そうして僕らは大人になっていく。

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夏の始まり、僕らの終わり

 

 

 

 目を覚ますと夏であった。

 昨日まではその存在の片鱗すらも見せていなかった蝉が、土から生まれ出て自らの命を犠牲にその声を辺りに震わせている。

 寝ている間に汗をかいていたらしく、寝巻と布団はしっとりと湿っていた。夏の朝の涼し気な熱気が開け放たれた窓から忍び寄ってきており、それを避けるために静かに身を起こした。

 窓の傍に立つと、はっきりと触れられるほどに確かな夏の気配が頬を撫でる。窓の外の景色はいつもと変わらず。実態はあるくせに中身が何もない日々の景色。まるで、鏡を見ているようだ。

 ここ、S県O市のさらに奥深くの辺境の地にあるM村は、山々に囲まれた、所謂盆地に存在している小さな村だ。数百件の古びた日本家屋に疎らな村民。特徴なんて何もない、空虚にもよく似た村。それが僕の生まれ育った場所だった。

 外の景色を眺めながら、相も変わらず詰まらぬ一日になりそうだと呟くと、同調するかのように何処かで小鳥が軽やかに囀った。

 階段を降り居間に入る。響く足音は一つのみ。音は行き場を失くし中空へ浮かび上がって、やがて消えていった。

 食卓の上に置いてあった携帯食を掴み朝食代わりに口へ放り込む。水気のない、乾燥した携帯食だ。しかし、その水気の無い携帯食の味だけがこの世界に彩りを与えている。

 ふと、腕を動かした際に、何かが臂にぶつかり、床に落ちた。

 床に広がった数枚の紙きれは、和やかだった一人きりの食卓をぶち壊すには十分すぎるもの。

 淡々と美麗な文字で書き連ねられたその文章は、この世に対するうらみつらみ。最期の言い訳。憐憫への勧誘文句。

 又の名を遺書という。

 

 

 ▼

 

 

 ××××年九月十日、一人の科学者が「あの世」の存在についてとある科学雑誌にて発表し、世界を大いに騒がせた。

 

 彼曰く、あの世というのは死後の世界、天国地獄極楽浄土等ではなく、今現在僕たちが生きている世界と隣り合わせの、鏡映しのような世界だという。

 まるでカードの裏表のように、今まさに立っているこの地面の裏側に、この世界と全く同じ違う世界が広がっている、と彼は言ったのだ。

 

 僕はあまり詳しくはなく彼のことなど全く知らなかったが、どうやら彼はその界隈では著名人だったらしく、良くも悪くもその発表は大きな話題となった。馬鹿にする者、知りたがる者、盲信する者、そして心のどこかでは微かに信じようとする者。

 ただ、世間を騒がせたのはこの部分ではなく、彼が続けて放った言葉によってだった。

 

「この世界で死んだ人間は、魂を新しくされ、記憶をなくしてあの世へと生まれ変わる」。彼はこう言った。

 つまり死んだ際、僕らの魂が朽ち行く身体から抜け出でて、全ての記憶をなくして反対側の世界に赤子として再び生を受ける、ということなのだ。

 後に「スヴィドリガイロフの証明」と呼ばれるこの発表は、もちろん人々から一蹴された。そのような馬鹿げたオカルティズムを信じる人はもちろんおらず、彼の発表も、時間と共に忘れ去られていくただの妄言だと思われていた──ある一点までは。

 彼の発表から数年後、ハワイ沖で稼働していた地球深部探査船である「Earth」が、地表から深さ約七十三キロキロ辺りに、生物らしき反応を確認したと発表した。

 人々はすぐに思い出した。数年前にとある科学者が発表した、人々が妄言だと切り捨てたその言葉。

 人々は掌を返し、彼の発表をじっくりと考え始めた。あの世が本当にあるのなら、彼が言っていた転生論も、実は事実なのではないか? 

 そういった疑問は口には出さずとも共有されるもので、世界はだんだんと死に対し明るい見方をするようになり始めた。

 そして××××年四月二十七日、人類はついに禁忌を侵した。

 回帰室、いつからかそれはそう呼ばれ始めた。人々の夢と希望を手助けするために人為的に、安全に命を絶つことが出来る施設。痛みも恐怖も感じることなく、来世に期待しながら眠るように死ぬ(彼らの言葉では回帰といった)ことが出来るもの。

 勿論政府の公認ではなく、一部の転生論を盲信する団体が作ったものだった。

 多くの人間が回帰室へと入ったわけではない。一部の、人生に絶望した人間のみがそこへ入り、ひっそりと命を絶った。

 あの世に興味がないわけではない。しかし、自分がいなくなることで周りにかける迷惑や、知り合いともう会えなくなるなどといった理由で、人々は自殺を拒んだ。それが正しいと、皆そう考えていた。

 無論、それが正しい考え方なのだろう。死というものは超自然的なものであって、人間が自らのエゴのために操っていい物ではないのだ。

 しかし確実に、しっかりと、人々の中に存在していたはずの「死に対する恐怖」は、消え去っていた。

 

 

 ▼

 

 

 頬を流れる汗を乱暴に拭う。猛暑日であった。

 人々を優しく照らしていた朝の陽ざしは、その角度を狭めていくにつれ狂ったように熱気を地表へと飛ばす修羅へと変わり果てていた。

 

「あっつ……」

 

 制服は既にぐっしょりと濡れていた。

 残り数十日で学校が夏季休暇に入るとはいえ、その喜びはちっとも湧いてはこない。湧き上がってくるのは暑さに対する怒りと、学校に対する憂鬱のみであった。

 アスファルトで舗装されていない、剥き出しの道路は茹だるような熱気を噴出しており、靴の底から今か今かと侵入しようと試みている。

 路の傍の木陰に身を隠すと、項に溜まっていた熱気が逃げ出し束の間の休息が訪れる。大きく息を吐くと、体内の熱気を含んだ熱い息となった。

 翠の天蓋は陽光を完全に遮っており、時折吹く風に揺れる葉と連動するように斑点のような影が地面を滑っていた。

 地面を見ていると、蟀谷から流れ落ちた汗が顎を伝い、地面に落ちた。花火のような模様を作り出した汗の上を、小さな蟻が忙しなく通る。何かを運んでいるようだった。

 それは蝉の死骸だった。数年以上も土の中に潜り、この時のために土から出てきたというのに、なんとあっけなく死んだ蝉なのだろうか。多分あの世で先祖に怒られていることだろうなんてことをぼんやりと思った。

 蝉の死骸はその身体の大部分が既に持ち去られているようで、翅と頭意外は何もないようだった。不意に、ころんと蝉の死骸が転がり、目があった。その生気のない瞳にぞっとした。もうこの蝉は死んでいるのだという事実を眼前に叩きつけられた。どうしようもないほどの恐怖が身体中を駆け回り、暑さによるものではない汗が勢いよく噴出してくる。

 その恐怖から逃れるかのように、急いで立ち上がり、学校への道を急いだ。

 

 

 

 死に対する漠然とした恐怖が大きくなってきたのは、一体いつ頃からだったのだろうか。

 幼い頃から死にたくないと思っていた。祖父の葬式で、火葬場へと運ばれていく何も言わない祖父の姿を見て、僕は絶対ああはならないぞと決心したことを今でも覚えている。

 少し大きくなって、生物は必ず死ぬのだという事実を初めて知った時、恐怖のどん底へ突き落された。死とは何だろうか、死んだらどうなるのだろうか、僕は一体いつまで生きていられるのだろうか。毎晩布団に潜り込むたびに、祖父の顔が脳裏によぎった。もしかすると今晩僕はこのまま布団の中で死んで、朝になると祖父のように燃やし尽くされてしまうのかもしれない。そんなことばかりを思って眠れない日が毎日あった。

 こういった考えはある一種の人間の本能でもあって、どんな人間でも一度は通るものだろう。大抵の人間は大人になっていくにつれ、そのような恐怖からも解放されるのだ。

 しかし、僕はその恐怖から逃げ出せなかった。死というものが理解できなかった。理解したいとも思わなかった。だからこそ、僕は世間を賑わせていた転生論にも、またスヴィドリガイロフの証明にも、全くと言っていいほどに興味を持っていなかった。本当にあの世へ行けるのかどうかもわからないし、まず、自分が死ぬということが考えられなかったからだ。

 

 

 無事に学校に到着した。M村に存在している学校はとても古いもので、木造建築の古臭い平屋を改修もせずにずっと使い続けている。聞いた話によると、曾祖父辺りの頃から今までずっと工事もせずに使い続けているらしい。数か月前に中学二年生になった僕は、もう見慣れた教室に足を運ぶ。

 教室に入る。勿論空調はないので、教室内もじっとりと蒸し暑い。

 教室内には僕を含め四人の生徒しかいない。勿論過疎化のせいもあるが、それだけではない。転生論の皺寄せはこんな田舎にまで来ているというわけだ。娯楽も何もないこの村では、希望を見出すことは難しい。特にここM村のような閉鎖的な場所にいると、周りの(しがらみ)のせいで村を出ようと思ってもそれは容易なことではない。だからこそ、来世に身を委ねる。十五人ほどいた同級生は、いつの間にか十人になり、八人になり、そして気づけば数人にまで減っていた。

 教室内に入ってきた僕を、級友たちはちらりと一瞥して、またそれぞれの世界へと籠っていく。今なお自殺せずに生き残っているのは、僕みたいに死への恐怖に耐えられない弱虫か、自分の人生に満足してしまっている阿呆だけだ。それ以外は全て違う世界とやらに行ってしまった。

 ふと、自分という存在が何とも恥ずかしいような気分になった。

 皆が自分の知らぬうちにどこか遠くへ行ってしまっているような、自分だけがここに留まる決意をした覚えもないのに置いていかれたような、そんな得体の知れない不安感。

 いっそ死にたいと思えるようになれたらいいのに。そんな自分に嫌悪感を抱く。死ぬなんて、出来もしないくせに。

 

 自分の席に座ると同時に、がらりと教室のドアが開いた。肩越しに後方のドアを見ると、がたいの良い青年が立っていた。もちろん、がたいが良いだけで僕と同級生である。

 

「おはよう、タカ君」

 

 怯えたように挨拶をしたのは、翔ちゃんだった。僕の右斜め前に座っている翔ちゃんは年齢よりもずっと小さく見え、痩せ細っているためにどこか病的な見た目をしていた。

 タカ君は唸り声のような挨拶を返し、どすどすと大きな足音を立てながら自分の席に座る。僕の二つ横の席が彼の席だった。

 五人、それが僕らの学年の全人数だった。

 

 暫くの間、腹の探り合いのような沈黙が辺りに横たわっていたが、教師の足音によってそれらは霧散した。

 ちらりと横を見ると、タカ君と目が合った。彼は憎たらしげに僕を睨んでいた。

 

 

 ▼

 

 

 マズルフラッシュのような閃光が視界を駆け、思わずしりもちをつく。次いで、鈍い痛みが頬に染み始めた。

 下手人を見上げようと顔を上げたが、いきなり動いてしまったので激しい立ち眩みに見舞われる。

 すると、片膝立ちをしていた僕の腹に再び衝撃が走る。鳩尾辺りを蹴られ、食道を酸っぱい胃液が逆流していく。血と胃液と今朝食べたばかりのどろどろに溶けた携帯食が、理科室の床に飛び散った。

 

「ぉえっ、!」

 

 必死に立ち上がろうとするが、何かが頭を抑えた。タカ君の足だった。

 無遠慮に、道行く蟻を踏むみたいに、足に力が込められる。呆気なく僕の顔は吐瀉物の中に沈んだ。右頬に、柔らかい吐瀉物の感触がある。その事実に再び腹の底から嗚咽が漏れてきて、思わず嘔吐いてしまった。

 死ぬほど苦しかった。

 死ぬほど? 

 死ぬほどって、どれくらい? 

 生きてるからこそ、苦しめる。生きてるからこそ、死にそうになれる。

 そう思うと、右頬に感じる、殴られた痛みと吐瀉物の熱さが、僕を生へと繋ぎ止めているような気がした。

 

 理科室は驚く程に静かだった。清潔感のある白い机に、部屋の隅に縮こまっている衣装ラックに掛けられた白衣の数々。人体模型が嘲笑を含んだ視線をこちらに投げかけていた。

 

 風を切る音がする。タカ君が、僕を蹴り上げる音だった。

 横腹に痛みが走り、強制的に仰向けにさせられる。窓から射す日差しの角度は既に深くなっている。古びた木製の床は、夕陽に照らされて鈍く照り輝いていた。微かに積もった埃が、何故か目に付いた。

 再び殴打が始まる。流石にタカ君も吐瀉物まみれの右頬は殴りたくないようで、左頬や体を中心に拳を振るっていた。

 熱いほどの痛みに、涙が込み上げてきた。夕陽が涙と溶け合って、柔らかな暖かさを生み出していた。涙で滲んだ視界の端には、怯えた表情でこちらを見守る翔ちゃんが立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 多分、どうしようもなかったのだと思う。

 

 

 

 タカ君の家は母子家庭だった。詳しく聞いたことは無いが、彼の父親は彼がまだ幼かった頃に、違う女の人とどこかへ行ってしまったらしい。

 だからこそ、タカ君は母親に依存した。幼かった彼にとって、母親という存在以外頼れる相手がいなかったからだ。彼にとって母親こそが世界の全てだったのだと思う。

 だが、彼の母親はどうだったのだろうか。子育ての経験もなく、母親になった経験もなかった彼女は、愛していたはずの夫に捨てられたという事実も相まって、だんだんと壊れていった。

 彼女が回帰室へと足を運んだのは、それこそ必然の出来事だったのだろう。そしてそれを知ったタカ君もまた壊れ始めた。その対象になったのが、僕だった。

 

 

 

 

 

 

 

 暫くの間気を失っていたのか、目を覚ますと古びた木目の天井が映っているのみだった。

 理科室特有のアルコールの匂いが、埃や吐瀉物の匂いと混ざって、不快なものへと変わっていた。

 

 起き上がろうと手を床につくと、左手の中指の付け根が酷く痛んだ。タカ君に踏まれたのだろう。

 情けなさと、痛さと、気持ち悪さでまた涙が出てきそうだった。

 

 

 

 

 

