだけに夜の学園に侵入したんだ?」
「そんなに笑わなくても……」
腹を抱えて大笑するウマ娘の姿に、神谷は頰を赤く染め、
「くふふっ……、ごめんごめん。まさか、そんなことのために、夜の学園に侵入して屋上にまで乗り込んでくる物好きがいるなんて思わなかったからさ」
そういったウマ娘は、柔らかな
「私はヴァイスシュトルム。見ての通り、
そう右手を差し出して、自己紹介をしてきたウマ娘、ヴァイスシュトルムの手を取り、自己紹介を返した神谷に、彼女はますます笑みを深めた。
「ふぅん、専属トレーナー契約のスカウトが全滅して
そう言ってまだ肩を震わせるヴァイスシュトルムに、神谷トレーナーは拗ねたようにそっぽを向く。そんな彼の様子に、余計に楽しそうにするヴァイスシュトルムは、
ヴァイスシュトルム自身も、自らがかなりリラックスしていることは認識していた。初対面であっても、珍しい月毛であることからすぐにヴァイスシュトルムの容姿を話題にする人が多い中で、目の前の神谷は決してその事に触れようとしない。そのなんてことのない事実が、ヴァイスシュトルムにとってはとても嬉しかった。
この人となら、専属トレーナー契約を結んでも良いかもしれない。それに、都合良く担当ウマ娘もまだ居ないみたいだし。そう漠然と思ったヴァイスシュトルムの口は、自然と専属トレーナー契約を結ばないかと言葉にしていた。
「ねぇ、もし良ければさ。私のトレーナーになってくれない?」
「……え?」
突然、ヴァイスシュトルムから持ちかけられた専属トレーナー契約の提案に神谷は困惑した。目の前の美しいウマ娘に専属トレーナーが居ないという事実にも驚いたが、まさか新人で、何の実績も持たない自分に、逆スカウトがあるとは考えもしなかったのだ。確かに担当ウマ娘が居ない神谷にとって、彼女からの提案はまさに渡りに船と言えた。しかし――。
「すまない、ヴァイスシュトルム。残念だが、まだ君と契約することはできない」
「え……。…………それは、私が『月毛』だから? 『月毛』のウマ娘は
神谷から断られたことにショックを受けたのか、ヴァイスシュトルムは
「違うっ!」
神谷の言葉を、違う意味に捉えているヴァイスシュトルムは、耳を前に伏せ、悲しそうに
「じゃあ、どうしてっ!」
「君の走りを知らないからだっ!」
神谷の言葉に、
「……!? え……?」
「君が『月毛』かどうかなんてどうでも良い! まだ俺は君の走りを見ていない! 君に
神谷の話を聞いて、体から力を抜いたヴァイスシュトルムは、静かに涙を流す。
――ようやく……、ようやく『
静かに頰を濡らすヴァイスシュトルムを見て、ハンカチを取り出した神谷は、優しく彼女の顔を
「来週金曜日の選抜レース予備日」
「え?」
「その第二レースに出走登録されてるから、絶対に見に来て。それまでは専属トレーナー契約の予約ってことにしてあげる」
真剣な顔でそう告げるヴァイスシュトルムに、神谷は
「わかった。必ず見させて貰う。その後に、専属トレーナー契約を正式に結ぼう」
「来週契約したときに、今日本契約すれば良かったって、絶対に言わせてあげるから」
挑発的な笑みを浮かべ、そう言い放つヴァイスシュトルムの姿に、眩しいものを感じながら、神谷もまた楽しそうな笑みを浮かべる。
「ああ、楽しみにしている。ヴァイスシュトルム」
それを聞き届けると、ヴァイスシュトルムはさっさと屋上を後にした。その後ろ姿を見送って、神谷は大きく息を吐いた。そして手帳を取り出し、翌週の金曜日に二重丸を付けると『ウマ娘専属トレーナー契約:ヴァイスシュトルム』と書き込んだのだった。
神谷トレーナーと屋上で交わしたやり取りの後、こそこそと栗東寮の玄関を開けたヴァイスシュトルムを待ち受けていたのは、頭に二本の立派な角を生やした鬼と笑顔を絶やさない鬼――勿論、エアグルーヴとフジキセキのことだ――の二人立てだった。靴箱に靴を入れると同時に食堂に連行されてから早二十分。ヴァイスシュトルムはずっと食堂の床に正座で反省させられていた。
「それでヴァイスシュトルム、模擬レースサボりに次いで寮の門限破りを行った弁明はあるか?」
「……」
「ヴァイス?」
「にゃぁっ!?」
エアグルーヴからの質問に対して、
「フジキセキ、やめ……ひゃんっ」
「全く、心配したんだからね? でもまぁ、何か良いこともあったみたいだけれど」
苦笑しながら痺れているヴァイスシュトルムの足を揉み続けるフジキセキに、ヴァイスシュトルムは言葉を紡ぐことができない。
フジキセキの手によって
たっぷり一時間ほど拷問めいたマッサージを受け、ようやく解放されたヴァイスシュトルムは、その場に突っ伏していた。
「フジキセキのバカぁ……」
「はいはい。これに
苦笑しながら冷蔵庫から牛乳を取り出し、それを鍋に注いだフジキセキは、その鍋を
「ねえエアグルーヴ。お願いがあるんだけど」
「何だ?」
「私と
ヴァイスシュトルムの真剣な声色に、エアグルーヴは驚いたように顔を上げた。
「珍しいな。貴様の方からトレーニングに付き合って欲しいなんて……。本当に何かあったのか?」
エアグルーヴからの問い
「なるほどな……すまないが、私も来週一杯は生徒会の方で忙しい。付き合ってやりたいところではあるんだが……」
「……そっか。ごめん、気にしないで」
耳を前に倒して落ち込みを見せるヴァイスシュトルムに、エアグルーヴも申し訳なさそうな顔をする。そんな二人に声を掛けたのは、ホットミルクを作っていたフジキセキだった。
「私で良ければ相手になろうか?」
「えっ、でもフジキセキは寮のことで忙しいんじゃ……?」
ヴァイスシュトルムとエアグルーヴの前にホットミルクの入ったマグカップを置き、ヴァイスシュトルムの隣に座ったフジキセキに、ヴァイスシュトルムは向き直る。フジキセキはそれを横目で見ながら、手に持ったマグカップの中身を少し飲んでからカップを机に置く。
「ヴァイスが真剣に併走を頼むことなんて
「それに、何だ?」
エアグルーヴがフジキセキに聞き返している間に、マグカップを手に取りホットミルクを口に含んだヴァイスシュトルムは、次の瞬間、盛大に気管にホットミルクを侵入させてしまった。
「ヴァイスのハートを射止めた大物新人トレーナーさんに興味があるんだ!」
「ゴフッゲホッ!! ちょ、フジキセキ!?」
まるで