一途な恋の弓矢   作:樂川文春

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END.2 「待ち人来たれり」

 

 

 

 

 いつだって、未来を決めるのは人の意志だ。

 

 もしも、これが運命の定めだからと諦めていなかったとしたら世界はどうなっていただろう?

 

 もしも、あとほんの少しだけ愛と友情と、わずかばかりの幸運がふたりを助けていたとしたら、どのような道が続いていたのだろう?

 

 これはそんなもう一つの未来。

 

 

 

 

 

 有馬記念前夜、クリスマス・イヴの日。

 

 ナイスネイチャとトレーナーはお互いの気持ちを話し、想いが通じあっていることを知った。

 

「……両想いなのに七年もかかっちゃうんだから笑っちゃうよね。……それでさ。エンゲージリングを買ったぐらいなんだし、結婚してくれたりはするのかな?」

「……それは」

 

 トレーナーは口をつぐんだ。気持ちは通じあっていたとしてもーー共にいられる時間が僅かだというのなら、添い遂げたとしてもすぐに別れは来る。ひとりぼっちにしてしまう。そんなことをしてもいいのだろうか?

 

「……答えられない理由はわかるよ、トレーナーさん。本当はさ。アタシ怖いんだ。明日のレース」

「ネイチャ……」

「だってトレーナーさんの命がかかってる。わかってるよ、ウマ娘にとってレースは命がけ。だからさ、アタシの命をかけるだけなら、そんなに怖くない。だけど……大切な人の未来を背負って走るのはやっぱり怖い」

 

 ナイスネイチャは話し続ける。

 

「大好きな人の隣。そんな欲しくて仕方なかったものが手に入ったのに……なにもかも無くなっちゃうかもしれない……アタシはそれが怖くて怖くて仕方ないんだ」

「どんな結果になっても俺は後悔しない。運命を受け入れるよ」

「そんなのやだよ。一緒にいて。約束して」

「……ネイチャを苦しめるかもしれないのにか」

 

 ナイスネイチャはそれに対して何も言わずにトレーナーを抱きしめてきた。離さないとばかりにギュッと。

 

(本当に俺はこれで、いいんだろうか)

 トレーナーの心に一抹の不安がよぎる。

 何か大切なことを忘れている気がする。

 

 それは――なんだっただろうか。

 

 

 

 

 

 有馬記念 当日。

 

 選手控え室にて。

 

 ノックの音がした。

 URAの係員が入ってきて告げる。

 

「時間です。有馬記念に出走するウマ娘さんたちはパドックまで移動をお願いします」

 

 ナイスネイチャは首肯した。URAの係員は頷き返すと次の選手の控え室へと足早に去っていった。

 

「じゃあ、行ってくるね」

「ああ……無事に帰ってこい」

 と、トレーナーが応える。ナイスネイチャはうつむくと足元を蹴るような仕草を見せる。

「……どうした?」

「ん……なんでもないよ。自分でもよくわかんない」

 少女は顔をあげた。弱々しく笑う。

「今日も商店街の人たち来てるだろうし、元気な姿を見せてあげないとね。アタシ頑張るよ」

 

 ナイスネイチャはドアノブに手をかけると「またね、トレーナーさん」と言い残して控え室をあとにした。

 

 ひとり取り残されたトレーナーは考える。

 自分はこれでいいのだろうか――。

 答えは出ない。

 

 首を振る。とにかく関係者席に行こう。トレーナーは向こう側の確認もしないまま控え室の扉を開ける。

 

 ――それは、ゴールした瞬間の決勝写真並みに絶妙なタイミングだった。

 

 目の前に黒いドレス風の勝負服姿のマーベラスサンデーがいた。彼女はちょうどトレーナーの出てきた控え室の前を通りすぎようとしていたところだったのだ。

 

 ドア枠の範囲内にパッとウマ娘あらわる――あまりにも予想外の出会いにトレーナーは一瞬、思考が止まる。マーベラスサンデーもびっくりしたように目を丸くして、こちらを見上げてきていた。扉が急に開いて真横から知り合いが出現したら、そうもなるだろう。

 

 彼女のなかで状況の理解が追い付いて、その奇妙な均衡状態は終わりをとげる。

 マーベラスサンデーの目に喜びの色が宿りはじめた。両手をぐっと握りしめて、こちらに向き直る。

 

「おお~!? ネイチャのトレーナーさんだ! なんてマーベラスなタイミング!」

「ああ、ホントにな。俺もびっくりしたよ……というか、急に扉を開けるのは配慮が足りてなかったな。すまん」

「気にしないでー! それに面白かったよ?」

 

 トレーナーは廊下側に出て扉を閉めた。マーベラスサンデーはぐるぐると衛星のようにまとわりつく。

 やがて、ちょうどいい位置を見つけたのだろう。トレーナーの斜め前に立った。興味深そうに訊いてきた。

 

「もしかして、ネイチャのパドック見に行くの? アタシもこれからパドックだよー! いっしょにいくー?」

「あ、いや……俺は」

 

 言いよどむトレーナー。言葉に詰まってしまった彼を見て、マーベラスサンデーは不思議そうに首をかしげた。

 

「……応援しにいかないの?」

「いや、俺なんかが行っても……」

「行っても?」

「ネイチャの邪魔になるし……」

「なんで?」

「それは……俺は彼女の重荷になっているからだ」

 

 マーベラスサンデーは上体と腕をそらして驚いた。眉をひそめて心配そうにトレーナーの目を覗き込んでくる。

 

「ええっ! そんなことないよ? どうしちゃったの? いまのトレーナーさん、なんか元気ないよ? ネイチャとケンカでもした?」

「……してないよ」

「じゃあ、いこうよ! ネイチャはね! きっとトレーナーさんを待ってる! 会いにいってあげようよ!」

 

 マーベラスサンデーはぐっと両こぶしを握った。こちらをふんす、と覗き込んでくる。

   