 僕が彼の暴力の対象になったのには、特に理由なんてないだろう。強いて挙げるのならば、僕がいじめのことを他人に言えるほどの度胸もなかったからということになる。案外、タカ君は狡猾な奴だった。

 本来ならば僕の異変に気づき護ってくれるはずの両親は、既に数枚の紙切れだけを残して違う世界へと旅立ってしまった。

 いつもそうだ。

 大人のやることは、いつも等しく僕等を傷付けるものばかり。大人の我儘の皺寄せを受けるのは子供たちばっかり。

 

 

 立ち上がると、一瞬意識が遠くなる。殴られたためなのか、立ち眩みのせいなのか、よくわからなかった。

 理科室を汚したまま帰る訳にはいかないので、片付けなければいけない。痛む体に鞭を打ち、掃除用具入れを開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 山々の峰に足をつけた太陽が黄昏色の光を零している。夏のじっとりとした暑さは消え去り、夕暮れ時の寂しさの混じった涼しさが辺りに漂っていた。どこかで蜩が鳴いている。

 

 帰り道をぼんやりと歩きながら、僕は静かにため息を吐いた。息を大きく吐くと、鳩尾がずきりと痛む。シャツを捲ってみると、大きな痣が見えた。夕陽に照らされた青痣は、何故かどす黒く見えた。その部分がだんだんと壊死していくような気がして、怖くなり指の腹で少し押してみる。鋭く鈍い痛みが腹の奥に響いた。死に少しだけ近づいてしまったような気がして、急いでシャツを下ろした。

 傍から見れば今の僕はとても滑稽なのだろう。しかし、すれちがう人間なんてものは一人もおらず、どこまでも一人きりの帰路だった。

 

 不意に、視界の端に石の階段が見えた。

 有名な観光スポットなんてものがない寂れたこのM村だが、それでも山に囲まれている分、多少は綺麗な景色が見えたりする場所もある。そしてこの石段が、その景色が見える場所まで続く道であったりする。

 普段は素通りするところだが、ふと、何故かわからないが石段の前で足を止める。山の麓に作られているので、勾配は急で、果てしなく長い。石段は山の中腹辺りまで続いているように見えた。

 家に帰っても何もない。特にすることもない。

 僕は何かに導かれるように、その石段を登って行った。

 

 

 ▼

 

 

 夕暮れになり涼しくなったとはいえ今は夏。何段も何段も階段を上っているうちに、思い出したかのように汗が出始め、階段を上りきる頃には、息も上がっていた。

 太陽はその半身を既に隠している。蜜色の光が辺りを照らしていた。

 最後の段を登り切って、休憩がてら石段の上に腰を下ろす。先ほどの怪我の痛みが酷くなっていた。

 暫く息を整えてから、階段傍の鳥居に手を突き立ち上がる。

 

 廃神社だった。

 昔はこの村の唯一の神社として多くの人間が参拝していたらしいが、高齢化や若者の宗教離れが進み、立地の悪さも相俟ってもう何年も前に潰れてしまった、今は観光スポットとなっている場所だった。

 階段の傍にある石で出来た鳥居は既に風化してしまっていて、苔がその身にこびりついている。飾られていたしめ縄は既にほつれてしまって、少し屈まなければ頭に当たってしまうほどになっている。

 御社殿もやはり古びており、立派な瓦には苔と雑草がこびり付いている。本殿へと至る扉はとっぱらわれており、埃の積もったぼろ臭い本殿が丸見えになっていた。

 なんと悲しい有様だろうか。神がもしいるのならこれを見て何を思うだろうか。そんな詮無いことを考えるのも束の間、すぐに嘲りの笑みを漏らしてしまった。

 死んだとしても違う世界に生まれ変わるのなら、神という存在はいったいどれ程の価値があるというのか。

 僅かに心に芽生えていた畏敬の念を潰し、本殿へ足を踏み入れる。床が軋み、床下で何かが走る音がした。

 湿気がひどく、腐った木の匂いがする。がらんどうな本殿は、神の住まう場所というよりかは人間に捨てられた場所なような気がした。となると僕はこの神社という場所がいよいよ俗的なものにしかみえなくなってくるのだった。

 地獄に垂らされた蜘蛛の糸を掴む人間はもういなくなってしまった。人間が自力で地獄に穴を開け抜け出してしまったのだ。なんだかそれは、とても悲しいことのように思われた。

 

「なにしてるの」

 

 不意に、誰かに声をかけられた。突然だったので思わず声をあげそうになった。振り返ると、薄暗くなってきた境内に一つの影が見えた。

 影はゆっくりとこちらに近づいて、本殿に入る階段に片足をかける。距離が近くなったことで、薄暗闇の中でも影の顔がはっきりと見ることができた。

 

 女性だった。濡れ羽色の髪は腰辺りまでの長さで、纏めることもせずにそのまま下ろしている。目鼻や顔の凹凸は薄暗闇のせいでよく見えないが、その体をほぼ隠してしまった太陽に背を向けるようにしてこちらに立っている彼女の、燃えるような瞳の光に、取りつかれたような気分になった。

 

「なにしてるの」

 

 再び、彼女がそう尋ねた。先ほどと比べると、幾分か柔らかな言い方だった。多分、僕がガキだということに気が付いたのだろう。僕は何かに気圧されて、それでも何とか声を捻り出した。何者かに首を絞められているのかと思ってしまうほどに苦し気な声だった。

 

「特に……何も」

 

 烏の鳴き声が逃げ行く夕日を追いかける。夜が近づいていた。

 

 

 ▼

 

 

「なにしてるの」

 

 再三、彼女が尋ねてきた。よほど僕が何をしていたのかを知りたいらしい。

 しかしこの女性もこの女性である。既に日も落ちて夜になっているというのに、何をこんな廃神社に来ることがあるのだろうか。疑問に思った僕は、そのまま彼女に尋ね返した。

 

「ここで何をしてるんですか?」

 

 僕の質問に、女性は口から押し出すように苦笑した。

 

「君はもしかして危ない人間なのか?」

「いえ、そういうことはないと思いますが……」

「じゃあなんでこんなところにいるの? もう夜だよ」

 

 なんだかひどく滑稽な会話だった。現実逃避をしているような、そんな気分になった。

 

「僕はただ、家に帰るのが面倒くさくて」

「ははぁ、反抗期だな?」

「そういうわけじゃないんですけど……」

「皆まで言うな皆まで言うな。人間、誰しもそんな時期があるもんだ」

 

 彼女の口調は大人ぶった子供というよりかは、大人ぶった子供を演じている大人のもののようだった。言葉の奥に何かあるような気がして、しかしそれを覗くことはできなかった。

 

「それで、こんなところで何をしてるんですか? もう夜ですよ」

「何をしてるんですかも何も、ここは私の秘密基地だよ?」

 

 何でもないような口調で彼女は言う。まるで世界の常識でも語るかのような言い方だった。

 

「秘密基地……ですか?」

「そう。シークレットベース。見てく?」

 

 質問に答えることなくただ黙り込んでいると、女性はすたすたとどこかへ歩き始めた。

 何故かわからないが、ついていく。

 

 彼女の秘密基地は、廃神社のすぐ横の大きな杉の木の下にあった。基地と聞いたので、段ボールか何かで作られた大きな家を想像していたのだが、予想に反して目の前にあったのは普通のテントであった。

 境内の砂利を踏む音だけが夜空に響く。不意に、彼女がこちらを向いた。

 

「ようこそ、私の秘密基地へ!」

 

 彼女はそう言いながら、四つん這いになりテントの中から何かを取り出した。

 ランタンのようなものだった。ふわりと、闇に凝り固められた境内の中に優しい光が灯る。その時初めて、僕はその女性の顔をはっきりと見ることが出来た。

 少女なのか女性なのかよくわからない、それが、彼女の第一印象だった。

 こちらに真っすぐ向けられた、燃えるように綺麗な瞳の中には、幼子のような純粋さが残っているが、それと同時に大人たちが持ち合わせている、諦めにも似た悲しさも見て取れた。目鼻立ちはくっきりとしており、華やかな印象を抱かせる。ふと、ランタンと共に彼女も輝いているのではないかと思った。大人びた風貌をしているが、仕草や表情からはあどけなさが抜け切れていない。それが僕が彼女に抱いた印象だった。

 彼女は僕の顔をじっと見ていたが、不意に目を細めた。まるで品定めをされているようで、少し身構えてしまう。

 

「君、その頬どうしたの?」

 

 しかし、どうやら彼女が見ていたのは僕の頬だったらしい。タカ君に殴られたせいで少し腫れていたらしい。肩透かしを食らった気分で、安堵のためか僕は小さく息を漏らした。

 

「喧嘩?」

「まあ……そんなところです」

 

 一方的に殴られたというのは何だか格好が悪いので、咄嗟にそんな嘘をついてしまった。しかしどうやら、僕のそんな薄っぺらい見栄は彼女には筒抜けだったようだ。すぐに呆れた瞳を向けられてしまった。

 

「自分の拳は綺麗なくせして何が喧嘩だ。殴られたんでしょ?」

「……まあ」

「イジメみたいなもの?」

「……どうなんでしょう」

「はっきりしない奴だな、君は」

 

 よし、これから君をタマムシ君と呼ぼうなんて、彼女はそう言って笑った。よく意味がわからなかったが、何故かとても嬉しかった。

 

「それで、イジメられて鬱憤晴らしにここに来たって感じかな? なんだ、賽銭泥棒でもする気だったか」

「そんなことしませんよ。ここに来たのは……まあ、気分です」

「変な気分だね、それは。それで、イジメられてること、両親は何も言わないの?」

「両親は自殺しました」

 

 一瞬、時間が止まった。一体彼女はどんな表情をしているのだろうかとちらりと伺うと、無表情だった。自分の顔をランタンの間にある何かを睨みつけるようにして、彼女はぴたりと止まっていた。

 静謐が辺りに漂う。杉の葉が全ての音を吸収しているようだった。

 

「ごめん、変な事聞いて」

 

 暫くの無言の後、彼女は静かにそう言った。そして、入りなよ、とテントの入り口を開けてこちらを見たのだった。

 

 

 

 

 テントの中は、思ったよりも生活感溢れる場所だった。寝袋、小さな机にトランクケースなどと、ちょっとした旅行をしているような持ち物だった。テントの端には小さな籠があり、ぎゅうぎゅうに服が詰め込まれていた。どうやら洗濯籠らしい。机の上に置いてある災害時用のラジオから、聞いたこともないクラシック音楽が流れていた。

 

「座りなよ、寝袋の上にでも」

 

 そう言われ、床の上に腰を下ろす。寝袋の上って言ったのにと、彼女は少し残念そうな声を上げた。

 

「それで、誰かにイジメのことは言ったの?」

 

 どこからかポットを取り出し、コップに熱湯を注ぎながら彼女は言った。気遣いなんてものは感じられず、しかしそれがどこか心地よかった。

 

「特には……」

「そんなぼっこぼこにやられてるのに? 教師は、何も言わないの?」

「はあ、まあ……」

 

 僕らの担任はどこか遠い場所からはるばるこんな辺鄙な土地まで来た、少し変わり者の教師であった。二十代後半で既に結婚適齢期だというのに、未だに白馬の王子様を夢見て、ちょっとしたことにパニックになったり泣いてしまったりする、少しおかしな人。

 多分、彼女は大人になりきれていないのだろう。大人になることを拒み、子供のままで生きてきて、この場所まで来てしまった大人擬き。こんなことを本当の子供である僕に言われてもしょうがないのだろうけど。

 しかし、子供というものはある時期を越えると、意図的に子供であろうとするものだ。

 あの時の自分はこうだった、子供ならばああすべきだ。何かの圧力なのか、はたまた大人びていく自らの心へのちょっとした反抗なのか、僕にはわからない。

 そして、そういう時期の中にある子供というものは、得てして他人の中にある子供の心というものを見抜くものなのだ。小さな自尊心や、ちょっとした復讐心など、大人が気づかれないと思って心の内に秘めている思いを、子供は容易く見抜いてしまう。

 僕らの担任が、果たしてあの子供の心を隠そうとしているのかどうかはわからない。だが、殴られ腫れあがった僕の頬を見て何が起こったのか悟ろうともしないあの子供特有の愚鈍さは、ある種の才能なのだろう。

 

 とん、と目の前にアルミ製のコップが置かれる。ホットチョコだった。目線を上げると、くいとコップを顎でしゃくられる。飲めということなのだろう。じんわりと暖かいコップだった。痛んでいたはずの中指の付け根が、解されていった。

 

「大人はいつもそうだ」

「……?」

 

 恨めしそうにそう言った彼女は、じっと僕の持っているコップを睨んでいた。

 

「いっつも大人ぶって、都合の悪いことは無視ばかりする。大人は、本当にずるい生き物だ」

 

 吐き捨てるように出されたその言葉は、微かに大人びて見えていた彼女の外殻を剥がしていく。顔を顰めながらそう言う彼女は、少し子供っぽく見えた。多分、それが彼女があるべき姿なのだろう。

 

「名前、なんですか?」

 

 ふと気になって、気づけば尋ねていた。僕の質問に、険しい表情を見せていた彼女は一転、呆然とした表情を浮かべた。

 暫くの間視線がぶつかり合う。彼女のまっすぐな瞳を見ていると、僕の心の汚い部分が晒されているような気分になった。

 ふっと、彼女の表情が和らぐ。

 

「君は、変な奴だね」

「はあ、まあ、そうかもしれません」

「私の名前はミコトだよ。君は? ──ああ、まあ君はタマムシ君でいいや」

 

 そう言って、彼女──ミコトさんは快活に笑った。

 

「それで、タマムシ君は何歳なの?」

「十四です」

「若っ! 君、老けてるねぇ」

「ミコトさんは?」

「おいおい、女性に年齢を聞く奴がいるかぁ?」

 

 そう言って、彼女は笑った。僕も微かに笑った。会話だけが上滑りしていた。どうやら年齢は言いたくないようだった。しかし、それは淑女の恥じらいのためではなく、何か秘密があるためのように思えた。

 暫くの間とりとめのない会話を続けていると、ようやくミコトさんはため息を吐いて両手を上げた。

 

「はいはい、わかったよ。十六です、十六。高一だよ、君よりお姉さんだよ」

 

