平塚先生と結婚する話   作:Asarijp

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1 平塚先生がフラれる話

逸見(へみ)先生、毎回すみません。遠くまで運転させてしまって」

 

 助手席の平塚先生に声をかけられる。

 

「いえ、市内ですから大したことでは」

 

 時刻は21時半。同僚の平塚先生を俺の車で自宅まで送っているところだった。

 

 俺は酒が飲めないので、職場の飲み会のときはいつもこうしてタクシー役をやっている。今日のお盆休み前の飲み会でもベロベロに酔っ払った学年主任や若い女性教員を自宅まで送り届け、いつものように最後に一番家が遠い平塚先生が残っていた。

 

 いつもは飲み会が終わってもまったく飲んでないかのようにシャキッとしている平塚先生だが、今日は飲みすぎたのか、はたまた具合が悪いのか、あまり元気がない。

 ゲロ袋になるようなものが車内にあったか思い出してみる。ダッシュボードの物入れになにかあったと思うが……。

 

「平塚先生、大丈夫ですか? 飲みすぎました?」

「いえ……。この間、林間学校のボランティアの監督に行ったんですが、そのときのことを思い出してしまって」

 

 平塚先生は総武高校教職員の中で「何でも屋」のような立場にある。クラス担任こそ持っていないが、生活指導を担当するほか、地域との関係づくりやPTAの対応、生徒会など、負担の大きめな仕事を大量に抱えている。林間学校のボランティアもそういう絡みだろう。

 

「なにかあったんですか」

「私が見ている奉仕部の部員連中に動員かけて連れていったんですが、いろいろあって林間学校に来ていた小学生を脅して泣かせたらしくて……」

 

 それはまたなかなか大変な事態だ。研修やらなんやらでしばらく出張している間にそんなことになっていたとは……。

 孤立していた女子児童をどうにかしたいということでそうなったと平塚先生は話してくれたが、一歩間違えれば校長が頭を下げるような不祥事になりかねない。

 

「先方の小学校からこの件で苦情が来るんじゃないかって、最近はずっと胃がキリキリしてるんですよ」

 

 はは……と平塚先生は力なく笑った。

 普段は頼れる平塚先生のこういう気弱な様子は、なんだか妙に魅力的に映る。

 

 総武高校の独身男性教員は平塚先生にほぼ例外なく惹かれる。しかし1か月も同じ職場にいると「俺では釣り合わないだろう」と考えるようになる。

 そういうことを同僚の男性体育教員(既婚)と話したことがある。

 

 美人でスタイルもよく、仕事ができて同僚にも生徒にも信頼されている(上司には少し煙たがられている)。いつぞやの飲み会で本人から聞いたところでは、日本で一番偏差値の高い大学で修士号を取ってから教員になったという。さらに、実家が裕福なのか教員の給料以外に収入があるのか知らないが、1000万以上する高級外車を乗り回している。

 釣り合わないというのもあるが、それ以前にあの人なんで千葉の公立高校で先生やってるんだろうというのが総武高校男性教員一同の一致した見解だった。マジで意味わからん。外資系証券会社とかじゃないの? そういう人が就職するの。

 

 平塚先生の八面六臂の活躍に、もちろん俺も恩恵を受けている。今年度になって俺は2-J担任を受け持つことになったが、平塚先生は生活指導だからと、クラスで一人浮いていた生徒の面倒を引き受けてくれていた。

 

「奉仕部と言えばウチのクラスの雪ノ下、部活ではどうですか?」

 

 2年生に上がった直後の雪ノ下雪乃はまさしく孤高の女王という状態だったが、最近では徐々にクラスメイトとコミュニケーションを取れるようになってきている。平塚先生の指導の賜物だ。

 

「他の部員ともコミュニケーションをとれていますし、部長としてうまくやってくれています」

 

 雪ノ下は1年次の時のJ組担任から受けた引き継ぎでも一番の懸念とされていたし、俺もかなり心配していたのだが、この調子ならどうやら悪いようにはならなそうだ。平塚先生に相談して正解だったな。

 

「あの、逸見先生……」

 

 そんなことを考えていると、平塚先生から声をかけられた。運転席側に上体を少し捻った格好になり、シートベルトで平塚先生の大きな胸が強調されている。

 平塚先生はなにかを決意したような真剣な表情で俺を見つめていた。

 

