修学旅行2日目。
今日は生徒たちが班単位で自由に京都観光をする日だ。先生方は市内の観光地に配置するだけでいいので人員に余裕があり、軽く観光してもらうことも可能なシフトにできた。
しかし眠い。とても眠い。
昨晩は同室の厚木先生と学年主任の酒盛りに付き合ったのだが、まさかビールとつまみだけで夜中の2時過ぎまで盛り上がられるとは思わなかった。そして朝は7時に生徒たちを起こして朝食を食べさせなければならないので、教員は6時起き。つまり4時間しか寝ていない。
生徒たちを出発させた後に午前中のシフトに入っていない教員たちで朝食をとり、俺はその後、3日目の宿とそこまでの生徒の荷物の輸送の最終確認をして待機していた。
「平塚先生……?」
「
午後、金閣がある鹿苑寺担当の厚木先生から呼び出されて来てみると、そこには平塚先生がいた。
「厚木先生から来てくれと言われて来たんですが、平塚先生は観光ですか? 今は休憩シフトでしたよね?」
「私は厚木先生からシフトを代わってくれと言われて」
厚木先生に事情を聞こうと連絡してみると……。
『逸見先生、せっかく京都に来たんだから楽しまんと』
「いやしかしどうして平塚先生まで」
『そりゃ先生、デートのお膳立てに決まっとろうが』
「デートって……以前も言いましたが僕と平塚先生はそういうのでは」
そこまで言ったところで、平塚先生に代わってくれと頼まれた。
「あ、厚木先生ですか? 平塚です……ええ、ぜひそうさせてもらいます。次のシフトまでには戻りますので。はい……はい……よろしくお願いします。失礼します」
満面の笑顔で厚木先生と受け答えする平塚先生。これはいったい……。
「厚木先生はなんて?」
「次のシフトまで二人で金閣寺でデートしてこいとのことでした。ちなみに学年主任にも話が通っているそうです」
「それはまずいのでは……」
そもそも実際には別に付き合っているわけでもなんでもないのに、同じ職場で交際しているかのような誤解が広まるのはいろいろと問題があるだろう。特に平塚先生の側が。
そういう話をすると、平塚先生はキョトンとした顔をした。
「そうですかね……」
「そうですよ。とりあえず厚木先生の誤解を……」
「まぁまぁまぁ。それは後にして、せっかく金閣寺来たんですし見ていきましょう。ほらほら」
平塚先生に背中を押されて拝観料を支払い、境内に入る。ちょうど旅行シーズンなので、境内は観光客でごった返している。総武高校の生徒もちらほら見かけた。
「ほら逸見先生、金閣! 久しぶりだなぁ……今までの修学旅行の引率では寄らなかったんですよ」
「教員になる前にも来たことあるんですか?」
「ええ、大学院のときに。研究してたのが三島由紀夫だったんです。三島は『金閣寺』という戦後すぐに金閣が放火された事件を取り上げた小説を書いていて、旅行ついでにその金閣寺を一度見ておこうと思って」
「三島由紀夫って、自衛隊で『男一匹が諸君らに命をかけて訴えているんだぞ!』って演説して切腹した人でしたっけ?」
「そうですそうです! ご存知でしたか」
「そのエピソードを知ってるだけで、どういう作品を書いてたかまでは……。しかし平塚先生、なんか似合いますね」
「……どういう意味ですかそれ?」
平塚先生がジロリと俺をにらみつけるが、口元は笑っている。
三島由紀夫のそういうマッチョなところが平塚先生は好きそうだなと思っただけなのだが……。
「いや、含むところがあるわけではないですよ?」
身の危険を感じたので、とりあえずはぐらかしておくことにした。
「本当に?」
「本当ですとも」
「そういうことにしておきましょうか」
どうやら助かったらしい。
とりあえずすぐにでも話を変えようと、適当に話題を振る。
「そういえば平塚先生は高校の修学旅行、どこだったんです?」
「シンガポールでした」
「へぇーシンガポール……」
「日本語が通じないんでほんと大変でしたよ。現地の団体に英語でインタビューやらされたりしましたしね。まぁ、私は浮いてたのでほとんど見てるだけでしたが……」
「平塚先生、私立高校だったんですか? 公立で海外ってあんまりないですよね」
