タクシーが寮前に着くや否や、ヴァイスシュトルムはさっとタクシーを降りる。引き留める神谷の声も聞かず、栗東寮へと入ったヴァイスシュトルムは、慣れない松葉杖を使っての行動に悪態を
「ああもう、動きにくいなぁ……っ」
靴を下足棚に仕舞うという何気ない動作だが、松葉杖を持つと途端に難しくなる。かといって下手に松葉杖を下に置くこともできず、ヴァイスシュトルムは肩を落とした。
「初日からこんな感じだと、これからどうなるんだろ」
ため息を吐いてから、再び靴を取ろうとした瞬間、それはヴァイスシュトルムの後ろから伸ばされた手によって持ち上げられていた。
「全く、トレーナーさんの呼びかけを無視するなんて、いけないポニーちゃんだ」
「……フジ」
ヴァイスシュトルムの後ろから、揶揄うように明るく軽口を叩いたフジキセキの声色には、多分に心配が含まれていた。手に持っていたヴァイスシュトルムの靴を下足棚に仕舞うと、フジキセキはくるりと向き直る。
眉をハの字にして困ったような笑みを浮かべるフジキセキに、ヴァイスシュトルムはバツが悪そうに顔を背ける。
「……別に、大したことないし。一人でもできたし……」
ヴァイスシュトルムがぼそぼそと口の中で呟いた言葉をきちんと聞き取ったフジキセキは、何も言わずにヴァイスシュトルムを促すと、彼女の部屋へ付き添い歩く。有無を言わせないフジキセキの雰囲気に、ヴァイスシュトルムは何も言わずに大人しく自室へと向かうしかなかった。
部屋に入るとすぐ、ヴァイスシュトルムはフジキセキの手によってテキパキと着替えさせられた。あっという間に楽な部屋着姿にされたヴァイスシュトルムは、座ったベッドの上で頰を膨らませてむくれていた。
「一人でもできたのに……」
「大変な時は、周囲に甘えても良いんだよヴァイス。特に、普段から頑張りすぎている子はね」
拗ねて不機嫌さが言葉の端々に
「……え、あれ」
フジキセキの指に付いた涙に、慌てて顔を手の甲や平で乱暴に拭うヴァイスシュトルムだが、何度拭っても一度溢れ出した涙は止め
次第に顔を拭う動きは
「せっかくっ、調子戻ってきたのに……っ、なんで、なんで……! なんでこんなタイミングで……っ! っ、うああぁぁ」
「……」
ヴァイスシュトルムの
「……力になれなくてごめんね」
ヴァイスシュトルムの頭を優しく撫でながら、フジキセキのこぼした言葉は空に消えていく。ヴァイスシュトルムのすすり泣く声だけが響く部屋には、重苦しさだけが降り積もっていった。
それから何分か
フジキセキが部屋を出ると、エアグルーヴとサザンエースが目を伏せがちにして目の前に立っていた。フジキセキと入れ替わりに部屋へと入ろうとするサザンエースを制止して、エアグルーヴが口を開いた。
「……ヴァイスの様子はどうだ?」
「今は泣き疲れて眠っているよ。悪いけどサザン、部屋に入るのはもう少し後にしてあげて欲しいんだ」
「う……わかった」
大きく心配だと顔に書いてあるサザンエースは、フジキセキの言葉に対して落ち込んだように耳と尻尾を
普段、消灯時間ギリギリまで騒がしく賑やかにしている栗東寮の談話室は、まるで水を打ったかのように静まり返っていた。誰かが点けて、そのままになっていたテレビの音だけが虚しく響く談話室で、そこにいた誰もが落ち込んだように俯いていた。ヴァイスシュトルムの大ケガが、決して少なくない影響を与えていたのは、明らかだった。
「フジ先輩、ヴァイス先輩は……?」
「すぐに元気になりますよね!?」
談話室に入ってきたフジキセキへと詰めかけ取り囲み、口々にヴァイスシュトルムの様子を心配するウマ娘たち。彼女たちを落ち着かせるのに、フジキセキとエアグルーヴは二人がかりで苦心することになった。
「ごめんね、私もヴァイスがどれほど酷いケガで、復帰にどれくらいかかるのかはわからないんだ」