「よ、よかったら、ちょっとどこかでお茶しませんかっ!」

 

 突然の申し出にフリーズする俺。

 

「え……い、今からですか?」

 

 時刻は既に21時半すぎ。開いている喫茶店はさすがにもうないのでは……。

 そういう話をすると、平塚先生は慌てて食い下がった。

 

「ああ、いや、その、じゃあこの後もう一軒!……なんて……車、ですもんね……」

「ウ、ウーロン茶でよければ」

 

 

 

 

 

 15分後に俺は平塚先生行きつけの居酒屋にいた。

 繁華街から一本入ったところにあるこぢんまりとした店だが、もう22時も近いのに店内は混んでいて活気に満ちている。

 

「いらっしゃい! あら……」

 

 引き戸をくぐったところで迎えてくれた店のおかみさんらしき人が、意味ありげに平塚先生と俺の顔を交互に見やる。

 

「こんばんは。今日は二名で!」

 

 平塚先生が俺に視線を一瞬やり、おかみさんにピースサインを出した。

 

「はーい。めずらしいわね、静ちゃんが男の人連れてくるなんて」

「いやぁ同僚ですよ同僚!」

 

 どうも、と愛想笑いをして会釈する。なんだか平塚先生のテンションが妙に高い。

 

「あらそうなのぉ? じゃ、お席ご案内しますね」

 

 おかみさんに奥の小上がりに通され、俺たちが席に着くとすぐにおしぼりやお通しが出てきた。

 食べ物の注文は常連の平塚先生にお任せし、日本酒とウーロン茶で乾杯する。

 

「逸見先生、明日のご予定は大丈夫でしたか? 私から突然誘ってしまっておいてなんですが」

「ええ。テニス部も休みですし、田舎に帰るのも来週の予定ですから」

「そ、そうでしたか。よかった……」

 

 ほっとした顔をしてお通しを口に運ぶ平塚先生、なんだかかわいい。普段がシャンとしてるだけに余計にそう感じる。

 

「平塚先生はこのお店、よく通われてるんですか?」

「うーん、月イチくらいで来てるかもしれません。元は親の行きつけの店で、子供の頃からよく連れて来られたんですよ」

「あ、だからおかみさんは『静ちゃん』呼びと」

「はい。もう30にもなって恥ずかしいんですけど……」

 

 苦笑いしながら平塚先生はお猪口をあおった。こういう仕草がいちいちかっこいいんだよな平塚先生は。

 

 そんな雑談をしているところに、先ほどのおかみさんが刺身の舟盛りを運んできた。

 

「はーいお待たせしましたー刺身盛り合わせです。たこわさも今持ってきますねー」

 

 料理は抜群にうまかった。先ほどの飲み会でも腹いっぱい食べてきたのだが、それでも箸がすいすい進んでいくほどだった。

 

 二人でひととおり料理に舌鼓を打ったところで、俺は平塚先生に尋ねたかったことを聞いた。

 

「あの、平塚先生はどうして急に僕を誘ったりしたんです?」

 

 平塚先生はびくりと身体を強張らせた。

 

「ああ、いや、そのぉー……」

「もしかして仕事がらみでなにか……?」

「いえ、ち、違います!」

「違うんですか?」

 

 じゃあなんの用で俺は誘われたんだ? 心当たりと言えば……。

 

「あ、わかりました。生徒がいる前で先生がタバコ吸ってると僕がいつも注意するから、それについてですね?」

「え?」

「でも僕たち教員も生徒にそういうのをやめさせないといけないわけですし、特に雪ノ下みたいに2-Jの生徒がいる前で堂々とタバコを吸われてしまうと、僕にも担任としての立場がありますから注意しないわけには……」

「ああいや、違うんです!」

 

 平塚先生はわちゃわちゃと手を動かして否定した。

 

「ええっと、その……そう! そういえばテニス部はその後どうですか!?」

「テニス部ですか? まぁ、順調……なのかな。夏の大会は1回戦負けでしたけど、戸塚が――ほら、平塚先生に奉仕部を紹介してもらった男子生徒なんですが、彼が部長になってグイグイ引っ張って行ってくれてる感じですね」

「そ、そうですか」

「その節はどうもありがとうございました。あれ以来、戸塚もだいぶ変わりまして……あの、平塚先生?」

 

 平塚先生はお猪口に徳利から酒を注いでは飲み干すのを繰り返していた。

 

