『第4コーナーのカーブから直線に入ってブロッサムツイート、ラストスパートに入りました! アイネスフウジンを振り切れるか!』
阪神レース場にて開催されている朝日杯フューチュリティステークスも、残すところ僅か400mを切っていた。
(作者注:朝日杯フューチュリティステークスは、2013年まで中山競馬場開催でしたが、作中では現在の開催場準拠となる阪神競馬場開催とさせていただきます。ご理解のほどよろしくお願いします)
スタート後すぐ先頭をキープしていた12番ブロッサムツイートは、第三コーナー手前からずっと、体半分後ろに付けるアイネスフウジンを振り切れないまま最終直線へ入っていた。
(っ……! 走りづらい!)
ぴたりと追跡してくるアイネスフウジンに、ブロッサムツイートも負けじと第四コーナー終わりでリードを付けて見せる。後は、誰よりも先に決勝線を通過するだけ、のはずだった。
(……後ろの娘は……よし、まだ距離はある。これなら!)
アイネスフウジンはちらりと後ろを確認すると、再び前を向く。残る相手はもう、目の前を走るブロッサムツイートただ一人だけだ。
『アイネスフウジン差し切った! アイネスフウジン先頭! ブロッサムツイート二番手を
アイネスフウジンは、残り150m地点でブロッサムツイートを差し切る。そしてブロッサムツイートを抜き去った勢いが
『アイネスフウジンゴールイン! アイネスフウジン、勝ちました! 粘りを見せたブロッサムツイートは二着!』
アイネスフウジンはブロッサムツイートに二バ身半もの差をつけて完勝してみせた。そしてその勝ちタイムは――
『勝ち時計1分34秒4! あのマルゼンスキーと同じ1分34秒4で駆け抜けましたアイネスフウジン! まさに快挙です!』
興奮した実況を聞きながら、神谷は体力を使い果たしたアイネスフウジンへと掛け寄った。
「アイネスフウジン!
「……あはっ、トレーナー……やったのー……」
神谷の方へ顔を向けたアイネスフウジンは、満足そうな笑みを浮かべると、そのまま芝の上にへたり込んだ。
「アイネス!?」
突然の出来事に、神谷は思わずアイネスフウジンを愛称で呼んでしまう。愛称で呼ばれたアイネスフウジンは、笑みをますます深くして喜んで見せた。
「あはっ……そう呼んでくれた方が、壁がなくなった気がして嬉しいの……。ヴァイスも、今後、他に担当する娘もそう呼んであげて欲しいな……その方がみんな喜ぶと思うよ?」
「む……う」
アイネスフウジンの言葉に俯いた神谷は、二の句が継げずに黙り込む。そんな神谷に「しょうがないなぁ」といった顔をして、アイネスフウジンは再び笑う。
「と、とにかく、一度控え室に戻ろう。……歩けそうか?」
「あ、あれ……?」
「おっ、と……大丈夫か?」
ふらつくアイネスフウジンの身体をしっかりと受け止めた神谷は、心配そうに彼女を見る。アイネスフウジンはバツが悪そうに
「アハハ……ちょっと休まないとダメみたい。体にあんまり力が入らないかも……」
「……そうみたいだな」
アイネスフウジンの言葉通り、彼女の体には全く力がなかった。いくら初のGⅠ挑戦で全力を出したとは言え、
昨年同じレースを走ったヴァイスシュトルムはレース後、ここまで消耗しているようには見えなかった。
「……いや、考えるのは後にしよう」
そう口の中で呟いた神谷は、アイネスフウジンの膝裏に腕を入れるとそのまま優しく抱き上げた。
「わわっ……! トレーナーさん、降ろして!」
突然の浮遊感に、アイネスフウジンは目を白黒させた。神谷の顔は近く、背中と膝裏に回された意外としっかりした腕の感触に、お姫様抱っこをされていると理解したアイネスフウジンは、気恥ずかしさから神谷に降ろすように頼むが、返ってきた答えは「ダメだ」だった。
「今のアイネスフウジンには無理をさせられない」
そう言って早歩きで控え室へと向かう神谷に、アイネスフウジンは何も言えないまま、いまだに力の入らない体を預ける他なかった。
『朝日杯フューチュリティステークス アイネスフウジン堂々勝利!』
『アイネスフウジン、GⅠ初挑戦で完勝! 勝ちタイムはあのマルゼンスキーと同じ。来年度クラシック路線の本命に躍り出た!』
『神谷輝征トレーナー、朝日杯勝利! GⅠ勝利数は早くも四つに』
『若手トレーナーの星、神谷輝征トレーナー。昨年惜しくも逃した朝日杯を見事奪取! 早くもGⅠ勝利数を四に』
「すご……、どの新聞もフーとトレーナーさんのことしか書いてないや」
リハビリテーションセンターを含めて、URAが管理、運営する施設には、新聞(一般誌・スポーツ紙)とトゥインクル・シリーズを専門に扱う雑誌が毎日届けられている。それらは食堂や娯楽室に