「あのね! 大好きな人にがんばれ! って応援されるとすっごく元気になれるんだよ! ううん! それだけじゃないの! 応援はね! したほうも、されたほうも、元気になるんだよ! だからいこー!」

「がんばれって応援なら、しているが……」

 

 マーベラスサンデーは首を振った。納得できないといった様子だった。彼女のなかに満ちるマーベラスな情熱を全力でぶつけてゆく。まごうことなき本気でこう宣言した。

 

「心の底から相手を信じることが大事なんだよ!」

「信じる?」

「そう、信じる! 人は手を取り合えば、マーベラスな奇跡だって起こせるんだから!」

「……信じて、手を取り合う、か」

 

 少女の力説にも関わらず、彼は悩んでいるようだ。しかし、確実にその気持ちはぐらついている。あともうひと押しで何かの殻を破れそうな気配がある。だが、なかなかその一歩が踏み込めないようだ。

 

 そんな煮え切らないトレーナーを見つめていたマーベラスサンデーはふと、昔祖母から言われた言葉を思い出した。

 

 マーベラスちゃん、約束よ。もし大切な人たちが困っていたら、その手をとって助けてあげてね。

 

 そうしたら、きっと。

 

 見られるわ、あなただけの夢。

 出会えるわ、あなただけのステキなライバル。

 

 そして届けてあげることができるはずよ。皆にとってもマーベラスな景色を、きっと――。

 

 もしかして、この人はいま困っているんじゃないかな、と考える。自分はいないほうがいいんだと思い込んで、引っ込み思案になっちゃっているんじゃないかな。

 

 結論――そんなわけがない。トレーナーさんは自信をどっかに落としちゃって、弱気になっているだけ。だから助けてあげるべき。よーし! 世界はマーベラスに溢れているのだと教えてあげよー!

 

 そうと決まればあとは早い。世界☆マーベラス計画とは即断即決即実行がモットーである。

 

 方法――とりあえず行けばわかる! マーベラース!

 

 トレーナーの手を掴んだ。

 

「……え?」

「パドックみにいこー!」

「ちょ、ちょ!」

 

 行動力の化身みたいな少女に腕を引っ張られて連れ去られるトレーナーであった。

 

 なお、余談だが彼女の祖母は存命である。

 もちろん、大の仲良し。

 

 

 

 

 

『本日のメインレース有馬記念の時間が近づいてきました。パドックのファンの前に選手たちが姿を見せます』

 

 マーベラスサンデーはトレーナーをここまで連れてくるとさっさとパドックの楽屋裏へと走り去っていってしまった。しかもご丁寧にナイスネイチャのファンクラブである商店街の方々の輪のなかにポーイと放り込んでいったものだから、トレーナーは今さら逃げることもできず、パドックを見ていくことにした。

 

「ネイちゃーん! がんばれー!」

「俺たちがついてるからなー!」

 

 商店街の人たちが声援を飛ばす。

 

『四枠六番ナイスネイチャ! ファン投票では十番人気の支持を集めています!』

 

「なんでえ、みんな見る目がねえなあ。俺たちのネイちゃんが勝つに決まってる! な、ネイちゃんのトレーナーさん。あんたもそう思うだろ?」

 

「え? ええ、まあ……」

 トレーナーは生返事をした。

 

「ん? どうした。らしくねえな。あんたいつもこう言っているじゃねえか。勝つのはうちのネイチャだって。今回もそう言ってやったんだろ? ネイちゃんに」

 

「ええ、それはもち……ろ、ん……」

 言いかけて、気付く。

 

(俺は言ってあげただろうか――キミは勝てるって)

 

 トレーナーとしてやらなければならないこと、それは――。

 

「だよな。しっかし、ネイちゃんがあんな不安そうな表情をしているのは初めて見る気がするな。それだけ今回のレースにかけるものがあるんだろうなあ」

 

 ――担当ウマ娘を輝かせてやること。

 

 ナイスネイチャがこちらに気が付いた。不安に揺れる瞳に安堵の感情が宿ったのが見てとれた。

 お互いにうなずき返す。ナイスネイチャのお披露目は終わり、次のウマ娘と交代してゆく――。

 

 なんと情けない。ナイスネイチャは自分を信じてくれているというのに、それに引き換え――。

 

(俺はどうなったっていい? なんで最初からネイチャが負ける前提なんだ。まるで俺はネイチャの勝利を信じていないって言っているようなものじゃないか?)

 

 自らの思考に没頭しているうちにパドックが終わっていた。人々が一斉に観客席に移動し始める。

 

(俺はトレーナーなんだ。だったらやらなきゃいけないことがあったはずだろう!?)

 

 トレーナーは走り出した。

 何をするべきかがはっきりとわかった。

 過ちを正しにいこう。

 

 

 

 

 

 地下バ道。

 

 

 

「ネイチャ!」

「……トレーナーさん?」

 

 ナイスネイチャが振り返るとトレーナーが駆け寄ってくるところだった。トレーナーは息を整えると背筋を伸ばし、真剣な表情でナイスネイチャと向き合った。

 

「ネイチャ、俺はキミに謝らなくちゃいけない」

「アタシに……? トレーナーさんは何も悪いこと……」

 

 ナイスネイチャが首を振りかけるが、それをさえぎるようにトレーナーはこう懺悔した。

 

「キミを信じ切ることができていなかった」

「……!」

 ナイスネイチャが息を飲んだ。

 

「俺はバカだ。トレーナーなのに、ネイチャの勝利を信じてやらないで。俺はね、キミにこう言うべきだったんだ」

 

 見つめ合う。

 

「俺もネイチャと同じ未来が見たい。同じ場所にたどり着きたい。キミの勝利を信じているんだ、って」

「そんなこと……そんなこと言ったって」

 

 ナイスネイチャの瞳が潤む。

 弱気が頭をもたげてくる。視線を床にさ迷わせる。

 

「……負けるかもしれないんだよ、アタシ。そうしたらトレーナーさんは」

 

 トレーナーはナイスネイチャの両肩を掴んだ。彼女はその衝撃にびっくりして弾かれたように顔を上げる。

 

