顔をしかめて眠っている
覚悟は決まったものの、ここからどうすれば逸見先生を説得できるかを考えなければならない。
逸見先生はなにを考えているのか、どう思っているのか。逸見先生の「心」を考える必要がある。今は逸見先生に「答え」を聞ける状況にはないし、私には
だから、でき得る限り計算するしかない。
逸見先生はなんと言って私をフったか。
1点目は金銭感覚が違いすぎることだ。これに対して「私がお金を出せばいい」と言うと、逸見先生は「お世話になりっぱなしになると対等の関係ではいられなくなる」と返した。
2点目は私が逸見先生を男性として魅力を感じていないということ。逸見先生は1点目について「私がお金を出せばいい」と言ったことと絡めて、好きでもない男にお金も出さなければならないのに幸せになれるわけがないと言っていた。
3点目は逸見先生が育ちの違いから私を妬ましく思ってしまうということ。逸見先生はそんな自分ではふさわしくないという言い方をしていた。
改めて振り返るとつらいものがあるが、そもそも逸見先生を説得できる可能性はあるのだろうか。
理屈は理屈で解決できる。しかしその下にある感情のレベルで拒否されていたら、説得できる可能性はゼロに等しい。
逸見先生は私をフる理由として3つのことを挙げた。金銭感覚の違いについては、「対等の関係ではいられなくなる」という断り方だった。裏を返せば、逸見先生は私と対等の関係でいたいと思ってくれているとも解釈できる。
私が逸見先生を男性として魅力を感じていないということについては……まぁ逸見先生としてはやっぱりショックだったんだろうと思うが、これについては言葉の行き違いがある。人としては逸見先生に魅力を感じているということを、私はちゃんと説明するべきだ。しかし、おそらく逸見先生が望んでいるのはそういうことではないのだろう。
男性にとって女性から性的に求められるというのはそこまで重要なことなのだろうか……。学生時代には身体目当てで寄ってくる男が多かったし、ヒモ野郎のときも向こうから誘われてそれに応じていたから、なんとなく男というのは女が受け入れてくれればそれで満足なんだろうと思っていた。
私が問題なく関係を続けている交際相手の男に性的に求められなかったとしたら、ショックを受けるだろうか? 好きな男に求められるのは確かにうれしいだろうが、それがなかったからと言って関係に支障を感じたりはしないのではないか。なんにせよ、このあたりは私の側に理解の不足がありそうだ。
ともかく、性的に求められていないということにショックを受けたのだとしたら、裏を返せば私に性的に求められることを期待してくれていたと考えられる。
そして育ちの違いの話は、「妬ましく思う自分ではふさわしくない」という言い方だった。もちろん自分に責があるような言い方で婉曲にお断りしていると考えることもできる。しかし、あのとき逸見先生は泣いていたし、逸見先生はそういう演技をするような人ではないだろう。本心から私に対して申し訳なく思って、あるいは自分に失望して、あのように言ったのではないだろうか。
思い返してみると、逸見先生はお盆前の飲み会の帰りに私が遠回しに交際を求めたときから言うことが一貫している。つまり、私に対しては「あなたが好きだ」とか「お付き合いや結婚できるならしたい」と言いつつも、「しかし自分の事情で付き合ったり結婚したりはできない」という立場をとり続けている。
ということは、やはり逸見先生の言うことを素直に信じていいのではないだろうか? 逸見先生はやはり私のことが好きで、しかしさまざまな事情で自身は私にふさわしくないと考え、私に別れを切り出したのではないだろうか?