もちろん高校によるだろうが、修学旅行の積立金も高くなってしまうし、生徒にパスポートとってもらったりなんなりの手間も増えるし、公立だと行っても沖縄がせいぜいなんじゃないだろうか。
「ええ、東京の私立です。その、ウチは母方が明治時代から続く医者の家で、母方の親戚が医者ばっかりなので、特に母からは医者になれという圧がすごくて……」
「あーなるほど……そういうことだったんですね」
相槌を打ったところで、突如として俺の灰色の脳細胞が閃いた。
「それを聞いてわかりましたよ平塚先生」
「ど、どうしたんですか突然?」
「平塚先生の婚活の話です。婚活パーティーで会った男性と話すときに、暮らし向きの話をされることがあるんじゃないですか? 住んでいる部屋とか乗っている車とか」
「え、ええ、まあ。そういう話をすることもありましたね」
「それですよ平塚先生。普通に考えたら平塚先生みたいな美人が婚活パーティーでモテないなんてことがあるわけないんですよ。だってスタイルがよくて定職もある美人なんて、そんなの誰だって結婚したいに決まっています」
「えっ!?」
平塚先生が普段より1オクターブ高い声を上げ、喜色満面で髪を撫でつけたりし始めた。
「それなのにモテないというのは理由があるはずです」
「あ、はい」
平塚先生のテンションが一気に下がった。
そんな平塚先生を無視して、俺は話を続ける。
「そこで平塚先生の暮らし向きとご実家の話ですよ。例えば外車のスポーツカーに乗っているという話をしたとしますよね。もちろん外車のスポーツカーはとても高いので、高校教員の給料ではかなり無理がある」
「確かに結構な額使ってますね……」
「でもそれだけなら『車がすごく好きな人なんだな』と納得はできます。もうひとつ、平塚先生の住んでいるマンションの話をしたとします。タワーマンションで立体駐車場もついている。……ついてます?」
「ついてますね」
「それも高校教員の給料ではけっこう無理があると思いますが、それだけなら『住まいにお金をかけたい人なんだな』と納得はできます。しかし!」
平塚先生はビクッと肩を震わせた。
「この2つが揃うとそれはおかしなことになる。タワーマンションに住んでスポーツカーに乗るのは明らかに高校教員の給料ではできない生活だからです。ここで相手の男性は平塚先生に不信感を抱きます。『もしかして本当は違う仕事なのではないか? あるいはほかに収入源があるのか? なにか隠していることがあるのでは?』事前に平塚先生の学歴を聞いていたらなおさらです」
「そういうもんですか」
「そういうもんです。逆に考えてみてください。婚活パーティーで会ったT大修士修了の高身長イケメンが『千葉の公立高校で先生やってます。家はタワーマンション、車は外車のスポーツカーです』と言っていたら、どうです?」
「た、確かに怪しい……」
「おそらくここでほとんどの男性は平塚先生を『なにか裏がある女性』と感じてしまうでしょう。そして平塚先生は選ばれずに終わるというわけです」
「なん……だと……」
平塚先生は衝撃の事実に打ち震えている。
「しかしそれでも平塚先生にアプローチしてくる男性はいたんじゃないですか?」
「え、ええ、確かに。でもそういう手合いはだいたい」
「あまり本気ではなかった?」
平塚先生はうなずいた。
「でもそうじゃなく誠実にアプローチしてきた男性もいたのでは?」
「はい」
「その方にはご実家の話はされましたか」
「え、ええ……」
「すると『僕では平塚さんには釣り合わないから』と断られた?」
「……逸見先生はコナンくんですか」
「確かに推理ものは好きです」
やばい、推理が当たるのめっちゃ楽しい。今の俺、すごいドヤ顔してるんだろうな……。
咳払いをして表情を引き締める。
「つまりですね、相手の男性はまず、平塚先生の生活水準と収入の食い違いに対して疑念を抱いてしまうということ。そしてそこを抜けたとしても、今度は平塚先生の今の生活を結婚後も維持できるかということがネックになってるってことなんだと思います」
「な、なるほど……」