 僕より二つ上らしかった。そう考えると、目の前にいる彼女がとてつもなく大人に見えてきたのだった。相変わらず浅ましい思考回路だった。

 しかし、そうなると疑問が一つ浮かび上がってくる。

 この村は若者がとても少ないので、高校や中学校などの孤立した施設が存在していないのだ。存在しているのはあのぼろくさい木造建築のみ。僕らは学年ごとに違う教室を使い分けているのだ。ということは、高校生であるミコトさんもあの学校に行っているはずなのだが、僕は今の今まで彼女を見たことがなかったのだ。

 多分、ミコトさんは僕がこのことを思いつくまでを想定していたのだろう。だからこそ、先ほど年齢を言うのをあんなに躊躇っていたのだ。

 僕の視線の意図に気づいたのか、ミコトさんは草臥れた表情を浮かべた。

 

「不登校だよ、不登校」

「なんでですか?」

「……ダメだと思う?」

「………………どうなんでしょう」

 

 再び呆れた目を向けられてしまった。

 

「ダメでしょ」

「そうなんですか」

「まあ、世間一般からすればダメなんだろうね……」

 

 ホットチョコを啜る。熱くて、甘くて、頭がくらくらした。

 するといきなりミコトさんが手を伸ばして、僕の手からコップを奪い取った。そして悪戯っ子のような笑みを浮かべると、ごくごくとそれを飲み始めてしまった。顔がかあっと熱くなった。多分、ホットチョコの熱さではなかった。

 

「気になる? 不登校の理由」

 

 その言い方は、まるで気にしてほしいかのような言い方だった。何かに縋るような、そんな喋り方だった。何だかそんな言葉は彼女らしくないと思った。ミコトさんのことなんて何も知らないのに。

 

「まあ、多少は」

「君は本当に曖昧な返事しか返さないね……まあ、いいけど」

 

 ホットチョコを全て飲み切ったミコトさんは、そのコップに今度は水を注いだ。底に少し残っていたホットチョコが混ざって、濁った水になっていた。

 

「なんかさ、人の言いなりになるのって、苦しくない?」

 

 濁り水を一気に飲み干して、ミコトさんはそう言った。苦い表情は、果たして放った言葉のためか、水の味のせいか。

 

「おぇ、やっぱりホットチョコに水は合わないね」

 

 水のためだった。

 

「人の言いなりになるって苦しいことじゃない?」

「……そうだと思います」

「苦しいよ、苦しいんだよ……」

 

 それから数回、まるで何かに憑りつかれたように、ミコトさんは同じ言葉を繰り返した。僕に尋ねているのではなく、自分に言い聞かせているのだ。そうすることで、自分を慰めることが出来るから。

 

 虫の涼やかな声が響いていた。こほんとミコトさんが咳き込んだ。その声は、テントから飛び出して暗闇の中を進んでいったが、すぐにどこかへ消えてしまった。

 

「だから、皆の期待を裏切ってやるって、誓ったんだ」

 

 ミコトさんが言った。力強いその言葉は、しかしながら放った本人の泣きそうな顔のせいで、聊か力を失っているようにも思えた。

 

「学校に行ってほしいっていう父親の期待を裏切った。正しく生きてほしいっていう、母の遺言も裏切った。子供は家に居るべきだって言う親族の言葉も裏切った。だから──」

 

 そう言い切ると、ミコトさんは一度大きく息を詰まらせた。まるで、その言葉に対する恐怖に押さえつけられたかのようだった。

 

「早く死ねばいいっていう皆の期待も、裏切ってやるんだ」

 

 しかしそれでも、彼女は数度瞳を揺らしながらも、言った。その言葉の強さに、僕は彼女から目を離せなかった。瞳を泳がせながらも言い切ったその弱さこそが、彼女の美しさなのだろうと思った。

 

「死んだ後に、やっぱりなって顔されるのが、一番嫌だ。反抗期で、ワガママで、不登校な奴が死んだって驚きゃしないって言われるのが、本当に嫌だ。だから、生き延びてやる。皆が死んでも、私は生き残ってやるんだ」

 

 彼女は泣いていたのだろうか。それはわからない。言い切りすぐさまそっぽを向いてしまったからだ。

 僕は静かに驚いていた。彼女の強い意志を見て、打ちのめされた気分だった。不器用な反抗に、もどかしさを憶える反面、応援したいという純な気持ちも現れていた。二歳上になるだけで、これほどまでに自我を持つことが出来るのだろうか。そう考えると、彼女がとてつもなく遠くにいる、究極の大人のような気がしてならなかった。

 

「ねえ、今度は君の話を聞かせてよ」

「僕の話ですか?」

「うん、身の回りの話とか、学校の話とか」

 

 暫く立つと、ミコトさんも落ち着いてきたのか、穏やかな表情でそんなことを言い始めた。

 しかし、僕の身の回りの話や学校の話をしても面白いわけがない。話題がなく、僕は狼狽えながらテントの中を見回した。特に意味はなかった。僕のこの人生すらも。

 

「そうだ、君の同級生で、回帰室に行った子はいるの?」

 

 そんな僕に見かねたのか、彼女が話題を振ってくれた。しかし、聊か話題の趣味が悪いように思えた。まあ、話題が思い浮かばなかった僕が言えることではないのだが。

 

「十人くらい、だったと思います」

「十人! 多いね、そりゃ。なんで輝かしい未来がある若者が死んじゃうんだろうね?」

「さあ……」

「どんな子が死んだの?」

 

 目を輝かせて、ミコトさんが尋ねてくる。そんな彼女を見て、少し不快な気分になった。人の死とは、これほどまでに軽いものだったのだろうか。ありきたりな、路傍の石ころみたいな扱いをされるべきものだったのだろうか。

 

「回帰室の存在が出来た当初は、誰もそこに行きませんでした。お互いがお互いをけん制してるみたいな、そんな雰囲気でした」

「まあ、最初に行くのは勇気がいるもんね。死んだ後の周りの反応も怖いし……」

「多分そうだと思います。けど、ある日いきなり、生徒が二人教室に来なくなったんです。それで、皆気づいたんです、ああ、死んだんだなって」

「そこからは、早かった?」

「……一か月に一人くらいの割合だったと思います」

「周りに置いて行かれたみたいな気分になったのかな」

「さあ……」

 

 ミコトさんは再びコップに水を注いで飲もうとしたが、僕の存在に改めて気づいたようで、慌ててコップを僕に押し付けてきた。しかし先ほどミコトさんがこのコップに口をつけているのを見ていたので、僕はそれに手を付けずに、そっと床に置いた。

 

「それにしても、最初に死んだ二人は勇気があるね。二人一緒に死んだのかな、もしかして友達同士だったとか」

「いえ、同じクラスだったんですけど、話してるところは見たことないです。ケン君と、ツバサってやつです」

「……ん? ケン君って、小鳥遊健太? 駄菓子屋のすぐ近くに住んでる、真面目なケンちゃん?」

「……家は知らないですけど、小鳥遊健太です。そいつが真っ先に死にました。知り合いですか?」

「幼馴染だよ、幼馴染。ケンちゃん、懐かしいな~」

 

 あっけらかんと、ミコトさんは言う。その瞳は、昔を思い出しているのか、細められていた。しかし、幼馴染が死んだというのに、なんとも軽い反応だった。

 ケンちゃんと、彼女はそう言った。何だかその馴れ馴れしい呼び方がケン君の存在を薄くしているような気がした。

 

「けど、ケンちゃん死んじゃったのかぁ、なんだか寂しいね。それで、もう一人のツバサ君って子は? どんな子だったの」

「不真面目な奴でした。学校には来てましたけど、授業中はずっと寝たりぼんやりしてました」

「へえ、真面目なケンちゃんと不真面目なツバサ君が一緒に死んだってわけだ! 何だか運命めいたものを感じるね!」

 

 それは、僕も思っていたことだった。ずっと勉強ばかりしていて、将来は安泰だと言われていたケン君と、勉強もせず、将来のことも考えず、それでも毎日幸せそうだったツバサが同じ日に死んだ。これは、何か運命を感じずにはいられないものだった。

 

「けどね、結局ケンちゃんやそのツバサ君が死んだのだって、大人のせいだよ」

「大人の、せい」

 

 そう、大人の。忌々し気に彼女は吐き捨てた。

 

「勝手に期待して、押し付けて、勝手に失望して、突き放す。大人なんて、ワガママで図々しくて、自分のことしか考えてない。私達のこと、何もわかってないんだ」

 

 まただ。また、ミコトさんは子供のように大人に対して悪態を吐いた。何だか、今の彼女は僕たち子供にとって正義のヒーローのように見えた。

 大人びた面を見せる彼女と、子供のように大人に対し悪態を吐くミコトさん、どちらが本物の彼女なのか、僕にはわからなかった。

 ラジオはとっくに止まっていた。再び静寂が訪れる。それはまるで、むっと顔を顰めたミコトさんが、全ての音を消しているかのようだった。

 不意に、電子音が鳴り響いた。見ると、ミコトさんの時計だった。時計の針は七時を指していた。

 

「すみません、そろそろ、帰ります」

 

 そう言うと、彼女は何も言わずに小さく頷いた。

 立ち上がり、テントの入り口に手をかける。しかし、テントから出ようとした僕の脚は、ミコトさんの言葉によって止められた。

 

「ねえ、タマムシ君」

「はい」

「私達って、何のために生きてるんだろう?」

 

 その、純粋で愚直な質問に、僕は答えることが出来なかった。

 

 

 ▼

 

 

 翌日、いつもと同じように学校に到着し、いつもと同じように授業を終わらせたが、いつもとは違うことが一つあった。その日、タカ君は僕に暴力を振るわなかった。

 自分の席に座り、ぼんやりと窓の外を眺める。

 痛いくらいの陽光が降り注いでいる。空をゆったりと流れる雲が、校庭に濃い影を落としていた。雲の端は銀色に輝いていた。

 鞄を持って立ち上がり、廊下に出ると、誰かにぶつかった。見ると、タカ君がこちらを見つめていた。

 

「あ、ごめん」

「……おぅ」

 

 

 そそくさと、タカ君は目を逸らして教室内へと入っていく。後ろには縮こまった翔ちゃんがいた。

 

「ねえ、タカ君」

「……なんだよ」

 

 気づけば声をかけていた。何故今日は暴力を振るわなかったのか、知りたかった。

 しかしいざ声をかけてみると、なかなかそんなことは言えないもので、しばらくの間嫌な沈黙が響いた。

 タカ君も気まずいのか、僕の目を見ようとはしなかった。だが、その挙動から、タカ君が何故かはわからないが僅かに僕を怖がっているということが見えた。

 

「人間って、なんのために生きてるんだろう?」

「……は?」

 

 口をついて出たのは、聞きたかった事とは全く違うことだった。しかし、これもまた誰かに聞きたかった質問でもあった。いきなりの質問に、タカ君はちらりと一瞬だけ僕を見て、すぐにまた目を逸らした。

 

「意味わかんねぇ、何言ってんだお前」

「……人間はなんのために生きてるのか、ちょっと知りたくてさ」

「そんなの、俺が知ってるわけねえだろ」

 

 ぶっきらぼうにタカ君は言った。翔ちゃんが、じっとこちらを見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 教室を出て廊下を歩いていると、呼び止められる。振り返ると、翔ちゃんが肩で息をしながらこちらに走っていた。

 

「どうしたの?」

「……ちょっと、気になって……なんであんなことを聞いたのか……」

 

 よほど疲れているのか、途切れ途切れに翔ちゃんは喋る。

 

「何か、気になることでもあったの? 嫌な事とか、怖いこととか」

「どうして? 別に、何もないけど」

 

 そういえば、翔ちゃんときちんと話すのはこれが初めてであった。そう考えると、何だか嬉しいような気分になれる。

 

「な、なかったんだ……ならよかった。けど、もし悩みとかがあったのなら、ちゃんと誰かに相談とかした方が、いいよ……」

 

 じっと、翔ちゃんは僕を見上げる。その瞳には、僕を心配する色が見えた。

 

「人間はなんで生きてるんだと思う?」

「へ? あ、ああ……人間が生きる理由?」

 

 投げかけられた同じ質問に、翔ちゃんは頭を捻らせ始める。顎に手を当てる仕草がやけに似あっていた。

 

「わからないけど、きっと何か大事な意味があるんだと思う」

「……ふぅん」

「そうだよ、きっと何か、大事なことが。だって、そうでしょ? 何も意味がないまま生まれてくるなんて、寂しすぎるもん」

 

 それは、自分に言い聞かせているかのようだった。昨日のミコトさんのように、そう言うことで自分を慰めているのだ。

 

「そうかもしれないね」

「君はどう思ってるの? 僕たちはなんで生きてるんだろうって」

「……わからない」

「そっか」

 

 残念そうに翔ちゃんは笑った。僕から何かを得られると思っていたのか、その失望の色は思ったよりもはっきりと伝わってきた。

 斜陽が廊下を蜜色に染める。光によって浮き出た埃が、リノリウム製の床を舐めるように飛んでいた。それらを背景に笑う翔ちゃんは、儚い存在にも思えた。

 

 

 ▼

 

 

 相変わらず長い階段を上り廃神社に到着したはいいものの、誰の姿も確認できなかった。

 昨日と同じくテントはあるが、中から音は聞こえてこない。一応ミコトさんの名前も呼んでみたが、返事はなかった。どうやら留守らしい。

 しかしこうやって明るい場所で見てみると、彼女の秘密基地は何とも滑稽な存在だった。

 廃神社という退廃的な場所にぽつんと屹立している文明の利器は、暗闇の中に存在する光のように浮いている存在となっていた。

 蝉の声が大気を振るわせていた。じわじわと生気を削り取る熱気のなか、木陰にあるミコトさんのテントの緑の生地だけが涼し気だった。

 

 誰もいないなら帰るしかないと踵を返し歩いていると、鳥居辺りで階段を上がってくる人間と鉢合わせになってしまった。

 肩辺りで揃えたショートボブの女性は、何を隠そう我らの担任教師であった。

 彼女も僕に気づいたのか、目を丸くしてこちらを見上げていた。

 

「あれ、どうしたの、こんなところで?」

 

 それはこちらの台詞だと言いたいところだったが、それを抑えて曖昧な返事をした。

 

「先生は、何をしてるんですか?」

「私? 私はねぇ、ここに神社があるって聞いたから、ちょっと拝みに来たんだ」

 

 引っ越してきたばかりだからねーと、恥ずかしそうにはにかみながら彼女は階段を上り切った。

 