逸見先生がまだ私を好きでいてくれているなら、説得することはおそらく可能だ。
……私の希望的観測か。しかし確率は高いはずだ。
いや、それ以前にこれまでの逸見先生の振る舞いがああだったのに私の見立てが外れるとしたら、それこそ私には逸見先生を理解できないことになる。付き合ってもうまくは行くまい。説得が成功するならそれでよし、失敗するならそのときは本当にご縁がなかったということだ。
つまり、結果がどうなるにしても、私は逸見先生を説得するべきだ。
ここまで考えたところで、私はバッグの中からタバコを取り出し、1本くわえた。
火をつけようと100円ライターを取り出したところで、壁に貼られた禁煙マークに気づく。
「喫煙不可じゃないか……」
仕方ないのでタバコをしまい、電気ポットでお湯を沸かしてお茶を淹れる。
ティーバッグを用意してぼーっとお湯が沸くのを待っていると、ベッドからもぞもぞと物音がした。
逸見先生が目を覚ましたようだ。
「逸見先生? 目が覚めました?」
「……平塚先生? あれ、僕……」
「結婚式の二次会でお酒飲んで倒れたんです。覚えてますか?」
「あー……今、何時ですか?」
「21時過ぎです」
私は逸見先生が倒れてから2時間近くも考えごとをしていたらしい。時間を告げながら自分でも少し驚いてしまった。
「平塚先生、今日は申し訳ありませんでした。お手数をおかけしてしまって……」
メガネをかけると、逸見先生はいつもの仕事モードに戻っていた。
「いいえ、構いません。もう大丈夫そうですか?」
「はい、おかげさまで。でも本調子ではないので、今日はもうこのまま寝ていきます。平塚先生、今日はどうもありがとうございました。お礼は後日必ず」
「逸見先生。そのお礼なんですが」
小さく息を整え、逸見先生に向き直る。
「私にもう一度チャンスをくれませんか」
「チャンスとは……?」
「私たちのことです」
どういうことか察した逸見先生は、一瞬眉をひそめた。
「クリスマスイブ、ご予定ありますか?」
今年のクリスマスイブは水曜日で23日は天皇誕生日で休み、その前の22日は終業式だ。年の瀬だが、冬休みだから仕事もそこまで忙しくない。
「ありませんが……」
「ではクリスマスイブの夜に、お話したいことがあります」
逸見先生は困った顔をしたが、すぐにうなずいてくれた。
「わかりました。24日の夜は空けておきます。詳しくは後で連絡をいただけますか」
早いもので、今年ももうすぐ終わる。俺は1年で溜まっていた代休を使い、24・25日を休みにした。
平塚先生からはあの結婚式の後に改めて非常に丁寧なお招きのメールをもらっている。実家から送られてきた酒とケーキを車に積んで、俺は平塚先生のマンションに向かった。
平塚先生の部屋はタワーマンションの低層階にあった。
エントランスで平塚先生の部屋番号を押し、オートロックの扉を開けてもらう。エントランスは2階までぶち抜きになっているような天井の高さで、ホテルのロビーのようだった。とにかく広い。エレベーターもデカい。そして共用の廊下も綺麗。
「
平塚先生は自室の玄関の前で出迎えてくれた。見慣れたいつものスーツ姿だ。今日は平日で、昼間は仕事があったからだろう。
「お邪魔します」
平塚先生の後について室内に入る。俺が住むボロアパートとは大違いだ。いくつもドアがあるが、一体何部屋あるんだ?
平塚先生に通されたリビングはキッチンと一体になっていた。部屋の奥の2辺は窓になっていて、その大きな窓にはカーテンが引かれている。
これが平塚先生の部屋か、とぼーっと室内を眺めてしまった。室内のものはすべて、派手ではないが質の高さを感じさせる。陳腐な言い方だが「平塚先生らしい」部屋だと思った。
「あの、逸見先生。あまり見ないでいただけると……」
「え、あ、す、すみません。でも、いいお部屋じゃないですか」
「そ、そうですか……」
「なんと言ったらいいのか……シックというか、品がいいというか……平塚先生にぴったりですよ」
言いながら、褒め言葉の引き出しのなさに我ながら呆れる。
「いいんですよ? 無理して褒めなくても」
「いやぁ、本心ですよもちろん」
「あ、ありがとうございます……普段はもっと散らかってるんですが、片付けた甲斐がありました」
平塚先生はそう言って照れ笑いしながら、ダイニングテーブルに案内してくれた。
「あ、平塚先生。これ、よかったら」
テーブルにワインの入った段ボールを載せる。6本セットなのでかなり重かった……。
「どうしたんですか? これ」
「実家から送ってきたんです。その……以前、電話で姉に平塚先生のことを少し話したことがありまして」