「ひ、平塚先生?」

「……逸見先生!」

 

 平塚先生はテーブルに手を突いてこちらに身を乗り出してきた。

 

「は、はいっ」

「あああのですね……その……わ、私は」

「は、はい」

「私は、へ、逸見先生的には、その、あ、『アリ』でしょうかっ!?」

「……はい?」

 

 お酒のせいなのか恥ずかしさのせいなのかわからないが、顔を真っ赤にした平塚先生が俺をにらみつける。

 

「えーっと……話が見えないんですが」

「で、ですから、その、逸見先生としては私は、お、女として、『アリ』かなと!」

「……ちょっと、落ち着きましょう。すいませーんお冷やくださーい!」

「はっ! も、もしかして既にお付き合いしている方がいたり……?」

「いえいませんが……」

「それじゃあズバリ、私、どうです!? ほら、自分で言うのもなんですけど、けっこう美人だしぃー、スタイルもいいしぃー、定職もあるしぃー」

 

 平塚先生は赤い顔のまま自分を売り込み始めたが、俺は愛想笑いで受け流しつつ、店員さんが持ってきたお冷やを勧めて落ち着かせる。

 これは完全に酔ってるな。帰りに車内でゲロを吐かれないことを祈ろう。

 

「平塚先生は確かに美人でスタイルもいいですけどね、ほら、僕じゃ釣り合いませんから」

「そんなこと、ありませんよ」

 

 平塚先生の顔が明らかに曇った。

 

「それにほら、平塚先生はお綺麗ですから、その気になったらすぐもっといい相手が見つかりますよ」

「……みんなそう言うんです」

 

 平塚先生の声のトーンが明らかに下がった。

 

「え?」

「みぃんなそうやって言うんですよ。『僕じゃ平塚さんには釣り合わないから』。女友達は『静は綺麗だし、その気になったら相手なんてすぐ見つかるよ』」

 

 どうやら意図せず地雷を踏んでしまったらしく、平塚先生が据わった目で俺を見つめた。怖い。

 

「27まではそう言われても余裕がありました。それが28になり、9になり、そして30歳になったとき」

 

 迫力のある語り口に思わず唾を飲む。

 

「私はまだ言われていたんですよ。『僕じゃ平塚さんには釣り合わないから』って。来月の婚活パーティーでも言われるでしょう。先月の親戚の結婚式でも言われました。『静ちゃんは綺麗だし、その気になったら相手なんてすぐ見つかるよ』って」

 

 ほろり、と平塚先生は涙を流した。

 

「私のなにが悪いんでしょう。どうして私には結婚相手ができないんでしょうか……」

 

 これ、本気の30代独身女性の人生相談だ。どうしよう、適当にあしらえないやつだぞ……。

 

 こうなったらもう最後まで付き合うしかないと覚悟を決める。平塚先生にはいつも世話になってるし、俺でいいならこういう相談に付き合おう。

 

「……あくまで僕の印象ですけど」

「はい……」

「平塚先生は戦うフィールドを間違えていると思います」

「戦うフィールド」

「例えば僕みたいなただのサラリーマンには平塚先生は……なんと言ったらいいのかな……そう、華やかすぎるんです」

「はい……」

 

 再びシュンとなる平塚先生。

 

「つまりですね、例えばほら、若手ベンチャー社長とかスポーツ選手とか商社マンとか、相手にもそういう華やかな人を狙うべきです」

 

 言ってて自分で相当な無茶振りのような気がしてきたが、平塚先生の答えは意外なものだった。

 

「そういう人はもうさんざん狙ってきたんですよ……」

「え」

「20代の頃にはプロ野球選手と合コンに行きました。意気投合したプロ野球選手は翌月アイドルと結婚しましたが……」

「そ、そうですか……」

 

 普通の女性ならプロ野球選手と合コンすることすら難しいだろうに、そこを突破してくるとはさすがにポテンシャルが違う。

 

「30になる直前にはベンチャー社長と婚活アプリで会いましたし、実際に彼の会社にも連れて行ってもらいました。本物のベンチャー社長だったんです。翌週には薬物所持で逮捕されましたが……」

「え、ええ……」

 

 普通の女性なら婚活アプリでベンチャー社長と会うことすら難しいだろうに、そこを突破してくるとはさすがにポテンシャルが違う。

 