「勝てる! 絶対に勝てる! 世界中のだれもが否定したって関係ない! 俺はネイチャを信じているんだ!」

 

 その大声に眼を丸くするナイスネイチャ。彼女はトレーナーと付き合いが長い。だから、彼が本気で言っている言葉はすぐにわかる。心の底からナイスネイチャというひとりの少女を信じてくれている。その気持ちは確かに少女の心へと響いていた。

 

「そして俺はずっと生き延びる! 当たり前だろう? だれにもネイチャの隣を譲る気はないさ!」

「だから……走れ!」

 

 トレーナーはナイスネイチャを抱きしめた。手のひらが少女の背中に回されている。少女は身体を彼に委ねた。彼の熱が伝わってきた。大好きな人の匂いを感じた。すると恐怖に染まっていた心が溶かされてゆく。信頼と愛情が胸の奥を揺さぶり、世界に勇気という名の色が戻ってくる。

 

 そうだった。自分は信頼に応えるウマ娘だった。

 誰よりも愛しい彼に勝利を信じてほしかった。

 

 ――少女の夢を信じる彼が、ここにいた。

 

「キラキラに輝いてこい! 俺の大好きなネイチャ!」

「うん……うん!」

 

 ナイスネイチャの瞳から涙が零れる。

 そのひとすじの光は、愛と勇気に変わった。

 走ろう、世界を変えに往くために。

 

 

 

 

 

『今年も暮れの中山で行われます。夢の総決算グランプリ有馬記念です! 今年は十五人のウマ娘で行われます! スターウマ娘たちの誰の頭上にその栄冠は輝くのかっ!? 実況は私、赤坂でお送りいたします!』

 

 ファンファーレが鳴り響く。十万人を越える大観衆から興奮の雄叫びがあがる。ウマ娘たちのゲートインが進んでゆく。ナイスネイチャは四枠六番のゲートからの出走だった。ヒシアマゾンがすぐ右隣にいて、マヤノトップガンはそれより内側。マーベラスサンデーが外側の枠に入った。

 

 少女たちのあいだで緊張が高まってゆく。ピリピリとした気配が肌を刺す。暮れの中山に吹きすさぶ一陣の風が少女らの髪をふわりとなびかせた。

 

 ナイスネイチャは深呼吸をした。

(アタシは……勝つ。勝てる。絶対に!)

 

 ナイスネイチャは遠くのホームスタンドを見た。あの場所のどこかに自分のトレーナーがいる。勝利を信じてくれる最愛の人がきっと。

 

(だからさ。トレーナーさん――)

 

 

「そこで見ててね」

 

 

 ナイスネイチャは前を向いた。

 いっそ心地よいと感じるほどの緊張感。

 いつでも走り出せる。どこまでも駆けてゆける。

 ああ、スタートが待ち遠しい。

 

『係員が離れまして……今!』

 

 スターティングゲートが開いた。一気にトップスピードへと加速した十五人の乙女たちが大地を一斉に蹴りあげ、身体を傾け、飛び出してゆく。

 

『スタートしました!』

 

 

 

 

 

 レースは間も無く終盤戦に差し掛かろうとしていた。

 ナイスネイチャは考えていた。

 

(内か外か)

 

 さすがに昔のような切れ味は自分に残っていない。ナイスネイチャはそう思っていた。

 

 ――つい、さっきまでは。

 

 トレーナーとともに築き上げてきたこの走りを信じていなかったのは自分だ。通用しないに決まっている、と度重なる敗北が眼を曇らせていたのだ。

 

(考えるまでもないよね)

 差し切れないはずがない。

 

(トレーナーさんが勝てるといったんだ)

 勝利への道はそこにある。

 

 

 最終コーナーが見えた。

 未来を変える直線を駆け抜けよう。

 

 

 

 

 

 トレーナーは気が付いた。

 ナイスネイチャが外を突こうとしていることに。

 

 ほかのウマ娘が内を目指してゆくのと対照的にたった一人だけが外を目指してゆく。

 

(それでいいんだ、ネイチャ)

 

 ここまで来たら自分にしてやれるのは応援だけだ。

 背中を押して、送り出してやることだけだ。

 だけど、それこそが大切なことなんだ。

 キミの勝利を心の底から信じる。

 

 そう、自分はナイスネイチャのトレーナーなのだから。

 

「ネイチャァァァァッ! キミの走りなら絶対に届く! 自分を信じろォォォォッ!」

 

 

 

 

 

 その声はナイスネイチャにも届いていた。

 最後まで信じてくれる彼の言葉に背中を押される。

 

(ありがとう、トレーナーさん。アタシ、自分を信じる。あなたの信じてくれた走りに全てをかけるよ)

 

 ほかのウマ娘が内に殺到してゆくのを横目に、ナイスネイチャは外側へと進路を取った。

 

 目の前にはだれもいない。

 誰かの通った道はもうなぞらない。

 

 ここから、走ろう。

 決着を付けにいこう。

 

 レースに負けて、どうしようもない現実の中でふたり、最後の日々を送るようなそんな未来。

 

 もしかしたら。

 そんな運命もあったのかもしれない。

 

 だけど、決めたんだ。

 運命なんて変えてやるんだって。

 

 ウマ娘にとって、競走とは人生そのもの。

 

 みんな勝ちたいと思っている。

 ウマ娘はレースに命をかけているんだ。

 

 一人一人が、それぞれの想いを秘めている。

 

 見たい景色がある。

 越えたい背中がある。

 掴みたい栄光と叶えたい夢がある。

 

 

 それでも勝利を掴めるのはたったひとりだ。

 

 

 生きてゆくっていうことは、きっとエゴのぶつけ合いでもあるんだ。

 

 こうありたい、こうなりたい、こうしたい。

 そこに良いも悪いもあるものか。

 

 人生はレースみたいなもので、やりたいことを遠慮していたら、すぐに終わってしまうんだ。

 

 走る理由が愛する人のためだなんて、レースに挑む一人のウマ娘としてはふさわしくない在り方なのかもしれない。

 

 勝利を求める欲望と執念が、土埃ととも刻み込まれる神聖な戦場――ターフへと持ち込むには相応しくない感情なのかもしれない。

 

 

 だけど、構うものか。

 勝利の果てに見える未来を誰よりも求めている。

 

 

 あなたが欲しい。

 共に生きてゆく未来が欲しいんだ。

 

 

(諦めない! アタシは絶対に諦めないから!)