「あれ、なんかぼろぼろだ」

「廃神社ですよ、ここ」

「そうだったんだ。まあいいや、拝むだけ拝んどこう」

 

 どうやら彼女はただただ形式ばった祈祷がしたかっただけのようで、廃神社とわかっても呑気そうにぼろぼろになった賽銭箱の前に立った。

 帰ってしまおうかと思ったが、予想以上に早く参拝は済んだのか、こちらに戻って来た。

 

「いやあ、廃神社ってのも乙なもんですね」

「はあ……」

「それで、君はなんでこんなところにいたの? まさか、境内の掃除?」

「いや、そういうわけじゃ──」

「いやあ、えらいなあ、すごいなあ。きっと神様も喜んでるよ」

 

 僕の話を聞かずに喋り続ける彼女に辟易し、口を噤む。こういう類の人間は好きなだけ喋らせれば勝手に黙り始めるのだ。

 ただ一つ、僕は彼女に確かめたいことがあった。

 

「先生は、神の存在を信じてるんですか?」

「うん? うん、信じてるよ。いるはずって」

 

 あっけらかんと、先生はそう答えた。その答えに、僕は滲み出る嘲笑を抑えることが出来なかった。幸い、彼女はそれに気づいていなかった。

 

「信じてないの? 神様」

「さあ……けど、もし神がいるんだったら、なんでこんな世の中にしたのか、聞いてみたいですけど」

「うーん、どうなんだろうね。何か人間じゃ計り知れない思し召しがあったのかもしれない」

「そんなの、現実逃避する子供の言い分じゃないですか」

 

 つい、少し強い口調で彼女に対しそう言ってしまった。先生は少し驚いたようで、どうしたの? なんて慌てていた。

 

「いえ、なんでもありません……」

「……神様を信じることが、子供っぽいと思う?」

 

 静かにそっぽを向いた僕に、先生はとても優しい声で語り掛ける。見ると、その表情もとても柔らかいものだった。そんな彼女の表情を見るのは初めてのことだった。その表情を見ていると、自分がちっぽけな存在であるということがはっきりと理解させられた。

 

「別に、そういうわけじゃ……」

「ふふ、異論ありまくりですって顔してるね。多分、君も間違ったことは言ってないと思う。それぞれ意見があるんだし、否定しあっても意味ないしね」

 

 その言葉も、やけに大人くさかった。今まで子供っぽいだの大人擬きだの心の中で馬鹿にしていた人間の違う一面を見て、どうにも打ちのめされてしまった。

 先生はそんな僕を見て何を思ったのか、ぽんと頭に手を置いた。身長は同じくらいなので、少し体勢的に辛そうだった。

 

「けどね、大人も、神頼みしか出来ない時があるんだよ。今はまだ、わからないと思う」

 

 わからない方がいいからね、と彼女は最後に付け足した。頭のてっぺんからつま先まで、大人びた答えだった。

 階段を一段下りるともう帰るの? と尋ねてくる。頷くと、少しだけ悲しそうな表情を見せた。

 

「私はまだちょっと残ってようかなー、探索とかもしたいし」

 

 僕はその言葉に返事することなく、一段一段ゆっくりと階段を下りて行った。足を動かすたびに、自分の惨めさを噛み締めていた。

 

 

 ▼

 

 

「神っていると思う?」

「へ?」

 

 翌日の放課後、廊下ですれ違った翔ちゃんにそう尋ねると、とても驚かれた。本日もタカ君による暴力はなかった。何故か最近彼から避けられているような気がする。

 

「神っていると思う?」

 

 答えがないので再び尋ねてみる。翔ちゃんは相変わらず困ったような笑みを浮かべていた。

 

「何だか、脈略のない質問だね……僕はいると思うよ。というか、いたらいいなぁって思ってる」

 

 その答えに、少なからず僕は失望したのだと思う。気づけばため息を吐いていたからだ。

 翔ちゃんの答えはいつも希望的観測でしかない。はず、だとか、だったらいいなだとか、自分にとって都合の良い未来なんてないのがわかっているにも関わらず、その現実から目を逸らし妄想に耽っているだけなのだ。

 こんなこと、碌に自分の意見も出さずに曖昧な答えしか返さない僕が言えることではないのだろうけど。

 しかし、彼の答えは僕が望んでいた答えではなかった。僕は、質問をしたくせに、自分の望んだ答えが返ってこないことに苛立ちを覚えていたのだ。なんとも自己中心的な人間だろうか。神なんていないと力強く言う人間を、僕は知らず知らずのうちに求めていたのだ。

 ミコトさんはどう答えるのだろうか、そんな思いがふと湧き上がってきた。多分彼女は否定してくれるはずだ。神なんてこの世に存在しないと、高らかに宣言してくれるはずなのだ。

 そう考えると、いてもたってもいられなくなり、すぐにあの神社に行くことを決心した。もう翔ちゃんのことなどどうでもよかった。

 

 

 ▼

 

 

 急いで神社に向かったはいいものの、もしミコトさんがいなかったらどうしようという僕の心配は、呆気なく裏切られることとなる。

 ミコトさんは賽銭箱の上に座っていた。

 

「おはよう。今日はいい天気だね」

「こんにちは。今日も暑いですね」

 

 真夏日であった。涼し気な顔をしているミコトさんの頬には一筋の汗が流れていた。

 

「昨日はどこに行ってたんですか?」

「昨日? なんで」

 

 昨日のことを説明すると、ミコトさんは大きな声で笑い飛ばした。空の雲までも散らしてしまいそうなほどに爽やかな笑声だった。

 

「なんだ、そんな必死に探しててくれたの?」

「必死にというか、まあ……」

 

 何を言えばいいかわからず、黙り込む。そんな僕が面白いのか、ミコトさんは厭味ったらしい笑みを浮かべてこちらを見ていた。その視線に耐え切れず、僕はまあそんな感じですと言ったのだった。

 

「ありがたい限りだねえ、舎弟に探してもらえるのは」

「いつ舎弟になったんですか」

「今」

 

 何とも自由な人だった。

 ミコトさんは賽銭箱から飛び降りると、テントの方へと歩いて行った。

 

「昨日はね、わざと君と会わないようにしてたの」

 

 その道中、彼女はそんなことを言った。影を歩いている僕にとって、日差しの中を堂々と進む彼女は眼が眩むほどに眩しかった。

 

「わざと、ですか?」

「うん。わざと。もしかして会いたがってるかなーって思ったから、それなら君の期待を裏切ってやろうと思ってさ。違う場所で時間潰してたの」

 

 話を聞けば、なんとも意地悪い人であろうか。呆れた視線を彼女に投げかけると、彼女はそんなことよりさ、と興奮気味に僕に詰め寄った。

 

「昨日、私のテントの中に変な人いたんだけど、あれ誰!?」

「知りませんよ」

「なんかねぇ、ショートボブの女の人だった」

 

 知っていた。

 

「僕の担任です」

「担任? なんで君の担任が私のテントの中にいたの?」

「知らないです」

「そりゃそうか」

 

 テントのジッパーを開け、少し警戒気味に中を確認してから、ミコトさんが入り口を開けたまま僕を見る。どうやら僕に先に入れと言っているようだ。

 影に設置してあるとはいえ、テントの中はかなり暑かった。ミコトさんはテントに入るや否や水を飲み始めた。

 

「それで、なんで彼女はここにいたんだろ」

「参拝しに来たらしいですよ」

「この神社に? 貧乏神しかいないよ、こんなところ」

「知らなかったらしいですよ、廃神社ってことを」

 

 変な人だねぇと、水を注ぎながら彼女は言う。あなたも同類ですよと言いたかったが、我慢した。

 

「あの人、神の存在を信じてるらしいですよ」

 

 少し緊張しながら、彼女にそう告げる。彼女が私もいると思うよと僕に言ったのなら、多分僕は彼女のことを嫌いになっていただろう。

 しかし彼女はふぅんと興味なさげに言っただけだった。

 沈黙に耐え切れず、言葉を続ける。

 

「子供っぽいと思いませんか? 神だなんて。そんなのに縋るとか、大人のすることじゃありませんよ。神なんていないに決まってるんですから」

 

 そりゃそうだと言ってほしい反面、そんなことないよと言われたい衝動的な欲求にも駆られていた。いっそのこと、彼女を嫌いになりたかった。

 しかしやはり彼女は興味がないのか、ラジオを弄繰り回してそうなんだと呟いただけだった。

 ミコトさんはどう思いますかと、聞けなかった。いっそのこと嫌いになってやると嘯いたが、しつこく同じ話題を繰り返して嫌われるのは我慢ならなかった。

 

 ミコトさんは弄り終わったラジオを机の上に置いて水を再び飲んだ。そして、どうでもよさげに言った。

 

「神がいてもいなくても、私達にはわかんないよ。死んだらわかるんだし、どっちでもいいってスタンスを取っとこうかな、私は」

 

 何とも彼女らしい言い分だった。しかし、その言葉に心から賛同することはできなかった。やはりどうしても、神なんていないと思いたかったのだ。子供のような執着心に僕は囚われていた。

 

「ミコトさんは」

 

 話題もないのに口を開く。ゆっくりとこちらに視線を投げやる彼女を見ながら、言葉を継ぐ。

 

「皆の期待を裏切りたいんですよね?」

「うん、そだよ」

「なら、もし誰かがあなたに死んでほしくないって言ったら、ミコトさんは死ぬんですか」

「死ぬだろうね」

 

 あっけらかんと、まるで犬の名前を教えるみたいな軽さで、ミコトさんは肯定した。その瞳はいつもと変わらず、燃えるように輝いていた。

 

「死んでほしくないって言ってくれた人間の目の前で死んだら、ホントにスカッとするだろうな」

「……そのために、自分の命を捨てれるんですか?」

「どうだろう、わかんないけど、捨てられると思うよ。死ぬのなんて怖くないし」

「……すごいですね」

「君は死ぬのが怖いの?」

 

 不思議そうに、彼女は首を傾げる。しかし、死ぬのが怖いと思っている人類がいることに対し驚いているのではなく、そう尋ねることで自分の異常性を浮き上がらせようとしているだけのことだった。

 

「怖いですよ、すごく怖い。ミコトさんは怖くないんですか」

「怖いわけないよ、怖くない。死なんて、全くこれっぽっちも、微塵たりとも怖くないね」

 

 何度も何度も、熱に浮かされたようにミコトさんは同じ文言を繰り返す。それは、死に対する恐怖のなさを主張することで、自分が孤独であることを強く訴えているようだった。

 

「ま、今言われたとしても死なないけどね。死んだらやっぱりなって思われちゃうし」

 

 その言葉は、もはや僕の頭には入ってきていなかった。死ぬことなんて怖くないと言い放った彼女の表情が、僕の心に深く突き刺さったからだ。

 気分が悪くなってきた僕は、今日はちょっと帰りますとだけ言って、その場を後にした。

 

 気をつけろよーと間延びしたミコトさんの言葉を聞かないように、僕はなるべく速足で神社から離れるのだった。

 

 

 ▼

 

 

 昼辺りまでにわか雨が少しだけ降っていた。校庭にはちらほらと水溜まりが見え、元気を取り戻した蝉の声を鮮やかに反射していた。

 

「聞きたいことがあるんだけど」

「もう定番になってきたね……」

 

 苦笑しながら、それでも楽しそうに翔ちゃんは僕を見た。目は合わず、翔ちゃんは僕の眉間あたりを眺めていた。

 

「翔ちゃんは、死にたいと思ったことある?」

 

 その質問に、翔ちゃんは一瞬固まった。図星を言い当てられた時の犯人みたいだと、ぼんやりと思った。

 翔ちゃんは表情を硬くしたまま俯いていたが、やがて零すように答えた。

 

「あるよ、何度も。ずっと、ずっと」

 

 その答えに、少なからず僕は驚いてしまった。翔ちゃんは背が小さく、声も小さく、度胸もないような人間だが、それでも楽観的に、強かに生きていると思っていたからだ。彼がこうやって泣き言を漏らすことなど、僕は想定もしていなかった。

 

「なんで、死にたいと思うの?」

 

 あえて不躾にそんな質問を浴びせかける。翔ちゃんはただただ俯いていた。

 

「自分が嫌いなんだ」

「……」

「背も小さくて、顔だってブサイクで、人の目もちゃんと見れずにずっと誰かの後ろに着いていくことしか出来ない自分が、本当に嫌いなんだ」

 

 彼の手は震えていた。拳を強く握りしめすぎているのか、ちらりと見えた人差し指の付け根は真っ赤になっていた。

 

「布団に入って寝ようとする度に自分がどんどん嫌いになってくる。今のままでも大丈夫って言ってくれる父さんと母さんに甘える自分が、嫌になるんだ」

 

 吐き捨てるように言葉を紡ぐ翔ちゃん。言葉の先は震えていた。

 

「じゃあ、なんで死なないの?」

 

 その言葉の殺傷力は、僕が思っていたよりも遥かに強かったらしく、翔ちゃんは微かに怒りの籠った瞳で僕を睨みつけてきた。初めて目が合った気がした。

 

「……どういう、意味?」

「辛いなら死ねばいい。辛くないなら生きればいい。なんで人間が死にたいと思うのか、それでも死ねないのか、僕にはわからないんだ」

「生死って、そんな簡単に決められるものじゃないんだよ」

 

 穏やかな声だった。その表情には既に怒りの色はない。何らかの装置で怒りを和らげているとしか思えなかった。

 

「僕だって寝る前は死んでしまいたいと思うけど、朝起きて自分の好物が食卓に並んでるとすごく幸せになれるんだ。辛いから死ねるんだったら、簡単だよ」

「翔ちゃんは、どうやって死にたいっていう気持ちを抑えてるの?」

 

 完全なる好奇心で尋ねる。もしかすると、ミコトさんが死ぬ気になった時に止めることが出来るかもしれないと考えていた。

 しかし翔ちゃんはそんな僕を慰めるように、呆れて笑ったのだった。

 

「簡単だよ。死ぬのが怖いから死なないんだ。死にたくないんだ、僕」

「怖いの? 死ぬのが」

「怖いよ。怖くないの?」

「怖い。すごく怖い」

 

 安心したのか、翔ちゃんはだよねと笑った。何に安心したのか理解は出来なかった。

 