「先週は婚活パーティーで商社マンと会いました。彼が選んだのはキャピキャピした20代前半の若い女でしたが……」

 

 普通の女性なら商社マンのいる婚活パーティーに参加することすら難しいだろうに、そこを突破してくるとはさすがにポテンシャルが違う。

 でも全部空回ってポテンシャルがポテンシャルのままって感じだな……。

 

 平塚先生は「二十歳(はたち)そこそこの小娘が婚活パーティーに来やがってよぉ……」などとぼそぼそ続けていたが、聞かなかったことにした。

 

「はぁ……なんなんですかね男というのは……」

「……なんかすいません」

 

「僕も男なんですけども」とはさすがに言えなかった。

 

「逸見先生、タバコいいですか?」

「え、ええ、どうぞ」

 

 ポケットからタバコの箱を取り出し、流れるような動作で1本口にくわえて100円ライターで火をつけた。眉を寄せてタバコをふかす平塚先生にはハードボイルド探偵のような風格があるし、アンニュイな表情で「はぁー……」と煙を吐き出す姿には大人の女の色気がある。

 

 こんなに美人なのにモテないということがあり得るのか、俺はいまだに半信半疑でいた。同僚として数年同じ職場で仕事をしているが、人当たりもいい。確かに生活指導担当なのに生徒の前でタバコを吸ったりするようなところはあるが、それが男女交際や結婚の差し障りになるとは思えなかった。

 

「思い返せば、確かに私にも悪いところがありました。27まで年収1000万以上の男じゃなきゃやだ!とか言っていましたし、私より10cm以上背が高くなきゃやだ!とかぬかしていましたし、私より高学歴じゃなきゃやだ!とかのたまっていました。はは……死にたい」

「……平塚先生、T大修士でしたよね? 平塚先生より高学歴の男なんて日本にほとんどいないじゃないですか」

 

 弁護できねぇ。

 

「ですよね、私より高学歴って言ったらもう海外の大学ですよね。はは……死にたい」

「平塚先生は出会いさえあれば世界的な名門大学出身者と普通に結婚できそうですけど……」

「ないんですよねぇ出会い……」

 

 平塚先生の指に挟まれたタバコから静かに灰が落ちた。

 

「ひ、平塚先生は失礼ですが身長は?」

「172です。10cm上ってことは182ですよ。何%いるんですかねぇ……。はは……死にたい」

 

 平塚先生の指に挟まれたタバコが静かに灰皿に落ちた。

 

「私、最近になって調べたんですが、年収1000万以上の男性は10%もいないらしいですね。さらにそこから未婚で若い人となると……あー! 死にたい!」

 

 平塚先生は「どうして私は20代を棒に振ってしまったんだ……」などとぼそぼそ続けていたが、聞かなかったことにした。

 

「平塚先生、話をちょっと整理しましょう」

 

 すっかり氷が融けて薄くなったウーロン茶で喉を潤す。

 

「平塚先生は27歳までは理想が高くて、条件に適う相手がいなかったと」

「うっ……はい」

「そしてそれ以降はその理想を引き下げたけれども、今度は相手に敬遠されるようになってしまったと」

「ううっ……そうです」

「それで最終的に僕のところに来たと」

 

 平塚先生はテーブル上に置いていた俺の手を両手で握り、身を乗り出してきた。うるうるとした涙目で見つめられるが、明らかに酒臭い上にタバコ臭いのでどうにも締まらない。

 

「逸見先生! どうか、私を助けると思って! お願いします!」

「いえ、あの、平塚先生落ち着いて……ほらお水飲んで」

 

 平塚先生の声が大きいので、小上がりの他のテーブルの客からの視線を集めてしまった。

 

 平塚先生がお冷やを飲んで少し落ち着いたのを見て、俺は姿勢を正した。

 たとえ妥協の結果の交際申し込みとはいえ、平塚先生は本気で言ってくれたのだ。俺も誠実に返事をするべきだ。

 

「平塚先生。はっきり言いますが、僕は先生とはお付き合いできません。申し訳ありません」

 

 平塚先生に頭を下げる。

 

「……私ではダメですか」

「いいえ。これは僕の事情です」

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 私が総武高校に転任した翌年に赴任してきた逸見(へみ)先生とは、一緒に仕事をするようになって既に数年が経っていた。

 