 

 

(運命なんて知らない! 未来を決めるのはアタシ!)

 

 

(アタシは! トレーナーさんと一緒に生きていきたい!)

 

 

 

 アタシが起こしてやるんだ! 奇跡を!

 本来の運命? 修正力? アタシが主人公になるのがそんなに不満? うっさい! お前の言いなりになんてなるもんかっ!!

 

 

 

「――見てろ運命ッ!」

 

 

 

 人の恋路を邪魔する憎いこんちくしょうなんて!

 ウマ娘に蹴られてしんじまえ!

 

 

 何度も何度も蹴り込んで!

 運命なんてターフの底に沈めてしまえ!

 

 

 恋する乙女を! なめんなッ!

 このレースに勝つのは――アタシだっ!!

 

 

 

「ぐぅぅっ!」

 

 ナイスネイチャは深く身体を沈み込ませる。

 

 

 ターフ。その道の先に光が見えた。全てがスローモーションに感じた。ほかのウマ娘たちの息遣い、蹄鉄が地面を叩く音、中山レース場に集う観衆の大歓声。それらが徐々に小さくなってゆく。

 

 

 意識が集中の極みに達した。

 一瞬の静寂のあと、風も音も光も戻ってくる。

 

 

 聞こえてくるのは自分の心臓の鼓動、風を切る音。

 感じるのは全身を熱く炎のように燃え上がらせる闘志。

 

 

 前に見えるは、

 追い抜くべきライバルの背中。

 

 

(マーベラスもマヤノも追い抜かすそんな走りをアタシはしてみせる! 負けるなんて絶対イヤ!)

 

 

(――トレーナーさんっ!)

 彼のくれた想いは、ここにある!!

 

 

 脚に全てのエネルギーを注ぎ込んで、運命の弓の玄を限界まで引き絞る。たった一度の勝利でいい。覚悟を込めて放つは恋する乙女の意地を込めた一陣の矢。

 

 

 必ず射止めてみせると決意を込めて、

 勝負のときは今!

 

 

 

 

 

 

 行こう! その先へ!

 

 

 

 

 

 

「どぅおりゃあァァァァァッ!!」

 

 

 

『外から! 外から!?』

 

 観客のボルテージがさらに上がる。観衆の視線が一点に吸い寄せられる。外から飛んでくるのはクリスマスカラーの勝負服。前傾姿勢で大地を蹴って蹴って蹴って! 中山のターフを切り裂かんばかりに伸びてくる! 唸れ豪脚! 喚べよ嵐! 大地に証を刻み込め!

 

 

 刮目せよ。

 その少女の名は、ナイスネイチャ。

 

 

 歓声が、爆発した。

 

 

『ナイスネイチャだああああっ! 凄まじい末脚! 恐ろしいまでの切れ味! 次々とほかのウマ娘を交わしてゆくぞ! かつてのURAファイナルズの覇者の走りが中山のターフに蘇ったか!? ナイスネイチャ、脚色は衰えない――いや!』

 

「ネイチャ! やっぱり来てくれた!」

「ネイチャちゃん!? 凄い! マヤ、負けないもん!」

 

 前にいるのは残り二人。マーベラスサンデーとマヤノトップガン。歴史に残りうる大器と称された少女と、不世出の天才少女。ここに来て、二人とも最後の力を振り絞る。さらに前へ前へと出ようとする。

 

「うああああァァァァッっ!!」

 

 ナイスネイチャは裂帛の気迫とともにさらに第二の矢を放つ。上体が一瞬沈む。次の瞬間、スピードがぐんっと加速し、あっという間に二人に並ぶ。

 

『ここでナイスネイチャ! さらに加速っ!? マヤノトップガンとマーベラスサンデーをかわすか! かわすか! かわした! かわした! 並ぶ間もなく! ナイスネイチャだ! ナイスネイチャが先頭!』

 

 一バ身、二バ身――。

 離れてゆく背中から目を離せなかった。

 

(ネイチャちゃん――)

 

 マヤノトップガンはナイスネイチャの走りのなかに一つの情景を見た。

 

 黒い嵐のなかを抜けたその先、台風の目のように澄み渡る青空の中を進む戦闘機のコクピット。視界に広がるのは真っ白な光。音速の向こう側、静寂のなかで見たのは決して追い付けない、決して触ることのできない太陽の姿。

 世界を暖かく照らす愛という感情の光だった。

 

(すごく――綺麗)

 

 

 

「マーベ……ラースッ! もっ……と。もっと!」

 

 マーベラスサンデーの額に汗が流れる。身体は限界だと悲鳴をあげているのに、どうしたことか。圧倒的なまでの感動で埋め尽くされている心がさらに速く走ることを望んで止まないのだ。

 

(ネイチャ……!)

 

 自分の大親友が、夢を連れてきてくれた。マーベラスサンデーの求めていたマーベラスな景色がそこにあった。史上最大級の太陽の輝きに魅せられてしまう自分がいた。

 求めていた光はここにあった。走りたいと願った奇跡の道はそこにあった。夢はすぐその先にある。

 

(ネイチャ――すっごくマーベラス! 追い付きたい! アタシももっと! ずっと! 一緒に見たい! 夢を駆けたい!)