「けど、怖くないって人も増えてきたね」

「回帰室のせいでね。死んでもどうせ違う世界に行くらしいし」

 

 翔ちゃんの口から回帰室なんて言葉が出てくるとは思わず、少し新鮮な気分になった。思えば、僕らはこれほどに長く一緒にいながら、こういった類の話をしてきたことがなかった。

 

「翔ちゃんは、死ぬのが怖くないって言う人のことをどう思う?」

「どうも思わないよ。ただ大人だなぁって思うだけ」

「死ぬのが怖くなかったら大人なの?」

「……どうなんだろうね。けど、怖がってるよりかは大人っぽく思えない?」

 

 その考えが果たして本当に正しいのかわからなかったが、彼と別れ向かった神社でミコトさんがそのことについて全面的に同意したことによって僕はさらに驚かされることとなった。

 

「大人だよ、大人。死ぬのなんて怖くないもん」

 

 杉の木に凭れかかりながら、再び死ぬのが怖くないことを力説するミコトさん。不思議なことに昨日よりもさらに雄弁に語っていた。まるで水を得た魚のようだった。となると、いよいよいつもの大人ぶった子供のふりをしている大人なミコトさんが、水のない乾いた陸地に打ち上げられた魚のような気がしてならなかった。

 

「回帰室があるから怖くないんですか?」

「転生論なんて関係あるもんか。私はあの世がなくったって死ぬことに怖さなんて感じちゃいないね」

 

 そうして、ミコトさんは繰り返し死を怖がる奴はガキだと呟くと、こちらを見た。その瞳には、怒りにも似た激情が見え隠れしている。

 

「あの世がなんだ、死ぬことがなんだ。そんなのくそくらえだ」

 

 同調するように風が吹いた。彼女の靴の上で右往左往している蟻が何故か気になった。

 

「君はなんで死が怖いの?」

 

 それは根源的な質問であった。

 死に対する恐怖はどこから生まれてくるのであろうか。小さい頃見た、祖父の葬式からだろうか? いや、その時はまだ死というものをはっきりと認識していなかった。なら、僕は何故死を恐れ始めたのだろうか。思い当たる回答は一つしかなかった。

 

「……理解しているのに理解できていないから、怖いと思うんです」

「難しい言い方するね。つまりどういうこと?」

「例えば、犬や猫は、死という概念を理解していないからこそずっと幸せに生きているんじゃないかと思います」

 

 ミコトさんは頷く。ただ視線はこちらに向けていなかった。

 

「人間以外の動物は、はっきりと死について理解していません。ただ人間だけが、死という概念、いつか自分が心肺停止に陥り動かなくなるという事実を理解してるんです。けど、それでも僕達は死という存在の本質を知らないんです」

「本質……」

「何故人は死ぬのか、死んだらどこに行くのか、死ぬ時はどんな気持ちで死ぬのか。僕達は何もわかっていないんです。だからこそ、僕は死ぬのが怖い。死にたくないと思ってしまいます」

「けど、死んだら生まれ変わるんじゃないの。だったら死に対する恐怖なんてものは必要ないものだと思うけど」

「それが事実なのかどうかも実証されていませんし、第一、転生論は根本的な解決に至ってないです。生まれ変わったとしてもどうせまた死ぬんですから」

 

 一息つく。ふと、苦しい程の草いきれが襲ってくる。肺が詰まり、空を仰ぎ見た。どこまでも続く青い空に、千切れた雲がいくつか浮かんでいた。

 

「死に対する恐怖だけが人間に残された唯一の特権です。それをわざわざ捨てることなんて、僕はしたくありません」

「恐れるのが特権? それは守られてる子供の言い分じゃない? 子供じゃないんだから、そろそろその特権、手放した方がいいと思うけど」

 

 子供じゃないんだから。彼女は確かにそう言った。僕は子供じゃなかったのだろうか。そうでないのなら、僕はいつ大人になったのだろう。大人に、なってしまったのだろう。

 大人は全ての恐怖が消え去るのだろうか。悟りを開いたみたいに、現世に対する欲が全て消えてしまうのだろうか。だとするならば、僕は大人になんかなりたくはなかった。

 

「死に対する恐怖、ね……」

 

 反芻するように呟くミコトさん。杉の木に凭れ足元をじっと見つめ思案に耽る彼女の姿は、絵画のように美しかった。

 ミコトさんが顔を上げる。彼女の表情は、何かを決心したかのように引き締まっていた。

 

「ねえ、タマムシ君。私は、死を恐れていた方がいいと思う?」

 

 投げかけられた質問は、力がなく、何かに縋らなければ生きていけないほどに弱っていた。それを発した彼女もまた、何かに縋ろうとしているのだろうか。

 僕は答えを言おうとしたが、喉に何かが引っかかっているみたいに、言葉が上手く出てこない。

 喉を締め付けているのは誰なのだろうか? そんなの考える必要もなかった。間違いを恐れる僕自身だ。

 

 何も答えない僕を見て、ミコトさんが目を細める。いつものような呆れた笑みはなく、その顔は微かな怒りが浮かんでいた。

 

「君は本当に、自分の意見を言わないんだな」

「…………」

「まるで子供だ。子供じゃないか。何も言わなければ、時間が全て解決してくれると思ってるのか?」

 

 彼女の瞳に囚われる。影の中だというのに、その瞳は妖しく輝いているように見えた。

 

「まるで、水面に浸かった柳葉みたいだ。自分で動くこともなく、他人の意見に流されるだけ。それじゃあ、何のために生きてるの?」

 

 とても厳しい言葉だった。彼女がいつも大人達に向けて発せられる怒りの言葉が、初めて自分に向けられたので動揺してしまった。心無い言葉に、恥ずかしさと怒りが込み上げてきた。しかし、それらの感情に隠れるように、微かな悦びが混ざっているような気がした。

 悔しくて、痛くて、寂しくて、僕は逃げるようにその場を後にしたのだった。

 

 

 ▼

 

 

 あれから三日ほどが経った。あの日、ミコトさんに厳しい言葉を投げかけられてから、僕は神社に行かなくなった。行かなくなったではなく、行けなくなった、或いは行き辛くなったというべきか。

 ぼんやりと何もすることなく日々を過ごしていると、ふとした瞬間に彼女のことを思い出してしまう。しかし彼女のことを思い出すといっても、僕は彼女の表面的なことしか知らず、瞼の裏に沈み込んでいくのはいつもどこか傷の見える鮮やかな笑みだけだった。

 

 会いたいなと思うのは女々しいのだろうか。

 その風鈴のように涼し気な声を再び聴きたいと思うのは、馬鹿げているのだろうか。

 何だか世界から色が抜け落ちた気分だった。彼女が視界にいないというだけで、日々が寂しくなり、日が落ちる速度が早くなっている気がした。

 

 頭の中で蜷局を巻くのは、あの時彼女に言われた言葉。柳葉みたく、誰かの意見に流されるだけの人間擬き。そう言われて、何も反論できなかった。それは彼女の言葉が正論であったという理由もあるが、それ以上に、あの時のミコトさんが、触れれば砕け散ってしまいそうになるほどに繊細な心をしていたからなのだと思う。もし僕があの時何か反論をしていたのならば、その時点で僕らの関係は修復不可能になっていただろう。となればあの時何も言わずに逃げ出したのは僥倖であったと言える。

 なんて言い訳を頭の中で繰り広げながら、机の上に鉛筆を走らせる。特に意味のない絵画はだんだんと増えていき、机上の空間をなくしていく。柵が増えて、大人になっていく子供のようだった。

 何気ない顔をして会いに行こう、そんなことを思いながら机の上の落書きを消し始める。柵も一緒に消せればいいのに、なんて馬鹿げたことを思いながら。

 

 

 

 

 

 

 浮き立つ心を抑えながら階段を上り終えた僕であったが、ミコトさんのテントの前に見知らぬ影があることに気づき、その足を止める。

 男性だった。既に中年といえる年齢をしていることは遠目からでもわかるが、彼が一体何者で何をするためにテントの前に立っているのかはわからなかった。

 よく見ると、その男性の前にミコトさんが立っていた。

 二人は何やら言い合いをしているようで、ミコトさんはしきりに大仰に身振り手振りを交えながら話し、男性の方が冷静に話しているようにも見えた。

 間に入って仲裁すべきかと考えたが、よく考えれば部外者の僕があの中に入る理由が見当たらない。僕は鳥居の裏に隠れるようにして二人の様子を伺った。

 しかし口論は案外すぐ終わった。男性は踵を返し、こちらに階段の方へと歩み寄ってきた。鳥居の下ですれ違う際に少し会釈をされた。ちらりと見えた瞳は、燃えるように輝いていた。ミコトさんによく似ていた。

 

 急いでテントまで走っていくと、中から微かにすすり泣く声が聞こえてきた。

 

「ミコトさん?」

 

 呼びかけると、一瞬すすり泣く声が止み、テントの入り口が控えめに開けられる。

 

「タマムシ君……何しに来たの」

「ミコトさんと話をしようと思って……邪魔なら帰ります」

「……いや、いいよ。入って」

 

 テントの入り口が開けられ、その中に入る。何だか今日は少しテントの中が涼しいような気がした。

 ミコトさんはかなり泣いていたのか、目は赤く腫れあがり、テントの床には涙や洟を拭いたティッシュが散乱していた。

 

「……見苦しいところを見せちゃったね」

「…………」

 

 何か返事しようと思ったが、何も言葉が出てこない。しかしこの場合、何も言わないことこそが正解なのではないかと思えた。

 

「お父さんなんだ、あれ」

「目が、すごく似てました」

「本当?」

 

 そっと、ミコトさんが左手で瞼を触った。そこにある父との共通点を探しているのか、暫く瞼に手を当てたままで、俯いていた。

 

「何か、口論してたんですか?」

「ん? ああ、うん。早く家に帰ってこいって、怒られちゃった」

 

 怒られちゃったと言った時、彼女の眉に力が入った。しかしそれは怒りではなく、涙をこらえるためのものだった。

 

「もう子供じゃないんだから、反抗なんか止めて、早く家に帰ってこいって、言われたんだ。しかもそのくせ、子供は家で過ごすべきなんて言い始める。ホント、むちゃくちゃだ」

「……………………」

「むちゃくちゃだ、むちゃくちゃだよ」

 

 ミコトさんの声が震え始める。もう、限界のようだった。

 

「子供じゃない、私は子供じゃない。もう自立だってしてるし、一人で生きていけるんだ……子供じゃないんだ、私はもう、大人なんだ……っ」

 

 涙声で、うわ言のように同じことを繰り返す。大人でも子供でもなく、病人のようだった。鼻詰まりの声がその悲壮さに拍車をかけていた。

 涙が人を強くするなんて言葉を聞いたことがあるが、それは嘘っぱちであるということが理解できた。涙を流すミコトさんはぼろぼろで、この事件を踏み台に成長することなんて到底不可能だと思えたからだ。

 

 暫く泣き続けていたミコトさんだったが、やがて落ち着いたのかごしごしと涙を袖で拭い、こちらに笑いかけてきた。

 

「ごめん、また見苦しいとこ見せちゃったね」

「……大丈夫です」

 

 沈黙が横たわり、だんだんと空気と混ざっていった。

 

「私さ」

 

 そんな空気は、ミコトさんの言葉で霧散していく。ミコトさんは、わずかに目を伏せながら静かに語り出した。伏せられた睫毛についている涙が綺麗だった。

 

「小さい頃に母親が死んじゃって、それ以来お父さん一人に育てられてきたんだ。勿論良い父親だし、尊敬もしてる。けど、あの人は子育てを全く知らなかった」

 

 子育てをされた人間がした人間にダメ出しをするというのは、なかなかに面白い光景だった。しかし彼女は真面目に話しているので、僕は横槍を入れることなく相槌を打った。

 

「あの人は子供のことをロボットか何かだと思ってるんだ。自分の言った通りに動く、都合のいい人工知能。私のことなんか、知ったこっちゃないんだ」

 

 言葉の最後には、思い出したかのように憎悪の感情が宿っていた。

 

「子供は親の言うことを聞くべき。子供は親を助けるべき。子供は、子供は、子供は……! 私個人のことなんて、何もわかってない……!」

「…………」

「私はもう大人だ。一人の人間なんだ」

 

 大人だ、彼女は高らかにそう宣言した。だが不思議なことに、彼女が自分のことを大人だと言い張れば言い張るほど、彼女にまとわりつく子供の雰囲気がさらに濃くなっていた。

 

「親の言いなりになんかならない。全部全部、裏切ってやる」

 

 彼女の本心が垣間見えたような気がした。子供の反抗心、それが彼女の言動の全てなのだろう。しかし、彼女はそれを認めない。自分は大人で、周りがそれを理解していないと思っているのだ。しかしそのような強硬手段に出れば、自分が大人であることなど証明できるはずもない。正直に言って、愚策としか思えなかった。しかし同時にまた、その愚策を積み重ねた先にあるものこそが、彼女を大人たらしめる要素となっていくのだろうという気もしていた。

 

「ここ最近はどうだった?」

 

 重苦しい空気を取り払うためか、若干演技じみた声音でミコトさんが尋ねてくる。わざわざ演技くささを指摘する必要もないので、僕はそのまま応答した。

 

「特に何もありませんでした。ただ、もうすぐ夏休みだからか、皆喜びを隠しきれてない感じでしたね」

「……あれから、イジメはどうなの?」

「何もありません。暴力も振るわれてませんし、嫌がらせも受けてません」

「そう、ならよかった」

 

 感情の見えない声だった。本当に安堵しているのか、よくわからなかった。

 再び沈黙が訪れる。ミコトさんは特に意味もなく前髪を弄っていた。

 

「ねえ、明日夏祭りあるの知ってる?」

「ああ、なんか回覧板に書いてましたね」

「あれ、一緒に行こうよ」

 

 その言葉の意味があまり理解出来ず、僕はぽかんと彼女の顔を見た。未だに前髪を弄っているせいで、その表情は上手く見えない。

 

「いいですけど……なんでですか?」

「……祭りに誘うのに理由なんてあるの?」

 

 なかった。

 彼女の呆れた表情を見るのも、もう慣れてしまった。だがそれでも、もう見飽きたと感じることはなかった。多分、これからもないのだろう。

 

「明日は土曜だし、いっぱい遊べるね」

「祭りは夜からですよ」

「いいじゃん別に。細かい男だな」

 