その新聞ラックを前にして、各紙の一面を飾る見知った顔に、シュプリュレーゲンは圧倒されていた。
特に勝ちタイムがマルゼンスキーと同時計なのが白熱させているらしく、それに関するコメントが多くを占めていた。
「へぇー……ん? 『アイネスフウジンは筋肉の付き方が甘く、トレーナーの手腕に疑問が残る』……?」
一社の新聞を手に取り、立ったまま読んでいたシュプリュレーゲンは、気になるコメントに目を留める。シュプリュレーゲンは近くのソファに腰を下ろすと、じっくりとそのコメントが書いてあった記事を読み始めた。
――マルゼンスキーと同時計を記録した結果は、確かに素晴らしい。
しかし、レース後に自力で歩くことも困難になっていた姿を見ると、とても素質が高いと手放しで
他の出走ウマ娘に比べると、アイネスフウジンの体つきは一回り程度
今の不完全で、全く足りていない状態で出走させることを決めた神谷トレーナーは、せっかくの才能を無駄にする可能性があったということを肝に
ただでさえ、神谷トレーナーはヴァイスシュトルムのケガに気が付くのが遅れ、未来あるウマ娘をダメにしてしまったという前科があるわけだから、なおさらである。
もちろんこれは、他の陣営、特にGⅠという特別な舞台に
素晴らしい結果を勝ち取ったアイネスフウジンと神谷であるが、確かに万全の状態だったとは言い
それでは、他のウマ娘たちの仕上がりは万全だったか、と言えばそれも違う。
アイネスフウジンよりも状態が上だったと記事内で評された、他の出走ウマ娘たち。だが彼女たちにも足らないところや調整不足な部分があることは、トレーナーとして未熟なシュプリュレーゲンの目にも明かだった。言ってしまえば、皆どこかしら足りてない部分のある未熟なものだと見受けられた。
「でも、レース経験も少なく未熟な今の時期は、それでいいと思うけど……」
そもそも、ある程度経験を積んだウマ娘でさえ、
この記事を書いた自称有識者は、ジュニア級のウマ娘、それもまだ四戦目の娘に対して、一体何を求めているのだろう。
記事内で名前を
「……あ、トレーナーさんが気に食わないのか」
アイネスフウジンの仕上がり
きっとこのライターは、既にGⅠを三勝しているヴァイスシュトルムのレース後であったとしても、何かしらの穴を見つけてグチグチとした記事を書き上げたに違いない。
そう考えると妙に納得のいったシュプリュレーゲンは、読み終えた新聞をたたんでソファから立ち上がる。
「だからって、ヴァイスが二度と走れないと決めつけて良いわけじゃないけど」
耳を絞っていたシュプリュレーゲンは、手にしていた新聞をラックに仕舞い、そのまま温泉の方へと足を向ける。
ギプスと松葉杖から解放されてからずっと、やる気が
「……ヴァイスがはしゃいで、温泉で滑ったりしたらトレーナーさんが悲しむからね」
そう呟いたシュプリュレーゲンは、想像上のヴァイスシュトルムに笑うと、歩調を早めた。その足取りはとても軽く、シュプリュレーゲン自身の喜びをも表すように、彼女自慢の
シュプリュレーゲンが神谷の下でトレーナー見習いとして学び始めてから、早くも一年を迎えようとしている。この短い期間で彼女は、技術と知識を確実に身につけていた。
「ヴァイス、今日はここまでにしよう」
「もう?」
シュプリュレーゲンの声に、ヴァイスシュトルムは物足りないと言った風な顔をした。
「これ以上はダメ。まだギプスが取れて一ヶ月も
「……はーい」
柔らかく
流石にまだ、レースに出走して通用するようなタイムではない。しかし、一昨日よりは昨日、昨日よりは今日と、確実にタイムは良くなりつつあった。
「……今の調子なら、ダービー卿チャレンジトロフィーか大阪杯目指せるかも」
神谷の判断次第にはなるが、復帰レースとしては相応しいのではないだろうか、と考えながら手元のトレーニング計画表に今日一日分の総評を
「何か言ったー?」
入念に足回りのストレッチを行っていたヴァイスシュトルムは、顔だけをシュプリュレーゲンの方へと向けて問いかける。
シュプリュレーゲンは彼女に何でもないと手を振り、再び計画表に目を落とす。記入した内容を確認し、問題ないと判断したシュプリュレーゲンがクリップボードのカバーを閉じるのと、ヴァイスシュトルムがストレッチを終えて戻ってくるのは、ほぼ同時だった。
「それで、さっきは何て言ってたの」
「今のところ、順調にリハビリできてるから嬉しいなって」
「ふうん……?」
シュプリュレーゲンの発言に、
この親友が口を
そのことを幼い頃から良く知っているヴァイスシュトルムは、これ以上いくら彼女に聞いても無駄だと理解していた。