 

 マーベラスサンデーの瞳に一滴の涙が流れ、風に溶ける。歓喜に震える心が脚に力を与えてゆく。

 

「うう……!」

 

 マーベラス、それは魔法の言葉。

 いつまでも終わってほしくない魔法の時間を心ゆくまで楽しむためのとっておきの呪文。苦しいのに、辛いのに、笑顔が溢れて、楽しくて仕方がない。世界に届け。少女の夢見たマーベラスな景色。

 

「マーベラース!!」

 

『マーベラスサンデーが差し返そうとしている! 差が縮まる! 並ぶか! 並ぶか!?』

 

 それでも、その魔法の力は太陽にまで届かない。

 ゴール板がすぐそこまで迫り――決着の時が来た。

 

『いや! これは届かない! これは届かない! ナイスネイチャだ! ナイスネイチャだ!』

 

 

 

 

 

『ナイスネイチャいま一着で、ゴールイン!』

 

 

 

 

 

 圧倒的なデッドヒートを魅せ付けられた観衆が雄叫びをあげる。ナイスネイチャはゴール板を先頭で駆け抜けた。その後ろからマーベラスサンデーとマヤノトップガンが遅れて入着。やや、間があって、ヒシアマゾンを始めとする各ウマ娘たちがゴール板を通りすぎてゆく。

 

 だれも故障することなく、無事にレースを走りきったのである。歴史は間違いなく変わったのだ。

 

 ナイスネイチャは徐々に減速する。立ち止まった。肩を揺らしながら呼吸を整えてゆく。

 

『ナイスネイチャがやりました! 二年ぶりの勝利をここ中山レース場の大一番のグランプリ、有馬記念にて挙げました! かつての覇者が復活! 間違いなく歴史に残る豪脚を見せつけて、ナイスネイチャ! やった!』

 

 やがて、電光掲示板には着順が表示された。

 ナイスネイチャが、一着だった。

 

「アタシ……勝ったんだ」

「ネイチャ!」

 

 つんのめりそうになりながら走り寄ってくるトレーナーの姿が見えた。たどり着くと、ナイスネイチャの肩を掴んで、あちこちを覗き込むように頭を動かす。

 

「怪我はないか! 大丈夫か!」

「ちょっとちょっとー! トレーナーさん! そこはまず、おめでとうじゃないのー?」

 

 ナイスネイチャの抗議の声。でも彼女の口もとには仕方ないなあ、と言わんばかりの苦笑いが浮かんでいる。トレーナーははっとしたように肩から手を離して、姿勢を正す。

 

「あ、すまん……ネイチャが無事かどうかはやっぱり不安でな」

「もー、大丈夫だって。アタシはどこもケガしてないよ。ってか、レースが終わったばかりのコースに入ったら怒られるんじゃない? いいの?」

「いいさ、そんな些細な問題。……優勝おめでとう、ネイチャ。よく頑張ったな」

 

 ふたりのあいだを風が通り抜けた。少女は髪に手を当てて、満足そうに顔をほころばせる。その瞳に暖かな陽射しのような優しさの色を乗せて、ゆっくりと目を細めた。

 

「うん……アタシ、一番になれたよ」

 と、少女は言う。

 

 トレーナーはやり遂げた現実を噛みしめるように息を吐いて、天を仰いだ。視線をもう一度、少女に向けた。

 

「なあ、ネイチャ……」

「ん? なに?」

 

 ナイスネイチャがリラックスした様子で言葉の続きを待った。小さく首をかしげている。

 

「ネイチャは生きて……いるんだよな?」

 

 笑う。彼の頬に手を伸ばす。言い含めるように告げた。

 

「……生きているよ。アタシもトレーナーさんもね。それだけじゃない。生きてゆくんだ。これからも、ずっと」

 

 そのまま、ナイスネイチャは彼の胸へと手のひらを滑らせて、ゆっくりと寄りかかってゆく。そんな少女を彼は柔らかく腕のなかで抱きしめてくれる。

 

「ずっと、あなたのそばにいるよ」

 

 愛おしげに息をついた。

 

「――アタシのトレーナーさん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『おーっと、ここでナイスネイチャ選手! 担当トレーナーさんと熱い抱擁を交わします! お聞きくださいこの拍手と大歓声! 中山レース場がまるで結婚式場のように生暖かく燃えているゥゥゥッ!』

 

 

 

 

 

 場内に赤坂アナウンサーの放送が響き渡る。

 

 電光掲示板横の巨大液晶ターフビジョンにはお互いを抱きしめ合うナイスネイチャとトレーナーの姿がばっちり映っている。メインスタンドに集った十万人を越える大観衆からは囃し立てるような口笛と拍手の波が巻き起こった。

 

 そう、ナイスネイチャはお忘れかもしれないが、ここは中山レース場である。ターフでラブラブっぷりを見せ付けたウマ娘として、歴史に名を刻んだ瞬間であった。

 

 ちなみにこの模様は地上波デジタル放送で日本中に生中継されており、後日ネット配信でも世界中に拡散されてゆくことが確定している。

 

「え? ちょっ! えっ、えっ、えぇぇぇっ!?」

 

 顔を真っ赤にして悲鳴をあげるナイスネイチャ。ウマ耳をせわしなくぴこぴこぴょいぴょいと動かす。しっぽがぶんぶんと振られていた。身体を固まらせる。

 

 この二人の抱き合う姿は瞬間風速的に日本中の話題をかっさらった。同時刻のウマッターやウマスタグラムでは#ナイスネイチャのハッシュタグがついた投稿が飛び交い、トレンドは急上昇。レースのみならずこちらでも一位をとっていた。 

 

 ほかにもトレセン学園でテレビ中継を見ていた生徒たちが黄色い悲鳴をあげていたり、ある生徒などは「ヒョエエエッ! 推しの照れる顔が……尊いッ!」と鼻血を吹き出し、ぶっ倒れて保健室に運ばれていたりもした。

 

 拍手に包まれる中山レース場。

 商店街の人たちが祝福の声をあげる。

 

「ネイちゃーん! おめでとー! トレーナーさんと末永くお幸せにねー!」

「やっとかー! 待ちわびたぜー! 結婚式には俺たちも呼んでくれよなー! ネイちゃーんっ!」

 