「とするとですよ、平塚先生が結婚されるにはまず今の生活水準を下げるか、今の生活水準を維持できるだけの収入がある男性を狙うべきだということになります。どうですか? 先生が行かれる婚活パーティーでそういう人、いそうですか?」
「そうですねぇ……」
ここまで説明すれば、「俺は平塚先生とは結婚する気はありませんよ」と暗に言っていることに気づいてくれるだろう。
デートのお膳立てと言われて断らずに観光しているということは、おそらく俺のうぬぼれでなく平塚先生は俺にまだアプローチし続けてくれているのだと思う。しかし俺は平塚先生と結婚することはできないのだし、俺にとっては交際相手を作るよりは仕事のほうが重要だ。なにかの拍子に交際相手と別れても生きていくことはできるが、仕事を失えば生きていけなくなってしまう。
平塚先生は職員室で隣の席だし、なにより仕事上で大変お世話になっている同僚だ。惚れた腫れたで情緒的な溝を作りたくない。だから遠回しに脈なしだと感じ取ってもらい、フェードアウトしようとしている。実際はめっちゃ脈ありなのでちゃんとできているかは怪しいが……。
しかし俺みたいなのが平塚先生みたいな美人から交際を申し込まれたのは今でも信じられない。「どっきりでした~!」とか言われたほうがまだ納得できる。
その後何度か二人で行った食事はとても楽しかった。今のこの金閣の観光だってそうだ。まさか30を過ぎて一生の思い出ができるとは思わなかった。年取って老人ホームとかああいうとこに入ったら介護士さん相手にめちゃくちゃ自慢しちゃいそうだな……。そうならないように今から気を付けよう。
観光客の流れに流されるまま、俺と平塚先生はいつの間にか池を挟んで金閣を見れるちょっとした広場のようなところにやってきていた。
「逸見先生、写真撮りましょう写真!」
「ええ。僕、撮りますよ」
「なに言ってるんですか、二人でですよ」
「え……」
俺が止める間もなく、平塚先生は携帯を持って観光客らしい俺たちと同年代の夫婦に写真を撮ってくれと頼みに行ってしまった。
すぐに戻ってきて平塚先生が俺と並ぶ。
「お二人とも撮りますよーはい、チーズ!」
夫婦の奥さんの合図でシャッターが切られるその瞬間に、平塚先生は急に俺の腕に抱き着いてきた。
「ちょ、ちょっと平塚先生……」
「すみません、ついイタズラしたくなって……」
やんわり抗議すると、平塚先生はそう言ってクスクスと笑った。
礼を言って返してもらった平塚先生の携帯を確認する。金閣を背景に満面の笑みで俺の腕に抱き着く平塚先生と、驚いて平塚先生に変な顔を向けている俺が写っていた。
その写真を見て平塚先生がまた笑い出す。
「へ、逸見先生の顔……」
「いや、急に抱き着かれたらこうなりますって」
胸も当たってたしな……。頭の中に「セクハラ」の4文字がよぎって本当に焦ったのでやめてほしい。
平塚先生はその後、俺の携帯にも写真を送ってくれた。
この写真、俺はきっと一生取っておくんだろうな……。で、やっぱり介護士さんに自慢してしまうんだろう。俺は若い頃こんな素敵な女性に交際を申し込まれたことがあるんだと。
修学旅行3日目は完全自由行動だ。今回の修学旅行でもっとも心配な1日だったと言える。
事前に生徒たちに大まかな行き先の聞き取りをしているが、大阪や奈良に行く生徒もいれば天橋立まで足を延ばすという生徒もいたため、そういった遠方で生徒になにかあっても対応できるように、さまざまな観光地に教員が出向いていた。
……まぁその天橋立担当が私だったわけだが。京都から移動に2時間以上かかるから天橋立しか見れなかった……。
とにかく修学旅行3日目は大きなトラブルなく終わった。4日目は生徒たちを新幹線に乗せて帰るだけだ。この日も無事に終わり、今年度の修学旅行はつつがなく幕を閉じた。
そして今、私と
焼肉を選んだのは逸見先生の希望を聞いた。男女で焼肉屋に来るというのは、これはもう半分付き合ってると言っても過言ではない! しかも今日はまた逸見先生が車を出してくれたので酒も飲める。言うことなしだ。
「じゃあ逸見先生。修学旅行の引率お疲れさまでしたということで、かんぱーい!」
「乾杯!」
一気にジョッキの半分までハイボールを飲み干した。うまい! アルコールが五臓六腑に染み渡る!
