皐月賞ウマ娘となったヴァイスシュトルムは、次のレースに一体何を選択するのか? 翌日のワイドショーではそんな話題が飛び交っていた。
コメンテーターの一人は「この勢いそのままにダービーへ直行するだろう」と言い、日替わりゲストの一人は、「いやいや、NHKマイルカップだろう」と言う。
そうするとトゥインクルシリーズに一家言あるお笑い芸人が「NHKマイルカップから安田記念! そしてマイルチャンピオンシップの制覇で、クラシック級にして日本最強マイル王になるルートでしょ!」と持論を展開する。
そうして
「あふ……。トレーナーさん、まだ終わらないの?」
ワイドショーで話題となっている渦中の人物は、レース時の凜々しい写真やゴールドシチーとのツーショットで見せた姿とはほど遠い、ソファーの背もたれに顎を乗せて、だらしない姿で神谷の方を向いていた。
尻尾を大きくゆったりと振りながら神谷の返事を待つヴァイスシュトルムを目だけで窺い見た神谷は内心、まただらしない格好をしているななどと呆れながらも目の前にあるパソコンに視線を戻し、キーボードを叩き始めた。
「後一時間くらいはかかるな」
「えー! トレーナーさんが皐月賞を獲ったご褒美に奢ってくれるって言ったのに、いつまで待たせるのさー!!」
お腹空いてもう動けない! などと文句を垂れる彼女は、そのまま制服に
そうしてしばらくの間騒いでいたヴァイスシュトルムだったが、段々と静かになっていく。あまりの静かさに不安を覚えた神谷が、ソファーを回り込むように彼女を覗き見ると、彼女はソファーに仰向けになって規則正しい寝息を立てていた。
――カシャッ――。
静かな部屋に響き渡るシャッター音。しかし、寝顔を撮影された本人は、その音に気付いた様子もなく眠りこけている。神谷は胸ポケットからスマホを取り出し
シュプリュレーゲンのスマホが震えたのは、丁度七限目の授業が終わったタイミングだった。画面に表示された『神谷トレーナーさんが写真を送信しました』という文字を確認して、トーク画面を開いたシュプリュレーゲンは、そこに表示されていた親友の寝顔写真――まるで幼い子供のように、あどけない寝顔で熟睡するヴァイスシュトルムが大写しになっていた――に思わず吹き出してしまっていた。
「んー? 何か面白い記事でもあったん?」
シュプリュレーゲンの隣に座っていたウマ娘が、急に吹き出して背中を丸めている彼女に不思議そうな顔で問いかける。
「何でもない……っ……ふふっ」
「ええー……。それだけ笑ってて何でもないわけないじゃん?」
シュプリュレーゲンの返答に少しむっとしたようなそのウマ娘は、シュプリュレーゲンの隙を突いて彼女のスマホを取り上げる。そして、そこに表示されていた写真を見るやいなや、まるで雷に打たれたかのような衝撃と共に固まってしまった。
「かっ、かわっ……!?」
「ちょっと、シルバー!!」
固まったままのウマ娘から、自分のスマホを
「……レーゲン」
「何?」
ようやく再起動したクイックシルバーは、真剣な表情でシュプリュレーゲンに向き直る。そして、至極真面目な声音で彼女に懇願し始めた。
「言い値で買うから、ヴァイスシュトルム様のその寝顔写真、私にも送って!?」
「おおっとクイックシルバー選手、食い気味にシュプリュレーゲンにおねだりを始めたー!」
「今日の彼女はいつもと違いますよ。顔も声も真剣そのもの、何なら鬼気迫るものがありますから」
クイックシルバーの様子に、クラスメイトの一部が面白がって実況を始める。それに悪乗りした解説まで始まり、何度目かのクイックシルバーによるシュプリュレーゲンへの懇願が成功するかどうかをクラス中が面白がって見ていた。
「はぁ……、ダメに決まってるでしょ。いくら何でも親友の寝顔写真を勝手に他の人に譲り渡すなんてことできないよ」