 総武高校の前は県内の工業高校にいたそうで、そこでは生徒にナメられないように派手な色のワイシャツを着てレンズにスモークの入った細いメガネをかけ、生徒から「ヤクザ」などと呼ばれていたらしい。そのヤクザスタイルは総武高校に赴任した後もスモークの入ったメガネに名残がある。

 スモーク入りのメガネをかけていることもあって今もヤクザ映画にいそうな感じの見た目ではあるし、噂好きの女性教員からは前頭部の生え際が少し後退してきたのではないかと言われているし、今時の中性的な美形とは程遠いが、「男前」の方面では案外悪くないのではないかと私は思っている。

 

 私と同じく修士課程修了で教職に入り、年も同じ。つまり年収も大体同じだ。同じ職業だから社会的地位の釣り合いもとれている。結婚相手としてはまったく問題ない。

 

 っていうかもう逸見先生でいいから結婚したいというのが偽らざるところだ。「大好き! 愛してる! この人しかいない!」とはまったく思っていないが、一緒に仕事をしていて信頼できる人なのはわかっているし、見た目に反して穏やかな人だから結婚相手には申し分ない。完全に妥協と打算だから我ながら嫌な女だが、それが正直な気持ちだ。

 連敗続きで婚活にも飽きてきたしな……。飽きてきたというか自信がなくなってきたというか……。親にもちょっと気を使わせてるし……。あと、このあたりで結婚を決めないと一生「結婚したい」って言ってそうだからな……。さすがにそれは嫌だな……。

 

 そういうわけで、逸見先生のことは本気で狙っていた。

 狙っていたのだが……私は今、本気でフラれようとしている。

 

「平塚先生。はっきり言いますが、僕は先生とはお付き合いできません。申し訳ありません」

 

 逸見先生は頭を下げた。

 

「……私ではダメですか」

「いいえ。これは僕の事情です」

「事情?」

「つまらない身の上話なんですけど……」

 

 そう言う逸見先生の表情は真剣なものだった。

 先ほど灰皿に落とした吸いさしのタバコの火を消し、姿勢を正す。

 

「はい」

「僕には田舎に母と年の離れた姉がいまして」

「北海道でしたっけ」

「ええ。母は僕が高校生の頃に事故に遭って以来、ずっと寝たきりなんです。その母を姉がずっと介護していまして、僕が給料を仕送りしているんですよ」

「そうだったんですか」

 

 数年一緒に仕事をしているが、そうした逸見先生の身の上話を聞くのは初めてだ。

 

「平塚先生はもちろん最終的には結婚したいわけですよね?」

「はい」

「僕には大学と大学院の奨学金もありますし、母もそうですが姉の老後の面倒も見なければなりません。仮に結婚したとしても、平塚先生には苦労を掛けどおしになるのは明らかです」

「……はい」

「平塚先生はとても素敵な方だと思います。先生にさっきのように言っていただいてとてもうれしいですし、僕にこういう事情がなければこちらからお願いしたいくらいでした」

 

 逸見先生はもう一度頭を下げた。

 

「ですから、すみません、平塚先生とはお付き合いできません。ごめんなさい」

「はい……」

 

 完膚なきまでにフラれた。

 

 ヤバい、めっちゃ泣きそう……っていうか泣いてる。あーこれ止まらんぞ……。

 

「あの、平塚先生?」

「ひぐっ……えぐっ……びえええぇぇぇ……」

「えぇ……」

 

 あああぁぁぁ……同僚にこんな大泣きしてるとこを見られるの恥ずかしすぎる……。

 そして逸見先生がめちゃくちゃ困ってて申し訳ない……。

 日本酒一気飲みなんてしなけりゃよかった。完全に酒のせいで涙腺が緩くなっている。断じて年のせいではないぞ。

 

「平塚先生がそんなに泣くとは……あの、本当にすみません」

「ぐすっ……いえ……わだじごぞっ……ずびばぜん……うううえええぇぇぇ……っぷ……」

 

 胸の奥から感情が込み上げまくっている最中だが、同時に感情以外のものも込み上げてきた。

 

「あれ、平塚先生? もしかして……トイレ、トイレ行きましょう、ほら!」

 

 

 

 

 

 フラれた上に泣きゲロ姿も見られ、女としての私は死んだ。

 

「ほら平塚先生、シートベルトして。車出しますよ」

「あい……」

 

 もうどうにでもなーれ。

 