 ミコトさんが前髪から手を離した。いつものような笑顔がそこにあった。雨後の紫陽花がより一層輝くように、彼女の涙に濡れた笑みは僕の心に強い印象を植え付けた。空元気が彼女を色鮮やかに染めていた。

 

 

 

 

 

 

 神がもしいるのなら、そいつは多分危なっかしいことが好きなのだろう。

 ミコトさんと他愛ない話を繰り広げ、気づいたら黄昏時になっていたので帰宅している途中。

 帰路に就く僕の目の前に見知った人影が映りこんだ。

 

「こんばんわ、タカ君」

 

 ふらふらと目の前を歩くその姿は、どこかおかしい。特にどこかを目指して歩いているというのではなく、身体を適度に疲れさせるために歩いているといった感じであった。

 思わず声をかけてしまったが、タカ君は僕の声に気づいていないようで、そのまま歩き続けている。無視しても良かったのだが、タカ君は僕と同じ方向を歩いているので、ずっと後ろを歩き続けるよりかは声をかけてさっと抜かした方がいい。そう思い再び声をかける。

 

「タカ君、こんばんわ」

 

 今度は先程よりも大きな声で名前を呼ぶ。すると、今度はきちんと聞こえたのか、ぎこちない動きでタカ君がこちらを向いた。錻のようだった。

 こちらを向いたはいいものの、僕が誰だかわかっていない様子だった。辺りは既に薄暗く、声だけではすぐに判断できなかったようだ。

 しかし直ぐに僕だと気づいたようで、その瞳に力が入る。

 彼の瞳に浮かび上がったのは、怒りだった。

 足早にこちらに来るタカ君を見て、僕の瞼の裏には数秒後の景色がはっきりと浮かんだ。

 右頬に強い衝撃が走る。吹き飛ばされ地面に仰向けに倒れる。片手を地面につき起き上がろうとしたが、その前にタカ君が僕の腹に馬乗りになった。おかしな体勢になってしまったせいで、左手が痛む。なぜかは分からないが、掌に突き刺さる小石が頬よりも痛んだ。

 

 馬乗りになったタカ君は、しかしそれから何もしてこなかった。ただ僕の腹の上に乗って、呆然とした表情でこちらを見るばかりであった。

 それを見ると、今の拳は計画的なものなのではなく、衝動的なであることがわかった。なにか抑えきれない激情が、僕をはけ口として発散されただけなのであった。

 

「タカ君?」

 

 あまりにも動きがないので声をかけてみると、はっとした表情になり直ぐに僕の上から退いた。タカ君の臀部と密着していた部分が外気に晒され、貫くような爽やかさが腹部に宿った。

 僕から離れたタカ君は、しかしどこかに行くことも無く、ただ緊張した面持ちで地面を睨みつけているのだった。何だかそれはガタイの良いタカ君にしては子供っぽい仕草であった。

 

「ねえ、タカ君」

「……あ?」

「タカ君は、死にたいと思ったことある?」

 

 不意に気になり、尋ねる。彼のように強く他人の上に立つ人間が、自分がまるで世界にたった一人しかいない人類であるかのような妄想に陥って、この世にうんざりすることがあるのだろうか。

 僕の質問に、タカ君は少し恐れているように見えた。

 

「何だよ、その質問……」

「特に意味はないよ。それで、死にたいと思ったことある?」

「ねえよ、当たり前だろ」

 

 タカ君はそう呟くと、僕の顔を見て何かを言いかけたが、結局むっつりと黙り込んでしまった。彼の表情からは何も読み取れなかった。

 会話が途切れる。殴られた頬が熱を持ち始めた。多分、腫れているだろう。

 

「お前はどうなんだよ」

 

 唐突に、タカ君がこちらを見た。そこにおちゃらけた雰囲気はなく、真っ直ぐとこちらに目を向けていた。

 

「お前は、死にたいと思ったことがあるのか?」

「ないよ」

 

 勿論、即答である。その答えに、タカ君は面食らったようだった。

 

「そうか……」

「できることなら、ずっとずっと生きていたいくらいだよ」

「…………」

 

 その答えに、彼は黙り込んでしまった。瞳だけが忙しなく動いていた。

 だがすぐに、彼は踵を返してどこかへ行ってしまった。何かから逃げているようだった。最後に見た彼の横顔は、確かになにかに脅えていた。

 

 

 ▼

 

 

 

 

 驚くほどに晴天だった。澄んだ空気は陽光によって熱されており、一息吸うだけで肺が苦しくなってくるほどだった。

 祭り当日がこれほどの暑さになるとは思わず、僕は恨み言を口の中で転がしながら、神社へと向かった。

 しかし、ミコトさんは神社にはいなかった。テントだけはあるものの、中はもぬけの殻であった。

 ふと、また期待を裏切ろうとしたとかそういう理由で約束をすっぽかされたのではないかという考えが頭をよぎった。そんなことが浮かぶ自分の情けなさに嘲笑を浮かべたが、よく考えれば彼女ならばなんてことない顔でやってのけそうなことだった。

 

 暫く待っていると、ミコトさんが現れた。いつもと同じ服装だった。浴衣が見れるかもと密かに思っていたので、少々残念な気持ちになったが言わないでいた。

 

「やあ、早いね」

「僕、十五分遅れてやってきたんですけど」

「え、そうだったの? じゃあ遅いね」

 

 悪びれもなく彼女が言う。照り付ける太陽によって紫色に輝く、からりと晴れわたった彼女の髪を見て、何故か梅雨の終わりを強く感じさせられた。

 

「それで、今日は何をするんですか?」

「君の家に行きたいな」

「……はい?」

「君の家。誰もいないんでしょ?」

「いや、そうですけど……特に何もありませんよ?」

「何かあるから行くんじゃないんだよ。行きたいから行くだけ」

 

 強情になった彼女の前にはあらゆる論理や言葉は意味を持たない。僕は先ほど歩いた道を再び歩き、ミコトさんと共に帰路に就いたのだった。

 

 

 

 

 

 

「いい家じゃん」

「もう僕しか住んでないんで、大きすぎるような気はしますけど」

 

 ミコトさんは僕の言葉を既に聞いてはおらず、庭を眺めたりインターホンを押したりとしたいことをしたいように行っている。

 

「いい家じゃん」

 

 再び彼女はそう言った。僕はその言葉に応えず、家の鍵を開けた。

 割り込むように僕を押し退け家に入ったミコトさんは、靴を脱ぎ散らかしてリビングへと駆けて行った。なんだか今日の彼女は子供のようだった。

 

 朝から換気をしていなかったリビングは熱気のせいでひどく暑く、籠った空気特有の不快な匂いがした。

 

「暑いね」

 

 ミコトさんがそう呟いた。彼女がその言葉を発した瞬間にこの家に夏が訪れた、そんな気分になった。

 

「エアコンつけますか?」

「いい。窓開ければじゅうぶんだから」

 

 窓を開けると、熱気を孕んだ風が室内に雪崩れ込んでくる。そこまで涼しいとは思えなかったが、髪を微かに揺らし窓の外を眺めるミコトさんの横顔を見ていると、体が冷えていくようだった。

 

「それで、なんで僕の家に来たんですか?」

「さっきも言ったでしょ。行きたかったから来たって」

「……それでも、いきなりすぎますよ」

「あれ、これ何?」

 

 僕の言葉を無視したミコトさんが、机の上に置いてあった紙きれを拾う。

 

「両親の遺書ですよ」

「あー……なんでそんなの取ってるの?」

「わかんないですけど……捨てる気になれなかっただけです」

「ふぅん」

 

 

 ミコトさんは椅子に座り、興味なさげな表情で遺書を読み進めていく。無遠慮こそが遠慮の現れであるとでも言いたげな行動であった。

 

「つまんない遺書だね」

「遺書に面白いもくそもないですよ」

「確かにそうなんだけどさぁ……なんかなぁ」

 

 遺書が元あった場所に戻される。とても丁寧な置き方だった。少し意外に思ってしまった。

 

「自殺の言い訳ばっかりだよ、この遺書の中身。自分のことしか書いてない」

「まあ、遺書なんてそんなもんでしょ」

「そんなもんなわけないでしょ。息子置いて死ぬんだから。文章で自分を責めて楽になって、意味わかんない」

「…………」

 

 何故か泣きたくなった。彼女にそう言われて、初めて僕が同じことを両親に対して思っていたのだと知ったからだった。

 

「大人って、本当に馬鹿みたい」

 

 最早彼女の決め台詞のような言葉であった。それを言うことで、彼女は見えない問題を解決しているようだった。

 そんな彼女を見ていると、僕は知らず知らずのうちに口を開いていた。

 

「大人って、何なんでしょう」

「……ずるい存在?」

 

 その言葉には、彼女の劣等感が見え隠れしている気がした。自分が自分の思い描く大人のように狡猾になれないから、大人をずるい存在として憎んでいるだけなのだ。

 

「いつから人間はずるい存在になるのか、僕らはいつずるい存在になっていくのか、考えれば考えるほど、頭が痛くなってくるんです」

「…………」

 

 ミコトさんは遺書をじっと見つめていた。そこに隠れている大人の真理を見出そうとしているのだろうか。

 

「僕らはいつ大人になっていくんでしょうか」

「私はもう大人だよ」

「子供ですよ、ミコトさんは」

 

 ミコトさんがこちらを見る。怒りはなかった。代わりにあったのは安堵。まるで、何かから解き放たれたかのようだった。

 

「私、子供かな」

「子供です。僕だって子供です。大人だって、子供なんです」

 

 自分の重荷に耐え切れず、息子を置いて死んでいった両親。

 自分の夢を捨てきれずに、田舎の教師になって神頼みする人間。

 子育てをしたことがなかったから、失敗して娘に嫌われてしまった父親。

 

 僕らは皆等しく子供のままだ。誰も、世界中の誰もが大人になんてなっていない。ただ子供のまま、それを取り繕う技術を学んでいるだけなのだ。

 ミコトさんは静かに微笑んだ。何故微笑んだのかはわからなかった。

 

「そうかもね。だから大人はずるいんだ。私達と同じ子供のくせして、大人ぶってるから」

 

 大人ぶる、それは、本当は大人ではないのに大人のように振舞うこと。多分、彼女は心の隅で気づいていたのだろう。大人は大人なのではないと。だからこそ耐え切れなかった。自分が彼らのように大人ぶることが出来なかったから。

 彼女を見た時に感じた、大人ぶった子供を演じている大人のような感覚は、それの表れなのだろう。子供が大人ぶろうと子供を隠すとき、彼らはだんだんと大人に近づいているのだ。

 そうやって大人ぶり続けた人間が、初めて完璧に近い大人になっていく。完璧ではない。完璧な人間なんてこの世にいないからだ。ただ、完璧に近い。九分九厘大人であろうという人間が、狭く険しい大人の道を歩き続けて形成されていくのだ。ということは、僕らは今まさに大人ぶっている最中。蝶になるために蛹になろうとする芋虫のような存在なのだ。そう考えると、何故か気が重くなってきた。

 

「儘ならないものですね」

「そういうもんなんじゃないのかな、人生って」

 

 繰り広げられる会話は、どこか大人びていた。

 窓から吹き込んだ風が、遺書を動かし床の上に落とす。僕はそれを拾って机の上に置きなおそうとし、少し考えてからそれをゴミ箱に入れた。

 

「いいの? 捨てて」

「いいんです。なんか、もう必要ないと感じたので」

 

 それもまた、どこか大人びた感情であった。苦みと甘みが一緒くたになるような複雑な心のまま、僕はしわくちゃになった遺書を更にゴミ箱の深みへと押しやった。

 

「それで、何するんですか? ずっと駄弁るわけにもいかないでしょう」

「私は別にそれでもいいんだけどねー。ゲームでもしよっか」

「古いのしかありませんよ。それでもいいのなら」

「君といっしょなら何でも楽しめるよ」

 

 それは何だか嬉しくなる言葉であった。しかし同時に、どこか息苦しさも感じた。緩やかな倦怠感が、心の重りになっていた。

 冷蔵庫を開き、飲み物を取る。ふと、冷蔵庫の奥底に親が飲まずに置いていた缶ビールを見つけた。

 

「ミコトさん、ビールありますよ。大人ぶりの記念に、飲んでみませんか?」

「未成年飲酒は罪だよ」

 

 案外、真面目な人であった。

 

 

 ▼

 

 

 あれから他愛ない時間を彼女と共に過ごし、気づけば日が傾き始めていた。

 ソファの上でだらしなく倒れこんでいたミコトさんは、時計を見てあっと声を上げた。

 

「もうこんな時間かぁ、早いね」

「祭りまであと一時間くらいですよ」

「うん、そうだね。じゃあ私、一回家に帰るよ」

「何か忘れたんですか?」

「浴衣。せっかくの祭りなんだから、着ないとね」

 

 見送りなんて必要ないと言われたが、一応玄関の前までついていく。

 靴を履いたミコトさんは、再び時計をちらりと見た。

 

「ねえ、タマムシ君。私は、子供かな」

「子供だと、思いますよ」

 

 断言することが出来ずに、僕は曖昧な答えを返した。ミコトさんは微かに笑った。

 

「確かに、私は背伸びをした子供なのかも。大人になんて、全くなれてないのかも」

 

 でもね、と彼女は続ける。爛々と輝く瞳に吸い込まれた。

 

「それでも、私は子供のままじゃいられないの」

「…………」

「子供のままでいられるほど、私は純粋でもないし愚直でもない。だから私はこれからも大人のふりをしながら生きていく」

 

 何故ですかとは尋ねられなかった。彼女の瞳を見つめていると、それを尋ねることすら野暮のように思えた。

 

「だから、私は死を恐れないし、誰かの言いなりになんてならない。私は今までのように生きていくよ。君もそうでしょ? 神なんて信じずに、自分の身に起こる全てのことをだんまりを決め込むことでやり過ごす方法、変えるつもりはないでしょ?」

「…………」

「ほら、何も答えない。人間、そんな簡単に変われないんだよ」

 

 悲しそうに笑いながら彼女は玄関のドアを開けた。

 

「じゃあね、また一時間後」

 

 

 ▼

 

 

 あれから再びミコトさんが訪れるまで、特にすることもないのでリビングで黄昏ていた。

 インターホンが押された時、既に数時間以上が経過した気分でいたが、時計を見るとたった一時間と十六分であった。どちらにせよ少し遅刻はしている。

 