「普通にお断りされてしまったー! これは厳しいでしょうか?」
「そうですね。こうと決めたシュプリュレーゲン選手は、それを貫く芯の強さがありますからね。クイックシルバー選手は厳しくなりましたね」
シュプリュレーゲンの言葉に膝をつくクイックシルバーに、実況をしていたクラスメイトもどこか同情的だった。しかし、シュプリュレーゲンの言葉は最もであり、クラスの誰もがクイックシルバーの健闘を無言で讃えていた。そんな空気の中でクイックシルバーは、まるで幽鬼のようにゆらりと立ち上がった。その瞳に異様な輝きを
「……私が今までに貯め込んできた、競争ウマ娘のデータ集」
「っ!!」
クイックシルバーの発した単語に、シュプリュレーゲンを含めたクラス全員が息を呑んだ。その提案は、トレーナーを目指しているシュプリュレーゲンにとって魅力的な物だった。
「この貴重な記録集とヴァイスシュトルム様の寝顔写真を交換しよう!?」
血走った目でシュプリュレーゲンに
とうとう壁際に追い詰められたシュプリュレーゲンの瞳に、薄らと涙が溢れる。
「さあ、観念して……痛いっ!?」
「こら、シュプリュレーゲンをいじめんなクイックシルバー。全員席につけー、ホームルーム始めるぞ」
クラス担任が手に持っていた出席簿帳の角で頭を小突かれたクイックシルバーは、大袈裟に
担任の言葉に慌ただしくクラスメイト達も自席へと戻って行く。シュプリュレーゲンもそれに
「……って事があったんです」
「ヴァイスシュトルムの寝顔写真一枚でそんなことになるとは……。中々楽しそうなクラスだな」
ホームルームを終えたシュプリュレーゲンは、神谷のトレーナー室へ来ると同時に先程クラスであった事件を面白そうに話していた。
「それにしても、クイックシルバーか……」
「? クイックシルバーがどうかしました?」
神谷の言葉に首を傾げたシュプリュレーゲンは、不思議そうな表情をして問いかける。
「あー、いや、これに関しては俺の口から話すことじゃないな」
忘れてくれと言ったきり口を
「ああそうだ、シュプリュレーゲン。アイネスフウジンのデビュー時期について、君の考えを聞かせて欲しい」
「うーん……。フーのバイトの事も考えると、メイクデビューは九月以降の方が良いかと。六月デビューとするには仕上がりに不安が残りますし、かと言って七月、八月デビューは暑さを考えると避けたいです。いくらフーの体力があると言っても、暑い中で本気のレースをした後の体力消費は、それとはまた違いますから」
彼女の言葉に、顎に手を当てて考え込む素振りを見せた神谷は、URA発行のレース番組表を資料棚から取り出した。
「九月以降のデビューとなると、年内のめぼしい重賞は年の瀬開催のGⅠ三つくらいしか狙えそうにないな……。それも、上積み次第では出走できない可能性もあるが」
「でも……!」
「いや、わかってる。確かに君の言うように、彼女の体調を考えるなら、暑い夏に消耗させるよりデビューをずらす方が理に
食い下がるシュプリュレーゲンを手で制した神谷は、彼女の考えに同意を示した。
「今の仕上がりから考えても、アイネスフウジンは、六月か七月のデビューに合わせて急いで仕上げるよりも、九月と決めてじっくり腰を据えて更に鍛える方向で行こう。貴重な意見ありがとうな」
「いえ……はい」
シュプリュレーゲンが返事をしたときには、神谷は既にパソコンに向かっており、
シュプリュレーゲンは、規則正しいヴァイスシュトルムの寝息と神谷が叩くキーボードの音が響く部屋で、ヴァイスシュトルムが起きるか神谷が仕事を終えるまでの間、暇な時間を過ごすことになってしまった。
練習時間終了までたっぷりと昼寝をしていたヴァイスシュトルムは、彼女の後ろについて歩く神谷とシュプリュレーゲンに対して