「平塚先生、大丈夫ですか」

「らいじょぶじゃないです……」

「またそんなこと言って……。おかみさんからもらったビニール袋渡しておきますから、吐きそうだったらちゃんと使ってくださいね」

「あい……」

 

 仕事も辞めちゃおっかなぁ……。仕事辞めて実家帰りたい。市内だけど。

 いっそ誰か私を殺せ。

 

 逸見先生の車が夜の千葉市を走っていく。

 大人の男女二人が夜のドライブをしているというのに、色気もへったくれもない。もちろんなくしているのは死んだ顔をしている私だ。

 窓ガラスに映った自分の顔を見ると、逸見先生を落とさんと気合を入れたメイクが見事にぐしゃぐしゃになり、ひどい顔になっていた。が、もうどうでもいい。

 

 男にフラれるのはそれこそ何回目かわからないが、あんなにわんわん泣いてしまったのはちゃんとフラれたことはなかったからなのかもしれない。

 ここ数年はいつも「僕では釣り合わないから」とフラれていた。私が家を空けている間に家財道具を持ち逃げして出て行った昔の彼氏、またの名をヒモ野郎は……あれは私からフったんだったな。そして大学の頃好きだった、私の人生で一番大きな存在だった男は私の友達と結婚してしまい、フラれることすらできなかった。

 逸見先生は最初こそ定型句の断り方だったが、最後には自分の事情を打ち明けて私をフってくれた。お金の話なんて同僚には言いたくないことだったろうに。

 

 思い返してみると、今回のように明確に私から交際を申し込んだのも初めてだ。学生の頃はしょっちゅう告白されてうんざりしていたくらいだったし、合コンや婚活パーティーでも私がなんとなく好意を見せれば男のほうからお誘いがあった。

 告白するというのはあんなに勇気のいることだったんだなぁ……。学生時代は告白してきた男たちをすげなく袖にして悪いことをした。誠実にフラれるのですらこんなにきついのに、学生時代の私の断り方ときたら……。

 

 あっヤバい、また泣きそう。

 

「平塚先生は」

 

 涙目になっているところを、しばらく黙って運転していた逸見先生に声をかけられた。

 

「本当に魅力的な人だと思います。ただそれがうまく伝わってないだけですよ」

「……はい」

「同僚みたいにしばらく同じ時間を過ごした人をターゲットにするというのは、そういう意味では正しいと思います。……あ、でもそうか、総武高校には年の近い独身の男が僕ぐらいしかいないんですね。僕らより若い先生方は既婚ですし」

 

 詰んでるじゃん……詰んじゃってるじゃん……。やっぱり逸見先生しかいない。フラれたけど。

 

 しかし思い返してみれば断り文句は結局のところお金の話だったし、私が貢げばワンチャン……。いや貢ぐと言ったら言い方が悪いが、例えば私がデート代を出すとか生活費を出すとかそういう方向に持って行ければ……。

 

 イケるだろこれ。逸見先生としては私は全然アリみたいな感じだし。イケるな。勝てる。勝てるぞ……。我ながら自分の頭脳が恐ろしい。さすが恋愛偏差値70(※ネット上の胡散臭いウェブサイト調べ)の私!

 

「逸見先生。もしよかったら今後も折を見て私に付き合っていただけませんか? もちろん車は私が出しますし、食事代も私が持つので」

「はい?」

「えーっとほら、次の婚活パーティーの戦略を練ろうと思いまして。やっぱり男性の視点があると違うかなと」

「はぁ、そういうことなら……。でも食事代は別にいいですよ。そこまでカツカツで暮らしてるわけじゃないですから」

「いえいえ、私の相談ですからそこは出させてください」

「いやいや、平塚先生には普段から本当にお世話になっていますから。今日だってほんの恩返しのようなものですし」

「いえいえ」

「いやいや」

 

 そんな押し問答をやっているうちに、カーナビが私の家についたことを知らせた。

 

 車を降りる前に、今度私から連絡するからと逸見先生の連絡先もゲットした。攻略作戦は順調だ。

 

「逸見先生、今日はお付き合いいただいてありがとうございました。また学校で」

「はい。おやすみなさい」

「帰り道、お気をつけて」

 

 今までも一回フラれたくらいでスッパリ諦めるのが悪かったのかもしれんな。今回はハングリー精神を持ってやっていこう。平塚静の婚活はこれからだ!

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