「やあ、待たせた?」

「ある程度は」

「そこは僕も今来たところって言うんだよ」

「来るも何も、僕の家ですから」

 

 どうでもいい会話が進んでいくが、僕の頭はそれどころではなかった。

 ミコトさんは朝顔柄の浴衣を着ていた。草履は新品なのか少し足を動かすたびにぎしぎしと草履がほぐれていく音が鳴っている。髪は横に結っており、いつもは髪で隠れて見えない左耳が露わになっている。その耳がやけに色っぽくて、不覚にも頬が熱くなった。

 化粧はしていないようだが、興奮のためか紅くなった頬はどんな化粧品よりも艶やかに見えた。

 僕の視線に気づいたのか、ミコトさんはその場でくるりと一回転し、どう? と僕に問いかけた。

 

「……いいんじゃないですか?」

 

 素直に褒めるのはなぜか恥ずかしく、僕はぶっきらぼうにそう言った。しかし僕の心なんてものは彼女に筒抜けなのであって、その言葉は彼女の笑みを更に深くするだけのものであった。

 

「じゃあ、行こっか。もう出店とか始まってるよ」

「出店とか、あるんですね」

「少ないけどね」

 

 歩き出す。ミコトさんはちらりと僕の方を見て、残念そうにため息を吐いた。

 

「なんで君はいつも通りの格好なわけ?」

「浴衣がないもんで……」

「まあ、いいけど」

 

 全然よさそうではなかったが、祭りに対する好感情の方が大きかったのか、ミコトさんの機嫌はそこまで悪くはならなかった。

 

 祭りの会場は、廃神社から少し歩いた場所にある大きな広場で開催されていた。

 広場には所狭しと出店が並んでいる。ミコトさんは出店を見るや否や飛んで行ってしまった。

 祭り自体の規模は小さいので、広場の中には見知った顔がいくつか見えた。その中にタカ君と翔ちゃんもいた。翔ちゃんはこちらに気づいていなかったが、タカ君は一瞬こちらを見て、すぐに目を逸らした。

 

「おうい、何そこでぼーっと突っ立ってんのさ! 早くおいでよ」

 

 既にミコトさんはたこ焼きを貪っていた。夏の夜は昼に比べると涼しいとはいえ、湿気を含んでいるので未だに蒸し暑さを感じる。

 出店に近づくと、微かにたこ焼きのソースの匂いがした。なるほど、ソースの匂いを嗅ぐと、こんな蒸し暑い日でも少し食欲がわいてきてしまう。

 すると、僕の目の前にたこ焼きがにゅっと現れた。ミコトさんが爪楊枝に突き刺して、こちらに寄こしているのだった。

 

「はい、美味しいよ」

「……ありがとうございます」

 

 口に含む。火傷しそうなほどに熱いたこ焼きだったが、何故か口内より耳に溜まった熱の方が気になった。

 

「あっついねぇ~、私、飲み物買ってくるよ。何がいい?」

「別に僕は大丈夫ですよ」

「何言ってんのさ。お茶でいいよね? ちょっと待っといて」

 

 返事を待たず、たこ焼きのパッケージをこちらに押し付けてミコトさんは走り去ってしまった。なんとも慌ただしい人である。

 設置されていた椅子に座り、ミコトさんの帰りを待っていると、どこからか名前を呼ばれた。

 見ると、遠くから翔ちゃんが手を振っていた。

 

「来てたんだ。誰かと一緒に来たの?」

「うん、まあ……」

 

 ミコトさんのことを言うのは何故か憚られたので濁しておく。後ろめたさを感じた。

 

「タカ君も来てたよ」

「さっき見た。皆来てるんじゃない?」

「狭いからね、しょうがないよ」

 

 そう言って笑う翔ちゃんの手には綿あめが握られていた。子供っぽいと思ったが、綿あめを握って屈託のない笑みを見せる翔ちゃんは、どこか大人っぽくも見えた。

 

「翔ちゃんは、大人だね」

 

 そんな言葉が気づけば出ていた。

 僕の言葉に、翔ちゃんは目を丸くして首を傾げた。

 

「僕が? そんなことないよ、背だって小さいし、一人じゃ何もできないし」

 

 何も答えず、たこ焼きを食べた。彼が大人であるという事実は、僕だけが知っていればいいと、そう思った。

 翔ちゃんは何も答えない僕を不審そうに見て、しかし何も言わずに綿あめを一口頬張った。

 

「あ、僕もう行かなくちゃ。じゃあね」

「うん」

「タカ君のこと、赦せる?」

 

 不意打ち気味に、翔ちゃんはそんなことを言った。

 僕は咀嚼を止め、無理やりにたこ焼きを飲み込んだ。

 

「赦すって、何を?」

「君を、いじめていたこと」

 

 言いにくそうに、翔ちゃんは目を泳がせた。その瞳の中には、僕とタカ君、どちらも映っている。

 

「僕が赦したところで、タカ君が自分を赦せないなら、それは意味ないと思うけど」

「それはそうだけど、君が赦すことで、やっぱりタカ君は救われると思うんだ。だから……その……」

 

 続く言葉を、翔ちゃんは言わなかった。それがどれほどに罪深い一言なのか、自分で理解しているからだろう。

 一瞬、刹那の間だけ怒りが沸き上がったが、怯えながら縮こまる翔ちゃんを見て、何もかもがどうでもよくなった。僕はもう一つたこ焼きを頬張り、わかったよとだけ言っておいた。

 

「赦すよ、赦す」

「本当? 大丈夫なの?」

「……さあ」

 

 翔ちゃんは笑顔のまま、どこかへ走り去っていった。多分、友達か両親のところへ帰ったのだろう。

 何だか不快だった。今すぐにミコトさんに愚痴を気分だった。

 ふと、時計を見た。ミコトさんが飲み物を買うと言って走り去ってから、既に十五分以上が経過している。いくら時間にずぼらな彼女であったとしても、これは遅すぎる。

 僕は立ち上がり、彼女を探すべく広場の中を歩き始めた。

 

 

 ▼

 

 

 ミコトさんは案外すぐに見つかった。広場の端っこにある自動販売機の近くに、彼女は立っていた。

 すぐに声をかけられなかったのは、彼女の前に僕の知らない誰かがいたから。友達か何かなのか、ミコトさんの前には二人の人間がいた。男女であった。

 しかし、すぐに異変に気付いた。明らかに二人はミコトさんに対し攻撃的な態度をとっていたのだ。時に小突いたり、時に嘲笑ったり、彼らはあらゆる方法を用いて、ミコトさんを攻撃していた。

 しかし意外だったのは、ミコトさんが何も言わずに黙り込んでいることだった。僕の想像の中の彼女は、そういった理不尽な攻撃に対し毅然と立ち向かうような人だったので、俯き、嵐が通り過ぎるのを祈る動物のような態度を取っている彼女に少なからず驚いてしまった。

 

 しかし、今は驚いている場合ではない。すぐに駆け寄って、彼女の手を掴んだ。驚くほどに冷たい手であった。

 

「ミコトさん」

「……君」

 

 いきなり手を掴まれ、ミコトさんが驚き顔を上げる。怯えた表情だった。

 

「だれ?」

「知らない」

「ミコト、知り合い?」

「…………」

 

 二人組は、軽やかともいえるほどの口調でミコトさんに話しかける。びくりと、彼女の肩が跳ねた。

 

「なんで無視すんの? 酷くない?」

「てか、誰?」

「……ミコトさん、大丈夫ですか?」

「ミコトさんだって、ウケるわ」

 

 何が面白いのか、二人はにやにやと嫌らしい笑みを浮かべこちらをねめつけていた。何故かわからないが、腹が立った。僕の知らないことを知っているこの二人にも、先ほどから怯えっぱなしのミコトさんにも。

 ぐいと腕を引っ張ると、抵抗もなくミコトさんがこちらに近寄ってきた。

 

「行きましょう」

「おい、ちょっと待てって。今取り込み中なんだから」

「ちょっと待っててよ。すぐに用事終わるからさ。あ、それかコイツにも聞いてもらう? ミコトの過去バナシをさ」

「……早く行きましょう。こんなの、相手するだけ無駄ですよ」

「……た、タマムシ君」

 

 先ほどまで笑みを浮かべていた二人は、僕の言葉を聞いてその顔から笑みを消した。恐ろしさで、足が竦んだ。しかし、それを相手に気づかれないために、必死に抑えた。

 多分ミコトさんにはバレてるんだろうな、なんて考えながら、僕は彼女の手を引いて走り始めた。

 後方から怒号が聞こえてくる。多分、すぐにでも追いかけてくるだろう。

 

「ちょ、ちょっと、何してんの!?」

 

 すぐ後ろで、ミコトさんの戸惑いの声が聞こえてくる。その声にすら腹が立って、僕は怒鳴り返した。

 

「あんなの、無視していいんです! いちいち気にするなんて、あなたらしくない!」

「な、なに言って……」

「大人なんでしょう!? 誰の言いなりにもならないんでしょう!? なら、俯いてないで言い返してやってくださいよ!」

「……っ!」

 

 鈴虫の声と風鈴の音が混ざり合い、涼し気な音を奏でていた。

 人々の喧騒も、だんだんと近くなってくる怒号も、何も気にならなかった。

 ただ、僕達の足音だけが世界に響いていた。夏の夜だった。

 

「ねえ! 大人ならさ、この場合何すればいいと思う!?」

「自分のしたいようにするんですよ!!」

「そりゃそうか! そりゃそうだな!」

 

 ミコトさんが快活に笑う。久々に見た、彼女の純粋な笑顔だった。それを見れただけでも、僕らが今走っている意味があったような気がした。冷たかった手は、いつの間にかたこ焼きみたいに熱くなっていた。

 

 ミコトさんが後ろを振り返る。すぐ後ろに彼らがいる。もう手を伸ばされたら捕まってしまう。それでも、僕らは平気だった。無性におかしくて、涙が出るくらい楽しかった。

 手を強く握りしめられる。それは合図だった。手を伸ばした彼らに向かって、彼女が叫んだ。

 

「ばぁああああか! 死ね!!!」

 

 稚拙な言葉だった。しかし、それでも清々しい程に本音だった。

 その澄んだ声は、何にも邪魔されることなく夜空へと飛んで行く。こちらを見た彼女の顔は、晴れやかだった。そのまま空へ飛んで行ってしまいそうなほどに自由だった。

 次の瞬間、後方から突かれ地面に倒れる。すぐ横にミコトさんもいた。

 暴言を吐かれ顔を真っ赤にして怒る彼らが、僕らに拳を振るうために近づいてくる。反射的に目を瞑った。

 

 

 

 しかし、いくら待っても拳は飛んでこない。恐る恐る目を開くと、誰かが僕らの前に立っている。

 ガタイの良い彼の登場に、何故だろうか、僕は特に驚きはしなかった。

 

 

 ▼

 

 

 タカ君の登場により、全ては綺麗に片付いた。

 男女二人組は、タカ君に恐れをなしたのかすぐに何処かへ走り去ってしまったからだ。

 息を上がらせている僕ら二人を、タカ君は静かに見つめていた。

 

「何してたんだ」

「ちょっと、逃げてた……」

「…………」

 

 相変わらず、彼と目は合わなかった。それでも、何故かタカ君の心がわかったような気がした。

 

「ありがとう」

「……は?」

 

 感謝の言葉を述べると、驚いた顔が返ってきた。彼のそんな表情を見るのは、珍しかった。

 ミコトさんは、いつの間にか少し遠くで僕らのことを見つめていた。

 

「なんで、感謝の言葉なんか」

「助けてくれたからでしょ。ありがとう、タカ君がいなかったら、ぼこぼこにされてた」

 

 その言葉に、タカ君は苦しそうに顔を歪めた。自らのうちに潜む何者かと争っているようだった。

 ふと、遠くに誰かの人影が見えた。小さな少女のようだった。少女はじっと、タカ君を見つめていた。

 

「あの子、妹?」

「……そうだよ」

「そうなんだ」

 

 彼に妹がいるなんて、知らなかった。しかし、それは当たり前の話なのだろう。何故なら僕は彼のことを知ろうとしなかったし、彼も僕と接点を持とうとしなかったからだ。

 彼も彼で、彼の人生があったのだ。それに気づいて、何か嬉しく思った。

 

「ありがとうね」

「なんでそんなこと……」

「ありがとうって、言いたかったから?」

「なんだよそれ……」

 

 呆れたように、タカ君が笑った。初めて見る顔だった。思えば、僕らはお互いのことを全く知らなかったのだ。

 暫くの間沈黙が流れる。タカ君は、何か言いたげにじっと目を瞑っていた。

 

「前さ、お前、言ったじゃん」

「何を?」

「俺たちが生きる意味って何なのかって」

「うん」

「あれ、考えてみたんだ」

 

 タカ君が目を開いて、まっすぐにこちらを見た。彼の瞳がこれほどまでに綺麗だとは、僕は知らなかった。

 

「思えば思うほど、浮かび上がってくるんだ。生きる意味も、死なない意味も」

「…………」

「けど、浮かび上がれば浮かび上がってくるほど、また疑問が出てくるんだ。それは、他人を殴ってまでして手に入れる意味なのかって」

「…………」

「…………」

「…………」

「……悪い。帰るよ、俺」

 

 肩を落として、タカ君は踵を返す。その方に向かって、僕は言葉を投げかけた。

 

「赦すよ、僕は」

「……なん、でだ」

「翔ちゃんに言われたから」

「そうか、翔か。そうか……」

 

 自虐的な笑みを浮かべそう呟いた彼は、静かに僕の元から去っていき暗闇に溶けていった。

 何故かはわからないが、多分これから彼のことを見ることはないのだろうなと、そう思った。

 

 

 ▼

 

 

「終わった?」

「終わりましたよ」

「随分と長かったね。友達?」

「……まあ、そんなとこです」

 

 並んだ僕らは、どちらともなく歩き始めた。行き先は特に決めていなかった。しかし、不安はなかった。

 

「もうすぐで花火が打ちあがるらしいよ」

「へえ、花火あるんですね」

「まあ、しょぼいけどね」

 

 そんなくだらない話が愛おしかった。

 ふと気づくと、神社まで続く階段が目の前にあった。どうやら、二人とも無意識のうちに廃神社へと足を運んでいたようだ。

 