「人が眠ってるのを良いことに、勝手に寝顔を写真に撮るわ、その写真を勝手に流出させるわ……」
「流出も何もシュプリュレーゲンにしか送ってないぞ」
「良くない! あんなだらしない顔をレーゲンに見られるとか……」
「子供の頃に見たヴァイスの寝顔と、そんなに変わってないから大丈夫じゃない? 天使みたいで可愛かったよ?」
「……っ!! 何も大丈夫じゃないから!」
神谷とシュプリュレーゲンは悪びれた様子もなく、それどころかニヤニヤと笑いながらヴァイスシュトルムに接している。その事が気に入らないヴァイスシュトルムは、赤く染めた頰をそのままにますます剝れるのだった。
「悪かった悪かった。好きな料理もう一品追加しても構わないから、な?」
「……むぅ、そこまで言うなら」
神谷の言葉に腕を組んで考え込む素振りを見せたヴァイスシュトルムは、絞っていた耳を嬉しそうに細かく動かした。それを見て、神谷とシュプリュレーゲンは顔を見合わせて笑い合った。
「そうと決まればさっさと行くか。途中でアイネスフウジンを拾わなきゃいけないし、君らには門限もあるしな」
そう言って神谷が歩き出そうとしたときだった。正門の前にノーブルライトが立っている姿をヴァイスシュトルムが見つけたのは。
「あ……、ヴァイスシュトルム先輩!」
ヴァイスシュトルムとほぼ同じタイミングで彼女らに気が付いたノーブルライトは、大人しい彼女にしては珍しく、大きく明瞭とした声でヴァイスシュトルムを呼び止めた。
「どうしたのノーブル?」
「あ、あの……そのっ!」
「うん」
ヴァイスシュトルムはノーブルライトに正対し、彼女が次の言葉を発するのをじっと待つ。ヴァイスシュトルムと向かい合う形になったノーブルライトは、澄んだ空色の瞳で自分を真摯に、あるいは射貫くように見つめてくる彼女にほんの少し気圧されて言葉に詰まる。
「こっ、今度のNHKマイルカップで、私と勝負して下さいっ!」
周囲に響いたノーブルライトの声に、ヴァイスシュトルムは驚いたように目を瞬かせる。それから口角を上げると、その端正な顔にまるで獲物を見付けた肉食獣のような獰猛な笑みを浮かべた。
「いいよノーブル」
「ひぃっ! ……あ、ありがとうございますっ! しっ、失礼しますっ!」
ヴァイスシュトルムからの返事を受け取ったノーブルライトは、顔を青ざめさせながら頭を勢い良く下げてお礼を言うと、そのままヴァイスシュトルムの顔を見ないようにして怯えたように寮の方へと駆け去った。
ノーブルライトが突然怯え、走り去ったことにヴァイスシュトルムはポカンとした顔で神谷とシュプリュレーゲンへ向き直る。そこには、訳知り顔でうんうんと頷く神谷と、走り去ったノーブルライトを気の毒そうに見送るシュプリュレーゲンの姿があった。
「……あ、あのさ」
「……やっぱりヴァイスシュトルムは雌ライオンだよなぁ」
「いやいや、神谷トレーナー。ヴァイスのあの迫力は、数日間食事を摂れていない飢えに飢えたアムールトラの方がピッタリだと思う」
普段であれば、二人からのあんまりな物言いに異議を唱えるヴァイスシュトルムであったが、流石に今回ばかりは何も言えなかった。ノーブルライトが酷く怯えて走り去った事実が、ヴァイスシュトルムの心に重くのしかかっていた。
「うぅ……」
皐月賞開催から三週後の東京レース場では、ヴァイスシュトルムとノーブルライトのクラシック級マイル王決定戦の舞台となる、NHKマイルカップが開催される。新たなクラシック級マイル王の誕生を見ようと、五万人を超える多くの人が応援に訪れていた。
『先週、京都レース場にて開催された天皇賞(春)では、レインシンフォニアが勝利し、有力ステイヤーとして名乗りを上げました』