「じゃあ平塚先生。タン塩からどんどん焼いていきますよ」
「はい!」
どうやら逸見先生が焼肉奉行をやってくれるらしい。お手並み拝見と行こうじゃないか。
「そうだ、平塚先生。そう言えば3日目に嵐山で奉仕部の3人見かけましたよ」
「嵐山で? どんな感じでした?」
「3人並んで買い食いしてました。雪ノ下にコロッケ食べさせたり、肉まんを分け合ったり、仲いいんですねぇ」
「そうでしたか」
思わず笑みがこぼれてしまう。彼らが仲よくやってるならそれに越したことはない。
しかし比企谷のやつ、このまま行くと雪ノ下か由比ヶ浜のどっちかと付き合いそうだな……私より先に幸せになるなんて許せん。
「なんて言ったらいいのかわかりませんが、いい距離感ですね、あの3人」
「今までいろいろありましたからね。こう、心を通わせ合う関係ができたのかもしれません」
「青春ですね」
「青春ですよね。比企谷は――3人の中の男子生徒ですが、あいつ、4月には『青春とは嘘であり、悪である』とかいう作文書いてたんですよ」
逸見先生が肩を震わせて笑った。普段はあまり笑う人ではないのだが。
「いや笑っちゃかわいそうですけど、男子高校生はそういう時期があるんですよねぇ……」
「もしかして逸見先生も?」
「ありましたありました。そうか、あの比企谷というのはそういう生徒だったんですね」
「そうだ、比企谷のやつ、『リア充爆発しろ』とも書いてましたよ。逸見先生のお話を聞く限りではお前がリア充じゃないかって話ですよね! ……ほんと爆発しろ」
「え?」
「いえなんでも」
比企谷のやつ、私より先に幸せになったら数十年後に孫に囲まれて老衰で死ぬ呪いをかけてやろう。
私たちはタン塩を食べ終わり、網の上には既に新たに到着したカルビやロースが載せられている。
「逸見先生は高校時代、どうでした? 奉仕部の3人みたいな関係、ありましたか?」
「いやぁ……高校時代はずっと勉強漬けでしたからね」
「努力家だったんですね」
「そんな綺麗なもんじゃないですよ。前に平塚先生が中高生の頃のことを話してくれたでしょう? 僕も似たようなもんでしたから」
私が中学生の頃に上級生にいじめられて、周囲を敵だと思ったまま高校時代を過ごしたという話をしたのは文化祭の後のことだった。
「数学が好きだったので、将来は数学者になりたいなと思ってたのもあります。だから、行ける限りでいい大学に行こうとは思ってました。まぁ、結局大学院まで行ったのに数学者はダメで、高校の数学教師に落ち着いたんですが」
逸見先生はそう言いながら苦笑いを浮かべた。
「高校生の時点で目標を持って努力してるなんてすごいじゃないですか。私なんて高校生のときはなーんにも考えずに漫画読んだりアニメ見たりして過ごしてましたよ」
「へぇー意外ですね。平塚先生、そういう系お好きなんですか」
「大好きです。少年漫画・少年向けアニメとともに育ったと言っても過言ではありません!」
「僕らの世代の少年漫画だと……ワンピース・ナルト・ハンターハンターあたりですか。アニメにもなりましたよね」
「そうそう! あとアニメだとスクライドとか、もう大学生になったくらいの頃ですけどコードギアスとかも好きでしたね」
「スクライド……平塚先生、カズマ好きそうですもんね」
おっ、これは……。
「逸見先生もご存知ですか? スクライド」
「中学生の頃にテレビでやってるのを見てたくらいで、詳しくはないんですけど。……食いついたということは平塚先生、ファンなんですね?」
「たぶん一人で1時間は語れる程度には」
これは嘘だ。酒が入れば一晩中語っていられる自信がある。
でも逸見先生もスクライド知ってるのか……ちょっとうれしい。語り合いたいなぁー!