「神社からなら、花火綺麗に見えるかもね」

「そうかもしれませんね」

 

 階段を上る。ミコトさんは浴衣のせいで若干上りづらそうだった。手を繋いで一緒に上ろうかと思ったが、気恥しいのでやめておいた。

 

 境内に着くと、そこは暗闇だった。電気設備などがないのだから、それは当たり前のことだったが、いつもは彼女のテントについているランタンが光っていたので、真っ暗闇は新鮮だった。

 

「……ここに私以外の人間がいることにも、もう慣れちゃったな」

 

 感慨深そうにミコトさんが呟いた。暗闇でその横顔は見えないが、声から笑みを浮かべているということがわかった。

 不意に、遠くから間の抜けた音が響いた。ひゅるひゅると空気が抜けるような音は暫く続き、それと同時に細い線が空へと飛んでいく。

 

「花火、始まりましたね」

「……うん」

 

 二人並んで、空を見上げる。

 細い線がふっと消える。そして次の瞬間、大きな華となって夜空に咲いた。腹に響く重低音が次いでやってくる。さざめきのような歓声も聞こえてきた。

 

「綺麗ですねぇ」

「うん」

 

 ミコトさんはテントへ歩いて行って、すぐにランタンを持ってやってきた。暗闇の中に微かな光が灯った。

 

「この方がなんか盛り上がるでしょ」

「ですね」

 

 続けて花火が打ちあがる。花火は大きく綺麗な華を描き、そのまま萎れて消えていく。なんとも儚い存在だった。

 

「何だか、不思議な気分」

「……花火がですか?」

「ううん、横に誰かがいるのが」

 

 ミコトさんがこちらを見る。瞳は優しく輝いていた。

 

「今まで、ずっと一人だったから、横に誰かがいるって、嬉しくて」

 

 花火が夜空に咲いた。彼女の瞳の中に反射されたその華が美しく、僕は言葉を失った。

 

「好きだよ」

 

 その言葉が来ると、心のどこかで予想していたのか、僕はさして驚くこともなく、彼女の瞳を見つめ続けていた。

 

 花火は止まらず、次々と夜空を明るく染め上げていく。僕らの周りだけが無音だった。

 ミコトさんは喋らず、僕も喋らなかった。このまま一生音がないように思えた。

 しかし無情にも、ミコトさんが口を開いた。

 

「君は、私のこと、好き?」

 

 僕は何も答えることが出来なかった。何かを答えれば、この関係が崩れてしまいそうだったから。

 

 何も答えない僕を見て、ミコトさんは笑った。寂しさを混ぜ込んだ笑みだった。

 不意に、彼女の瞳の中に咲き続けていた花火が消えた。彼女は目を瞑っていた。

 

 

 手を引かれる。顔が近くなる。息が止まる。

 

 

 戸惑いを隠せないまま、僕は至近距離にある彼女の顔を見つめていた。未だに目を瞑っているので、花火は見えない。すると、閉じられた彼女の瞳から、涙の玉が浮かんできた。

 

 涙の中には、美しい花火があった。

 

 

 

 彼女の顔が離れる。目を開いているが、既に花火は消えていた。どうやら全ての花火を打ち終わったらしい。

 彼女はじっと僕の顔を見つめていたが、やがて小さく笑った。

 

「君が私のことを好きじゃなくても、私は幸せだよ」

 

 小さな声だった。掠れて、今にも消えそうなほどに弱々しい声だった。何故か、その声こそが彼女の心の声であると思わされた。

 

「すごく、すごく、幸せなんだ。幸せ過ぎて、死んじゃいたいくらいに」

 

 そう言って彼女は、僕の前から立ち去った。

 

 

 ▼

 

 

 次の日の朝は、何だかとても目覚めの悪い朝だった。

 昨晩はあまり寝られなかった。彼女のあの告白と、最後の言葉が気になってしまったのだ。

 彼女はなんと言ったのだろうか。はっきりと、死んじゃいたいくらいに、と言ったのだろうか。

 その言葉が、まるで喉に引っかかった小骨のように、僕の心を痛め付けていた。

 

 もしかしたら、彼女は死ぬのかもしれない。そう考えるだけで、胸が締め付けられていた。そういえば、彼女は誰かに死んでほしくないと言われたら死んでやると言っていた。

 それは他人だけの話なのだろうか。もし彼女自身が、死にたくないと考えたとなると、それは一体どうなるのだろうか。

 蒲団から飛び起きた。すぐにでも彼女と話さなければならないと、そう思った。

 

 

 

 神社には何もなかった。

 彼女の姿も、テントも、何もかも。まるで今までここにいたのは幻だったのだとでも言いたげに、陽炎が揺れていた。

 杉の木の下の、折れ曲がった草花だけが彼女がここにいた痕跡を残していた。

 

 もしかして家に帰っているのかもしれないと、彼女の家に向かおうとしたが、そもそも僕は彼女の家の場所を知らなかった。

 絶望に打ちひしがれ階段を下りると、ふと目の前に見知った顔があった。

 

「翔ちゃん」

「お、おはよう……こんなとこで何してるの──って、ああ、そんなことしてる場合じゃなかった」

 

 翔ちゃんはよっぽど慌てているのか、右往左往しながらわたわたと慌ただしく呟いていた。

 

「どうしたの?」

「タカ君がいなくなったんだ!」

「…………そう」

 

 昨夜のタカ君の哀しそうな背中が思い出された。もう見ることはないだろうなと思っていた予感は的中していた。

 

「タカ君がどこに行ったか、知らない?」

「知らない。けど、死んではないと思うよ」

「なんで?」

「そういう人だから、タカ君は」

 

 そう言うと、翔ちゃんは暫しの間呆然として、それから肩の力を抜いた。

 

「そっか……そうだよね。うん、その通りだ」

「いつか帰ってくるよ、いつか」

「うん……それで、こんなところで何してたの?」

 

 その言葉で、僕は自分が今置かれている現状を思い出した。急いで翔ちゃんに尋ねてみる。

 

「翔ちゃん、高校生で引きこもりの人、知ってる?」

「高校生で引きこもり? 高原さんじゃないの?」

「多分その人。その人の家、どこにあるかわかる?」

 

 高原さんというのが果たしてミコトさんなのかわからないが、藁にも縋る思いだった。

 翔ちゃんは顎に手を置き、唸り始めた。

 

「うぅーん……確かケン君の近くの家だったことは覚えているんだけど……はっきりとは覚えてないや、ごめん」

「いや、それだけでじゅうぶん。ありがとう」

 

 そういえば、彼女はケン君と幼馴染だったと言っていた。ならば彼女の家はその近くにある。

 僕はいてもたってもいられなくなり、走り始めた。早く行かなければ手遅れになる、そんな予感がしていた。

 

 案外簡単にミコトさんの家は見つかった。

 ケン君の家の近くで、高原という名札は一つしかなかった。

 躊躇うことなくインターホンを押すと、数秒後にドアを開け男性が急いで出てきた。いつの日か、神社でミコトさんと争っていた男性──彼女の父親だ。

 ミコトさんの父親は、インターホンを押したのが僕だと知ると、あからさまに肩を落とした。その反応に、僕は嫌な予感を感じた。

 

「君は……ええっと……」

「あ、すみません。僕、ミコトさんの知り合いで……彼女がどこに行ったか、知りませんか?」

 

 父親はその言葉を聞いて、悲しそうに顔を歪めた。走っていたため身体は熱を持っていたが、心は冷え冷えとしていた。

 

「彼女は……今朝、回帰室に行くと言って家を出て行ったよ」

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 気が付けば、廃神社の境内に戻っていた。何かに操られたかのように、ぼんやりと神社を眺めていた。

 目を閉じると、彼女の顔が思い浮かぶ。息をする度に、この神社で彼女と過ごした日々が思い出される。

 彼女がもういないと考えるだけで、心の底にぽっかりと穴があいたようだった。自分という存在と死が、これほどまでに近いとは思ってもいなかった。

 気を抜けば涙が零れてしまいそうだ。しかし涙を流してしまうと、彼女との思い出すらも流れ落ちてしまうような気がして、ぐっと顔に力を入れ涙を抑える。

 

 賽銭箱の前に立つ。ぽっかりと空いた本堂の入り口は、僕の心の穴によく似ていると思った。

 目を閉じ、祈る。誰でもいい。願いを叶えてくれるならば、どんな神でもいい。悪魔だってかまいやしない。

 どうか、どうか、彼女を返して下さい。

 蝉が一層強く鳴き始めた。天まで届くはずだった僕の祈りを邪魔しているようで、腹が立った。しかしそれも構わず、一心に祈る。

 ふと、ここで祈っていた先生の言葉を思い出した。大人も神頼みしか出来ない時がある、彼女はそう言っていたのだ。それが、今のような状態なのだろうか。自分ではどうすることも出来なくて、神に頼るしかない。これが、大人が神に縋る理由だったのだろうか。

 なんて不便なのだろうか。なんて理不尽なのだろうか。大人も子供も何も変わらない。ただ、馬鹿にしながら祈るか、切に、心を込めて縋りつきながら祈るか。その違いだったのだ。

 

 ぽろりと、涙が一粒零れ落ちた。今になって、ミコトさんがいないのだという現実が強く重く圧し掛かってきた。

 彼女がいない世界を一人きりで生きていけるとは思えなかった。それほどに、彼女は僕の中で大きな存在へとなっていた。

 彼女を追いかけて死のうとは思わなかった。未だに死は怖かったし、何よりもそんなことをして彼女が喜ぶとは思えなかった。

 だから、僕にはただ祈ることしか出来なかった。二粒目、三粒目と、涙が止め処なくあふれ始める。しかし不思議なことに、いくら涙を流しても、彼女との思い出は消えるどころか、ますます精彩を放ちながら僕の中に留まり続けるのだった。

 

 

 ふと、誰かの足音が聞こえた。蝉の鳴き声に紛れ、境内の砂利を歩きこちらを向かってくる足音。まっすぐこちらに向かってきた足音は、ぴたりと僕の後ろで止まった。四粒目の涙が出て、地面に吸い込まれて行った。

 

「なにしてんの」

 

 懐かしい声が聞こえた。耳朶を打つ、優しい声。そういえば、彼女と初めて会った時も、同じことを言われたのだった。

 振り返る、そこには、呆れた表情を浮かべたミコトさんが立っていた。

 

 

 ▼

 

 

「なにしてんの」

 

 同じ声音で、彼女が再度尋ねる。僕は泣いていたことがバレないように、俯いた。

 

「ミコトさんこそ、なにしてるんですか……」

「秘密基地に帰ってきただけだよ?」

「……死んだと思ってました」

「死んだ? 私が? なんで」

「回帰室に行ったって、聞いたから……」

「誰に聞いたの、それ……まあ、行ったのは行ったよ」

 

 悪びれもなく、彼女は言った。

 実際彼女は悪くもない。自分の意思で自分の終わりを選んだだけ。誰も彼女を責める権利など持ち合わせていない。

 だが、それでも許容できなかった。彼女がこの世界からいなくなることが、僕には到底耐えられぬもののように思われた。

 

「なんで、回帰室に行ったんですか?」

「色々あるんだよ、色々ね」

 

 言葉よりも重い、彼女の思いの全てが込められた科白だった。その思いが今の彼女を作り上げているのだった。

 

「泣いてたの?」

「…………」

「泣いてたんだ、なんか意外。君はどんな事があっても泣かない人だと思ってた」

「そんな人、いませんよ……」

「うん、そりゃそうだ。私、君のことなんにもわかってなかったみたい」

 

 また、涙が出てきた。彼女と繰り広げられる会話の全てが現実ではないような気がした。

 

「それで、こんなとこで縮こまって、一体なにしてたの」

「……神様に祈ってたんです」

「神頼みするやつはガキなんじゃなかったっけ?」

 

 随分と意地の悪い質問で、思わず笑ってしまった。しかし完全な笑声になる前に、それは涙声に変わってしまう。

 

「神様、もしかしたらいるかもしれませんね……」

「いるかもね」

 

 僕の横を通り過ぎて、本殿へと続く階段に座るミコトさん。彼女の声音には隠し通してきた秘密を打ち明ける際の、明るさがあった。

 

「なんで、やめたんですか?」

「……なんでだろうね」

 

 膝に腕を置き、頬杖をつきながら、ミコトさんは呟いた。困ったように微笑む彼女の横顔は、どこまでも清々しいものだった。

 

「なんでかわからないけど、ちょっと、怖くなっちゃったんだ」

「死ぬのが、ですか?」

「うん」

 

 風が僕らの間を吹き抜けた。大して強くもない風は、ミコトさんの髪をやたらと靡かせていた。

 

「お互い、変わっちゃったね」

「変わらない人間なんて、いませんよ」

「そりゃそうだ」

 

 なんだか、急激に大人になってしまった気分だった。自分も知らぬ間に、自分の意識が遠い所へ行く、そんな気分。

 

「ねえ、タマムシ君」

 

 穏やかな声だった。

 

「私に、生きていて欲しい?」

 

 それは多分、彼女なりの宣言だったのだろう。

 今までの自分をかなぐり捨て、大人になるための、大切な宣言。

 

「生きていて欲しいです」

 

 間髪入れずに言葉を返した。その言葉に、ミコトさんが小さく微笑んだ。その笑みを見ていると、何故だろうか、涙が止まらなくなってくるのだった。

 

「生きていて、欲しいんです……死んで欲しくないんです……っ」

「初めて君の口から自分の意見を聞けた気がするな」

「ずっと、ずっと……生きていて欲しい……ずっと、ずっと、ずっと……」

「そっか、うん……そっかあ」

 

 夏はまだ始まったばかりであった。汗が涙か、よくわからなかった。それもいいと、はっきりと思えた。

 航跡雲が空で輝いていた。あの飛行機は、自分が存在していたという証を空に残している。未だ旅路の途中だ。

 僕らもそうなのだろう。生きている証を残しながら、少しずつ自分の旅路を進んでいく。

 

「ねぇ、私、幸せだよ。幸せだ……ずっと、生きていたいって思えるほど、幸せだ」

 

 小さな花が揺れていた。花の上に、雫が落ちた。それは、彼女の涙だった。

 旅路は遥かだった。一歩一歩、僕らは進んでいく。

 僕らは、大人になろうとしていた。

 



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