 口笛がぴゅーぴゅーと飛び交う。中山レース場は大変な大盛り上がりだ。親戚一同の集まった親睦会なみにゆるい雰囲気と化す。緊張感が、無い無いナイスネイチャ。

 

「う……」

 ナイスネイチャの頬に熱が集まってゆき、 

「うにゃああああっ! は、恥ずかしーー!」

 ツインテールで顔を隠すようにして、その場にうずくまるのであった――。

 

 

 そんなナイスネイチャたちの様子を遠くから眺めているのはレースに出ていた他のウマ娘たちだ。

 

 マヤノトップガンは両手を顔に当てて、でも指の隙間からはちゃっかり視界を確保しながら頬を赤く染めていた。

 

「はわわ……ネイチャちゃん大人のオンナだったんだ……はわわわわ……」

「はいはい、あんたには刺激が強かったね。ほら、行くよ。ウイニングライブの準備あるんだろ」

 

 ヒシアマゾンに首根っこを掴まれて、連れていかれるマヤノトップガン。ぷしゅー、と煙でも出そう。純情な天才少女が大人のオンナになれる日はまだまだ遠そうである。

 

「ネイチャー!」

 マーベラスサンデーが両手をぶんぶん振りながら走り寄ってきた。ナイスネイチャは顔をあげた。

 

「すっごくネイチャはマーベラスだった! あのね! ネイチャ本当にすごかった! またいっしょに走ろーね!」

 

「あ、ありがと。マーベラス」

「マーベラース! ネイチャ大好きー!」

 

 マーベラスサンデーは額に流れる汗をぬぐうこともせず、眩しいばかりの笑顔でトレーナーにも向き合う。両手を握りしめて、こちらを見上げた。

 

「ねえねえ、ネイチャのトレーナーさん! ネイチャを幸せにしてくれてありがとー! これからももっともーっとマーベラスな祝福を与えてあげてね☆」

 

「…….ああ!」

 

 トレーナーは力強く頷くのだった。

 

 

 

 

 

 ライブ会場は大盛り上がりだった。

 ナイスネイチャがセンターで歌っており、マーベラスサンデーとマヤノトップガンがその左右で楽しそうに踊り、いっしょに歌っている。

 

 トレーナーはそんな彼女たちを関係者用の席から見つめていた。

 そこに――。

 

「歓喜ッ! 今宵も素晴らしいライブであるな!」

 

 学園理事長である秋川やよい(と彼女の帽子の上に乗っかっている謎の猫)が訪ねてきた。

 彼女の後ろには理事長秘書の駿川たづなの姿もあった。

 

「トレーナーさん、おめでとうございます! ナイスネイチャさん、素晴らしい走りでしたね!」

 

 トレーナーは頭を下げた。

「秋川理事長、たづなさん――ありがとうございます」

 

 秋川理事長は閉じた扇子を手のひらにぱしぱしと当てる。頭のうえに乗せた猫が「にゃ、にゃ」と鳴いた。

 

「うむ、うむ。ところでだな。君はこんな感動的な走りを見せてくれたナイスネイチャにはご褒美があってもいいはずだと思わないか!」

「それは……もちろんです」

 

 トレーナーの返事に満足そうにうなずく秋川理事長。

「そうだろう! そうだろうとも! そこでだ!」

 パッと広げられる扇子。

「提案ッ!」

 

 秋川理事長がそう前置きをして話し出した内容にトレーナーは驚き、最後には笑って承諾した。

 

 

 

 ライブはどんどんと進んでゆき、最後の曲目が終わった。ウマ娘たちが手を振りながら、ステージを去ってゆく。

 

 

 ――アンコール! アンコール! アンコール!

 

 

 アンコールの声が渦となって響き渡る会場。

 舞台裏に移動していたナイスネイチャのもとにトレーナーがやってきた。

 

「ネイチャ、アンコールでもう一曲歌うことになった! 歌えそうか?」

「ん、いいよ。なに歌うの? うまぴょい伝説? GIRLS' LEGEND U?」

「いけばわかる。頼んだぞ!」

 

 ぱしぱしと背中を叩き、ナイスネイチャを追いやるトレーナー。

 

「ちょ、もう」

 

 指示された場所に向かうとスタッフたちが慌ただしく動いていた。ナイスネイチャが現れると、とたんにスタッフたちが色めきだす。

 

 ――ナイスネイチャさんが入ります!

 ――了解です! いつでもどうぞー!

 ――ナイスネイチャさん! そこに立ってくださーい! そう、そこの昇降台です!

 

 辺りを見回すと自分以外のウマ娘がいない。

(あれ? ほかの娘たちがいない?)

 

 ――ナイスネイチャさん、準備はいいですかー!

 ――動かしますんでー!

 ――本番五秒前ー! 

 

(もしかしてソロ? え、どういうこと?)

 

 あれよあれよという間にナイスネイチャはステージに上げられてゆく。

 

 そして、これから始まる曲のイントロが流れはじめた。ライブ仕様に合わせてやや長めに調整された前奏部分。それはナイスネイチャのよく知るメロディだった。

 一途な片想いに身を焦がす、ひとりの女の子を歌ったラブソング。ナイスネイチャの代名詞ともいえるその曲。

 

(これって――)

 

 ステージに上がったナイスネイチャ。観客たちが拍手と口笛ともにナイスネイチャを迎え入れる。

 

 どういうことかと関係者用の席に視線を移す。

 

 すると笑顔でサムズアップするトレーナーが見えた。隣で秋川理事長が『応援ッ!』と書かれた扇子を掲げている。その横には両手に持ったサイリウムを振るマーベラスサンデーとマヤノトップガンと駿川たづなの姿があった。

 

 ここまで来れば、ナイスネイチャもさすがに悟る。

 

(もう! さては仕組んだなー!)