『レインシンフォニアの走りは素晴らしいものでしたね。一番人気だった大阪杯の勝者、ファイントパーズは七着と、超長距離への対応は厳しそうでしたね』
控え室に備え付けられたテレビは、先週のレースを振り返る番組を流しながら、本日開催されているレースを放映していた。しかし、その音もまるで聞こえていないかのように、ヴァイスシュトルムはNHKマイルカップの流れを手製の東京レース場を模したボードと駒で
「ノーブルが内から仕掛けた時は……」
何度も見返したノーブルライトのビデオ映像を思い返しながら、展開を組み立てていくのは非常に頭を使う。しかし、ヴァイスシュトルムは深く集中し、とても楽しそうに検討を重ねていた。
「……ヴァイスシュトルムには、意外と適していたのかもな」
「ああ見えて、ヴァイスは頭を使うのは嫌いじゃないですからね。小学校の頃は、レースも勉強もできて当たり前と言って、勉強も一切手を抜きませんでしたし」
小声でやり取りする神谷とシュプリュレーゲンの眼前では、ヴァイスシュトルムがレーシングプログラム(レープロとも。URA子会社が発行する出走表の一種。当日開催される全レースに出走するウマ娘の情報や、過去の成績一覧、競走ウマ娘評論家・記者・著名人によるコラムなどが掲載されている。中央の各レース場でウマ娘競走開催時に配布される。無料)片手に再び盤上の駒を動かし始めていた。スタートからゴールまでを何通りも繰り返していくヴァイスシュトルムの頭の中には、どのように自分が得意な展開に持ち込めるか、どうすればNHKマイルカップで勝利できるか、それしかなかった。
NHKマイルカップの発走時刻が迫り、ようやく始まったパドックにはやはり、この間シフォンと呼ばれていたウマ娘の姿もあった。
「ヴァイスシュトルムさん、まだかなあ……」
目を
「シフォンちゃんはまた……もう!」
そんな神谷達の後ろから聞こえてきた声に、神谷は思わず苦笑を
「うわわっ、ごめん! サフィールちゃん!」
「知らないっ」
サフィールと呼ばれたウマ娘に叱られ、慌てて謝るシフォンに、拗ねてそっぽを向くサフィール。そのようなほのぼのとした一コマに、神谷達だけではなく、周りの観客達も微笑ましく見守っていた。
出走ウマ娘達がパドックでの姿見せを終えると、舞台となるコースへ向かうために地下バ道をゆっくりと歩いていく。ヴァイスシュトルムもそれに続いているが、不意に彼女の前を歩くノーブルライトが足を止めた。足を止めたノーブルライトは、ヴァイスシュトルムが追い付くと隣に並んで再び歩き始める。
「……ヴァイスシュトルム先輩。今日は負けませんから」
普段、ヴァイスシュトルムや他の先輩達と話すときはおどおどとした様子をよく見せるノーブルライトだが、今は違った。過度な不安や恐れから来る震え声は欠片もなく、そこにはただ、覚悟を決めたウマ娘が並んでいた。
「普段から堂々としていれば良いのに……。私も負けないよノーブルライト。あなたが得意なマイルでも勝利して、クラシック級最速のウマ娘は私だと言わせてもらう」
気迫のこもったヴァイスシュトルムの宣言に、今までのノーブルライトならば気圧されていただろう。しかし、今日のノーブルライトは怯む事なく、真っ向からヴァイスシュトルムの言葉を受け止めた。
「絶対負けません! クラシック級マイル王には私がなります! クラシック級最速の称号は私が貰う!」
視線を交わして睨み合う二人の身体には、それぞれ真紅と青藍の炎が立ち上っているかのような錯覚を起こすほどに熱が高まっていた。
お待たせしました。いや、お待たせしすぎたかもしれません。21話です。
いやほんとにお待たせしました。前回の投稿からかなり間が空いてしまい、楽しみにして頂いている方には申し訳ない気持ちでいっぱいです。
色々とあったのですが、それは同時投稿されているはずの22話の後書きにて。