フジキセキの素直な言葉に、詰め寄っていた集団は皆一様に耳を萎れさせて、俯いてしまう。
「……このまま引退なんて」
「っ! そんなわけっ! ……そんなわけ、ない……」
誰かが発した『引退』と言う単語に、何人かが勢い良くその声のした方向へと振り返る。勢い込んで反論しようとした言葉はしかし、何も言えずに弱々しく
「確かに、ヴァイスのケガは大ケガではあるが、まだ走れないと決まったわけじゃない。本人が決めてもいないのに、うだうだ言ってもしょうがないだろう」
エアグルーヴはそう鋭く言うと、話は終わりだと言わんばかりに元からいたウマ娘たちを解散させる。エアグルーヴの有無を言わせぬ迫力に、彼女たちは落ち込んだような仕草を見せつつも大人しく自室へと引き上げていった。
「……この程度でヴァイスが諦めるものか」
エアグルーヴが押し殺したように発した言葉は、フジキセキとサザンエースも内心、そうあって欲しいと強く願っていた言葉でもあった。
『ファイントパーズ、天皇賞(秋)制す! 悲願の秋シニア三冠制覇へ好スタート!』
『アクアスフィア、ジャパンカップ回避! 有馬記念へ』
購買部できちんと並べられたスポーツ新聞の一面に、神谷は思わず苦い顔をする。ケガさえなければ、ヴァイスシュトルムのローテーションは、昨日開催された天皇賞(秋)からジャパンカップと有馬記念を走る、秋シニア三冠コースが組み込まれていた。中長距離の王道とも言えるこのローテーションは、ヴァイスシュトルムの今後を占う大事な試金石となるはずだった。
「……たらればを言っても仕方ない、か」
何の前触れもなく、突然、ヴァイスシュトルムを襲った大きなケガは、神谷にとっても決して小さくない衝撃をもたらした。
はっきりと目に見える兆候がなくとも、大きなケガを負う可能性があるという事実は、神谷の今までの経験や知識には存在しないものだった。
「絶好調からの大ケガか……防げるものなのか、これは」
そう独り
ため息を一つ吐いてから、神谷はパソコンを設置しているL字型の事務机に着席するとパソコンを立ち上げる。パソコンが起動するのを待つ間、応接スペースにふと目をやった神谷は、そこにあるローテーブルの上に置かれていた茶色の紙袋に気が付いた。
座ったばかりの自席から勢い良く立ち上がり、早足でローテーブルに近づいた神谷は、その紙袋が駅前の大型書店のものであることと、そのすぐ傍に、丁寧な字で走り書きされたメモが添えられていることに気が付いた。
『取り急ぎ、最新の骨折・脱臼に関する医学書と、競走ウマ娘の運動機能障害リハビリテーションに関する本はご用意させていただきました。神谷トレーナーさんより依頼されたリストの内、残りの書籍、資料につきましては、ご用意でき次第お持ちいたします。駿川』
「……たづなさん、わざわざ走ってくれたのか」
神谷がヴァイスシュトルムのケガの件と、彼女のリハビリに必要だと思う書籍をリスト化して、たづなに手渡したのは僅か一時間前のことだった。
普段ならば昼休憩を取っていたはずの時間にも関わらず、神谷が一刻も早く欲しいと思っていた辞書のように分厚い本二冊を、たづなはすぐに用意してくれていた。かなり急いでくれたらしく、たづなが掴んでいたと見て取れる紙袋の部分には、汗で湿った跡と深いシワが刻まれていた。
「……今度お礼しないとなぁ」
しみじみと呟いた神谷の内には、たづなへの感謝が溢れていた。
ずしりと重い紙袋を手に取った神谷は、事務机に戻るとすぐに紙袋から本を取り出して読み始める。専門書なだけあって、すぐに内容が理解できるような生易しい代物ではなかったが、神谷は一心不乱に読み続けた。ヴァイスシュトルムがレースに少しでも早く復帰する手助けになるなら、難解な専門書を読むことなど神谷にとっては大した問題にはならなかった。