 

 よく見れば会場のサイリウムは緑色と赤色で統一されていた。ナイスネイチャの勝負服と同じクリスマスカラーだった。幻想的な光の波が会場全体に広がっている。

 

「ネイちゃーーんっ! おめでとー!」

 どこからか商店街の人たちの声が聞こえた。

 

 

 Out of Triangle Love――。

 Out of Triangle Love――。

 

 

 オオトリを飾るのはナイスネイチャの持ち歌。

 アウト・オブ・トライアングル。

 

 緑と赤のサイリウムが風に吹かれる麦穂のように右に左に揺れていた。会場全体が光のドームとなってナイスネイチャを包んでいるかのようだった。

 

 もう一度立ちたいと願っていた最高のステージ。

 ――その夢は叶った。

 

(……すごい!)

 胸が熱くなる。その感動の赴くままに投げキッスを送ると大歓声が起きた。会場はさらに盛り上がる。

 

 トレーナーと目があった。トレーナーが何かを言ったのが見えた。聞き取れなかったけれど、伝えようとしてくれたことがナイスネイチャにははっきりとわかった。

 

 

 ――輝いてこい! ネイチャ!

 

 

 自分の中の情熱が最高に燃え上がる。

 

(……おっけー! 歌ってやろうじゃん! キラキラに輝く主人公のラブソングってやつをね!)

 

 

 少女は息を吸った。

 そして、最初のフレーズを歌い出し――。

 

 

 

 

 

 ――その日のライブがクリスマスを彩るのに相応しい最高の盛り上がりを見せたことは、言うまでもない。

 

 

 

 

 

 時は流れて。数年後――。

 

 

 

 

 

 商店街の路地裏にある小さなスナックにて。

 

 

 ナイスネイチャはバーカウンターの奥でロックグラスを布でみがいていた。時おり入ってくる注文に合わせて、お酒やツマミを用意して席まで運んだりもする。

 

 時刻はすでに夜。常連客である商店街の男たちがいつものように集まり、テーブル席で騒いでいた。

 顔を真っ赤にした男たちがビールの入ったジョッキを傾けながら、ナイスネイチャに大声で話しかける。

 

「トレーナーさんがよー! この前、酔っぱらったときに言ってたぞー! ネイチャの子供が欲しいって! 愛されてるねー! ひゅーひゅー!」

 

 ロックグラスをみがく手の動きを止めた。

 

「こーらー? どうして、そーいうことを言うかなー? それセクハラ! まったく。このセクハラ親父どもめー。というか、なんで人の旦那と勝手に飲みにいくのかなー」

 

 ナイスネイチャは眉をひそめて不満げに唇をとがらせる。とはいえ、酔っぱらい相手にいちいち本気で怒ったりはしない。手に持っていたロックグラスをカウンターの上に置いた。すぐ傍らのアイスペールからトングで氷を掴んでは、そこに放り込んでゆく。

 

「そりゃ決まってる! トレーナーさんから俺たち商店街一同最推しアイドル、ネイちゃんの惚気話を聞きたいからだ!」

「はいはーい。ビール飲み放題の日、出禁ねー」

 

 目を細めて、気だるげにそう告げるナイスネイチャに商店街の男たちは声をうわずらせた。

 

「おいおい、そりゃねーぜ! ネイちゃん!」

「べろんべろんに酔っぱらってネイちゃんの話で盛り上がるのが俺たちの楽しみだってのに!」

「アタシは酒の肴かーい……」

 

 呆れた顔で片手で宙を切るナイスネイチャ。毎回毎回こんな調子でからかわれると流石に慣れてしまい、軽く流せるようになっていた。

 それに商店街の人たちは純粋にナイスネイチャの話をするのが大好きだからしているだけなのである。おとしめようなんて意図は一切ない。そこには愛しかないのだ。

 

 苦笑いをしながら水割りを作り始める。

 

「もー、とっくに現役引退したウマ娘に何をこだわる必要あるんかねー」

 

 有力なウマ娘は次々と現れてゆく。世代交代はどんどん進んでゆくのである。ナイスネイチャの記録を越えるウマ娘は今もまた何処かで生まれ続けているのだ。

 

「アタシはもう過去のヒトですよーっと。今は小さなスナックのママやってるだけの平々凡々なウマ娘だし……」

 

 なので、あまり褒められ続けても、身の置き場に困るようなムズムズした気持ちになってしまうのであった。

 

「なに言ってんだい。伝説のウマ娘がさ!」

「や、伝説とかそんな大げさな……」

 

 ナイスネイチャが困ったように手を振る。しかし、応援して勇気づけるような口調の大声が返ってきた。

 

「大げさなもんか! 最後の一年は凄かったよな。マーベラスのお嬢ちゃんとマヤノのお嬢ちゃんとネイちゃんの三つ巴の争い!」

 

 そう叫んだのは焼き鳥屋の店主である。

 傍らでうんうんとうなずくのは魚屋の大将だった。

 

「たしかに。いまだにファンの間では名勝負しかなかった一年間って言われているもんなあ」

 

 横から、盆踊り好きの隠居親父も口を差し込む。

 

「だな! 春の三冠を分けあった三強のデッドヒート! 大阪杯のマーベラスちゃんに天皇賞(春)のマヤノちゃん、そして宝塚記念の我らがネイちゃん! あれは凄い戦いだった。どれも三人で上位独占!」

 

 焼き鳥屋の店主がわかるわかると相づちを打った。

「ああ、ほんと。最高の一年だった。そうそう! とくに最高といえば――」

 

 商店街の男たちがそんな談義に花を咲かせる。ナイスネイチャがその素晴らしい素質を発揮して、いかにトゥインクルシリーズを駆け抜けたかについて熱弁をふるう。

 

「やれやれ。酔っぱらいどもがまーた語りだしたよ……」

 コメくいてー、な顔で肩をすくめるナイスネイチャ。

 

「なに言ってんだ。語るに決まってるだろ! オレたちの愛されウマ娘、商店街のアイドル! ネイちゃんをよ!」

 

「そーだそーだ!」

 と、囃し立てる男たち。

 

「あのときのネイちゃんは間違いなくチームのエースだったよな。最後の有馬記念の時なんてチームの後輩の子たち、みーんなぴーぴー泣いてたじゃねえか」

「女の子泣かせるなんて罪作りなウマ娘だよなあ。ネイちゃんは」

「ついでにトレーナーさんとの結婚式でもオレたちを泣かせてくれやがってよー!」

 