「逸見先生は中高生くらいの頃はどういう作品が好きだったんですか?」
「僕はコナンとか金田一少年とか、推理ものが好きだったんです。中高生くらいだと……『スパイラル~推理の絆~』っていうアニメがやってて、あれが好きでしたね。スクライドのちょっと後くらいにやってた番組だと思うんですが」
「な、なるほど……」
逸見先生すみません、それ知らないです……。
コナンと言えば私は未来少年派だが、名探偵のほうもちゃんと履修しておくか。あと逸見先生が言ったスパイラルというのも。共通の話題作り大事。
「逸見先生、本当に推理ものがお好きなんですね。金閣で私がモテない理由を推理してくれましたし」
「ああ、その節は大変なご無礼を……」
「いえ! それはいいんです。……あのときの逸見先生、謎が解けてうれしくて仕方がないって顔してたので、そういうの好きなんだろうなって」
「顔に出てました?」
私がうなずくと、逸見先生は箸を置いて両手で顔を覆った。
「忘れてください……」
「忘れません」
「いやほんとすいません……」
ヤバい、逸見先生を照れさせてからかうのが楽しいぞ……?
そして照れながらも肉を焦がさないようにきっちり面倒を見ていく逸見先生。
「ほら、平塚先生どんどん食べてください。今日は先生のおごりなんですからね」
どうやらこれは修学旅行1日目の夜のようにからかわれ続けるぞと感づいた逸見先生は、焼けた肉をどんどん私のほうの網に寄せてきた。私に肉を食わせてしゃべらせないつもりらしい。
「前から思ってたんですが、平塚先生ってなんでもうまそうに食べますよね」
「えっ!? そ、そんなにがっついてました……?」
気付けば逸見先生はおじいちゃんみたいな目で私が食べるさまを見ていた。
「がっついてるということはないですけど、うまそうに食べるなぁと」
「はは……いやその、大学時代の友人にもよく言われるんですよ。『静はよく食べるね』って」
まずい……ちょっと素を出しすぎたか……。
「いいじゃないですか。ごはんをおいしそうにたくさん食べるのって素敵だと思います」
「そ、そうですか?」
「そうですよ。ほら、どんどん食べてどうぞ」
完全に餌付けされるように肉を食べ続け、私はあっという間に満腹にされてしまった。
「逸見先生はそういう研究をされてたんですか」
「研究をしていたというか、そういう体裁だったというか……まぁそんな感じでした」
帰りの車内で、私は逸見先生の大学院時代の話を聞いていた。正直に言えばガロア理論だとか代数学だとかは説明されてもさっぱりわからなかったが、大学院でやるような内容はだいたいどの分野でもそういうものだろう。
「平塚先生はどうして大学院に行かれたんですか? 僕みたいに研究者になりたかったわけではないんですよね?」
「全然大した理由ではなくて、単純に就職する気になれなかったから時間稼ぎに院進したってだけなんです。大学3年の秋頃にけっこうキツい失恋をしまして……」
大学に入ってからずっとツルんでいた男女二人の友人が、就職活動の始まる大学3年の秋(今は違うが私たちの世代はそうだった)に付き合い始めたという、言ってしまえばただそれだけのことだ。
そういう私の話を、逸見先生は黙って運転をしながら聞いていた。
「……高校までの私を変えてくれたその二人は私にとって特別で、私もその男が好きだったんです。言ってみれば三角関係ってやつですね。あのときは本当につらかったなぁ……。でも二人とも大事な友人ですから、涙を飲んで祝福するしかありませんでした」
逸見先生は心配そうに横目でチラリと私を見やった。
「平塚先生は今でもそのお二人とお付き合いがあるんですか?」
「ええ。今は彼らは海外在住なんですが、たまに日本に帰ってきたときは必ず会いに来てくれるんです。子供を連れてね。その子供がまたかわいくてかわいくて……でも私と彼との間に生まれた子供じゃないんだなと、いつも思ってしまう。嫌ですね、醜い嫉妬です。もうとうの昔に決着はついているのに」
そう言って苦笑いする私を見ても、逸見先生は笑わなかった。
「その男性のこと、まだお好きなんですね」
「そう……なのかな。認めたくはありませんが、そうなのかもしれません」
「平塚先生。僕は平塚先生がどうして結婚できないのかずっと不思議でしたが、今のお話をうかがって初めてわかったような気がします。金閣でお話ししたことはたぶん一番の原因じゃなかった」
信号待ちで、逸見先生は助手席の私のほうに向き直った。
逸見先生の表情は少し悲しげに見えた。
「平塚先生は、本当はそもそも結婚する気なんてなかったんじゃないですか?」
言葉が出なかった。
そんなことはないと反論しようにも、そうした言葉がまったく浮かばない。
逸見先生に図星を突かれた。
そう思うと同時に、では今まで逸見先生に対してやってきたことは一体なんだったのかというところに考えが及んだ。
先ほどからの逸見先生の悲しげな表情の理由は、おそらく私と同じ考えに至っていたからなのだろう。
「平塚先生。この際だから言ってしまいますが、僕は一人の男としてあなたが好きです。あなたと一緒に食事をするのも、金閣のあのときだけでしたがデートするのも本当に楽しかった。あなたと交際して、結婚できたらどんなに幸せだろうと思います」
逸見先生はハンドルを握って前を向いたまま続けた。
「でも、これからはもう、ただの同僚に戻りましょう」
「……それは」
私が結婚しようとしていないから? 他の男がまだ好きだから?