「え、ええ」
「姉が『その人に贈れ』と僕が飲めないのを承知で送ってきたんです。ですから平塚先生に飲んでいただけると助かるんですが……」
「そ、そうですか……」
平塚先生は笑いそうになるのをこらえているような、複雑な表情をした。
「平塚先生はワイン、飲まれます?」
「ええ、お酒ならなんでもイケます。……あ、スパークリングワインもあるんですね。せっかくだし、今日いただいちゃおうかな」
平塚先生は機嫌よさげにワインのラベルを眺め、そのうちの1本を選び出した。
「逸見先生、ありがとうございます。大事に飲ませていただきます」
そう言って平塚先生はにっこりと俺に笑いかけた。
やっぱり俺はこの人のこと、好きだなぁ……。
平塚先生がフライドチキンやオードブルを温め、俺が皿やグラスをテーブルに並べて、ささやかなパーティの準備が整った。
「お呼びしたのに出来合いのものばかりで……」
「いえ、立派なご馳走ですよ。フライドチキンなんて普段自分では買いませんから久しぶりです」
俺が平塚先生のグラスにスパークリングワインを注ぎ、平塚先生が俺のグラスにシャンメリーを注ぐ。
「では逸見先生。忘年会でもやりましたが、今年1年お疲れさまでしたということで、乾杯!」
「乾杯!」
グラスをぶつけ、シャンメリーを飲む。
ブドウのすっきりした甘みと炭酸の刺激が口に広がった。こんなにうまい飲み物があったのかと思うほどだったが、そのほとんどはおそらく平塚先生と二人でいるというこのシチュエーションに由来するものだろう。
「あー……うまいなぁ……!」
グラスを置いた平塚先生が、しみじみとつぶやく。
「お口に合いました?」
「はい、すっごくおいしいです! お姉さまにもありがとうございますとお伝えください!」
平塚先生の様子を見ると、社交辞令ではなく本当に気に入ってくれたようだ。
そういう姿を見るだけで、どうしても心が弾む。
「ええ。姉も喜ぶと思います」
「じゃあ逸見先生。……いただきましょうか」
「いただきましょう」
二人揃ってフライドチキンのバーレルに手を伸ばし、チキンにかぶりついていく。
「そういえば平塚先生、今日は生徒会でイベントあったんですよね?」
「ええ。コミュニティセンターでクリスマスイベントをやったんですが、いいイベントでしたよ。一時はどうなることかと海浜総合の生徒会担当の先生と心配してたんですが、奉仕部がうまくやってくれました」
「そうでしたか。……そうだ、奉仕部は無事に仲直りできたんですか?」
平塚先生はうなずいた。
「まぁ、うまく危機を乗り越えて新たな関係に脱皮できた、とでも言うんでしょうか。三人ともいい顔つきになりました。雪ノ下は教室でも変化がありましたか?」
「最近はまた硬い雰囲気を出していたのが、終業式の日には柔らかくなっていた……というか、なにか覚悟の決まった顔をしていた気がしますね」
「そうですか……覚悟……」
平塚先生の表情が綻ぶのに合わせて、俺にもなんとなく笑みが浮かんだ。
その後もしばらく食べながら仕事の話をして、満腹になる頃にはちょうど話の種も尽きていた。
「逸見先生、コーヒーにします? 紅茶にします?」
「紅茶をお願いします。ああそうだ、ケーキ、ブッシュドノエル作ってきましたけど……」
フライドチキンのパーティバーレルは30代の男女二人には多すぎた。もう固形物を胃に入れたくない。
「……もうちょっと後にしません?」
「そうしましょうか……」
平塚先生が紅茶を淹れている間に俺は食器を下げ、テーブルを片付ける。
俺が今日ここに呼ばれた本題はこれからだ。
とはいえ、平塚先生に誘われた段階で、平塚先生が話すであろう内容はだいたい予測がついている。
平塚先生はここでもう一度、俺に交際を申し込もうとしてくれているのだろう。平塚先生は「私たちのこと」について話したいので「もう一度チャンスをくれませんか」と言っていた。それ以外の内容ならあんな言い方はしないはずだ。
それをわかっていながらお誘いを承諾した俺も俺だ。一度断ったというのに、未練がましいにもほどがある。
それでも、俺は平塚先生の言葉を聞きたかった。
俺には、俺と平塚先生が交際したり結婚したりすべき論理が思いつかなかった。どう考えても、俺と平塚先生にご縁があると納得できる理屈が出てこなかった。
俺が今日ここに来たのは、平塚先生がそれを聞かせてくれるんじゃないかと期待しているからだ。
平塚先生が紅茶のカップを俺の前に置き、自分のカップを持って俺の正面の席に着いた。
「今日逸見先生をお呼びしたのは、お誘いしたときに言ったように、私たちのことについてお話ししたいことがあったからです」