結局、神谷は昼休憩も夕食も、何もかもを忘れるほどに専門書を読むことに没頭してしまっていた。夜になってトレーナー室へ顔を覗かせたシュプリュレーゲンが、強く体を揺すってくるまで神谷は本を読むことを止められなかった。
「……」
「トレーナーさん?」
穏やかな微笑みを浮かべるシュプリュレーゲンだが、浮かべた笑顔とは対照的に耳は絞られていた。細くしなやかなシュプリュレーゲンの指は、組んだ腕を規則正しく叩く。まるで不機嫌さを現すメトロノームかのような正確さでなる微かな音に、神谷は内心冷や汗が止まらなかった。
日がとっぷり暮れ、すっかり暗くなった窓の外を無言で見続ける神谷に、シュプリュレーゲンは大きくため息を吐いた。
「……ヴァイスの今後とフーのトレーニングについて話したいことがあるから、夕方にカフェテリアでご飯食べながら話をしようと提案してきたのは誰だったかなー?」
「うっ……!」
「カフェテリアで一人寂しく、来ない人を待ち続けるのは辛かったなー?」
「ぐぅっ……!」
「どれだけLANEでメッセージを送っても、電話を掛けても無視されたのも悲しかったなー? 周りの目も、まるでデートをすっぽかされた可哀想な『美少女ウマ娘』を見る目に変わっていったしなー」
「いやいやいや、待ってくれ。流石に電話が鳴っていれば気付くに……あっ」
それまでシュプリュレーゲンの言葉に、胸を押さえるように大仰なリアクションを取っていた神谷は、彼女の言葉に弾かれたように振り向いた。慌ててスマホの通知がなかったことを確認しようとした神谷は、ロック画面に表示された不在着信とメッセージの件数に愕然とした。
メッセージと着信を合わせた数とはいえ、軽く十件を超える通知に神谷はじわりじわりとシュプリュレーゲンへ向き直る。そして、
「……この度は大変なご迷惑をお掛けし、心より深く謝罪申し上げま……」
「待って待って待って!! そこまでしなくて良いから!! トレーナーさんにそこまでさせたかった訳じゃないから止めてお願い!!」
おもむろに崩れ落ちたかと思えば、そのまま日本古来より相手に恭順の意を示す(最近はこの神谷のように、相手への謝罪に使われる方が多い気もするが)最上のスタイル――土下座へと移行した神谷に、今度はシュプリュレーゲンが慌てる番だった。
床に頭を擦りつけようとまでする神谷を、何とか床から引き剥がしてシュプリュレーゲンは荒く息を吐いた。
「……はぁ。それで、これからどうするの」
「どうしたものかな。絶好調で足に何も問題がなかったにもかかわらず、大ケガをするなんてコト、俺にとっても初めてだからな」
シュプリュレーゲンの問いかけに答えた神谷は、自分の椅子に座り直すと、お手上げだといわんばかりに両手を上に上げて天井を見つめた。そうして間をたっぷりと置いてから正面を向き直すと、机上のレターケースから一枚の紙を取り出した。
「それは?」
不思議そうに首を傾げたシュプリュレーゲンにその紙を渡すと、神谷は先ほどまで読み
「本当ならドイツに療養帰郷……あー、里帰りの方がわかりやすいか。まあ、そうさせてやりたいところなんだがな、URAの許可が下りなかった。だから、その代わりだ」
そう言われてシュプリュレーゲンが紙に目を落とすと、寮の外出届と共に、聞いたことのあるURAが運営する療養施設の予約票が二枚、クリップで留めてあった。
「シュプリュレーゲン、ヴァイスシュトルムの療養旅行の同行よろしくな」
「……えっ、私!?」
というわけで28話はいかがだったでしょうか。
重く暗い話になりすぎていないか心配なところもありますが、楽しんで頂けたらなと思います。
全体としては、大体この辺りが折返しになるかなぁといったたところです。……いや、全56話とかにはならないと思いますが。恐らく、きっと、多分、maybe。
完結までお付き合い頂ければ幸いです。
それではまた次回、お会いしましょう。