 次第に空気に湿っぽさが混じり始める。大の男たちが鼻をぐずらせ、唇を噛みしめ、えぐえぐと腕を目もとに当てて泣き始める。広がっていく感動の輪。

 

「ああ、良かったよな、ほんと。オレ思いだすだけでも涙が。うう……ネイちゃん、おめでとう……おめでとう!」

「うおおおんっ!」

 

 カオスのるつぼと化す店内にナイスネイチャの呆れた声が響いた。

「も、もー! 笑ったり泣いたり忙しいなー。飲み過ぎじゃないの……?」

 

 おめでとー、おめでとー、と止まないコール。なんだか可笑しくなってきて、ナイスネイチャは口もとに手を当てて吹き出した。

「……ふふっ。はいはい、ありがとねー」

 

 そうやって笑うナイスネイチャの左手の薬指にはシンプルなデザインの指輪がはめられていた。

 

 

 そうなのだ。

 あの有馬記念での勝利によって、全ての物事が良い方向に走り出したのだ。

 

 

 翌年、トレーナーがチームを結成したときも、その中心にナイスネイチャがいることに文句を言う者なんて誰もいなかったし、後輩の子たちはみんな良い娘でナイスネイチャを慕ってくれた。むしろ憧れのスターウマ娘として尊敬の視線を向けられ、戸惑ってしまったぐらいだった。

 

 ナイスネイチャも有馬記念の勝利のあと調子を取り戻し、マーベラスサンデーやマヤノトップガンといったライバルたちを相手にしてはさすがに全勝とまでいかなかったが、それでも有馬記念を連覇し、有終の美を飾ってその年いっぱいで引退したのだ。

 

 トレーナーから正式にプロポーズも受けた。もちろん答えはイエス。獲得したレースの賞金で小さなスナックを開いて、ささやかだけれど幸せな日々を送っている。

 

 ナイスネイチャの母親も「孫の顔を見れるのを楽しみにしているわ。トレーナーさん、この子をよろしくお願いしますね」と嬉しそうに二人を祝福してくれた。

 

 ナイスネイチャのトレーナーは今もトレセン学園で働いている。日本でもトップクラスの腕を持つトレーナーとして評判だった。テレビでその顔を見る日も決して珍しくはないほど有名にもなった。

 ナイスネイチャが抜けたあとのチームの娘たちも順調に育ち始めていて、彼はますます忙しい日々を送っている。

 

 あの人はこれからもトレーナーを続けるつもりみたいだった。

 

 一緒にお店やらない? と言いたい気持ちはあった。

 二人三脚でやっていきたいな、とも思う。

 

 だけど、トレーナーは言うのだ。

 この仕事を続けていきたい、と。

 

 ネイチャのようにあの娘たちもキラキラの一番星にしてやりたいんだ、と優しい微笑みとともに夢を語られてしまえば反対なんて出来るはずもなかった。

 

 トレーナーがナイスネイチャの夢を応援してくれたように、今度はナイスネイチャがトレーナーの新しい夢を応援してあげる番なんだと思った。

 

 自分に出来ること。

 それはあの人の帰る場所を守ってあげることだ。

 

 ただ、それでも――。 

 わかってはいても、ひとりで待っているのは寂しい。

 

 今日も店の中はナイスネイチャとトレーナーの夫婦を応援し愛してくれる人たちで賑わっていた。話し声は絶えず、時おり笑いがあがる。ひとりではあるけれど、孤独ではない。孤独ではないけれど、ひとりだ。

 

 愛する、というのは与えるということだ。もちろんナイスネイチャは応援してくれる人たち全てに愛で応えている。だけど、生涯を共に生きていきたいと願うほどの愛しい相手はいつまでも"トレーナーさん"ただ一人なのだ。

 

 店内には控えめな音量で有線放送が流れていた。スローテンポなバラードがしっとりとした歌声で歌われている。

 曲名は「ありがとう、神様」だった。ウマ娘たちのあいだでは定番の卒業ソングの一つである。

 

 

 世界で一番大きく 愛おしい宝物――。

 

 

 ナイスネイチャの背後の棚には酒類のボトルのほかにも折り紙で作られたへろへろのトロフィーが飾られている。運命の有馬記念を乗り越えたあの日、愛しのトレーナーから授与された折り紙のトロフィー。ちょっとだけ端がくしゃっとなっているのがご愛嬌というか、微妙にしまらない感じがじつに自分達らしくて気に入っている。

 

 

(まだかなあ……)

 優しいまなざしで、そのトロフィーを見つめるナイスネイチャ。

 もうすぐ愛しい人が帰ってくる時間だった。

 

 

(あ――)

 ナイスネイチャのウマ耳がぴんっと立つ。

 聞き慣れた足音が近付いてくるのが聴こえた。

 

 

 

 

 今日も帰ってくるのを待っていた。

 自分はこれからも、ずっと。毎日。

 想い人を待ち続けるんだろう。

 

 でも、それでいい。

 あの人は必ず来てくれるから。

 

 

 

 

 曲が終わった。

 店内に静寂が訪れる。

 

 扉が開いた。ドアベルの音。足音はまっすぐこちらに向かってきて、ナイスネイチャの前で止まった。

 

 

 ――お、トレーナーさんが帰ってきたぞー!

 ――俺たちのヒーローの凱旋だー!

 

 

 視線を上げればそこには待ちわびていた笑顔。これからもずっと隣にいてくれる大好きなあなた。

 

 

「ただいま。ネイチャ」

「うん、おかえりなさい。待ってた」

 

 

 愛おしい気持ちが溢れてゆく。

 キスしてあげたいな、だなんて思ったり。

 

 

 そして、あーあ、またバカップルなんて言われるんだろうなーって考えながら、愛しい人の頬に両手を当てて、そっとつま先立ちをした。

 

 

 

 

 

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