「はい」
「最初にこんなことをお聞きするのも変な話ですが……逸見先生は私のこと、まだ好きでいてくれていますか?」
平塚先生は苦笑いを浮かべつつも、不安そうな視線で俺の言葉を待った。
「……はい。僕のほうからあんなことを言ったはずなのに、困ったことに僕はまだ平塚先生のことが好きです」
「そうですか……ありがとうございます。本当に」
心底ほっとしたというように平塚先生は破顔したが、すぐに表情を引き締めた。
「逸見先生。まず、これまでのことを謝らせてください。私は傲慢で、無神経で、不誠実でした。話をする前に、私はまずあなたに謝らなければなりません」
平塚先生はそう言ったが、俺はなんのことを言われているのか、すぐに思い至らなかった。
「修学旅行の打ち上げの帰りに、逸見先生に『まだ大学のときの失恋相手を好きで、本当は結婚する気なんてなかったんじゃないか』と言われたとき、私はなにも言えなかった。図星だったんです」
平塚先生は顔をしかめた。
「そんな状態のまま、私はあなたに『女としてどうですか?』なんて聞いて、あなたの気持ちを知りながら食事に誘い、修学旅行ではデートだと言って付き合わせて、あなたの気持ちを弄んで、振り回した。謝らせてほしいのはそれについてです」
「……なるほど」
「許してくれとは言いませんし、言えません。逸見先生は私に対して怒る理由があるし、それは正当なものです。むしろ、逸見先生は怒るべきです。恨んだり憎んだりされて当然のことを、私はあなたに対してやってしまった」
俺の目を見つめる平塚先生の目は赤く充血し、涙を浮かべている。平塚先生はそれを慌てて指で拭い、自嘲するにように笑った。
「すみません。泣きたいのは逸見先生のほうですよね」
「……『本当は結婚する気なんてなかったんじゃないか』と僕に言われて平塚先生がなにも言わなかったあのとき、実はちょっと安心したんですよ」
「安心……?」
「『平塚先生みたいな綺麗な人が俺みたいなのと深い関係になろうなんて、そんなうまい話あるわけがない。思ったとおりじゃないか。騙されなくてよかった』って。なんて言うのかな、僕にとって平塚先生は『酸っぱいぶどう』だったんですね」
俺も平塚先生のように自嘲するような笑みを浮かべた。それを見て平塚先生は目をそらし、唇を噛んだ。
「……でも、やっぱりあのときはつらかったんだと思います。平塚先生には本当に惹かれていたし、どこかで本当に平塚先生が俺のことを好いてくれているんじゃないかって、信じたかった」
「はい……」
「だから、そのあと別れを切り出したとき、僕はたぶんあなたを傷つけようとした。僕にああ言われて平塚先生に傷ついてほしいと思っていた……んでしょうね、きっと。傷つくかどうかを見て、それで平塚先生が本当はどう思っていたのか計ろうとしたんだ」
俺にそう言われて、平塚先生は遂にボロボロと涙を流し始めた。
「『悪いのは僕なんです』という姿勢で『あなたとはご縁がない』という理屈を並べ立て、僕はあなたを拒絶した。それについては僕からも謝らせてください。あんな言い方をすることはなかったし……そんなことを思うべきでもなかった」
「いいえ……それは違う。逸見先生がそうしようとしたのは、そう思ったのは、私の不誠実さを感じ取ったからでしょう。私には謝ってもらう資格はありません」
平塚先生は目元を拭い、また自嘲するような笑顔を作った。
「それを踏まえた上で、図々しいにもほどがあると我ながら呆れますが……逸見先生にお願いがあります」
「はい。聞かせてください」
射抜くような鋭い平塚先生の視線が俺に向けられる。俺も真正面から平塚先生を見据えた。
「逸見先生……逸見
予想はしていたので、平塚先生の口からそういう言葉が出てきたことに驚きはなかった。
「平塚先生にそう言っていただいて、とてもうれしいです。予想していたこととはいえ、やっぱり言葉にしてもらえると本当にうれしい。……でも、僕は既に一度お断りしていますし、その考えは変わっていません」
「修学旅行の打ち上げの帰りにおっしゃっていたこと、ですよね」
「はい。平塚先生とは金銭感覚が違いすぎるし、生活水準も違いすぎる。それに、平塚先生はあの時お認めになりましたが、平塚先生は僕のことを別に好きじゃない。そして、やっぱり僕にはあなたを妬む気持ちがある」
「そのハードルを超えられれば、あるいはなくなれば、私にチャンスはある……そう思っていいですか?」
さっきまで涙を流していた平塚先生の顔には、いつの間にか笑みが浮かんでいた。
「はい。平塚先生の言葉を、聞かせてください」
俺の言葉を受けて、平塚先生はうなずいた。