(……ま、必要ならその内教えてくれるだろうし、今は良いや)
ヴァイスシュトルムがあっさりと引いたことに驚くでもなく、シュプリュレーゲンは無意識に口角を上げる。ヴァイスシュトルムは昔から、こちらから一線を引いた部分に踏み込んでこようとはしなかった。
ヴァイスシュトルムの今も変わらない態度に、シュプリュレーゲンは嬉しそうに、部屋へと戻る彼女の後を追って歩き始めたのだった。
すっかり辺りが暗くなり、ウマ娘達の声がほとんど聞こえなくなったトレセン学園では、トレーナー室の明かりも一つ、また一つと消えていく。そして、夜間練習のためにコースを煌々と照らしていた投光器の電源も落とされる時間になっていた。それにもかかわらず、とあるトレーナー室の窓は明々と点っていた。
昼間の喧騒も、賑やかさもなりを潜め、
「あー……どれだけ集中していたんだ」
自分に
あと数分もすれば警備員が扉をノックして、お決まりとなった
「はい」
返事をした物の、普段よりも控えめで丁寧なノックに神谷は
「……」
現れた声の主に、神谷は何も言えずに固まることしかできない。ニコニコとした人好きのする笑顔に、緑色のスーツと
「神谷トレーナーさん。私の言いたいこと、わかりますよね?」
「いや、その……えーっと……」
たづなは、その満面の笑みを崩さずに、優しく穏やかな声音で神谷へ話しかける。それが神谷にとっては恐怖でしかなかった。たづなが浮かべる笑顔は、まるで般若の面を付けているように神谷には見える。笑顔に押し込められた怒りが透けて見えるようで、神谷は何も言えずにたじろぐしかない。時計の秒針が規則正しく刻む音が、やけに大きく聞こえる中、たづながもう一度、笑顔を崩すことなく口を開いた。
「神谷トレーナーさん?」
笑顔で首を傾げるたづなが、何も喋ろうとしない神谷に対して一步いっぽ近付いてくる。これが普段ならば、たづなの仕草にどぎまぎしていたことだろう。しかし、今の神谷にとっては別の意味で落ち着かないものだった。
「その、ですね……」
たづなの顔を見ることができず、床へと目を落とした神谷の耳に、たづなが小さく息を
「最近、ちゃんと寮にお帰りになっていませんよね?」
何を言うべきかほんの一瞬迷ったたづなは、率直に切り込むことにした。この数日、どこよりも遅くまで明かりが点いている部屋の主は、誰よりも早く出勤して業務をこなしている。と、ほんの二週間ほど前までたづなもそう信じていた。
しかし、そうではないと気が付いたのは、ほんの偶然の出来事だった。たまさか日も昇らぬ早朝に、学園へと出勤してきたたづなが、何気なくトレーナー室の方へ目を向けた際に、偶然明かりが
ただそれだけのことが、何となく気にかかったたづなが、それからほとんど毎日のように確認し、確認した日全てで神谷が出勤して来ていないのに、彼のトレーナー室の明かりが点いたという、ただそれだけの話である。
忙しい時期に三、四日トレーナーが帰宅しない程度ならば、たづなも良くあることだと流したかもしれないが、二週間以上もそれが続けば心配にもなる。更に言うならば、神谷は泊まり勤務の申請を全く出していなかった。それはつまり、申請しても却下されると理解していたことに他ならない。
今年一年で重賞四勝、しかもその全てがGⅠという優秀な成績を上げているトレーナーが、そのような無茶をしているという事実は、理事長秘書としても、駿川たづな個人としても、とても看過できるような状況ではなかった。
「神谷トレーナーさん。担当するウマ娘たちを大切にするのは良いことですが、ご自身のことも同じくらい大切にして下さいね?」
たづなの言葉に、
突然たづなに腕を取られた神谷は、目を白黒させて抵抗しようとしたものの、とても神谷の力では
「た、たづなさん?」
「聞き分けの悪い神谷トレーナーさんには、上司から晩ご飯を
楽しげにそう言ったたづなは、力強くぐいぐいと神谷を引っ張り上げると、そのまま神谷の腕に自身の腕を絡ませてがっしりと捕まえる。
神谷は、あまりにも距離が近いたづなにどぎまぎしながら、たづなのそれはパワハラとは言わないだとか、たづなさんに奢らせるわけにはだとか、様々なことが
「……たづなさんって、実はウマ娘だったりします?」
「ふふっ、ナイショです♪」
満面の笑みで、
えー、失踪してませんでした。
大変長らくお待たせしてしまい申し訳ありませんでした。
今年一年体調を崩してまともに執筆できてませんでした(言い訳)。
来年はこんなに長く投稿間隔が空かないようにしたいなと思っていますので、気長にお待ちいただければ幸いです。
それではまた、次回お楽しみに。