言葉にはならなかったが、逸見先生は私が聞きたいことをうまく察してしまったらしい。
「平塚先生が本当はまだ過去の男性を想っているとか、そういうことではないんです。それ以前の問題です。平塚先生と結婚したとしても、僕にはあなたに与えられるものがなにもない。前にもお話ししましたが、僕にはお金がないし、これからたくさん稼げるようになる見込みもありません」
「そんなこと……」
大した問題じゃない。そう言いたかったが、逸見先生は私の言葉をさえぎって続けた。
「そうですよね。平塚先生にとっては『そんなこと』かもしれませんが、僕にとってはそうではない。それももうひとつの理由です。平塚先生と僕とでは金銭感覚が違いすぎるんです。……恥ずかしい話ですが、平塚先生に連れて行ってもらったお寿司屋さんで見栄を張ったとき、お会計の額を見て目玉が飛び出るかと思いました。あんなに高い食事をしたのは生まれて初めてです。でも平塚先生にとっては『行きつけの店』なんですよね」
逸見先生は自嘲するような表情を私に向けた。
「僕と平塚先生では住む世界が違うんだなと思いました。あまりにも
――そんな言い方しなくたっていいじゃないか。
そう思ったが、逸見先生にしてみればそういう感覚こそが私と逸見先生の間の「大きな違い」だということなんだろう。上に立っている私の側からはなんてことのない溝にしか見えないが、下に立っている逸見先生の側からはそびえ立つ崖に見えているような、おそらくそういう
しかしそれなら、上に立っている私がロープを投げてやればいいんじゃないか。
「……そんなの、わからないじゃないですか。ほら、前にも話したように私の実家って言っちゃなんですけどお金持ちなんですよ。だからお金は全部私が出せば」
その私の言葉を、逸見先生は再びさえぎった。
「平塚先生は対等と思っている相手に一方的にお世話になり続けたことって、ありますか?」
意図がうまくつかめず、首を横に振る。
「ずっとお世話になりっぱなしでお返しができないと、『自分は相手に返すものがない』と卑屈になるか、『自分は相手が世話をして当然の存在だ』と尊大になるか、そのどちらかです。いずれにしても対等の関係ではいられなくなる。僕が『平塚先生に与えられるものがない』と言ったのはそういう意味もあります」
「逸見先生は……お、お料理ができるじゃないですか。私にはできないことです。そもそも家事全般があんまり得意じゃなくて」
「それこそ家事代行サービスでケリがつく話でしょう。僕にお金を使うよりよほど安上がりなんじゃないですか」
逸見先生は無表情のまま私を一瞬見て、またすぐに正面を向いた。
「僕の事情ばかり言い立ててしまって平塚先生には申し訳ないと思います。でも僕はどう取り繕ってもそういう人間にすぎないんです。前にも言ったとおり、
ここでカーナビが私のマンションに着いたことを知らせた。逸見先生は車を回してマンションのエントランス前に車を停め、寂しいような、困ったような、そんな笑顔を作った。
「平塚先生は僕のこと、別に好きじゃないでしょう?」
そこで、私と逸見先生の関係は終わった。